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2022-10-17 31:03

Season -No.110 朝活「美しさを見てとるために訓練が必要であるとはどういうことか」をダラダラ読む回

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はい.第110回は


美しさを見てとるために訓練が必要であるとはどういうことか
https://note.com/obakeweb/n/n9db2f9f7315f


を読みました💁

以前から気になっていた記事でもあり満を持して読みましたが,正直難しかったのと前提知識ない私なので半分くらいしかちゃんと理解できていないと思います😂それでも知的好奇心がくすぐられるお話で,また改めて読んでみたいと思います!


ではでは(=゚ω゚)ノ


  • 美的性質[aesthetic properties]
  • 美的知覚[aesthetic perception]
  • 美的判断[aesthetic judgement]
  • フランク・シブリー[Frank Sibley]
  • シブリー「美的概念」
  • Dorsch (2013)
  • Walton (1970)
  • キュビスム
  • 美術史的事実
  • 認知的浸透[cognitive permeation](認知的侵入)
  • Stokes (2014)
  • 規範的テーゼ
  • 正しいカテゴリー
  • アヴィニョンの娘たち
  • ランサム
  • Laetz (2010)
  • 機械学習
  • ニューラルネットワーク
  • Goldstone (1998)
  • 知覚学習[perceptual learning]
  • 注意の重み付け[attentional weighting]
  • 刺激の刷り込み[stimulus imprinting]
  • 地理的刷り込み[topographical imprinting]
  • プロトタイプ
  • Reber et al. (2004)
  • ピカソ
  • 青の時代
  • バラ色の時代
  • 訓練パズル


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00:03
はい、10月13日木曜日ですね。 時刻は朝9時を回りました。
土曜日、じゃあ日曜日の登壇スライド。 1本が終わったんですけど、もう1本。
1時間遠くのスライドを今から作るというところですごく焦ってます。 はい、耳のくわ腹です。
おはようございます。今日も朝活を始めていきたいなと思います。 えーとですね、今日も技術的な記事なんか読みたいと思っていたんですけど、
それよりもどうしても読みたくなった、ノトゥードゥに残ってたやつですね。マストリードの カテゴリーをつけてたやつがあるんですけど、
まあその記事をちょっと読んでいこうと思います。 はい、美しさを見てとるために訓練が必要であるとはどういうことかというとこですね。
僕がですね、美術的な観点っていうのにすごく興味があって、別に専門的に美大行ったわけでもないですし、
勉強したわけでもないんですけど、なんかまあ自分の人生において何をやりたいかというか、
いわゆるノーブルゴールですよね。何度か述べてきたノーブルゴールに一番近しいものとして、
僕、人が何が美しいと思うかとか、その美しいと思う根拠がいないとこなんだろうな、みたいなところを 探し求めるのが結構好きですね。
いろんな人に美しいと思うものを提供したいというか、僕が何かそういうものを生み出して 発信をしていきたいなっていうのは正直思いがあるわけですね。
なので今日はその美しさというところに言及されていたこの記事を読みたくなったという感じです。
まだ技術じゃないんですけど申し訳ないです。さっそく入っていきたいと思います。
行きましょう。美的性質や美的知覚について、最近出版されたマドレーヌランサムの論文がとても良かったのでまとめておくと。
はい、なるほど、論文なんですね。論文僕読んでたことないので、 いつか論文読まなきゃなと思ってるんですけど、
一生言い続ける気がするので、どうせいつかなんて来ない気がするから、今すぐやれって感じですね。
反省はさておき、行きましょう。1、前提から行きましょう。美的知覚というところからですね。
美的性質とは美しい、優美だ、ケバケバしい、退屈だ、バランスが取れているなどどんどん我々が芸術作品や自然の風景について語る時によく言及する性質のことであります。
