1. 名谷教会
  2. 2013/09/01:聖日礼拝(旧音源)
2013-09-01 54:06

2013/09/01:聖日礼拝(旧音源)

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2013/09/01 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン
はい、感謝します。
皆さん、おはようございます。
9月が始まりました。2週間、高田の外に行きかけておりましたけれども、無事に帰ってきました。
9月が始まりましたけれども、今年の夏は、韓国からですね、3つのチームで、天気も暑かったんですけれども、教会も霊に燃やされ、たくさんの恵みがありました。
その間には、皆さんのお祈りと、熱い献身と奉仕がありましたから、今年の素晴らしい働きが、みんなで心を一つにして、神に仕え、人々に仕えた、そういうことができたことだと思っております。
皆さんのお祈りと、献身と、捧げ物と、素晴らしい行事に心から感謝いたします。
では、2週間ぶりですけれども、お互いにアクションしながら挨拶をしたいと思いますので、隣の方と挨拶しましょう。
よくいらっしゃいました。
はい、感謝です。
では、一言お祈りいたします。
愛する主の神様、今日は雨の中、雷の中ですけれども、主の民が主を愛して、他のところではなく、主の宮に本当に喜びを持ってやってまいりました。
どうぞ、集まっている神の民に賛美をもって、祈りをもって、また御言葉をもって、主が豊かに恵んでくださいますように。
お願いいたします。
このものが得して、聖霊様が一人一人に、御子だと思って養い、またお語り下さいますように。
感謝して、神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、久しぶりの聖神像のシリーズ、メッセに戻ってきました。
私も高台に戻ってきました。
ほっとします。
先週は神戸西部に、神壇、神館の明拝で、神戸に来ては初めての他の教会でメッセージをさせていただきましたけれども、
03:07
共に恵まれる良い時でございました。
お祈りありがとうございました。
このメッセージの題は、私が信じるのはその名は、我は祭輪のキリストを信ずという題です。
さあ皆さん、祭輪という言葉を聞いたら、何が一番思い浮かぶんですか?
雷ですか?
天国?
天国?
あるいは、イエス様?
あるいは、英語ではラッチャーと言うんですけれども、
イエス様を襲ったように空中にあげられるとか、
週末とか、何ですか?
皆さん、もう一つ、マラナタという言葉をご存知ですか?
マラナタ。
この言葉は、初代教会の信徒たちがマラナタ、マラナタと言って挨拶を交わしたんですね。
どういう意味かと言いますと、今日の目記録の最後のシューイエスを着てください。
それをマラナタと言いますね。
この時代ですね。目記録のこの時代。
あるいは、基礎の働きの信徒たちは、もちろん迫害も厳しかったわけですけれども、
その反面、もうイエス様、すぐにおいでください。着てくださいと。
そういった祭輪進行をもってですね、お互いにマラナタと挨拶をしたそうですね。
それほどイエス様の御祭輪が本当に間近に迫っていることをですね、みんな強く感じていたわけなんですね。
今日も、我は祭輪のキリストシングという題をもって、
聖書が語るイエス様の御祭輪について、正しい知識を学びたいとそう願っております。
そしてこの祭輪進行をもって、この終わりの時代を
私たちスリシャンがどのように歩もうべきなのか、
霊的恐怖を共に御言葉から教えていただきたい。
そしてそのとおりに実践していきたいと、そう願っております。
06:03
皆さん、主婦の方、時計簿書いていますか?
