1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/08/25:聖日礼拝(旧音源)
2013-08-25 56:15

2013/08/25:聖日礼拝(旧音源)

2013/08/25 聖日礼拝(旧音源)




00:01
では、本日は、たるみ教会より、にはまさあち先生による、
主イエスは武道の旗と題しまして、メッセージしていただきます。
今日、賛美を申し上げます。
今日は、ここで、聖空一聖抗壇抗反ということで、名谷教会にお招きいただきまして、
一人、谷谷能でありますが、この講演に受け止めた先生をいただいております。
一聖抗壇抗反というよりも、スライド式に抗反というように動いていく形で、
主観者が、斎藤先生がおられますけれども、
ユン先生が、いろいろここに来るまでも、携帯で連絡を取ってくださったりして、
させておったんですが、おられない教会に来て話をするというのは、
話しやすいような、しにくいような、何とも複雑な気持ちでもあるんですが、
宗教は、葡萄の木ということで、誠の牧者は、やはりイエス様でありますので、
この宗教キリストに目をとめて、ただこのお方だけを礼拝する、幸いな成立を持たせていただけたら、
そのためにこの御言葉を、この和歌詞を合わせていただけたら幸いに思います。
では一言、お祈りをさせていただきます。
私につながっていなさい。そうすれば、私はあなた方とつながっていいよ。
みぐみきかい、けんのきかい、かみさま、みなおがめ、三尾申し上げます。
今日は、こうして、教区の高壇高官で、妙大の教会に来させていただき、
この聖なる高壇の御用をこうしてありましたが、
どうぞ、この小さな蕾を、主の御手の内に握って、
神様の御霊がままに御言葉を届けることができるようにお導きください。
また、何よりも主御自身が愛しておられる、この妙大の教会の愛、精神、お人びとりの上に、
03:04
神様の豊かな恵みが、また臨在の主のこの御愛が伴うこの主実でありますように、
礼拝の一切を主が取りしきってくださって、精霊によって導いてくださいますように、
また御言葉がその真ん中に、主もとどまってくださり、私たちも主の御言葉にとどまり、
また神様の御愛に感じて、心からなる祈りと賛美をお捧げできるよう、
その礼拝を導いてくださいますように、心からお願いいたします。
新生成、神戸西部教会に使わされておりますが、
先生の家にも主の豊かな恵みがとどまってくださり、存分に御用を渡されますように、
これがこの全地で求めておる礼拝式の上に、信仰による一致とまた御霊による一致、
ただあなた様に豊かなお礼拝を捧げるその心の一致を与えてくださいまして、
この全世界において主の御名があがめられ、
またシリアスキリストの再臨が近いと思われるようなこの時に、
多くの人にシリアスキリストの十字架と復活の福音が述べ伝えられてまいりますよう、心からお願いいたします。
主に一切栄奉しまして、シリアスキリストの御名によって御祈り申し上げます。
一言お断りさせていただきますと、私はいつも統合約聖書を使っておりまして、
今日も神会約聖書の両谷教会でお使いだということを知らなくて、
交互約聖書で説明をさせていただきました。
今日の言葉は、この御霊による福音書の十五章一節から十一節の場面になります。
御霊による福音書は、イエス様が最後の晩餐の時に語られた御言葉の部分でありますが、
十五章は一節から十一節までは、主と私たち信者の関係を扱っており、
十二節から十七節は信者お互いの関係を主が語っておるところ、
十八節から十七節までは信者と与との関係を取り扱っているところだと言えます。
06:12
十一節から十一節は、主と私たちの関係をまず語っているところでございますが、
与との世にあって世のものではないという、この世にあってクリスチャンらしく生きる、
地の弟子として地を明かして生きるにあたってやはり物事の順序というものがありまして、
私たちと信じるものと旧イエス様との関係、そのことを主が教えてくださったところであるのは、
まことに支援にかなった神様の深い世によって導かれているところであります。
