2024-02-17 11:15

第7回 オーストラリアの教室で起きた「小さな奇跡」

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今回は、私が実際に日本語教育の実践の中で体験した「小さな奇跡」についてお話ししたいと思います。キーワードは言語ゲームです。この概念は哲学者のヴィトゲンシュタインさんが提唱した概念です。これを哲学的に解説することは、私の能力を超えるのですが(笑)、頑張って説明すると、この考え方は、普遍性や客観性や本質などの基礎づけの考え方を一旦脇において、個別具体的な文脈や状況の中で展開される「ふるまい」に焦点を当てた考え方です。日本語教育の文脈で言ったら、文法とか語句の定義とか、そうした共通性よりも、個別具体的な状況においてどのような言葉が使われるのかというところを直接試行錯誤しながら学ぶことができるわけです。そしてその結果教室の中で起きた「小さな奇跡」とは?どうぞお楽しみに。

サマリー

その小学3年生の女の子は、言語ゲームの動画を見ながら自分の力で聞いて考え、問いを作り上げ、それを教師にぶつけることで、非常に劇的な変化が生じました。

言語ゲームの導入
学び楽しくラジオ。はい、みなさんどうもこんにちは、Nonaka Tsunehiroです。いかがお過ごしでしょうか。
今日もですね、オーストラリアはブリス弁より日本語教師をやっておりますNonaka Tsunehiroがですね、日々の学びや体験をですね、面白おかしく
5-7-5の句を作りながらですね、みなさんにシェアしていく時間にしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
今日はですね、教室の中の風景が変わったというね、話をしたいと思います。 別に教室の飾り付けをね、変えたとかそういうことではなくてですね、私が日本語教師として
子どもたちを見ていたらですね、その風景が変わった、子どもたちの様子が変わったという話をしたいんですね。
まずはですね、その風景が変わる前をですね、子どもたちはですね、私の目から見ると非常になんか聞く力が弱いなぁと思ったりしたんですね。
なんかおしゃべりをしたりですね、何かに集中してもですね、それが本当に10秒、20秒続くかどうかで他のことにね、焦点が移ってしまう、そんな感じがしてたんですね。
そんな中ですね、ましてやですね、日本語ですね、外国語としての日本語を学ぶというのは非常にね、困難を極めることだったんですよね。
そんな中ですね、ある概念と言いますかね、哲学のキーワードが私の元にやってきたんですね。
それは言語ゲームというものです。この言語ゲームというのはですね、哲学者のビトゲンシュタインさんがですね、提唱した概念であってですね、これを導入したりですね、生徒の様子がガラリともちろん良い方向に変わったんですね。
どういうことかと言いますと、伝統的な外国語教育というのは、何か文法を教えたり、翻訳したり、単語や表現の意味とか定義にこだわったりしたわけですね。
言ってみれば、普遍的なこととか客観的なことにね、重点を置いたりしたわけですね。
しかし、この言語ゲームの考え方というのは、人間のコミュニケーションというのは、その普遍的な文法とかですね、普遍的な定義とかですね、そういったものではなくですね、個別具体的なコミュニケーションのあり方、別の言い方で言うと振る舞いですね、行動とか言動とかですね、そういったものが一致するかどうかってところにですね、焦点を当ててるんですね。
ですから、初めからですね、何か決まったですね、統一した客観的、普遍的な基準があって、それに会話を合わせていくんじゃなくて、個別具体的な文脈の中で、状況の中で、どのような言葉が使われているか、どのような行動が行われているかってところにね、焦点が置かれている。
それが言語ゲームなんですね。
で、私はこれまでですね、自分の授業の中でですね、いかに子供たちに日本語をわかりやすく丁寧に説明できるかってところにね、どうしてもね、焦点が置かれていたと思ったんですね。
しかし、この言語ゲームの考え方を導入すると、生徒がいかに聞いてですね、考えるか、つまり教師主導から生徒主導へと移す必要があると感じたんですね。
そうするとですね、先ほど言ったようにですね、生徒たちは非常に本当に聞くことが非常に苦手なわけで、どうしたらいいかということで、もう一つ考えたのが、子供たちは日頃ですね、最近ですとNetflixとかYouTubeとかそういったものをですね、よく見たり聞いたりしているわけですね。
言語ゲームのビデオ教材
したがって私は、これはビデオ教材を作ろうと。しかし、私はそんなに人に頼んでね、日常的にいろんなビデオ教材が作れるわけじゃない。したがって、オンラインでもCanvaってありますよね。
Canva、あれを使ってビデオ教材、簡単な非常に原始的なんですけども、アニメ教材を作って、その中で具体的な文脈、状況を設定して、その中で日本語のみの会話をですね、作ったんですね。
