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拝啓、3000年の人類へ。私はこう考えます。
ラジオを勧めたい。
実際、ラジオを喋ってみて、話し方が普段と変わるよね。聞き取りやすいようにとか、
聞いている人がいるという考え方で喋ることによって、より言葉をもう少し平易化するというか、
簡単な言葉にするとか、伝わりやすい言葉にしないとなっていうのがわかるし、
自分がいかに人に言葉を伝えるのが下手かっていうのもわかるかな。
で、あと、なんとなく散歩しながら人と楽しく話している時は、根拠とかがあまりない話であっても、
まあ、なんかその仮説おもろくねっていう風になんか盛り上がっちゃってたりするけれども、
なんかこういう正式な場で、じゃあいざあの話しようと思って話してみると、
あれ?この話ってめちゃくちゃ歯抜けやんっていう風に気づくことがすごくあって、
自分の勉強不足を痛感するというか、
そういう意味で、話すのが好きな人がポッドキャストするというのはおすすめしますと。
我々始めたばかりだけど他の人にもおすすめすると。
逆に始めたばかりやからこそ、この始めたばかりの刺激というか、気づきというかっていうのがたくさんあって、
それはやっぱり皆さんも始めてくださいという気づきかもしれない。
そうだね。やっぱりその我々普段インプットとして経験することっていうのはたくさんあるのかなと日常で思うんだけど、
それを誰かに説明するとかアウトプットする機会って正式にってあんまりないよね。
たぶん仕事とかだったら形になることはあるんだけど、
日々例えば本を読んだりしたこととか、映画を見たこととかっていうのは話題の種の一つとして話すことはあるけれど、
真剣にそれに向き合ってどうなんだろうって考える機会っていうのは
やっぱり今減ってると思うんだよね。
なおさらこういういわゆるウイルスによって世界に制限がかかった世界では、
やっぱり人と人とのコミュニケーションってさらに減ってるわけなので、
こういう機会に実際に自分がこう普段って何も考えずに勝手に言葉に出てきたことをペラペラ喋るだけだけど、
例えば我々が他の言語を勉強した時にこういった単語の次にはこういったものは来るだろうなとか、
その一個一個確認して出していくっていう作業が走るので、
やっぱりちゃんと引き出しを出すっていう処理も必要だし、
それをまな板の上でどういう風に加工するかっていうところも考えて喋らなきゃいけなくなっちゃうね。
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それ故にアウトプットとても大事。
最近なんか新しくインプットアウトプットしたことってある?
最近はやっぱりNFTのゲームを作っていて実は。
そういう意味ではNFTの知識であったり、
あとどちらかというと僕はその中でも絵とかを担当していたりデザインとかを担当していたりするので、
改めてどういう絵を描こうっていう時には自分の好きな絵を探すとか、
そういうところでたくさんインプットしてるかなっていう。
言語化するのがちょっと難しい領域ではあるんやけど。
このラジオの絵というか、アイコンっていうのかな。
アイコンもちゅんちゃんが作ってくれましたけど。
絵っていうのはまさに自分がこれまで見たものをどう自分の中で解釈して出すかっていうところになるので、
膨大なインプットがあればあるほど表現力が上がるっていう。
言語もそうだけどね、もちろん覚えた言葉が多ければ多いほど、
言葉の流暢さとか表現の詳細さっていうのは上がるかなと思うよね。
自分でいうと最近新しくインプットアウトプットしたことっていうのは、
一応今年の目標が一つあってたくさん本を読みたいっていうのがあるんですけど、
今年の1月は月100冊ぐらい漫画を含めて読んだんですけど、
その中で一つハマったことっていうのはやっぱり、
2人とも多分言ってると思うんだけど、
絵とか美術なんだよね。