あるいは男性の方が書いたり、そういう王家もあったりするみたいですけどね。
決算をするんですね。会派でもその月、その月の、あるいはその年末の決算をする。
教会もですね、毎月決算をするんです。
イエス様も決算がお好きだったみたいですね。
福神書を見たら、イエス様が何度も何度もその決算の話がされたんですね。
例えその話で、主人が下目指しに、一人には行きたがる、一人には行きたがる、一人には行きたがると預けて、
長いパジを書いてきて、さあ決算をしましょう、決算をした。
また、イエス様は週末、終わりの日についても何度もお話をされたんですね。
私の訓書、24章、25章のところを見たら、最後の日にどういうことが起こるか。
例えば畑でですね、二人が仕事をしていたところ、一人は手にあげないで、一人は残される。
そういったですね、他の話もたくさん出てしまいますけれども、最後の日が来る。
それを祭輪と言いますけれども、その話をイエス様はずっと語られた。
ですから皆さん、私たちがこの正しくて聖書的で健全な祭輪信仰を持つことがとても大事です。
週末になればなるほど、終わりの時代になればなるほど、世界にこの偽キリスト、
そして偽メシアとかですね、自分が祭輪のイエスか、自分が祭輪のキリストかと名乗る、
そういった偽物がこの世にですね、もうはびこっているんですね。
ですから私たちは、聖書の御言葉に基づいて正しい聖書的祭輪信仰、そしてその知識を分かることが大事です。
三つの祭輪についてお話ししたいと思います。
まず第一、皆さん、イエス様は全世界のすべての人が見ているうちに祭輪されました。
09:07
いわゆる目記録を見てみましょうか。第1章7節です。
お読み下さい。目記録1章7節です。476ページですね。
では7節をご一緒にお読みしましょう。
みよ、彼が雲に乗ってこられる。すべての目ごとに彼を突き刺した者たちが彼を見る。
地上の所属とは皆彼の家に嘆く光。アーメン。
皆さんここにですね、イエス様は雲に乗ってこられました。この御言葉は通りです。
そしてその次の言葉、注目したいんですけど、すべての目とありますね。
そしてここに彼を突き刺した者たちが彼を見る。その次、地上の所属は皆彼の家に嘆くとありますね。
皆さんイエス様はすべての目が、すべての民族、すべての部族がイエス様を見るんですよ。
それはですね、例えば簡単に言えば日本人もアメリカ人もイギリス人も北極の人も南極の人もですね、時差もない。空間、時間を超えてイエス様はおいで下さい。
それを世界のすべての人々が見るんですよ。ですから自分は見てないと否むことができないんですね。
皆が見ているうちに戻ってこられるんです。雲に乗ってこられるんです。
ですから皆さん、どこかで自分がサイリンのイエス様か、そう名乗る人があったりしてもですね、それに乗ったり賛成したり、本当なのか、そう騙されてはいけません。
私たちは雲に乗ってこられたイエス様をまだ見てないです。
ですから世界どこかで、特に韓国にですね、そういった二胎や二世、キリストが多いんですけれども、自分がキリストかサイリンのイエスか名乗る人が多いんですが、騙されてはいけません。
聖書はすべての目が見るとあります。
12:07
もう一等申します。イエス様はすべての人、すべての目が見ているうちにごサイリンされます。
二番目、そのサイリンの死、その時は神様のみ御存じで他は知りません。
聖書をもう一箇所見てみましょう。
マタイの福音書です。
マタイの福音書、24章、36節。
新約聖書、51ページです。
51ページ、24章、36節。
では、御一等にお読みしましょう。
三杯、ただし、その日、その時が、いつであるかは、誰も知りません。
天の御使い達も、子も知りません。ただ、父だけが知っておられます。
アーメン。
誰だけが知ってますか?神様だけが知ってます。
ですから、誰かが、いつ父が滅ぼされるとか、
イエス様がサイリンされるとか、そういった話を信じてはいけません。
誰も知りません。神様だけが御存じなんですね。
いくら、政府に詳しくても知りません。
あるいは、自分が祈って、神様から御指摘をもらった。
2020年12月31日にイエス様は来られる、私は祈りの中で示されました。
嘘です。
どこにも、そういった経緯は書いてないし、神様は教えてくれません。
子も御使いも知りません。神様の視点です。
ですから、皆さん、どこかで、日本にも、
人生宗教や、そういったものが、他の国から入ってきたりするんですけれども、
いついつ、地球が終わるとか、滅ぼされるとか、地球終末とか、
日本沈没とか、なんとか映画とか、そういうことが結構ありますけれども、
惑わされてはいけません。
皆さん、安心してください。
神様だけが御存じで、神様の徳に満ちたら、その日は来ます。