この主と主エスとあるいは主なる神様と神と私たちクリスチャン、
あるいはそこにはまだ主をかっきりと信じ告白していないけれども、
この求道者あるいはノンクリスチャンの方でもこの聖書を読むときに、
この御言葉が本当に心に迫ることもあると思いますので、
これから主を信じようとしておられる求道者の方も含まれるかもわかりませんが、
基本的にはこの信者とイエス様、主エスとの関係をここでイエス様はわかりやすく、
このブドウの木とその枝、あるいはノーフという主は主エスのブドウの木という題には、
やはりそういう意味を持ってそういう題を付けさせていただきました。
まことのブドウの木であるとイエス様がおっしゃっておられます。
第15章の1節、口語訳になりますが、
私はまことのブドウの木、私の父はノーフである。
非常にわかりやすいこのたとえであります。
このイエス様がブドウの木である。
しかもこのまことのブドウの木、良いブドウの木として、
09:05
ノーフである天父、天の父が神様がこの幹事のもとにある。
そういう、まず主エス様と私たちの信じている主エスクリスト様との関係がここに記されています。
イエス様がまことのブドウの木であられるから、
そこにつながっていく枝である私たちクリスチャン、信じている者は、
自ら身を結ぶことができる。
この1節から6節あたりのところを見てみますと、
やはりこのノーフなる神様は、天のお父様は、
この収穫を期待し、またその収穫の喜びを目指して、
ブドウの木を手入れし、また歓迎、そしてお笑いをする。
そのことがわかります。
1節から3節を見ますと、
私はまことのブドウの木、私の父はノーフである。
私につながっている枝で、身を結ばない者は、父がすべてこれを取り除き、
身を結ぶ者は、もっと豊かで実らせるために手入れして、これを綺麗になさるのである。
あなた方は私が語った言葉によって、自然に清くされていると。
ここでイエス様は言っておりますが、手入れをなさる神様。
その手入れというものは、植物を育てる方は、
そういう枝を切ることによって、無駄な枝や枯葉を取ったり、
あるいは生えているブドウ畑や何か他の植物でもいいですけれども、
そこの雑草を抜いたり、そういう手入れをすることによって、
豊かな収穫を楽しみにして、喜んで、その収穫の喜びというものにあたりたいがために、
時には夏の暑い日差しの中でやっても、また時には雨が降るような、そぼ降るような中でやっても、
12:00
日ごとにその畑へ行って、果樹園へ行って、お庭で何かを育てているということもあるかもしれませんけれども、
植物の様子を毎日見に行くわけです。
私は農業をしたことはありませんけれども、家庭田園とか、何か学校で田園があって、そこで植物とジャガイモを植えたり、トマトを植えたりとか、
そういうことはありますが、農家には育っていませんので、本当の農夫の仕事、農業の大変さというのがわかりませんが、
しかし手入れを、畑に手を入れれば入れるほど、また田んぼでも稲作でも、日本は米が主食でありますが、
そのお米でも田んぼに手を入れれば入れるほど、やはりよく整えられた綺麗な田畑からは、やはり綺麗なというか、
良い豊かな実を結ぶということは、やはり体験的に知れるわけです。
この農夫として、天皇お父様は信じたものが実を結べるように扱ってくださいます。
岡山には葡萄や桃の産地で、この葡萄畑がありますし、
またその割と雨が少ない、晴れの日が多いというような地域、
そういうところでは葡萄が非常に大きくなるということで、葡萄の産地。
この辺でも神戸の西区の方に行けば、葡萄園があります。
私は所要で火災の方へ行ったんですが、途中でも葡萄が畑に実がなっていて、
その前にお店の前に葡萄を摘んで、そこへ車を停めて、多くの人が買っておりましたけれども、
どちらかといえば、葡萄は山の斜面とか、
もしそこに手入れをしなければ、非常に自然豊かな、
掘っておいたら多分草ぼうぼうで野山が自然に沸騰してしまうような、
そういうところをわざわざ開墾して、ここにやはり葡萄を植えようという、
15:04
そうした意思を持って、葡萄を育てて、これで豊かな実を得て、