こういう性質を見て取ったり聞いて取ることを美的知覚と呼び、このモネの絵はバランスが取れていて美しいみたいなことを言ったり書いたりすることを美的判断と呼びますと。
性質を見て取ったり聞いたりすることは美的の知覚ですね。 まず知ることです。で、このバランスが取れているみたいな言ったり書いたりすることは判断、美的判断だと。
第一に対象が美的性質を持つのは一連の美的性質を持つおかげである。 例えばこの絵が優美であるのは真ん中あたりに細い曲線が描かれているおかげであるみたいなことですねと。
後者のそれ自体としては美的性質ではない性質たちがいい感じにまとまることで絵を優美にしているというわけだと。
あ、すみません僕が間違えましたね。美的性質を持つのは一連の非美的性質を持つおかげであるということですね。
がまとまって一つの美的性質を作り出すというところですね。 あーすみません理解しました。
03:00
第2に、しかし美的性質っていうのは推論されるのでなく知覚されるものであると。
真ん中あたりに細い曲線が描かれているという情報を知らされて、なるほどじゃあその絵はきっと優美なのだなと推論することはできないと。
まあ確かにそれはそうですよね。 で、真ん中あたりに細い曲線が描かれているけど優美ではない可能性がいくらでもあるからだ。
だからある美的性質が実際に帰属できるかどうかっていうのは、ディテールも含めて実際に見てみないことにはどうにもわからない。
美的性質はどの、とどのつまり見て取られたり聞いて取られる、知覚されるものであって、頭で考えてどうこう推論できるようなものではないとされるということですね。
はい。要は美しさっていうのを推測することはできないということですね。
逆、見て初めてそれが美しいっていう風になったりとかどうどうという風な理解になっていくので、
美的性質っていうのは推論されるものなくなくまで知覚されるものだということですね。はい、わかりました。
で、美的性質と知覚的であるっていうその本性に関しては広く受け入れられた前提となっている。
うーん、なるほど。この2つの前提というのはもうすでに知り渡っているということなんですね。
しかし、優美さを見て取るといった事態が正確に言ってどういう事態なのかは明らかじゃないと。
赤いことを見て取ると、四角いことを見て取るといった定時の性質が知覚されていることは明らかになりますと。
それは美的性質っていうのは推論ではなく知覚なんだよってさっきの大前提があるには関わらず明らかじゃないってところなんですね。
だから一筋縄じゃいかないと。はー、なるほどでした。
で、細かい前提についてはしぶりーの美的観点っていう本があるのでそれを読んでもらった方が早いと。
また美的知覚の話は原画の第6章が詳しいということです。
はー、ちょっとわからない書籍ですけどもどんどんリンクが貼られているのでまあまあ興味ある人は後ほど見てみてください。
じゃあ続いて問題の書材、美的知覚には訓練が必要かというところですね。
はい。美的性質や美的知覚についてはいろいろと語りがいがありますが、ランサムはちょっと変わったパズルからこのトピックに入っていくというところですね。
はい。そのランサムっていうのはこの筆者が今日この記事に書いている大元になった論文ですね。
の筆者のことをランサムさんですけど。
で、それのまとめが今日のこの記事ですね。
はい。で、また知らない方ですね。どんどん知らない人出てくるな。
同種っていう方がいて美的知覚について次のような懸念を示していると。
ワルトンも論じていたように美的知覚には訓練が必要な場合がある。
大抵の人は初めてキュビズムの絵を前にしたら戸惑うだけでどう見ればいいのかさっぱりわからないだろうと。
これは確かにそうですね。キュビズムはちょっと難しいですよね。
見方っていうかどういう入り方すればいいのかみたいなのを軽く手ほどきしないとふんってなりそうですもんね。
訓練の必要性とあくまで知覚されるものだっていう前説の前提は確かにバッティングしますね。
で、上のキュビズムの例にもある通り、訓練といえばその一部は座学であり、典型的には美術的、美術史的事実を知識として仕入れることを指しますと。
で、近々の文脈においてピカソとブラックがこういう意図でキュビズムを始めたみたいな情報を聞かされたり読んだりして知識を形成しますというわけですね。
06:05
しかしそういった知識を同意して、なるほど、だからこの作品は美学なのかとか有美なのかと判断することはもはや知覚ではなくて推論しているように思われる。
おー、これ美的判断には当てはまらないですかね。推論なんだ。