15:09
ですから、皆さん、私たちは、その日がいつになるかわからないんですね。
さっきの、このマサヤの勲章にも、その日はまるで、ノアの日のようだとありますね。
いつ洪水が起こるか知らなかったんですね。
ですから、私たちは、目を覚まして、進んで、進行の道を全うして、歩んでいけばいいんです。
主が今日おいでくださるか、明日おいでくださるか、
私たちの世代がですね、この世代が生きている間に、
イエス様がおいでくださるか、あるいは、今生きているこの世代が、
みんな、亡くなられた後になるか、それはわからないんですよね。
ですから、私たちは、ぼうとしてですね、
まるで死んだ魚が川に流れてしまうような生き方ではなく、
まるで生きている先がですね、この川をですね、勢いよくですね、遡っていくようにですね、
この世の中で、霊的生命力をもって、霊的な力をもって、また同時にこの霊的緊張感をもって、
この世で、福音のために歩んでいきたいと、そう願っています。
そして、いつイエス様が来てくださっても、
詰まったじゃなくて、いつおいでくださってもですね、後悔しない。
ああ、イエス様、やっとおいでくださいましたね。お待ちしておりました。
と、歓迎する。そして、お迎えできる私たちでありたいんです。後悔しない。人生でありたいんです。
イエス様がおいでくださりました。それで、ああ、なんでイエス様こんなに早く来られたんですか、じゃなくてですね、喜んでお迎えしたい。
もう一度、申し上げます。イエス様はいつおいでくださるか、誰も知りません。神様だけがご存知です。
3番目、イエス様の帰りについての3番目ですよ。イエス様は、すぐに来られました。
今日の御言葉はですね、福田姉妹に色々出てきましたけれども、この目黒にすぐに来ます。すぐに、すぐに、すぐに。
18:08
3回も繰り返して語っています。間近に迫っています。
渡さずの時代であるかもしれません。もちろん、後になるかもしれません。
今日の御言葉を見ていただけますか。まず7節ご覧ください。7節ですよ。前半のところ一緒に読みましょう。
みよ、わたしはすぐに来る。
みよ、ほら、わたしはすぐに来る。
もう一節、12節です。
みよ、わたしはすぐに来る。
また20節、しかり、わたしはすぐに来る。
みなさん、御言葉通りに、イエス様はすぐに来ます。
イエス様の約束です。その通りになります。
またですね、すぐに来る、すぐに来るとですね、こうおっしゃっているのは、この御言葉を信じている、読んでいる私たちがどういうふうに反応するかを、それも神様が確かめ起こしておられる。
すぐに来ると聞いたときに、神様ちょっと早くありませんか、もうちょっと後ででもいいじゃないですか、そういった反応をするか。
そうです、主よ、すぐにおいでくださいと反応するか、ということなんですね。みなさんはどっちでしょうか。
すぐに来てほしいですか、もうちょっと後で、後で来てほしいです。
あたたきは、この都大教会のあたたきのように、まだまだ火をつけくださいと。
本当に熱く、熱く、その火を待ち望んでいるでしょうか。
あるいは、今行きやすいですし、余裕もあるし、金もあるし、来月に海外旅行にも行きますし、
車も買えたばかりですし、間もなく結婚もするし、やっと就職できて給料もらうのに、まだ結婚もしていないのに、来るんですか、と思ったりしてはいないでしょう。
21:11
このままで最後だと思ったら、惜しいと思いますか。自分の持ち物を残したまま行くのが惜しいですか。
自分の持ち物を自分のものだと思い込んだりしたら、残したまま行くのが惜しいんですね。
しかし、全ての持ち物、全てのもの、能力も、仕事も、金も、財産も、あるいは将来も、あるいは人生のこの寿命も、神のものだと。
そう信じる者は、主がおいで下さっても惜しいと思わないんですね。もっと素晴らしい神の国があるんでしょう。
だから、イエス様がすぐにおいで下さっても大丈夫なんです。この地のものに未練がないんですね。
持ち物も財産も、家族も、家も、金も、成功も、世のものに思いがないんですね。未練がないんです。
この地のものより、天に希望を持って生きる者は、いつイエス様がおいで下さっても嬉しいんですね。
では、一箇所一緒に見てみたいと思います。
手もて、第1です。第1手もて、6章、17節です。新約聖書、412ページです。第1手もて、6章、17節。
では、一緒にお読みしましょう。
3.この世で飛んでいる人たちに命じなさい。さかぶらないように。また、手寄りにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちに全てのものを豊かに与えて楽しませて下さる神に望みを置くように。
アーメン。皆さん、私たちが望みをどこに置くべきでしょうか。この世の富ではないんですよね。人に、神様に望みを置くようにとあるんですね。