例えば、子供がお母さんに何か物を取ってもらうっていうね、そういった言語ゲームであったり、あるいはある人が街で迷子になって他の人に道を尋ねるっていうね、そういった言語ゲームをですね、何度も何度も子供たちに示したんですね。
もちろん、ただそういったですね、単純な人間の振る舞いとか行動を見せているだけではですね、子供たちも退屈してしまうんで、ちょっとですね、ユーモアとかですね、ジョークなんかも織り交ぜながら、言語ゲームの動画をですね、何度も何度も子供たちに見せたんですね。
そうしたらですね、ちょっとびっくりすることがあったんですね。私にとっては奇跡と言ってもいいし、事件と言ってもいいですかね。
はい、ある小学3年生の女の子がいるんですけど、この子は非常にね、日本語に対して苦手意識を持ってるんですね。私がいくらわかりやすく説明したとしても、全然わからない、私はもう日本語ダメなんだってことをですね、鼻から決めつけて、それを言葉にして私にわざわざ言ってくる子供だったんですね。
しかし先ほども言ったようにですね、具体的な文脈の中で、アニメの主人公たち、登場人物たちが言語ゲームを展開するビデオを見せたんですね。それはちょうど迷子のビデオだったんですけど、その迷子の主人公を見てですね、別にこちらからその真似をしなさいとか、こちらから事前にですね、タスクを与えたりとか、翻訳とか説明とか一切なかったんですけども、
その子供はですね、その動画を見ながら、ここ、どこ、ここ、どこっていう風に自分で動画と一緒にですね、まるでシャドーイングのようにですね、言い始めたんですね。
そしてそれを何度も何度も自分の中で繰り返しているうちに、ここ、どこ、か、ここ、どこ、か、少しずつですね、その文に変化が見えてきたんですね。最終的にはですね、ここはどこですか、ここはどこですかって自分で言えるようになったんですね。
これまで何度も何度も私が練習を子供たちと一緒にしようとしてもなかなかできなかったことが、その子は言語ゲームの動画を見ることによって自分で試行錯誤をして、多少失敗もしながらですね、ここはどこですかっていう問いを作り上げて、それを私に問いとしてぶつけてきたんですね。
ここは本当にびっくりしたことですね。日本語の解説も文法の翻訳も一切なくですね、その子供が自力で自分の力で聞いて考えて、ここはどこですかっていうことを日本語の問いとして私に言ってきたんですね。
本当にびっくりしました。本当に物事っていうのは、何か本質がわからないと前に進まないとか、そういうふうな側面もあると思うんですけども、必ずしもそれだけが真ではないと。文法の説明とかですね、言葉の本質的な意味とか目的とかですね、そういったことを一切論じないでも話し手の前に進むんだなと。
特に言語を学ぶ初期段階においては、ひょっとして子供たちの中にこの言語を学ぶですね、生まれつきの力と言いますかね、そういったものがこの言語ゲームによって発動して起動して、それで自分で自ら考えて理解して試行錯誤して発言する、そんなことができるんだなっていうふうにね、見えたんですね。
もちろんその生徒についてね、非常に劇的な変化があったわけですけども、他の生徒について全員調べたらね、未だにわからないという子供ももちろんいたとは思うんですけども、そのたった一人の子供の変化であっても、私は本当に感動したんですね。
はい、この言語ゲームという概念、私は最近ですね、哲学について学び始めていてですね、まさかこの哲学の学びがですね、私の日本語教育という具体的な文脈の中でこんなに活かせるものなのかと、全然想像もしていなかったので、とても驚きました。
この感動を忘れたくなかったので、一句作りました。
話せたよ。苦手意識を手放せた。
From fear to fluency, I've embraced what was unknown.
さあ、今日の放送はいかがだったでしょうか。
私たちってね、何かとそれまでのやり方とか考え方とかね、それをガラリと変えたりですね、それを一旦脇に置くってことがですね、なかなか難しかったりしますよね。
でも今回ですね、思い切って、私はこれまでの自分の教育のやり方をですね、一旦脇に置いてですね、この言語ゲームということを始めてみたんですね。
やっぱりそれまでやってきたことをアンラーンして、一旦ゼロにして壁を乗り越えてやってみる勇気というか、そういったものがちょっとでもあるとですね、もう本当に教室の風景だけではなくてですね、なんか人生の風景まで変わってくるんだなってことを実感いたしました。
はい、そんなに大げさなことでもなくてもいいんでね、ぜひ皆さんもですね、日頃やっていることとちょっと違ったことをやってみるっていうのもね、面白い経験になるかもしれませんね。
これまで右手で食べてきた食べ物をちょっと左手で食べてみたり、普段通っている道と違う道を通りながら家に帰ってみるとか、何か違ったことをすることによって何か違った風景が見えてくる、何か新しい考え方が浮かんできたりもね、するかもしれません。
というわけで本日もお聞きくださいましてどうもありがとうございました。 オーストラリアより感謝を込めて野中恒弘でした。では失礼いたします。
11:15

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