美的知覚が知覚であることとその時より訓練を要することは折り合いがつかないように思われるのだっていうのがこの論文で書かれたことなんですね。
で、パズルはさらに続きます。
これはまた直感的に最もだと思われる事実だけど、訓練のいらない美的知覚もあります。
いやこれそうっすよね。
あるファッションを見てオシャレだと感じたり、あるデカい山を見て立派だと感じるのに、そのファッションやその山について何らかの背景知識を入れる必要はない。
傾向的には技術作品を見る場面では背景知識が求められることが多く、日常的なものや自然物を見る場面では背景知識が求められることは少ない。
美的知覚のための訓練っていうのは必要な場合と不要な場合があるんだ。
なぜここに非対称性があるのかっていうのがパズルの第二段階にあたる。
ということで、これら訓練のパズルに何らかの説明を与えることがランサムの課題となる。
ランサムはまず認知的浸透に訴える既存の説明がこのパズルを十分に解消していないというふうに論じているそうですね。
これは確かに経験から僕も感じるところではありますけど、
対象物を見て美しいと感じたりどうだっていうふうに感じることって、
これは多分自分の今までの経験値だったり見て聞きたいだったり好みだったりすると思いますけど、
というものから直感でパッと浮かんでくるものと思うので、
でもこれは確かに美的知覚ではありますよねっていうのはあるので、
これでも無視はできないと思います。
難しいところですねこれは。
まずその認知的浸透というところをちょっと見てみましょう。
で、続いて認知的浸透説ですね。
認知的浸透、認知的侵入と言ったりもしますね。
とは次のような考え方だそうです。
我々の知覚経験が持つ内容というのは、
信念や欲求といった非知覚的認知的状態によって変化をします。
神砕きは何を知っていたり信じているか、どう見えたり聞こえたりするかを左右するという仮説だそうですね。
で、美術史に関する知識が認知的浸透によって美的知覚を左右するという説明はよく見られる。
とりわけウォルトンのアイディアを認知的浸透から整理し直したストロークが有名だと。
また別のノート記事が貼られてますね。
K.ウォルトン 芸術のカテゴリーというノート記事が貼られてます。
ウォルトンのカテゴリー論をざっと要約すると次のような考え方だと。
3つありますね。
1つ目は我々は作品を見るときに何らかのカテゴリーを踏まえて、何らかのもとで、何らかにおいてを作品を見ることがあります。
何らかのカテゴリーを踏まえて、何らかのカテゴリーのもとで、何らかのカテゴリーにおいて作品を見ることがあります。
2つ目は踏まえるカテゴリー次第で非微的性質というのが標準的、可変的、反標準的といった位置づけのどれを持つかが左右されますと。
09:01
大前提として僕らは何か作品を見るときにカテゴリースペゴライズをして見ているということですね。
それによって標準的だったり可変的だったり反標準的といった位置づけのどれかを持つかが左右されるというふうに変化をするそうですね。
ストークスはこのことを①この絵はモネによる印象派の絵画だといったカテゴリーに関する知識を得て②知識が微的知覚をガイドするというようなモデルで説明します。
すなわち認知的浸透であります。知識によってどこにどう注目すればいいのかがわかり、どれがモネによる印象派の絵画のかを見て取れるようになり、その微的性質も見て取れるようになるというわけでありますね。
ところで適当なカテゴリーを踏まえて適当な微的性質を見て取ってもやっぱりダメですと、ウォルトンのカテゴリー論は次のように続きます。
作品が実際に持つ微的性質というのは踏まえるべき正しいカテゴリーを踏まえて知覚される微的性質であります。
やっぱり正しいカテゴリーというのがそれぞれのアートにはあるんですね。これは作品が実際に持つ微的性質を規定する規範的定義となっています。
踏まえるべき正しいカテゴリーに関する考慮事項としては芸術家の意図や社会的文脈などが挙げられますと、これを正しさとこの論文の方はおっしゃられているんですね。
まあまあ難しいところですけどね。楽しみ方は人それぞれだと思いますし判断も人それぞれだと思いますけれど、共通的な判断の基準であったりとかお話っていうのはやっぱりちゃんと正しいカテゴリーというのがある前提だと思いますし、
まあその作品の作者の方の意図っていうのをしっかり読み取っていくことがアートの楽しみ方の一つのお話ではありますからね。