それを売って生活していこうとか、農家の方はそういうことを精算すると思いますが、
やはりそもそも葡萄というものは、野葡萄というものはあるかもしれませんが、勝手に生えている。
しかし食べておいしく、みめ麗しい葡萄を植えようと思えば、
やはりそのままでは荒れ木として、原野のようなところにやはり手を入れなければいけないという意味で、
非常に神様は農夫として苦労されたのではないか。
魂の実を収穫する神様も苦労されたのではないか。
私も今こうして伝道府というか教師として、講談効果に使わされて、
この静大の講談でご奉仕させていただいていますが、
かつての自分を思えば、そんな住み人の頭であったようなものを釘あらてに導いて、
そしてその心を御言葉によって清めて御言葉の御用に立たせるというのは、
とても手のかかることであったと思います。
そんな親の苦労を知らずと言いますが、神様の心を私自身どれぐらい知っているでしょうか。
そのように探られるものでありますが、
そうした農夫であられる神様の言い思いが少しわかるのではないかという箇所を引用させていただきますと、
イザヤ書の5章をお開きいただきますと、こういう御言葉がございます。
神戒訳聖書では947ページなんですが、
すいません、神戒訳はちょっとわからないんですけれども、
イザヤ書の第5章の1節から、
これはイスラエルを神の民、イスラエルを神様が取り扱われて、
そしてこの地球というか地上に主の御言葉を守りたい、主の救いを示されるために立てられた、
そのことについて神様がイザヤを行って御言ったところです。
18:05
神戒訳聖書、私は我が愛する者のために、その葡萄畑についての我が愛の歌を歌おう。
我が愛する者は土越えた小山の上に一つの葡萄畑を持っていた。
彼はそれを掘り起こし、石を除き、それに良い葡萄を植え、その中に物宮蔵を建てる。
またその中に釈迦船を掘り、良い葡萄の結ぶのを待ち望んだ。
ところが結んだものは野葡萄であった。
それでエルサレムに住む者とユダヤの人々よ、どうか私と葡萄畑との間を捌け。
私が葡萄畑になったことの他に何かなすべきことがあるか。
私は良い葡萄の結ぶのを待ち望んだのに、どうして野葡萄を結んだのか。
神様はこの葡萄を良い収穫、豊かな収穫を目指して、期待して、この小山の上に葡萄畑を作られたとこの第五章は始まっています。
我が愛する者はというのは神様のことです。
これをイザヤが歌ったわけですが、我が愛する者、イザヤは神様の心から愛している預言者でした。
神様は小山の上の土を掘り起こし、石を取り除き、そこに適当に何か葡萄を植えたのではなくて、
良い実を結ぶであろうという種類をわざわざ選んで、
巨峰とかゴールデン、ベリーエースとかマスカットとか、次々いろんな種類がありますけれども、
良い栽培品種の葡萄を植えたわけです。勝手に生えてくるわけではないわけです。
そしてモノミヤグラを立てて、山形のサクランボや、高級、美味しいということで評判のサクランボ、サクランボ泥棒というのが出るので、
その実が成る頃には非常に警戒して守るらしいですが、
モノミヤグラを立てないと、実が良いときに柿の木や家庭での栽培みたいなところでも、トマトや実が一番良くなったときに、
野の鳥もカラスもよく見ていて、一番美味しいときに取っていくということを、そういう文句をよく聞きますけれども、
モノミヤグラを立てて見張るわけです。そして酒船を掘り、この葡萄を決めて、これを浄土して、良いものにする、良い飲み物にする、
21:17
それ以外に手間暇をかけて、良い葡萄を結ぶのを待ち望みました。
それほどのことについて、神様は私が葡萄畑に成したことのほかに、何か成すべきことがあるかと、
このイスラエルの人々に、この四節において、神様は訴えかけているわけです。
ところが、結んだものは野葡萄であった。
我々は良い葡萄を結ぶのを待ち望んだのに、どうして野葡萄を結んだのかと、
豊かな収穫を期待された神様でしたが、残念なことに、このイスラエルの人々、
イスラエル人の王国であった北王国や、また南のユダ王国の一般の民も、また王公貴族や宗教的な指導者たちも、
良い実を結ぶことはできなかった。
非常に結んだものは機械外れの実であり、