だから初回がそういう話になったのかなと思うんだけど、
僕は美術館とかもともと行くって言ってたのに加えて、
ブルービリオドっていう漫画があるんですけど、
その主人公がすごい美しい先輩の絵を見て、
自分も勉強だけしてきたけど本当にやりたいことが見つかったっていうので、
国立大の西南館東京芸術大学に入学するための絵の勉強をゼロから始めていくっていう話になるね。
その中で実際にどういう風に絵を美しいとして見るのかとか、
絵の構図であったりとか、そういった美術の2つがどういうことを勉強していて、
どういう絵がどういう美しさがあるのかみたいなところを会話を見ることができたと。
その流れで自分も今までって、
ただちょうどこの第1回を放送の録音を取った後、
いろんな美術書を読んだり、
美術の見方みたいなのを読んですごい考え方がアップデートされたんだけど、
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やっぱり普通の人っていうのは、
絵の鑑賞っていうのは綺麗かそうじゃないか、好きか嫌いかっていうのが最初入り口なんだけど、
絵の鑑賞方法っていうのはいろんな見方があるらしくてですね。
自分は部分的にはそういうのもともとあったのかと思うんだけど、
その絵が描かれた年代ってどういう年代なんだろうっていう、
歴史の中でその絵がどういう立ち位置で描かれたかっていうところとか、
描いた人が何歳の時に描かれた絵なのかとか、
そういった多次元的な目で絵を見るとすごく絵の深みというか、
そういうのがわかるっていうのを最近学んで、
すごいなんか面白いなと思って、
最近いろんな美術の本とかを読んで見てるんだけど、
例えばゴッホとかすごい有名だけど、
ゴッホっていうのはもともと生前っていうのは全然売れなかったんだけど、
後で売れていたりとか、
ゴッホの絵って実は浮世絵というか、
日本のジャポニーズンっていうのかな、
そこに影響されてできていった絵っていうのもたくさんあったりとかっていうのがあって、
いろんなこの絵がどういう絵と、どういう作者と、
どういう時代と接点があったっていうのがわかると、
すごく絵の鑑賞方法が変わるって知って、
もちろん絵の綺麗かどうかとか、好きか嫌いかっていうのもあるんだけど、
この絵が描かれる過程の中の歴史っていうのかな、
そこを知るだけでまた一味深みがあって、
面白いなと最近は思ってますね。
なるほど。いい話ですね、とても。
なんかその絵の鑑賞っていうところについては、
すごい僕も意見があるので言っていいですか。
いいですよ。
これはちなみに新卒1年目の時に、
いきなりチームのメンバーに対して、
俺語りたいことがあんねんって言って、
1時間ミーティングを設定して、
デザインとアートっていう会議を、
僕が一方的に行ったんですけれども、
すごいね。
それの内容と同様のものになるんですけど、
これ完全に僕の中での解釈になってしまうんですが、
デザインとアートっていうのは、
分かりやすく言うと、
かけた時間の長さによる違いやと、
僕は思っていて、
1秒未満ぐらいな世界の中で行われるのがデザイン。
で、それ以降のものはアートであると。
もう少し詳しく。
いやちょっとここから言います。
箱です今のは。
っていう風に定義していて、
例えばパッと何かを見る。
さっきの話で言うと綺麗とか。
それはデザインの領域であって、
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それはデザインの領域であるし、
人間のシステムの話であるし、
受動的な話であるという風に思っています。
だから人はシステムとして、
何かに対して綺麗と思う必要があったり、
汚いと思う必要があったり、
怖いと思う必要があったりっていうのは、
人間の生物として、
こういうものに対して危機を感じる必要がある。
赤いものを見ると何か不安な気持ちになる。
っていうシステムのところですと。
そこは結構デザインっていう風に定義されていて、