24:17
ある本で読んだことですけれども、皆さん、夜寝るときに大体人はこんな形で寝るんですよね。もちろん目をしっこにしたり、伏して寝てもこうなるんですよね。
人は、頭は地面に置いてあるんですけど、もちろん目は閉じていますけれども、目は天を仰ぐわけなんですね。希望を、望みを天に置くものなんだと。
だから人間は寝るときにここを姿勢で寝るんだと、そういう文章を読んだことはありましたけれども、そうだなと思いました。
人間はそもそも天を誓うものに作られたんですね。皆さん、イエス様は滞ることなく、イエス様が来られるのに渋滞はありません。すぐに滞る。
ですから、私たちもこの牧師族の御子様のように、朱を着てください。朱を着てくださいと、心から喜んで告白する私たちであります。
朱を着てください。そういう信仰が泉のように湧いてくる。朱を着てください。今日でもいいです。そういうように求める私たちでありたいんですね。
では、もう少し具体的に正しいシャイリー信仰を持っているクリスチャンはどんな生き方をするのでしょうか。三つを学んでいきたいと思います。
第一は神様に捧げる信仰を持ちます。シャイリー信仰を持つクリスチャンは神様に捧げる信仰を持っています。自分のものは神様のものです。
私のものは、実はイエス様がおっしゃいました。まず神の国と神の義を求めなさい。それがシャイリー信仰の生き方です。
皆さん、日頃普段どう思っていらっしゃいますか。皆さんのものは、皆さんの持ち物は誰のものだと思って暮らしていらっしゃるでしょうか。
27:01
自分がお金を稼げることも神様が職場を与えてくださった。健康を守ってくださったから仕事ができる。会社もこの国も神様が取って守ってくださるから自分の仕事ができる。そして給料をもらえるわけなんですね。
でも案外クリスチャンがこの仕事を忘れていたりするのではないかなと思うんですね。自分に能力があるから、自分が頑張るから、自分が朝8時から夜7時8時まで一生懸命働いたからこの給料をもらえるんだと思ってはいけません。
神様が守ってくださったから仕事もできるわけなんです。もう一度申しますが、私たちのすべてのものは神様のものです。
ですから私たちが自分の能力、自分の情熱、あるいは自分のたまもの、あるいは自分のこの時間、あるいは自分の金、そういったものをより価値あることのために捧げたい、用いたいと思って捧げる人は、
サイリンシンコを持つ生き方。
私の夫婦はですね、夫婦が海外旅行に行ったことは、ハニムンが最後で最後ですけれども、あの時はですね、96年でしたね、1996年11月3日に行ったかな。
ですけれども、勤めていた会社が旅行会社もやっていたんですね。
それで社員割り付きで二人で、今円にしたら13万円、14万円、ものすごく安くですね、一週間ハワイに行ったんですけれども、皆さん海外旅行お好きでしょ、アメリカじゃないですか。
もしですね、夫婦二人でヨーロッパに行くとしましょう。
ただ今はですね、二人で50万、それくらいかかるかもしれないですね。
もう行ったことないからわかりませんけれども。
30:02
しかし海外旅行はいいんですけれども、行って一週間あるいは十日か二週間行きました。
パリに行きました。エペルトンも見ました。ローマにも行きました。帰ってきました。
何が残るんでしょうか。
まずカメラが残りますね。そして写真も残りますね。そしてビデオが残りますね。
また頭の中に思い出が残りますね。
1年、2年、5年、10年経ちました。何が残るんでしょう。思い出はですね、あんまり覚えてないんですよ。
写真もですね、ビデオもですね、撮ったときにものすごく毎日のように言うんですよね。
ここにいたな、ここが四国だなと。でも5年10年だったら、そのアルバムはどこにあるんですかね。
そうなるんですね。
しかしもし、もしですよ、皆さん。その金を、例えばですよ、50万円としましょう。
その金をアフリカのウガンダとか、あるいは他の国とかですね、あるいはポーランドアジアのネパールとかの選挙地に献金を捧げるならば、
日本円で50万円ぐらいあれば、このような教会像を建築できます。
日本ではですね、あり得ないことなんですよね。50万円ってできないんですね。
でもアフリカとか東南アジア、もう東南アジアのネパールとかですね、バングラディとか行ったら、一つの街道を建てられるんです。
この街道を建てときましょう。そうしたら、そこに子どもも人々も群がってくるんですよね。
そしてそこから先生を教えられた人々の中で、また牧師が育てられる。そしてさらに福音が広がっていく。
またカイドが建てられる。そういった素晴らしいことが起こるんです。