まあとはいえ、完全にそこでしなきゃいけないというわけではないと思いますけど、この作品がなぜこんだけ有名だったりとか、なぜこんだけ話題になったり美しいと言われたりするのかを知らないまま見ないってのをちょっとかわいそうな気はしますけど、まあまあ人それぞれです。
すいません戻りますね。で、実際ここで説明が2段階になっていることがポイントですよと。
第一にちゃんとした知識を持っていれば作品をちゃんと正しいカテゴリーに分類できるようになる。
あらかじめキビズムや印象派ってのはどういうものか教えてもらえれば、アビニョンの娘たちを印象派ではなくキビズムにちゃんと分類できる。
アビニョンの娘たちはこれは確かあれですよね。ピカソの絵ですよね。すごい変なやつ。確か5人の絵じゃなかったっけ。だった気がしますけど。
第二にちゃんとした知識を持っていれば、そうやって分類した上でちゃんと作品が実際に持っている美的性質を見て取れると。
キビズムとはそういうものだと知っているので、アビニョンの娘たちを前にしても下品でおぞましいと感じることはない。
第一にカテゴリー近くのレベルがあり、第二に美的性質近くのレベルがあるのだというところです。
いやでもこれでも本当にアビニョンの娘たちに関して言うと、確かに知識を得てから見るとあの絵の素晴らしさっていうのは全然もう見て、
見方変わるんですよね本当に。ピカソってどんだけすごかったんかっていうのがよくわかりますね。
その代わりあの時代においていきなりあの絵を描いたからそれは批判というか、大バッシングくらってましたけど、でもさ仕方ないと思います。
12:02
ちなみに余談ですけどピカソってだいたい80歳ぐらいで死んだんですけど、奥さん何回変わったのかな。それぐらいエネルギーに溢れた人で。
かつ絵の才能が実はかなりあったんですよ、そもそも。ちなみに普通に写実的に彼が絵を描いた時ってめちゃくちゃ上手いんですよ。
小学11歳ぐらいの時に彼が描いた絵っていうのが公開されてるんですけど、本当に上手すぎてですね。彼のお父さんも画家なんですけど、彼のピカソの絵を見て、息子さんの絵を見て、自分は画家を辞めるって即行判断したぐらいに上手かったんですよ。
なおかつ彼はその生涯においてそのエネルギーをずっと発揮し続けて、生涯で15万点の作品を作り続けたらしいですね。15万点わけわからんですよ。
1日に何か数作品ずつずっと毎日毎日作り続けてやっと15万に到達する数字なので、もう異常。本当に天才が努力とか継続を続けるとああなるのかっていう一つの例で、個人的には刺激をもらいましたけどね。
はい、余談でした。と言うことで、とりあえず認知的知覚について2段階になっているということがポイントですと。で、4つ目。認知的浸透説への懸念を次は述べられていきますね。
ランサムはこの認知的浸透のモデルでは微的知覚と訓練のパズルを十分に解消できないというふうに主張されています。
第一の反論として、認知的浸透がなされるには何にせよ浸透していく知識を持っていることが必要条件となるが、正しいカテゴリーにおいて知覚する上で関連する美術的知識を持っていることは必要ではない。
はあ、正しいカテゴリーにおいて知覚する上で関連する美術的知識を持っていることは必要ではない。このことはウォルトンによっても明言されていますと。
そもそもウォルトンは外的な事実によることなく、知覚だけで判別可能なカテゴリーへとあらかじめ議論を限定しています。この辺は話は細かくなりすぎるので、
ラッツっていうのを読んでくださいと。彼の別の論文ですかね、はい。ケンダル・ウォルトン芸術のカテゴリーの批評的注釈っていうところの論文がありますね。
知識なしでもちゃんと分類できれば場合があるっていうのは本当かどうかってところですね、この話は。その可能性はゼロではないと思います。
ランサムは経験的な証拠を挙げています。機械学習のニュートラルネットワークっていうのはデータとラベルを知的、
知覚的、特徴的だけに基づいて、芸術なジャンルやスタイルを学習できるということですね。
AIは知識を持っているわけではないが、学習用のサンプルをたくさん与えてやれば、知覚的な手がかりだけで作品を分別する能力を示すのだと。
また、ラット、鳥、猿、魚などの動物もブルースとクラシックを区別できるみたいな研究結果があります。
これらのことが人間に関してはまるとしたら、我々カテゴリーの知覚に関して知識の所有を必要条件とするべきではないというふうにおっしゃっています。
もちろんこの反論は、認知的浸透の擁護者があらゆる芸術分類は知識のおかげでできていると主張していない限り、
まとえた反論にはならない。実際には芸術分類が知識のおかげでできるようになる場合もあるという、
15:03