これはそれ上に学ぶことができる。
っていうのは人間のシステムなので、
基本的に全ての人間に備わっているシステムは同様であって、
これは綺麗に見える、これは汚く見えるっていうのも
だいたい決まっているので、
一律に学ぶことができるものになっている。
で、それを超えたものがアートだと思っていて、
なのでそういう意味では、
媒体が何か見ている対象がデザインかアートかっていう違いなのではなくて、
それを見ている私側、自分側がデザインかアートかっていうのを定義している。
だから同じものであっても、
パッと見た初めに感じたものはデザインっていう理屈だし、
それから時間をかけて、
例えばアップルのマークって、
初めパッと見て、なんかかっこいい、ここまでがデザイン。
ずっと見ていると、
リンゴって言ったら、
創世紀、
聖書のアダムとイブのリンゴが奏起されていて、
で、このアップルのリンゴのマークって欠けているから、
そういう意味では知性の象徴なのかな、
とか勝手に妄想はできると思っていて、
ここはもう完全にアートの領域で、
一般的にアップルのマークってデザインがいいって言われていて、
そのもの自体はデザインですってみんな思っているような気がするんだけど、
そうではなくて、
見ている人間がそれをアートとして捉えて、
能動的に考えて、
これはこういう深さがあるねとか、
銀色ってどういうところから、
すごいアップルの製品って全部銀色やけど、
そこにはどういう意味があるんだろうって考えるところであったり、
もともと虹色だったけど、
それはどういう意味なんだろうっていうところは、
もう完全にアートの領域だと思っていて、
だからそういう意味で、
はじめ言ったところに帰ってくると、
パッと見て、
瞬間的に感じるものはデザインであって、
その後、
時間をかけて感じるものっていうのはアートであると。
それは、
もの、見ている対象に対して宿るのではなくて、
見ている自分自身に対して、
切り分けられる概念であるという風に考えているんですね。
すごい僕もその解釈は合っていると思っていて、
デザインは認知、
アートはヒストリーっていう感じなのかなと思いました。
やっぱり認知っていうのは、
一瞬見た時に浮かぶ感情みたいなものであって、
12:03
認知したものなんだけど、
アートっていうのは、
もっとメタ認知っていうのかな。
その書かれているものの背景にあるものを認知できた時に感じるもの。
なのでそこに多分歴史が絶対あるから、
アートはヒストリーかなと思った。
確かに。
それはめちゃくちゃいい感じにまとめてくれて、
かっこよくまとめてくれている。
そのヒストリーっていうのは、
そういう意味で言うと、
見ている人自身のヒストリーな気もするかなっていうのは、
その人がこれまでインプットしてきたことから結局解釈するわけだから、
なのでそういう意味では自分を映し出しているというか、
結局その作品を媒介して自分を見ているっていう意味で、
自分自身のヒストリーであると言えるのかなっていう。
なんかアートの中でも、
その何かを見た時に、
その人の頭の中で再構築をさせるっていうような、
なんか分野じゃないけど、そういうのがあるらしいね。
それは知らん。
なんかパッと見た時に、
なんかそれっぽく見える像っていうのは、
頭の中で像を作って解釈するっていう、
なんか技法なのか何なのか分かんないけど、
そういうのなんかブルーピリオっても見た気がする。
だから例えば、
Appleのマークってリンゴに、
リンゴって言うけど、
あれは別にリンゴではないわけじゃん。
だけどその像を頭の中で解釈した時に、
リンゴっていう風に解釈をするから、
リンゴになるという形で、
なんか認知をそれぞれの頭の中で再構築するみたいな、
話もあった気がする。
なんかでもそれは、
どちらかというと、
人のさっき言ったデザインの方、
人がシステムとして、
例えば丸の中に点が4つあると、
顔に見えちゃうみたいな。
趣味クラ…なんだっけ?