良い実はあったでしょうけど、少なかったということがここにさせられます。
全くこの野葡萄という言葉は、全く違う種類のものになるということではなくして、
悪臭を放す、その実があるだけで腐った、そうした臭いをする、むしろ無い方がいいという、
そうした意味の言葉が使われている、良い葡萄を植えたのに機械外れの葡萄の実がなりました。
神様はこのように、必要な熱心を持って手入れをされます。
イザヤ書に今指示されたように、神様のこの葡萄畑に対する機械というものは非常に大きいわけです。
ヨハネによる福音書に戻っていただきますと、
この私につながっている枝で、実を結ばない者は、質が全てこれを取り除き、
実を結ぶ者は、もっと豊かに見直されために、手入れしてこれを綺麗になさるのである。
24:00
あなた方は私が伝った言葉によって常に強くされている。
手入れをする手段とか、あるいは道具と言ってもいいかもわかりませんが、手段はこの御言葉。
神様は、あるいはここではイエス様が語られた御言葉、私が語った言葉によって常に強くされている。
神様は、ちょうどイスラエルの民を、預言者イザヤの御通しての御言葉によって取り扱われ、または手入れをなさろうとしたように、
今、現代の私たちクリスチャンにも御言葉を通して手入れをなさろうとしていることがわかります。
そういう意味では、プロテスタントは礼拝において、説教を中心にした礼拝、
カトリックは聖参を中心にした教会ということで習いましたし、
実際、礼拝堂に入れば、聖参台が中心にあるカトリックと、説教台が中心にあるプロテスタントの教会と福音派の教会と一目瞭然なわけですが、
そういう意味で、私たちが毎日曜日の礼拝において、
主の御言葉に、説教者のメッセージを通して提供する人の言葉ではなくして、神の言葉に聞き生きるということを心がけていることは、とても大切だと思います。
神様は御言葉を通して、私たちを手入れなさってくださいます。
しかし、ここの先ほどもありましたけれども、
もし、期待外れの葡萄の実、野葡萄の実が、握手を放す野葡萄の実が成るというようなことがあるならば、どうでしょうか。
もし、皆様がそうした畑を持っていて、良い実が成るはずだったのに、良い実が成らなかった、そういう場合はどうするでしょうか。
そうした時に、この六説を見ますと、
人が私に繋がっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
人々はそれをかき集め、火に投げ入れて焼いてしまうのであると。
ある意味で、自明の理という、もし身を結ばないでいるならば、この火に、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
やはり、畑のことというか、脇のゴミの枯れ枝や葉っぱの集積する場所にゴミ捨て場に捨てられて、
27:04
人々はそれをかき集め、火に投げ入れて焼いてしまうのであるというのは、
おそらく、こうした大量大きな葡萄畑であれば、そこで大量の枝や葉っぱが出るので、
実際にこういう火に入れて、そうした枯れ枝や葉っぱを処分する光景が、
イエス様の時代の畑、葡萄園において見られたのではないかとさせられますが、
今はあまり勝手にゴミ焼却を自分で庭でしたりとかはできないですけれども、
しかし、原理としては一緒だと思います。
もし農夫がいざかな収穫を目指して葡萄畑を育てたのに、
そこに植えられた葡萄の木が良い実を結ばなかったら、
木の根元はまだこの段階では残っているようですが、枝は悪い実を結んだ、
何の役にも立たないというか、むしろそこにあるだけで非常に迷惑する人が、
農夫自身も不快な思いがするし、
そういう畑が大ければ大きいほどの葡萄の実、悪臭を放つ、
そうした葡萄の実がたくさんなってしまうと、とんでもないことになるわけです。
当然それを銀に入れて処分する。
神様も時に、私たちが教会から投げつけられるということはないかもしれませんが、
神様の御手の内にあって、信者一人一人の個人的な取り扱いを受けることがあると思います。
神様は悪いものは取り除いて、良い実を結ばせようと、いつも期待しておられるのです。