本当な主張だろうから、ランサムの批判は罠人形じゃたたきになってしまっていると。
批判的なんですね。この説の最後まで読むと、ランサムは背景知識のいらない微的知覚が認知的浸透説にとって
拉致害であることは気づいているようだ。だとしても、こういう現象に対して説明は必要ということで、実説の方が包括的であるということはアピールされているということですね。
はぁはぁはぁ、なるほどでした。でもこれは結構、うーん、その通りだなという感じはしますね。
はい、あのーなんだっけ、センサー知識が始まるという書籍を僕すごくご利用しているんですけど、あの本と同じようなことがここに述べられていて、
ウェブデザインを確か、筆者の奥さんかな、やられてたと思いますけど、奥さんだったか忘れましたけど、とある女性がそのウェブデザインをやったことないんですけど、
ひたすらあのウェブサイトの何十個何百個ずーっと見続けたらしいですね。
すると、なんとなく自分の中で良し悪しとか、美しい美しくないものとかっていうのが、自分の脳内にデータベースが出来上がってくるらしいですね。
で、新しいものを見たときにこれは感覚的に良くないねっていうことが述べられるようになった。
で、それはプロが言ったことと、プロが判断したものと大体同じだったってらしいんですよね。
っていうように、知識量、絶対的な知識量から、まあ見たものから、どんどん自分の中でその判断値が出来上がるっていうのは正直あるそうですね。
ということを、実践の例を述べられていて、そういう経験的な知覚っていうのはやっぱり出来るんだよなっていうか、
そういう正しいカテゴライズが出来るよねっていうのは、本当に話としてはありますね。
で、この述べられている機械学習、ニュートラルネットワークとかの話も結構同じだなと僕は思ってます。
逆に言うと人間も同じことが出来るってのは当然なんですけど、
ただAIよりも人間の脳の方がそれが優れているっていうのはすごい話ではありますねと思います。
はい、戻ります。
で、第2の反論として、正しいカテゴリーを知覚できるようになった先でなぜは正しい微的知識を知覚できるようになるのかっていうのが、
認知的浸透説っていうのはほとんど説明してくれない人ですね。
はい、正しいカテゴリーさえ踏まえられれば、微的性質というのは微的性質およびその位置づけとは不随、まあスーパービーンですね。
するので、おのずと知覚されるっていうのが大型の説明ですけど、まあランサムによればこれは不十分になるとおっしゃってますと。
というのも、ランサムによればカテゴリーとして踏まえるべきものを踏まえているのに微的知覚を誤るケースが存在するからだ。
へー、なるほど。カテゴリーとかちゃんと知識が持っているにも関わらず微的知覚を誤るっていうケースもあるんですね。
で、ある絵画をちゃんとSFとして見ていた2人が、一方がSFとして素晴らしいと述べた方がSFとしてつまらんと述べることは何らめざしかないと。
なぜこのような意見対立が起こるのかは、正しいカテゴリーを踏まえるより先のことを説明してくれない認知的浸透説ではわからないというふうにおっしゃってます。
正しい微的性質を知覚できるようになるのかっていう、難しいね。それが本当に正しいのかっていうのはまた別の議論ができそうな気はしますけど。
まあでもそれよくある話ですよね。同じ映画を見て素晴らしいとつまらんと起きるのは全然よくある話で。
はい、で最後になぜこの訓練、この場合は知識を仕入れることが必要だったり不要だったりするのかっていうその非対照性の問題についても
18:00
認知的浸透説は何も教えてくれないよっていうところですね。
で5つ目、知覚学習説というのが次に述べられそうですね。
ランサムによる大案というのはウォルトンが述べるということを最大限生かしつつ、ゴールドストーンの知覚学習に訴えるものだというふうにおっしゃってます。
知覚学習とは次のような考え方だ。ある刺激に繰り返しさらされることで知覚システムは構造的機能的に変化し、その結果として知覚経験も変化します。
認知的浸透が手元にある知識によって目下の知覚が歪むというモデルだったのに対して、知覚学習というのは刺激の反復と時間の経過によって知覚システム自体が変容していくというモデルになっています。
これ僕も確かに感覚としては近いですね。こっちな気がします。知覚学習説ですね。
訓練によって作品のカテゴリーを知覚できるようになっていくのは注意の重みづけや刺激の擦り込みや地理的擦り込みというものによるものです。
1つ目はあるカテゴリーのメンバーである上で、どの特徴や特徴パラメータに注目してどれは無視してよいのかというのがだんだんわかってくると。