なんとか現象みたいなやつだよね。
わからんけど。
そういうところとかは、
ほんまにデザインの領域やから、
そういう意味では今あっちゃんが言ってたのは、
デザインの領域の、
なんか上手い騙しみたいな、
そういう話なんか。
そうだね。だからその名画が、
名画と言われる理由の一つっていうのは、
その認知した段階で構図がめちゃくちゃ綺麗とか、
色がめちゃくちゃ綺麗っていう風な話があって、
なんかその漫画の中でも、
基本的な構図のパターンっていうのかな、
そういうのは丸とか三角とか、
5種類ぐらいで大体区別ができて、
それに当てはまってると、
すごく綺麗に最初見えるみたいな話らしいので、
そういうことなんですね。
でも、アートとデザインっていうのは、
今まで僕の中では切り分けがあまりできてなかったので、
すごく勉強になったな。
よかった。
これ僕が思っている一番の話なので、
今日一番を出してしまいましたね。
これからまたインプットをして、
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一番を更新していただくのがいいのかなと思いますね。
そう考えた時に、
アートとデザインだときに、
ポスターであったり、
食べ物とかの袋とかのパッケージっていうのは、
デザインってよく言われるけど、
あれもちゃんと背景を考えたら、
アートとして扱うべきってことだよね。
それはアートとして扱うべきというか、
僕の解釈、あくまで僕の解釈で言うと、
さっきも言ったように、
物自体にデザイン、アートは両方宿る。
両方宿っているし、
物自体には宿っていないというか、
宿っているのは我々、
いる側かなと思っている。
じゃあ全てのアートであったりデザインっていうのは、
受けて次第ということだね。
なのでどちらかというと、
動詞なんじゃないかなっていうのが僕の解釈。
動詞っていうのはバーブルの方の動詞?
そうそう。
っていうのはどういうこと?
デザインであったりアートっていうのは、
行動を指している言葉であって、
そういうことね。
デザインとかアートが、
どちらかというと物を指しているっていう風に、
人は捉えるので、
それが僕は誤りなんじゃないかなって。
そこで勘違いが起こっている。
それはあくまで僕の世界観の中では、
そこで勘違いが起こっているんじゃないかなって。
だからデザインとかアートっていうのは、
名詞じゃなくて知覚動詞ってことですよね。
触れるとか見るとか触るとかに加えて、
多分見るとかが拡張になると思うけど、
知覚するっていう意味で訳すのかな?
そうね。
知覚するっていうのがデザイン、
アートはどちらかというと解釈するとかになるのかな?
うん。
デザインはもう視覚の中に内包されそう。
いやでも違うか。
まあいいや。
考える要素が入っているから。
はい。
だから交通標識っていうのはどうなるんだ?
交通標識っていうのは、
デザインを重視している。
デザインを重視しているが、
それを理解するには背景知識がいるので、
アートという側面が強い。
ああ確かに。
さっきの定義だとアートに入るな。
ヒストリーの要素は確かにあるかもしれない。
デザインに僕は入れたいなと思うのは、
あくまで例えば、
赤に対して恐怖感を抱くよねとか、
そういうのも結局、
言ってしまえば肯定的な学習の中で生まれてきた
直感的な認知だと思っていて、
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道路標識は赤ん坊とか小さい子供にとっては
アートなのかもしれないけれども、
我々大人にとっては
もうデザインになっているのではないかっていう。
適随反射っていう言い方が面白いかもしれないね。
もう刻まれたものであって、
そこに法律とかっていうものはあるんだけど、
それは恐怖の象徴とかとほぼ一緒の扱いになっちゃう。
あと他に例を挙げるとすると、
いわゆる地下鉄の色とか、
東京メトロとか大阪メトロとかもそうだけど、
識別するためにアルファベットと、
あとは丸とか四角なのかな、
色分けがされているわけですけど、
あれはアートの側面とデザインの側面の両立がされているので、
標識と一緒。
それもデザインって言いたいな。
なんか僕の中ではやっぱり
能動性があってほしいなっていうアートは。
能動性っていうのは、
それに対してただ受ける印象だけじゃなくて、
何かを、
どう言ったらいいんだこれは。
だからオリジナリティが出るか出ないか。
オリジナリティ。
あっちゃんと僕が標識を見て、
オリジナリティ出そうと思ったら出せるやん。
あれに対してちょっとかっこいいなとか。
ってなったらアートになっていると思うんだけど、
目的がこれを見て、
半蔵もうせんやっていうか、
そういう多分話だと思っていて、
そこはデザインの解釈の中なんじゃないかなって思うか。
だからそういう意味で僕らで違いが出ない。
オリジナリティが出ないっていう見方なのであれば、
それはデザインの領域に入るんじゃないかなという解釈。
なるほどね。
なんか今ふと思ったので、
なんていう人だったかな。
アンディ・ウォーホールっていう人知ってる?
