独創性の再考
前回からの続きをどうぞ。
なんか、僕もルキさんも制作のスタンスというか、人と違う、なんていうか、ぶっちぎった独創性みたいなところは別段目指してないじゃないですか。
そうですね。できれば。
お前ら上人にはわからないよ。私の世界観みたいなテンションでは全くないと思ってるんですけど。
それって、芸術を特別視してきた社会というか、そういう異端なものとして扱う社会の中では、独創性に対する憧れというか同型というか、そういう目線って存在すると思うんですけど。
なんか、僕なんかはちょっと前に自分のノートにも書いたんですけど、色々勉強して考えた結果、僕はそんなに独創性みたいなものにそんなに惹かれないなと。アートをやる上で。
オリジナリティみたいなものに対する欲求っていうのがすごく薄くて、どちらかというと人と違う部分よりも人と同じ部分を見つけて作ったりすることが自分に合ってると思ったんですよね。
でも、そこに考えが至る前は、やっぱり20代の頃とかは独創性がないとやっぱりアートってダメなのかなとか思って、すごい広がろうとしてみたり、なんかちょっと奇抜な格好してみたりみたいな、なんかあるじゃないですか。
でも独創性だけがアートじゃなくて、僕がやっぱり心を本当に動かされた作品たちは、なんか全然色がないというか無色なものが多いんですよね。
ただ、そこにあるものをもう一度目を向けるきっかけになるような表現とか、なんかその当たり前に気がつく目線が向くようになるアートとか、そういったものの方に僕は強く心を揺さぶられたから、そういう意味では独創性はないのでマーケティングしにくいし、権力構造に結びにくいんだと思うんですけど、
でも僕は切実にそっちの方が必要だと思っているんですよね。
わかる?
AIの影響
うん。
だからなんか今の話すごいなんかわかるというか、なんか興味がないっていうことに結構時間をかけて気がつきましたよね。
なんかその、あれですかね、そういう当たり前のことだけど、ある意味当たり前のことだけど、大事なことを伝えるみたいなことをしたいときって、やっぱり独創性はあまり必要ないじゃないですか。
そういうのって、最終的に愛って大事だよねとか、こういうのって綺麗だよねみたいなことっていうのって独創性必要なくて、そういうメッセージがじゃあどういうときに届きやすいかって考えると、結局それってどんな人が言っているかっていうことだなと思うんですよね。
そうか。
なんかそういうことになってくると、やっぱりピカソみたいな生き方をしていて、それを伝えられるかっていうと、多分なんかまた違ってくるというか、なんだろうな、そういうことはやっぱり人間性とすごくセットで見られてしまうし、そういうものだと思うし。
そうですね。だからなんか、今この評価型の社会があまりに拡散性とかバズみたいなものに、例えば広告が力を持ちすぎてしまっているというか、いびつさを僕は感じるんですよね。
だからアートをやるにしても、僕みたいな普通の見た目で普通に地味に作ってるみたいなんだと、やっぱ跳ねにくくて、結局その世の中が求めているアーティスト像みたいなものを、なんかすごくパロディ的にやられている方も結構お見受けするというか、なんかその要はちょっと批判っぽくなっちゃいますけど、奇抜な髪の色をして、つなぎに絵の具をびちゃびちゃつけた状態で、
みたいな人が例えばいたとして、っていう部分ですごくこう、何だろう、唯一無二の、これが独創性ですっていう見ぶりを、処作をすごくやられている人見ると、僕結構心配になっちゃって、あなたのやりたいこと本当にそこなのかなみたいな、外向けに見せるというか、
結局そのスタイル自体もかなり手垢のついた芸術画像なので、その人が本当に根っこでやりたいことと乖離してないかながすごく僕心配になるんですよね。苦しくならないかなみたいな。
いやでも、なんか変な話、僕も気持ちがわかるというか、そういうことやらないと、わかるわかる、そういうことやらないと、なんかダメな気がしてたもんって思っちゃうんですよね。
全然その純粋に本当に真っ直ぐそれをやられている可能性ももちろんあるんですけど、でもなんか本来っていう言い方もね、ちょっとおかしいですけど、僕の考えではその芸術はもう別に、なんというか、特別視されたり、なんかその人と違って評価される、それも側面としてあるかもしれないですけど、
結局それぞれの生活に落とし込んでいける、もっと軽いものな気がしていて、こんな話。
なるほど。
会社員をやりながら作ってるっていう、普通に生活者の一人として作ってるというスタンスを取ってますし、なんかね、難しいですね、これってね。
ちょっと全然違う方向からなんですけど、ちょっと今日別で話そうかなって思ってて、時間ないしと思ってたんですけど、そのAIの話がなんかちょっとそこに関連してくるなと思って、自分と考えてるのが思ったんですけど、なんかその、今年に入ってからぐらい結構そのAIのすごい精度が上がっているのがもう誰の目にも明らかなぐらいになっていて、
で結構、なんていうかな、そのAIがもともと最初に置き換えるのって単純なことだろうっていう、誰でもできるような単純作業から置き換わっていくんじゃないかみたいに思われていたけれども、意外とその創造的なことがそこそこのクオリティーでできてしまうっていう状態に急になってきているなって思っていて。
むしろ単純作業の方を人間がやってるみたいな。
そうみたいな。意外とその単純っぽい作業が卵割るの難しいみたいなこととか、そういうね、同じことの繰り返しのようだけど、1回1回微妙に違うみたいなことが難しかったりして。
で、結局そのAIが得意なのって、要するにその大量なデータをもとにして、そのそれっぽいもので、その大量のデータの中に人間の好みとかも入っているから、それっぽいもので誰もが何かいいなって思いそうな、少なくとも80点は取れるみたいなものは人間よりもスピーディーに確実にできる。
うんうん。
確実に出してくるみたいなことができるようになってきていると。