この日本にもですね、100年前でしょうか、イギリスとかアメリカからですね、多くの選挙地さんが来られた。
その背後には多くの信徒さんがですね、農業する人、あるいは様々な仕事をしている人々が献金を捧げてくださった。
そしてそれで街道を建てたり、学校を建てたりして、今の日本の信仰、私たちの信仰があるわけなんです。
私が皆さんに申したいことは、単なるお金のものではありません。
33:09
自分の持ち物をもっと価値ある、永遠に残ることのために捧げようではありません。
先日こんなことがありました。
うちの家族にもですね、みんなのように毎月祈ってもらって、また選挙献金も送ってもらっているわけですけれども。
みんな金持ちありませんよ。まだそんなに多くもありませんけれども。
でもですね、不思議なことはですね、時々ですね、思いもしていなかった方から献金が送られることがよくよくあるんですね。
あるときは金額を言うとちょっとあれですけれども、あるときは20万円、あるときは10万円、あるときは5万円とかですね、献金を送ってくださるんです。
先月こういうことがありました。私の知り合いの34歳の兄弟ですけれども、破刑許可へ資本の許可へのドラムの放棄をしているトップのドラマですけれども。
これはですね、去年の夏も、そして一昨日の夏も2年続いて、その前にもですね、何回も日本に来て、また去年と一昨日は東北に一緒にいてですね、シャペルコンサートをしたムンという兄弟ですけれども、
去年の年末に若いなのに脳梗塾、脳出血でですね、急に倒れて日本に来たんですね。それでもう目は上げていますけれども、意識がない状態で約3ヶ月集中治療室に寝かせたままいたんですね。
私も今年の1月に病院にお見舞いに行って、彼の様子を見て、もう泣いてですね、人間の目で見たら起きられるのはもう到底無理だと思っていたころでした。
まだ若いです。奥さんも若くて、子どもも、あのころは上の男の子が4歳くらいで、また2番目の子も妊娠していたんですね。みんなが祈って祈って祈っていました。
私はもう日本に居たけですから、祈ってですね、どういうふうになったのかも気になっていたところ、そしてにも今年の2月ごろでしょうか、息が戻って、そして脳のところも全く癒されて、2月末か3月朝まごろは自分の足で歩いて退院しました。
36:28
そしてこの前、8月からはドラムの奉仕に戻ったんです。彼はドラムの奉仕をして暮らしているわけですから、教会からですね、有給スタッフだから、謝礼を少しもらっているわけだから、あんまり余裕はないわけなんですよね。
私はもう3ヶ月ほどまだ仕事を休んで、病院に入院しているわけだから、おうちにお金がないわけなんですよね。でも前月びっくりしたんですけど、多くの献金が送られてきてですね、見たら彼が送ってくれたんですね。
で、メールを送ったら、自分にも今月ですね、この前選挙に一緒に行きたかった。でもいろいろ事情があって、お金のことやさまざまがあって行けなかった。でも献金を捧げたかったんですね。
それでまるでヤモベのデプタのみたいにですね、5万円ほどできたけれども、尊い献金を彼には精一杯の献金を送ってくれたんですね。
皆さん、私たちの持ち物をもっとこちあることのために使おうと言われました。永遠に残る魂の救いのために、神の福のために捧げる金庫、それがサイリン金庫の一つだったんです。
2番目です。サイリン金庫を持つクリスタルの生き方は、最後の裁きがある、それを信じる信仰です。今日の御言葉を見てみましょう。
12節です。一緒に読みたいと思います。
三杯。二を、私はすぐに来る。私はそれぞれの仕業に応じて報いるために、私の報いを携えて来る。
家様は、それぞれの仕業に応じて報いるために、私の報いを携えて来る。
39:07
皆さん、家様を信じて、そして家様がおいでになることを待ち望んでいる私たちは、家様のおいでくださることが喜びなんです。
なぜでしょうか。報いにしてくださるから。性を持っておいでくださるから、うれしいんです。
まるで、例えば、私が一人で韓国に行ったりするんですよね。そして帰ってくるときに、子供3人いますし、奥さんは一人ですけど。
出発はあまり行かないんですけどね。大きいマークに行って、お菓子とかプレゼントを食べ物とか買って持ってくるんですよね。
そしたら家族みんな喜ぶんですよね。もちろん、食べ物やお菓子がプレゼントによりうれしいということもありますし、
パパがうちのことを覚えてくれたという気持ちでうれしいんですよね。同じなんです。
むくいをたずないといけないのです。
みなさんのお祈り、長い間のご奉仕のために、みなさんの死のために、教会のために、あるいは兄弟姉妹たちのために、
使ってきたその働き、その涙、その奉仕を人がむくえるために、神のプレゼントをもって、表をもっておいでくださるんです。
それで誰々ですか?