アンディ・ウォーホール知ってる。
あの人の絵って、
マリリン・モンローって分かる人はアート?
綺麗なお姉さんやな、奇抜なデザインやなってやったデザインか。
だからあの人の絵の見方やと思ってて、
初めはなんか、
なんやろこれ、変や。
ってなるところまではデザインな気がしてて、
どういう意図で作ってるんやろうっていうところまで進むと、
そこはアートになってるんじゃないかなって。
じゃあ永遠にデザインであり続ける人と、
アートに踏み出せる人が出るっていうのかな?
それは確かにそうなのかもしれない。
だからデザインでやめちゃう人っていうのは、
たくさんいるんじゃないかなって。
っていうことはやっぱり、
皆さんに美術鑑賞してもらうときには、
やっぱりデザインから一歩進んで、
アートとして捉えてもらいたいっていうところなのかな?
21:00
そうね。
今ちょっと、
じゃあどうしたらいいかなっていうのを考えてみてんけど、
すごい狭い部屋に作品とその人だけを入れて、
1時間監禁するとかちょっと考えましたと。
でもそれは違うなと思って、
結局その人がそもそもアートする気がなかったら、
ちょっともうそこについて考えることはやめて、
なんかここから脱線アウェイとかいう風になるんじゃないかなっていう。
だからそういう意味では、
どうやったらアートって人に伝えることができるかな?
アートを人に伝えるっていうのは、
さっきで言うと、歴史を伝えるっていうことになる?
いや、見方を伝えたくなくて。
これはデザインではなくて、
アートであるっていうことを認知させたいってこと?
これはっていうものではないから、
アートという行動、
アートという行動はどういうものなのか、
アートという行動を取ったことのない人って、
割と世の中にたくさんいるような気がしてて、
アートという行動はどういうものなのかっていうのを、
アートという行動を知らない人に伝えるためにはどうしたらいいのか?
一つは、絵としてそこに描かれているものを言語化してもらうとか。
確かに。
それは人によって違う言葉が出てくるだろうってことね。
そうだね。
認知したもので綺麗とかだけじゃなくて、
そこに描かれているものが自分にとって何に見えるかっていうのを
認知のちょっと先ぐらいにはなっちゃうけど、
解釈しようとさせるっていうところでは、
その行為はアートになってくるのかな。
だから、マリリン・モンローの絵でいうと、
マリリン・モンローがいて、
点々で描かれててカラフルでみたいなところが第一歩。
それが解釈だよね。
見て綺麗とか好き嫌いっていうところから、
それのなぜ綺麗なのかっていうところに結びつけるためには、
そこに映っているものが何かを近くの先、認知をする必要があるので、
それをするとアートになる。
なるほど。
一つ僕の中で今のあっちゃんの話を聞いて結びついたことがあって、
緑色の丸の絵とかで1億円で落札されましたみたいなのを、
割と僕がこの話をするときに、
一つのアートの例として出すんだけど、
結局それは何でこれ1億円するか分からないでしょっていう例としてあげるんだけど、
そこの解釈、僕の中で綺麗な解釈が出てなかったんだけど、
今話していて一つ感じたのは、
その絵ってアートにたどり着きやすいなって。