2つ目はそもそもどれが関与的な特徴ないし特徴パラメータなのかというのを検出できるようになってくること。
3つ目は特徴だけじゃなくて特徴間の、とりわけ空間的関係というのがわかってくることが始まります。
これらを経て知覚者は広次性質、この場合は近々のカテゴリーに属することというのを追跡するためにデザインされた特徴検出機能をもみづけされたネットワークを獲得することができます。
要はプロトタイプのことだと。これにどれだけ沿っているかを基準として知覚というのは物事を分類するよと言ってますね。
認知的浸透説と異なるのは次のような、このようなプロトタイプを経て対象を分類するプロセスにとって美術的知識は必要ないというのがその述べられているんですね。
座学は最終的に踏まえるべきポイントを教えてくれることでプロトタイプの形成を早めてくれる役割はありますけど、原理上なくても差し支えないものですと。
重要なのは繰り返し事例に触れることで重みづけされた注意を獲得することであって、まあ知識はいいわけでもないしなきゃダメなわけでもない。
まあまあそうね。知識を生かすかどうかはまあ自分たち次第ですけど、美術的な観点で言っても美に関しても同じことが言えるということですね。
こちらの論文は出てこない主張ですけど、ランサムによればこのようにしてプロトタイプが形成されるのは端的にキュビズム・絵画のような日常的カテゴリーであって、
ウォルトンが変に限定した知覚的に区別可能なカテゴリー、キュビズム風とか絵画風とかではないというふうにおっしゃってます。
これは結構嬉しいポイントだと思うというのは、まあこれはこの翻訳者の方が述べられたことですね。
端的に日常的なカテゴリーのことを言っているだけで変に限定したものじゃないよって言ってて、これは確かにそうかもしれないですね。
風とか言われたらちょっと微妙なところですから。
さて、知覚学習によってカテゴリーを知覚できるようになることは分かったが、ここから美的性質の知覚にはどう橋渡しをするのか、確かに。
ランサムはリバートさんっていう方による仮説を取り上げています。
いわく知覚処理が流暢になされる場合には性の感情が生じ、そうでない場合には負の感情が生じ、これは美しさや醜さといった美的性質の感覚には他ならないと。
21:11
その知覚処理っていうのが流暢になされるかどうかで感情の性負が変わるっていうふうにおっしゃってるんですね。
これが美しさとか醜さといった美的性質の感覚にも他ならないと。
あーなるほどね、ちょっとこれ考えたことなかったな。
例えば左右の対照性っていうのは美しいものの典型としてしばしば挙げられます。
これに関連して人は左右対称のものをより好むというような経験的研究があります。
ランサムによれば対照的な刺激には情緒差が含まれているので処理が容易なのだと。
処理が流暢なものほど性の感情を生じさせ、要は美しいのだというふうに解釈されます。
しかし、しっかり擦り込みを経ている場合、よりプロトタイプに近い標準的な特徴の多い顔、家具、絵画、カラーパッチ音楽などのようなものがより好まれるという経験的研究もあります。
変な犬より犬っぽい犬の方が好意的な反応を引き起こすんだと。
はぁ。
このように少なくとも美しい・醜いという美的性質に関しては、視覚処理の流暢さ、どれだけ容易に処理できるかからその発生を説明できるようだと。
その他の美的性質への拡張についてもいくつか簡単にスケッチしているが、ここでは割愛します。
ランサムを認めるように、非視覚的・認知的感覚が視覚処理に絡むケースがあることまでは否定しなくてよいだそうだと。
ところで、ちゃんと正しいカテゴリーを踏まえられとしても、ちゃんと美的視覚ができるとは限らないという問題がありましたと。
じゃあ行きましょう。これは視覚学習において利用してきたサンプルが偏っていたということから説明できる。
青の時代の作品ばかり見てピカソの作品のプロトタイプを形成してきた人は、薔薇色の時代の作品を見てピカソ作品の割にはでだなとか誤って視覚を判断してしまうかもしれないということですね。
いやー確かにそうですね。ピカソのその青の時代と、その別の時代ですね、薔薇色の時代の作品って全然違うんですよね。
でも青の作品もめちゃめちゃ面白いし、すごく上手で、見てていろんな気づきがあって面白いんですけどね。
まあでもそこ、前提が変わるとそれは確かに後から出てくる判断も変わりますよねと思います。
この人はピカソ作品を、ピカソ作品だということを正しく分類できても、そもそもピカソ作品に関して偏っているので、美的性質に関しても錯覚をしてしまうんですよということですね。