その良い実を結ばせる秘訣というのは、キリストにつながっているということです。
四説から見ていきますと、
キリストにつながる、私につながっていなさい。
そうすれば私はあなた方とつながっていいよ。
枝が葡萄の木につながっていなければ、
自分だけでは実を結ぶことができないように、
あなた方も私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
私につながっていなさい。
そうすれば私はあなた方とつながっていよう。
30:05
つながっているということは、植物の葡萄の木であるならば、
それはすごく当然のことで、枝がつながっているから、葡萄の木が葡萄の木らしくあるわけでしょうけれども、
人間の体にも主体のいろいろな部分があるように、
その人自身は人間ですけれども、
人間にも顔があり腕があり足があり、
その体の部位というものがあります。
つまりちょうど枝のようなものではないでしょうか。
人がやはりぽっとやかに成長していくにあっても、
もし腕が体から離れていけば、血液や血液中に含まれる成分が行き渡らないので、
腕だけでその辺を這いずり回ったり、そんなことはありえないわけです。
その人がその人らしくあるのは、やはり枝のように体の部位がすべてその人にそだまっていてこそです。
この葡萄の木というものも同じでありまして、
イエス様という、私は真心の葡萄の木とおっしゃられたイエス様につながっていてこそ、
この枝にたままな実を結ぶことができます。
つながっているということはどういうことでしょうか。
私につながっていなさい。
そうすれば私はあなた方とつながっていよう。
枝が葡萄の木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、
あなた方も私につながっていなければ実を結ぶことができないと。
ここでは繰り返し、つながっていなさい。
つながっていよう。
つながっていなければ、つながっていなければ、
あるいは、持っている人が私につながっておりと、
何度もつながっているということについてイエス様は述べておられます。
つながっているというのは、信仰によって罪を悔い改めたその人が
キリストを仰ぐ、十字架を仰ぐ信仰によって
キリストとの命のつながりに入るということです。
ガラ手紙という手紙を見ていただきますと、
ガラ手紙という手紙の2章、19節、20節、6節、
33:12
日和や聖会でも開かれる箇所ですが、
お清めのメッセージで語られますけれども、
やはり信仰によってキリストにつながるということを、
その通信は十字架だということをここに見ることができます。
19節、私は神に生きるために立法によって立法に死んだ。
私はキリストとともに十字架に作られた。
生きているのはもはや私ではない。
キリストが私のうちに生きて終われるのである。
しかし私が今肉になって生きているのは、私を愛し、
私のためにご自身を捧げられた神の御子を信じる、
信仰によって生きているのである。
私は神のお恵みを無にはしない。
もし義が立法によって得られるとすれば、
キリストの死は無駄であったことになる。
この立法による義を追い求めていたパウロが戒心して、
信仰による義を得た。
その真理をここに言い表しているわけですが、
私は神に生きるために立法によって立法に死んだ。
私はキリストとともに十字架に作られた。
生きているのはもはや私ではない。
キリストが私のうちに生きて終われるのである。
ここにまさにこの私につながっていなさいとおっしゃられたイエス様と
私たち信じる者との間の命のつながりの始まり。
キリストとともに十字架につけられる。
そしてキリストが私のうちに生きていてくださるのだという、
こんな死にゆく命なき罪人であった、
罪によって滅びるしかなかった者は、
キリストの十字架に合体して結び合わされる。
キリストと結び合わされるイエス・キリストの十字架によって、
本当に私の罪はもう処分されてあるんだと信じて、
キリストの十字架を仰ぐ者のうちには、
過去の古い自分、罪深い自分に死んで、
キリストが私につながっていなさい。