結局今のマリリン・モンローの絵っていうのは、
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すごくデザイン性が高い絵になってしまっているから、
結局そのマリリン・モンローがとか点画とか色がとかって、
割と結局言っても普遍的なデザインの要素が強いと思っていて、
オリジナリティって結局あんまりないかなっていう。
一方でその緑色の丸の絵、
でっかいキャンバスに緑色の丸が1個描いているだけの絵を調べてもらったら多分出てくると思うんだけど、
それは1億円くらいで落札される理由としては、
かなりオリジナリティに結びつきやすい人に解釈してもらったときに、
この緑色は地球ですとか、
全然地球の要素はないので、
地球ですっていう人もいればマリモですっていう人もいるだろうし、
なんかすごい人の想像を膨らましやすい単純であるがゆえに、
っていうのはあるかなっていう。
解釈に幅があるっていう、
想像性が高いっていうのかな。
単に丸を描いただけとか三角を描いただけでも、
デザインとして三角だなっていうだけにはなるけど、
例えばその今言ったように緑の丸っていうのが乗ったときに、
その緑の丸だけを描いたのは何でなんだろうっていう疑問が生まれた時点で、
それはもうアートだというところですよね。
その青が、青というか緑か、
緑がどういうふうに映るかが人それぞれ違うので、
解釈性の高い絵であるし、
それが時間軸ではないけれど横軸にすごい広がるので、
1億円の価値があるんじゃなかろうかというふうに考えるところまでいければ、
多少は1億円でも良いのではないかっていうところだよね。
単に子供が丸描いただけと違うところは、
そこを意識してそのアーティストが作ってるっていうところ。
実際その背景は、
すいません、学習能力が低くて知らないんですが、
一つそういう解釈もあるかなと。
これもアートですよね。
あの絵のおかげで存在する思考。
あとは何だろうね、似たような話でいうと、
よくこんな絵誰でも描けんじゃん、なんで高いんだよっていう話があるけれど、
結局それっていうのは解釈性の幅が広いっていうところに結びつくっていうのもあるし、
それを意図して描いているっていう、
もう1個上のところから考えて描いているからこそ価値があるっていうところだよね。
だから本当にもう脳みそ空っぽにして、
人間じゃなくてもいいですよ。
チンパンジーが描いたらそりゃそりゃまた違う価値が出るけれど、
なんか適当にこう、
ふうに描いている絵ではなく、
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私はこの絵で無秩序であったり、
色んな色の混ざりによって解釈性の幅っていうところを表現したい。
極端な話だけどね。
っていうので、それを描いている場合であれば、
それはもう、何ていうんだろうな、
アートとして成り立っていると。
そうね。
ひとつ、まーちゃんが言った話で、
もしかして違うかもしれないと思ったところを挙げるとすると、
それは描き手が意識している必要はないんじゃないかなと思う。
ないんだ。
それは受け取り手が結局、
解釈できるかどうかってこと?