ランサーは最後に、あるカテゴリーに関して適切な専門性を獲得していることを、ただ分類できるだけではなく、所有しているプロトタイプが募集団の平均にちゃんと禁止しているという要件を出している。
例えば以下はそうなっていない例だと。
北米の美人コンテストの審査員っていうのは、誰が女性であるのか適切に分類できても、地元に白人ばかりいることから、女性的な美しさっていうのが実質、白人美女性的な美しさに偏っている傾向はありません、可能性はありませんと。
審査員たちのプロトタイプは、平均的な女性に禁止していないため、この人は女性として美しいと自覚するとしてもそれは錯覚かもしれないなと。
これは女性だけで男性も同じだと思いますけど、むずいですよね。
女性の美しさっていったら、地球上の全女性をピックアップしなきゃいけないので、それはそう簡単には多分いかないと思いますので、
24:05
例えば白人女性だけで判断をすると、そうなる。白人女性ばっかりになる可能性は大いにあると思います。
続いて、訓練のパズルを解くところですね。
最初に提示された訓練パズルはこうだった。
1つとして、美的自覚が自覚であることと、時折それに訓練が必要であることはどうすれば両立させられるのかというところでした。
2つ目に、なぜ訓練が必要だったり不要だったりすることがあるのかっていうのがその訓練パズルでしたね。
①については、美的自覚が自覚学習のおかげでできているという事実からたくさんの事例に触れたり、情報仕入れるのも自覚学習の一環であるという説明ができる。
ともかくそれは自覚なので、認知的浸透モデルにつきまとう、もうそれは実は推論ではという懸念からは逃れられるというふうに言っています。
②については、いくつかの答えを与えられる、第一に訓練がいらないっぽいケースは実はもう訓練済みのケースかもしれない。
裏で実は訓練もされていた可能性もある。
芸術作品とは異なり、犬や山とは触れる機会が多いので、とっくにプロトタイプを形成しているだけかもしれない。
さっきの犬はかわいいとか、この山は素晴らしいとか、荘厳だみたいな感覚ですね。
第2に、実際に訓練せずとも流暢に処理されるような特徴がある。確かにあるかもしれない。
現実としては左右対称なので美しいみたいなケースがこれに該当します。
左右対称性はそもそも知覚処理しやすい特徴なので、その美しさの知覚というのは訓練によって何らかプロトタイプを形成することを必要としないんだと。
第3に、訓練が必要だったり不要だったりするとは言っているが、上で見たように美的知覚というのが誤っている可能性はいくらでもあります。
そもそもカテゴリーを誤認していたり、そうでなくてもカテゴリーのプロトタイプが偏っているかもしれない。
なのでこっちのケースは訓練が要る、あっちは要らないみたいな直感をそのまま受け入れとるわけにもいかないと。
結局難しいし、ケースバイケースなので一概には言い切れないということですね。
そもそもその人が何を見てきたかってやっぱりそこに尽きる感はありますけどね、今日の理論でいくと。
さらに言うと、僕は左右非対称性のものとかがめちゃめちゃ好きで、服好きなんですけど、
僕の好きな服ってパッチワークだったり左右で色が違ったり形が違ったりする服めちゃくちゃ好きなんですよね。
だから僕は実はそんなに対称的なものが美しいって感じることは少ないかもしれないです。
ただ、人の顔に関して美しいものって対称の顔の方が美しいっていう風に感じるらしいですね。
はい、余談でした。
ではコメントいきます。
結構コマが書いてしまったので長くなってしまったんですけど、
要は美的知覚に訓練が役立つという事実を知覚学習と知覚処理の流暢さという2つのアイディアから説明した論文ですよっていうのが簡潔にまとめたことですね。
ランサムは2020年のJAACという芸術のカテゴリー特集にも書いており、その整理はウォルトン本人にも概ね公認されている。
つまりウォルトン解釈としては知覚学習説の方がより正確であると言っています。
美的性質が知覚処理にとって流暢かどうか次第出てくるというのは説明として狭いのではと思われなくはないけど、
そういう場合もあるというのはまあまあ説得的でもあります。
非対称性の問題に対してもこちらの方がうまく対処できていると思います。
27:02
しかし、昨日の松永さんのエントリーじゃないんですけど、認知的浸透派も知覚学習派もそういったケースがあるという以上の主張にはなっていないようには読めると。
知識を仕入れたことがカテゴリーや美的性質の知覚を左右するケースと晒され続けてきた、