そうすれば、私もあなた方とつながっていようとおっしゃられたイエス様との命がそこに流れて、
ちょうど葡萄の枝に、葡萄の木から地液が流れて、
やがてこの葡萄の枝の実がなるように、
36:04
ちょうどこの死ぬべき体、まさに罪の実しか結べない、
悪臭を放つ野葡萄の実しか結べなかったような、
このような罪人にもイエス様の命がこの身、
キリストによって、キリストの十字架を中心として、
復活のキリストの命が流れ込んでくるとき、
キリストが私のうちに生きて終われるのであるという、
この死の忍罪、死がともに終われるという忍罪の確信とともに、
きっとキリストの命がそこに始まる。
私につながっていなさい。
そのようにイエス様はおっしゃられた、命じられただけではなくて、
このご自身、そうすれば私はあなた方とつながっていよう。
私もあなた方とつながっているべきだと言わんばかりに、
何の値もしない、そんな死んでいただく値打ちもなければ、
そうした何か関係があったわけでもない。
まだ私たちが罪人であったときに、
イエス様は自分から私たちとつながることを求めて、
ご自分を十字架に投げ出して死んでくださいました。
このつながる、キリストにつながるというのは、
やはりイエス様の十字架は私の罪であるということを心に認めて、
またそれを信じて告白して、クリスタンとして歩み出すということではないでしょうか。
そういう意味では、こうして、そうした罪を悔い改め、
イエス様によって救われた者一同が前に行きようごとに、
まさに主イエス様の言葉を守って、
つながる神に、またイエス様の救いに感謝して、
礼拝を守るということは、たっということであります。
葡萄の枝として私たちは身を結ぶことができるでしょう。
私は葡萄の木、あなた方はその枝である。
39:01
もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、
その人は身を豊かに結ぶようになる。
私から離れてはあなた方は何一つできないからである。
その後説ですね、少し、
「とどまっていなさい。」と新海役ではなっていると思いますが、
この枝は葡萄の木、またその枝である、
葡萄の木であるイエス様、その枝である私たち、
その枝に身が豊かに結ぶようになるのは、
一つ二つ食べられるような身がなるのではなくして、
豊かな身、神戸役では豊かな身、新海役では多くの身を結ぶ。
もし神が農夫であられて、
神の畑にイエス様という誠の葡萄の木を植えて、
そこに信仰によってつながるようになった、
私たちクリスタンが枝としてつながっている、
あるいは教会がつながっているとならば、
そこに豊かな身を結ばないわけがないということです。
私も葡萄の木が小学生の頃に庭に、大きな家ではなかったですけれども、
後から簡単な葡萄棚みたいなものを作って、
木が植えていましたけれども、
わりとするせいの植物というのは、
いろいろなゴーヤとか最近流行っていますけれども、
ヘシマとかヒョウタンとか、
だから生命力は強いというか、
結構植えて、そこそこ水も適度にやっていれば、
観光にも強いのでしょうか。
割り方、実が、よく小学校の理科の参察とかでも、
学校の片隅にヘシマを植えてヘシマツリを作ったり、
そんなことをしましたけれども、
わりとよくそれなりに定義をしていれば、
非常に高級品種になると手間がかかる、
非常に良い高級な葡萄を育てるには、
また特別な技術があるかもわかりませんが、
この葡萄というものは豊かな実を結ぶものです。
いっぱい実がなるというのが自然な果実であります。
多くの実を結ぶそのことを、
42:02
この葡萄の枝である私たちに神様は期待しておられます。
そしてそれはキリストにつながっているならば、
必ず実を結ぶということです。
ここでいう実とは何でしょうか。
先ほどと同じガラテアビテの手紙の5章の方に、
この三玉の実という言葉が記されています。
ガラテアビテの手紙第5章22節から、
しかし三玉の実は愛、喜び、平和、寛容、
慈愛、善意、忠実、乳和、慈平であって、
これらを指定する律法はない。
キリストイエスに属する者は、
自分の肉をその浄土と共に十字架に付けてしまったのである。