そう感じたのであればいいんじゃないかな。
いやちょっとその実際のオークションの現場とかを、
僕が知っていたらいいねんけど、
そこまで多分アピールするってすごいナンセンスだと思ってて、
これはこういう風にして解釈の幅を広げましたとか、
緑の点っていろいろ想像できますよねってプレゼンした後に、
じゃあいくらですかっていう風にするのってダサいと思ってて。
三流以下ってことだよね。
そうじゃなくて、もうオークは語らないし、
その作品だけがあって、
で、それを見た人間が広がってしまった。
それは理由は分からへんけど、
その日調子が良かったとかそういうのもあるかもしれない。
で、「あ、めっちゃ広がった!」ってなった時に、
その人がお金を持っていたのであれば、
そういうところに気持ちよさを感じてそれを買うんじゃないかな。
そうか。受け手の方が重視されるわけだね。
結局全て受け手が大事なんじゃないかな。
そうだね。
なんかそれで言うとっていうのは言いたくなっちゃうところもあったんだけど、
言ってくれ、僕ばっかり。
この話をしたかどうかは覚えてないんだけど、
絵のオークションって2種類あるっていうのはご存知だよね。
知らない。
一つは新品のオークション、一つは中古のオークション。
で、絵は基本的には中古のオークションの方が値段が高くなると。
っていうのは最初に付けられた値段よりも
上がる可能性がほとんどあって、
1回付いた値段より下がることって滅多にないらしいんだよね。
っていう時に、絵に対する価値っていう、
これはバイアスなのかな、わかんないけど、
そういうのが付くことによってまた一つの絵の解釈軸が増えると。
これは人にとって価値のあるものだっていう軸ができるので、
解釈幅、受け取り手の幅が広がるので値段が上がるっていうのがあるのかなと思った。
うーん、それはなあ、あんま好きじゃないな。
現実はそれはすごいあると思うし、
結局絵なんて陶器的なものになり下がってしまっているから、
それは間違いないなと思うんやけど、
結局、今僕らの目の前にあるマイクでさえ、
僕はアートだと解釈しているし、
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この作品について1時間語り合わせっていうのは僕はできると思うねんな。
ここにどういう世界があるだろう。
あんまり詳しく言いたくないので詳しく言わないけど、
例えば、一回刺身をつけた刺身醤油の皿みたいなのとかでも、
すごい語れると思うね。そこにある世界。
じゃあ何の刺身をつけたんやろうでもいいし、
この刺身皿っていうのは、
家を出ていったお父さんが最後に醤油つけた醤油団や。
とか、無限に何でも語れるっていう意味で、
そういうお金にしてほしくないねんな。
僕としては。僕個人の意見としては。
この楽しい世の中、無限に思考を広げられる、
全てがアートのこの世界で、
もっと楽しもうぜっていうだけやのに、
そこに陶器的な要素とか、結局1億円の絵とか、
そういう風になっちゃうのは悲しいなっていう風に僕は思うな。
確かにね。そういった意味では、お金っていう単位、
いわゆるドル円とかではなくて、
その話で言うと、多分妄想がどのくらいできるかっていうところなので、
単位を妄想とかにしてあげれば、
妄想がどのくらいできるかで、その絵の価値がわかるので、
それはそれで面白くない?
違う違う。
それは違う?
違う。それは違っていて、何度も言うように、
妄想の数値をつけるのは絵側ではなくて、人側やから。
だから違う。
これはどんだけ妄想が広げられるかっていうのは、
全部一緒。全てが無限。
全ての絵に対して、妄想の数値は無限にあって、
その無限っていうのに対して、
僕らが関数を持っているのよ。人側が。
あー、わかった。理解した。
結局その人の解釈幅によってその絵の価値が決まってしまうので、
絶対的な価値はなくて、あくまでも自分の中の価値以上のものはないと。
そう。で、逆に全ての価値を無限にできると。
おー。
自分の絵をね。
それはなんかすごい良いことだね。
そう。そうなんだね。
だって、そう考えると、
単に今まで美術館に行って絵を見ていた時にかかった時間っていうのは、
たかだか人によってはもしかしたら30分かもしれないし、
5時間っていう人もいるかもしれないけど、
そういったいろんな観点で、
その対象のものに対して考えを巡らせることができれば、
その美術館は、
その世界の他の美術館よりも、
もっと価値がある美術館っていう風な考え方もできるわけだよね。
その人にとって。
っていうのはすごい良いよね。
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そう思うし、
それは美術館である必要は全くない。
ないね。
良い話じゃない?すごい。
やったぜ。
僕の最大の持ちネタやから、この話題は。
だからほんまに醤油皿、
醤油が入った醤油皿、さっきの話でも良いし、
もう今僕の目に映っている全てがアートであると言えるんじゃないかな。
それは皆さんにとっても一緒です。
ある意味では、受け手が主体だから、皆さん自身もアーティストであるということですね。
そう。
良いまとまり方や。
神回ですね。
神回ですね。