学習されたプロトタイプによってそれらが左右されるケースというのはどちらも等しくありえそうであり、
どちらも他方を完全に還元できないように思われると。
実は両立可能であって、実質的には対立しない何かと思わされると。
きっとレディメイドや岩作の美的性質というのがあるとして、
それらについては知覚学習ではうまく説明できず、認知的浸透モデルに訴える必要があるのだろうと。
ウォルトンの知覚的に区別可能なカテゴリーというのは制限は外せるのか外すべきなのかとは、
私の白論第2章の主な問いになりそうなので、最近はラーズ・マーリンを読み直していると。
割と考えはまとまってきたので、どこかで40分くらいしゃべりたいなと言ってます。
ところでウォルトンのカテゴリー論もそうですけど、美的性質は推論されるのではなく知覚されるものであるというシブリーの前提はあくまでも、
維持したまま文脈の役割を論じていくのは縛りプレイ味があって面白いと。
はー、なるほど。
最初からそういう縛りは設けず芸術に沿っては文脈が大事なんですよっていう話をするのはあまりにも容易なので。
あ、なるほどですね。
あえて縛って、その中で芸術に関して語る方が面白いというのがある。
ただ、結果的にでも芸術って結局は文脈が大事なんですよねっていうのはそれを僕も思うので、
難しいですね。
ただ、でも推論されるんじゃなくて知覚されるものだっていう意見は確かに納得もするので、
その中での話をするのはすごく面白いなと思いました。
はい、というところで以上になります。
ちょっと長くなって申し訳ないですね。
以上、美しさを見て取るためには訓練が必要であるとはどういうことかっていうのを、
美術史的とか、その知覚的とかっていうところの感覚についていろんな説を持ってきて述べられていただきましたけど、
すごく面白かったですね。
面白かったというか、興味深かったですね。
こんな風に美について判断したことがあまりなかったので、
これを読んだのはすごく面白かったなと思います。
あと、僕、なぜか知らないけど美学辞典っていう本を買ってですね、これ結構重いんですけど、
それを全然読んでないんですけど、読みたくなりましたね、これ。
やっぱり美に関して、ノベルにはその辺を知った方がいいんだろうなと思ったので、
改めて読んでみようと思いました。
で、やっぱりなんでしょうね。
途中で述べましたけど、やっぱりその美術っていうのを見る、
アートを見るときの背景であったりとか、文脈だったりっていうのをやはり知っておいてから見るのはやっぱり僕はお勧めしますね。
そもそもそういう美術、別に見に行かないよっていう方もいらっしゃると思いますけど、
たまには行くのが全然いいと思いますね。
自分が普段持っていない感覚とか、見ていないものを見に行くっていうのは、
第6巻じゃないですけど、自分が持っていない感覚を呼び覚ますためにもアートを見に行くのはすごくいいと思います。
ただ、でも見に行くときに、そういう前提の正しいカテゴリーですね、この記事で述べられている。
を持って見に行くのがやっぱり楽しむっていう意味ではいいかもしれないですけど、
何も持たないまま自分がそのアートを見たときにどういうことを感じるとか、
30:01
どんなものが自分から湧き出てくるのかっていうのを知覚するのもすごく面白い見方ではあるので、
両方の見方でアートを見るのが僕は楽しいんじゃないかなと思いました。
でもそれが正しい美しさかどうかはその分からないので、
自分の中の美しさっていうのを探求すればいいんじゃないかなとも思いつつですね。
はい、ただこういうちゃんとした論を読むっていうのはすごく、
なんでしょうね、僕の中では刺激と発見があって面白かったなという感じでした。
はい、では長くなりましたけど、今日の朝活はこちらで以上にしたいなと思います。
後ほどこの記事はまたTwitterでシェアしますので、興味ある方は見てみてください。
というところで以上にしたいと思います。
今日も参加していただいた多くの方、大変にありがとうございました。
一緒に学べて楽しかったです。
じゃあまた明日もなんかゆるーく読んでいきたいと思いますけど、
とりあえず明日また久しぶりにITビデオさんのニュースを片っ端から読もうかなと思ったりしました。
やっぱ社会のことを知るとか、今技術がどんな風に使われたりするかっていうのを知るのはすごく楽しいので、
ニュースをちょっと見ようかなと思います。
では今日の朝活はこちらで以上にしたいと思います。
今日も頑張っていきましょう。お疲れ様です。
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