三玉の実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、
善意、忠実、乳和、慈平である。
この三玉の実、こうしたキリスト様にすかわしい神聖の実を、
まず神社、個人が心の内に、人格の内に実を結ぶ、
そのことをここに見ることができます。
聖書の言う実ですね。
豊かな実を結ぶという、多くの実を結ぶ。
もしその葡萄のように表せるとしたら、
その実の一つとしてには、愛とか喜びとか平和とか、
寛容、慈愛、善意、忠実、乳和、慈平と、
それぞれに実の名前があるかもわかりません。
その一つたが喜びというその人種として、
多くの人々の心の食卓をにぎわす、喜びを与える。
それもまた素晴らしいことであります。
この三玉の実を結ぶ、
まずそのことを神様は私たちに望んでおられます。
そして、クリスタンの喜びというものがそこに生まれてきます。
45:00
今まではどちらかといえば、
能部であらゆる神様の喜びということをテーマに話してきたんですけれども、
そうですね、8節をご覧いただきます。
ヨハネによる福音書の15章の8節をご覧いただきますと、
あなた方が身を豊かに結び、そして私の弟子となるならば、
それによって私の父は、栄光をお受けになるであろう。
この天の使い神様は、
このクリスタンが身を豊かに結び、
そして私の弟子、イエス・クリストの弟子となるならば、
栄光をお受けになる。
まさにこのクリスタンが喜び、あるいは忠実、
身は慈悲、あるいは平和や寛容という身を結んで、
その中に憎がれることはクリスタンにとっても喜びでありますけれども、
そうした状態にあることを神様も喜んで、
そのことをご自身の栄光、栄えとしてくださるという、
まさに真人一体の喜びがここに生まれるわけです。
天の引きなる神様、手入れしてくださる神様の喜びは、
私たちが見た前の身を結んで、喜んで神様を礼拝して生活している、
そのことにかかっています。
もし私たちが心から手を礼拝して、喜んで、
イエス様の弟子として仕えていないならば、
先ほどはじめの方にお話ししたように、
ちょうど滅びゆく、投げ捨てられた枝のように、
人々はそれをかき集め火に投げ入れて焼いてしまうというような、
もう滅びしかないのではないでしょうか。
もしそうでないならば、こうして日曜日において、
心から喜んで神様を礼拝し、その御言葉に成長して、
イエス様の弟子として生きていきたいと心に願い、
またそのようにお互い、
信者お互いの関係については十二節以下から、
互いに愛し合いなさいと、また詳しくイエス様がお話しして教えてくださっていますけれども、
まず、主と私という、神様と私という関係において、
しっかりと知人につながり、
そして礼の御玉の実を結んで、
この神様の喜ばれるもの、
また自分自身も主の御言葉によって、
48:00
いつも心が喜び、救いの喜び、また救われた感謝に生きているということが、
とても大切です。
一箇所、旧約聖書、またいろんなところをお開きしますけれども、
お開きさせていただきますと、御玉の実ということに関連してくると思いますが、
ジェパニア書というのが、少しわかりにくい箇所にありますが、
小予言書ですけれども、
ジェパニア書の三期と十六節以下には、
御玉によって信じる者のうちに、
御玉によって信じる者のうちにお宿りくださった主耶穌様が、
私たち共に、むしろ私以上に、
この喜び、神を礼拝する、
その魂を養ってくださるということ、
共に喜ぶ、
そのことが予言されています。
ジェパニア書の三章十六節です。
その日、人々はエルサレムに向かって言う、
祇園よ、恐れるな。
あなたの世を弱々しくされるな。
あなたの神主はあなたのうちにいます。
勇士であって勝利を与えられる。
彼はあなたのために喜び楽しみ、
その愛によってあなたを新たにし、
祭りの死のようにあなたのために喜び呼ばわられる。
ジェパニア三章十六節以下ですが、
あなたの神主はあなたのうちにいます。
勇士であって勝利を与えられる。
神様がうちに信じる者の心のうちに、
御霊によってお宿りくださり、
そしてその人を新しい命に生かすために、
その人のために喜び楽しみ、