ですから家様のその祭の日が、うれしいの日です。
悔しいとか、後悔の日じゃなくて、うれしいになります。
しかし、神様を信じていない人々には、裁きの日になります。
神様がはっきりとおっしゃいました。
最後の日には、羊とヤギが分けられる日。
羊は神の人、ヤギは信じなかった人々を指しますね。
必ず分ける日が来ます。
42:02
ですから、私たちはいつも最後の日が、裁きの日が来る。
その日は、すぐはイエス様が私たちに会いたがってくださる。
そして会いに来てくださる、報いに来てくださるんだと。
そのことを覚えていただきましょう。
3番目です。
サイリン神道モスクリシャンは、御言葉と祈りに専念する生き方をします。
今日の6節、7節をもう一度一緒に読みたいと思います。
6節、7節です。
ご一緒に声を合わせてお読みしましょう。
3杯。
見つかりはまた私にあり、真実なのですと言った。
不現者たちの魂の神である地は、その見つかりを使わし、
すぐに起こるべきことを、その下辺たちに示そうとされたのである。
見よ、私はすぐに来る。
この書の予言の言葉を固く守る者は幸いである。
アメン。
皆さん、どんな人が幸いですか?
どんな人が幸いでしょうか?
この書の予言の言葉を、聖書の御言葉を固く守る者は幸いなんです。
皆さんが幸いなクリシャなんです。
御言葉を守る人が幸いなんです。
ですから皆さん、この御言葉と祈りに専念することはオプションではありません。
御言葉と祈りはクリシャンにとっては特権であり、また責任でもあります。
神の御言葉は、皆さんご存知のように、一点一角も誤りも、ですから信じるべき真実です。
また、私たちは神の国がこの地に来ますように、
神の福音が広がりますように、祈って、祈って、祈って、行くべきなんです。
サイリン信仰を持つクリシャンは、何より御言葉と祈りに専念をしましょう。
皆さん、終わりの時代になればなるほど、
精霊様も熱く働かれますけれども、同時に悪魔も熱心に働きます。
45:06
様々な誘惑を持って引っかかってくる。
何とかしたパターンは、悪魔は私たちが御言葉に、祈りに、礼拝に、専念できないように妨げてくるんですね。
あるいはですね、あまりにも忙しくしてしまってですね、祈る時間、御言葉を読む時間、礼拝する時間すらなくしてしまう。
寒日もですね、この聖像を開いて読むこともできないように、
座り込んで祈ることもできないように、
日曜日に教会に行くこともできないように忙しくしてしまったり、
あるいは寒日もですね、テレビとかドラマとかお笑いの番組とか、
様々な神秘的なことや、いろんなことを持ってですね、
この私たちの寒日の時点をですね、世のものにですね、奪ってしまうんですよね。
ですから皆さん、私たちが生きることができる道は、この聖像の御言葉と祈り、他には、
皆さん日頃どれほど聖像を読んでいらっしゃるでしょう。
どれほど祈っていらっしゃるでしょう。
皆さん、御言葉と祈り、他には、私たちに力になるもの、
命になるものは御言葉に専念しましょう。
祈りに専念しましょう。
終わりの時代になればなるほど、
私たちのこの強い感心を世のものに奪われてはいけません。
御言葉と祈りに専念して、精霊群馬になる道しか、
明日から秋の祝活活動や、
特に祖族伝統のために集中して祈祷会が始まります。
今年の9月もですね、3週間も続きましたけれども、
多くの方々が参加していただいて、
共に熱く祈ってたくさん恵まれて大きな証があります。
48:04
秋にですね、9月には20周年礼拝もありますし、
また10月は特伝もありますし、
また11月はテニスもあります。
12月はクリスマスの招集会も。
皆さんですね、ぜひぜひお願いしますので来ていただいてください。
朝6時、午前10時半、夜7時、
3回あるのは、3回の中で少なくとも1回は来てほしいから、
3回儲けたわけなんです。忙しいでしょう皆さん。
あるいは朝起きられるのは大変かもしれません。
でもそれほど大事なことには、犠牲が伴われるわけです。
ですから皆さん、役員の皆さん、生活隊の皆さん、