そうだね。
で、じゃあそれがなんかアーティストにとっていいのか悪いのかみたいなのが、単純にはやっぱりわからないんですけど、ただなんか今みたいなその話で言うと、意外といい影響もあるなっていう気はしていて。
そうですね。
なんか作品が切り出されてそれだけが評価されるっていうことの、そこの歪みみたいなのが逆に正されざるを得ないというか、クオリティーを上げるっていうことが誰にでも簡単にできるようになってきてしまうと、
作品単体でクオリティーが良いっていうことは別に大事なことではなくなってくる。
そこの価値が下がりましたよね。
そうなんですね。相対的にそれが下がっていって。
なるほど。
アートの価値観の変化
というかむしろ、ただエンタメで楽しむみたいなったら、人格がない方が安心して楽しめるみたいになっちゃうわけですよね。
そうそうそう。
いやほんと全く同じこと考えたんですけど、僕AIの発展、僕かなりアートとかっていうことに関してだけ言うと、かなり喜ばしい状況になってるなとは思ってて。
なるほど。
なんか僕、前も話したかもしれないですけど、芸術の世界、分野で誰もやったことないことをやったら評価されるみたいな風潮というか、既視感があるものを作っちゃダメだ的な謎のルールみたいなっていうのを感じてたんですよね。
それって別にこれだけ世界中いろんな人がいろんなことやってて、誰が何かやってんだろうと。その中で既視感のこれ見たことない、これ新しいっていうことを切り出して盛り上がってるのって結局その評価のシステムの中、内側にいる人たちだけの話で、見たことないもの作る、誰もやったことないもの作るぞと頑張っていること自体に何の価値もないとずっと思ってたんですよね。
そう。それよりは何かありふれたものでもその文脈とかどういう背景から生まれたのかとか、そっちの方が重要じゃないかなみたいな、同じ見た目のものでもどういう背景によって生まれたかによって全く見え方が変わったり、その効果が変わるってあると思うんで。
なんかバカバカしいなとずっと思ってたんですけど、この生成系AIの出現によって見たことないものはもうワンクリックでできるようになったんで、そこの価値がダダ下がりしてるんですよね。
だからそれによって何が生まれるかといったら、何か人がもっといろんなところで言われてますけど、哲学に時間を使うようになるみたいな。どう生きるかとかどう表すかみたいな、何て言うんですかね。
だから、ビジュアルのこんなんおもろいやろみたいな新しいものを作る合戦が完全に終了して、おてさんが言ったみたいに、どういう人間がそれを生み出したのかっていうところに価値が発生するようになったんじゃないかなと思って。
なるほど。
だからそういう僕はAIが作った表現とかも面白く見てますし、すごいこれ面白いねよくやったねみたいな。いいじゃないって思いながら見ています。
だから逆に言うと、さっきのピカソの話に戻ると、ピカソのやってきたことが人格全部を見たときに負の側面があったっていうことが明らかになるのは必要なことなんだけど、明らかになったからといって、じゃあピカソの作品を美術師から抹消しなければならないのかな。
それはダメだと思う僕は。
そうですよね。そういう話がまたこう逆にゆり戻しとして今出てきてもいるなと思っていて、それはそれでちょっと違和感を持ってしまう。
そっち側を逆に言うと切り出して、そっち側しか見ていないっていう人の意見でしかないという。
僕、ディズニーの過去作とかが差別用語を使ってた時代のやつを修正したりしてるの、あれ良くないと思うんですよね。
作品の制作背景の重要性
そうね。
それは結局さっきの複雑性を理解することの大事さじゃないですけど、ダメな表現だから目の前から全て抹消するだと、人間がどのように過ちを犯しながら歴史を進めてきたかが理解できないじゃないですか。
同じようにピカソが評価されてきた、でもその陰にはその一方でこういう側面もあったっていうのを理解して落とし込んでいくことこそが重要だから、ピカソの作品を不祥事があったから、今みたいに映画の公開やめますみたいな、あれもちょっとなんだかなと思うこともあるんですよね。
だから例えば文化人類学なのかそういう視点でも見たときに、過去その差別用語が使われている作品が残ってアーカイブとして見返せるっていうこと自体が資料としてすごく重要じゃないですか。
その時代なぜこういう表現が当たり前だったのかとかっていったところを研究するのにすごく大事な資料で、それをこう消しちゃうというか、のは良くないと思うな。
だからピカソの作品をこれから見るとしたら、やっぱりこれを作っていたときにはどういう背後にそういう人間関係問題を抱えていたのかとか、それこそ二郎さんに振られたときどういう作品を作っていたのかみたいなことで、そことの対照することで、
なんでこの人はこういうものをその時に作っていたのかみたいなことはやっぱりそこを見る価値は変わらずあるなと思いますよね。
それでもピカソのそれこそ外号に触れてしまうようで結構辛そうだね。作業としては。
でもなんかそれこそそういうキュレーションの方向性としては多分そういう方向に今後はなっていく。ならざるを得ないというか、ならないと意味がないという思うけど。
人間は多面的ですからね。
そうですね。
なんかだからそんなにね、あからさまにひどいことではなくても誰しもその何か苦の側面というか、くず要素みたいなのを持っているわけで、なんかそれがあるからダメなわけではなくて、それを抱えてその人が何をしたのかみたいなこと。
その抱え方がどうだったのかみたいなことの方がやっぱり面白いし、むしろそこがわからないまま評価する方がなんかつまらないっていう気もする。
わかる。本当に作品とか作家さんを面白いと思うときって、すごい良いところからすっごいダメなところまで見てその幅が面白いって思うんだと思うんだよね。
まだまだお話は終わらないようです。次回もお楽しみに。