そして祭りの死のようにあなたのために喜び呼ばわれると、
このように預言されていることは、
この父エスキリストにあって私につながっていなさい。
そうすれば私はあなた方とつながっていようとおっしゃられた、
イエス様によってこの教会に、
古きかに現実なものとなっていることは、
なんと幸いなことでしょうか。
私たちはこの十字架という、
さっとい命を懸けた主エスキリストの愛、
またこの聖霊によって、
この私たちのうちにあって、
そのいつもこのイエスキリストは私のために死なれ、
51:03
私のためによみがえられたという、
その救いの確信を与え、
いつもまさに喜び呼ばわる、
叫ぶようにして、
この聖霊によって助けて下さいます。
聖霊は助け主として、
いつも教会にクリスタルと共にいて下さいます。
時間がなくなってきましたけれども、
神様自身がそのことを望んでおられるのです。
十一節を見ますと、
結びの、この一節から十一節までの所の結びとして、
イエス様は、私がこれらのことを話したのは、
私の喜びがあなた方のうちにも宿るため、
またあなた方の喜びが満ち溢れるためであると、
そのように結んでおられます。
聖霊によって与えられるこの喜び、
御霊の御としてパウドが記したこの喜びは、
私の喜び、イエス様がこの聖なる神になって、
また聖霊との交わり、
聖霊を限りなくそがれた神の御子であられるイエス様の喜びであります。
その喜びが驚くべきことに、
もしこのイエス様の御言葉に従っていくならば、
信じる者のうちにもその喜びが宿り、
またその喜びが、
だから身を結ぶ、多くの身を結ぶとありますけれども、
満ち溢れるために、
一喜一憂するという言葉がありますけれども、
喜んだり憂いたり、喜んだり憂いたり、憂いたり憂いたりで、
どんどん憂いている中でちょっと上がって、
全体では下がっているというような、
寂しいクリスチャンライフですけれども、
豊かに身を結ぶ、多くの身を結ぶ、
喜びが満ち溢れるとしたために、
イエス様がこの御言葉を語り下さいましたから、
信仰によって宗教徒に結びついて、
いつも私たちは神を礼拝し、
そしてその恵みをですね、
信じて求めて、
十五書七節を見ますと、
あなた方が私につながっており、
私の言葉があなた方にとどまっているならば、
何でも望むものを求めるがよい、
そうすれば与えられるであろうと、
何でも望むものを求めるがよい、
このようにまでおっしゃってくださるイエス様に、
主が持っておられた喜び、
54:01
主イエスクリストがこの誠のブドウの木として、
私たちにブドウの枝である、
私たちに与えると約束してくださった、
その大きな喜びが与えられるように、
今日またお祈りして、
心から神に求めて参りましょう。
主の十字架と飲み合いが、
そうした豊かな実を結ばせてくださることを、
私も感謝して、
皆様と共に明治教会において、
共にいかせていただけることを、
これより恐縮しながらでありますが、
感謝しております。
では、司会者の方に導いていただく前に、
お祈りをした方がいいですね。
終わってしまいそうでしたが、
お祈りをしてもらっていただきます。
私につながっていなさい。
そうすれば、私はあなた方とつながっていよう。
枝がブドウの木につながっていなければ、
自分だけでは身を結ぶことができないように、
あなた方も私につながっていなければ、
身を結ぶことができない。
私がこれらのことを話したのは、
私の喜びがあなた方の家にも宿るため、
また、あなた方の喜びが道が惚れるためである。
愛する天の力神様、
今日はこの、
本当に、
苗谷協会、たるみ協会より使わされて、
たりがい忍びが応援させていただきましたが、
本当に大いなる、
このあなたの主耶様の持っておられた喜びが、
私たちの家に行事されるようにと、
願うものであります。
どうか、あなた方の喜びが道が惚れるためであると、
約束してくださった、
その主の御言葉が、
どうぞこの日、この苗谷協会の礼拝に、
いただいたお一人一人のうちに、
どうぞか、成就しますように、
これからお祈りいたします。
主耶族室の皆によってお祈りいたします。
56:15

コメント

スクロール