まだ家族の好きのために祈らなくてはならない皆さん、
あるいは体や心の病を抱えていらっしゃる方々、悩みの方々、
そしたら禅にあたりますけれども、来て祈りましょう。
祈るときに、主は特別な恵みを注いでくださるんですね。
私は明日から断食に始まりますけれども、
覚えて祈ってください。
そして皆さんにも断食できる方は喜んでですね、
強いられてはいけませんよ。喜んでですね、1回でも。
本当に家族のおすくいのために、皆さんの病の癒しのために、
またこの明大の教会、特にこの日本のために、祈ろうではありませんか。
確か皆さんだったらですね、僕があんなほどにお願いしているのに、
1回は行こうと思ったりすると思いますけど、皆さんはいかがでしょうか。
祈りましょう。終わりの時が近づいています。祈りましょう。
今日はサイリン信仰について教えていただきました。
覚えて、終わりの時代に、私たちが何のために協力できるのか教えていただきましたので、
神の御言葉通りに歩んでいきたいと、そう願っております。
お祈りしましょう。ではですね、まず心を合わせてですね、
今日の御言葉を覚えて、主よ、この最後の終わりの時代に、
あなたの強い花嫁として、神の子としてふさわしい道を、主よどうぞ歩ませてください。
また、他の誘惑に惑わされたが一切ないように、主よ、信仰を強めて、強めてください。
また、明日から始まる十日間のこの特別祈祷会に、一回でも多く、また一人でも多くの教徒たちもしか、
51:06
共に集まって祈る。そして、豊かな特別な恵みが注がれますようにですね、覚えてですね、祈っていきたいと思います。
では、御一緒にお祈りいたしましょう。
ハレルヤ神様、あなたの恵みを心から感謝しましょう。
あなたの恵みをどうぞ、主よ、あれば一人一人に、あなたがあり方について恵んで下さいますようにお願い致します。
どうぞ、主よ、この最後の時に、あたしが主よ、どうぞ、目を開けて、主よ、どうぞ、神様の御前に祈って参りますように。
主よ、あれば一人一人が、この二代に目をすまして、ああ、イエス様、来て下さい、来て下さい、マナタ、マナタ、三日七日、イエス様の御祭りに御待ちの方の姿でありますように。
次、イエス様がおいで下さっても、喜んでお迎えできる信仰を与えて下さいますように。
そして、本当に主よ、祈る、本当に主よ、また御言葉に専念するあたしたちでありますように、主よ、どうぞ、あなたがあたしたちを、
どうぞ、主よ、お願い致しますように、お願い致します。
この命題を受けながら、今日のあたしたちの無礼を、どうぞ、あなたが憐れて下さいまして、
主よ、祈ることに、主よ、どうぞ、あなたが応えて下さいましてように、お願いを致します。
明日からまた、特別祈り会が始まりますので、主よ、どうぞ、我らに、どうぞ、祈りのおんめぐみを、受茶館に注いで下さいまして、
祈る時に、どんなに素晴らしい、本当に主よ、明かしができるか、主よ、どうぞ、再見させて下さいまして、
恵んで下さいますように、お願い致します。心を一つにして下さい。祈りを一つにして下さいますように、お願いを致します。
恵みのおんめぐみを、受茶館に注いで下さいますように、お願いを致します。
一言お祈りさせていただきます。
主よ、あたしはすぐに来る。あたしは、それぞれの仕業に応じて報いるために、あたしの報いをたどさえて来るために。
主へ注意をして下さい。
我々は、その御言葉を必要感謝いたします。
主の御去臨の日が、間近に迫っているこの時代に、たった今、目を覚まし、
神のこの歩みにふさわし、この歩みを所動とさせて下さい。
神の国と、神の身のために生きる者として下さい。
御言葉と、祈りと、念のに励む者として下さい。
そして、イエス様が御祭りの時に来る、公開する人生ではなく、喜んで主をお迎えできる者として下さい。
御言葉を感謝します。イエス様の御名によってお祈りいたします。
54:01
アーメン。
54:06

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