私はオーストラリアのブリスベンの小学校で日本語を教えているわけですが、子供たちのやんちゃ、わんぱく、無邪気な行動には日々手を焼いています。そんな子どもたちに腹を立てたり、怒ったりすることもよくありました。しかし、そうすると後は気分が良くなく、後悔したりもしました。そんな中、ある別の考え方を応用したところ、そうした自分の腹立たしさが収まってきたのです。今回はその秘密のとっておきの考え方をシェアしたいと思います。子育てや教育の現場で、子どもたちと関わって、イライラしてらっしゃる方々も多いと思いますので、何かの参考になれば幸いです。
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はい、みなさんどうも、こんにちは、Nonaka Tsunehiroです。
オーストラリアのブリス弁の小学校で日本語教師をしている私が、日々の学びや体験を5-7-5の句にしてお届けする番組です。
どうぞよろしくお願いいたします。
そうですね、私は今オーストラリアの小学校で毎日日本語を教えているんですけども、子どもたちですね、非常に元気がいいですね。
時にやんちゃ、わんぱく、むじゃき、そんな言葉で形容するのが一番いいかなと思ったりもします。
もちろん真面目で大人しい生徒もいるんですけどもね、私の印象ではクラスの半分以上は本当にやんちゃでわんぱくでむじゃきな、そんな子どもたちがいるというふうに感じます。
したがってですね、そういうやんちゃな子どもたちをですね、一旦乗せてしまうと、なかなか収まる、落ち着くのがですね、難しいんですよね。
本当にそれまで私、本当に苦労してきてですね、大きな声で怒鳴ったりですね、怒ったり叱りつけたりしてきたんですよね。
うん、それをですね、何とかしたいなと思いがずっとあったんですね。
そしてある日気がついたんですね、子どもの行動っていうのは言ってみれば自然現象みたいなもんじゃないかと思ったんですね。
例えば天気、雨とか嵐とか雪とかありますけども、そういう自然現象に近いんじゃないかと。
だとしたらですね、そうした天気にいちいちぐちぐち文句を言ったり怒鳴ったりしても意味がないんじゃないかというふうに思うようになったんですね。
特に最近ですと、子どもたちって言ってみれば海の波みたいな感じかなと思ってるんですよね。
最近私もですね、学校が終わって午後暑かったりするとですね、時々海に行ったりするんですけどね。
そうすると波に浸かっているとですね、大きな波が突然来たり小さな波が来たりですね、波と波がぶつかって水しびきが上がったりですね、非常にですね多様な様子を示してくれるんですね。
これってまるで子どもじゃんって思ったんですよね。
本当に子どもたちの様子も海の波のように予測もつかないような様々な動きをするんですよね。
そうした自然現象である波に対して無理やり止めようとしても全く無駄だってことはよくわかると思いますよね。
そして特にはしゃいでいる子どもっていうのは海で言うところの水しぶきなんじゃないかと。
したがってそれに対して論理的にこういう筋道でこういう方向で働きかけたらその水しぶきが収まるとかそんなことはね一切ないわけですよね。
したがって私にできることといったらそういった大波とかですね水しぶきが収まるのを待つっていうことじゃないかと。
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まずは待ってみるってことが大事じゃないかと思ったんですよね。
しかしだからといって待ってるだけで何もしないんじゃなくてですね、その状態からいかに自然に学習活動ができるような環境や条件づくりをするかっていうところに関心がやっぱりあるんですよね。
先ほどの海の例えで言ったら波打ち際ですね。
波打ち際にシャベルでも何でもいいんですけども手でもいいんですけども水路を作ってですね、そこに水が流れ込んでいくような感じですね。
自然に水が流れ込んできてそれを受け止めるみたいなそういった水路を作った方がいいんじゃないかと思ったんですよね。
はいしかしせっかくその入ってきた水もですねやっぱりまあ波ですからやがては引いていくんですよね。
でもまた戻ってくるんですよね。
ですからここでやっぱりそのことを考えると人工的にその時間ずっと子供たちが集中しているなんてことはありえないので、
その子供たちも波として捉えるんだったらその引いたり戻ってきたり引いたり戻ってきたりね、
その両方のコンビネーションで学びの活動を考えていく必要があるんじゃないかと思ったんですね。
ここは全くロンリーの問題でもないし、人間の意志の力でどういう風になるものでもないですよね。
もちろんその水路の大きさとか形とかそういったものを作るときは一定ね、人間の意志とかですね、
ロンリーとか理論とかね、そういうのを使わなければいけませんけども、それだけだと本当に無理があると。
特に小さな子供たちに対してはですね、そうしたですね、自然現象として意識することが重要じゃないかと思ったんですよね。
はい、ありがとうございます。
そこで今回の気づきも私なりに575-9にしてみました。
さあ、今回もいかがだったでしょうか。
実は今回の話の背景にはですね、ちょっと哲学的に言ったら自由意志と決定論の話があったんですね。
お気づきになったでしょうか。
簡単に言っちゃうとですね、物事は人間の意志によって決まるのか、
あるいは運命とかね、環境とか遺伝とか脳とか、そういったものによって決まってしまうのか、
そういった議論がね、哲学の世界にあったりするんですけども、
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私個人的にはですね、実は両方の側面があるんじゃないかなと思っています。
でも私の傾向から言ってですね、特に教育の現場において、自由意志、つまり自分の意志が何とかなれば事態は変わる。
そして子供たちも意識さえ変えれば何とかなるんだ。
そんな風なね、思い込みが長い間ずっとあったってことに気がついたんですね。
しかし、皆さんもですね、考えてみればですね、お分かりのようにですね、
人間の意志だけで物事は動かせないし、そもそも人間の意志っていうのは、
その時の体の状況とか、その人の過去の体験とかですね、
その人の性格とか、あるいは周りの状況とか、人間関係とか、その日の出来事とかですね、
いろんな要因が絡んでですね、なかなか純粋に自由意志だけを取り出して、
自由意志だけで何かができるってことは本当に難しいですよね。
ですから先ほども例えたように、子供たちもですね、
自由意志で自分をコントロールできる存在だというふうに捉えるんじゃなくてですね、
一定ですね、自然現象のように人間の意志のコントロールの及ばない存在と捉えることによって、
かなりね、楽になるんじゃないか。
私自身もですね、それまではですね、子供たちも自分も意志をしっかり持っていれば、
自体は良くなるのにそれをしないのにすごくイライラしてたんですね。
しかし人間はですね、いろんな要因によって決定されている側面も結構あるんだと思ってですね、
自分の自由意志の感度を下げたところ、結構楽になった。
言ってみれば、自由意志の感度を下げたことによって自由になったっていうね、
そういった気づきがあったんですね。
そこで今回のお話をしたわけです。
ちょっとね、込み入った話になりましたけれども、
ちょっとでもね、なんか感じていただければ幸いです。
はい、それではまた次回お会いいたしますことを楽しみにしております。
オーストラリアより感謝を込めて野中恒弘でした。ありがとうございました。
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