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2020-10-06 17:36

「かのように」最終回:仮定することとラベル剥がしすること

全3回の森鴎外「かのように」回の最終回です。
ふたりで、澱のように積もった「かのように」との向き合い方や、小説の中で主人公の対話相手になる綾小路的な存在についてしっぽりと話しました。いやー、100年前の小説なんですよね、これ。すごいなぁ。

みき(@miki_apreciar
のぞみ(@CobeAssocie

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書籍紹介(Amazonより)
明治・大正期の文学者、森鴎外の短編小説。初出は中央公論で1912(明治45)年。五条秀磨は歴史学者である。その良心にそって神話と歴史を分離して論じたいと願っているが、そのためには古い権威と葛藤することになる。やがて、秀磨はドイツの哲学者であるファイヒンガアの「かのやうに」の哲学を応用することを思いつく。大正三年、天皇制を人々が公に論じ始めた時代に、鴎外が一つの方向を示唆した作品。

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00:11
Mikiさんは、企画をする時に、自分で一回テストプレイという回?
Miki Watanuki 皆でテストプレイして、「この問いはダメだ。回答しづらい。」とかでなったら、別の問いに変えたり。
もともと好きも直線で、すごい好きじゃない、みたいなやつだったんですけど、もうちょっと軸を1個足そうと自称になったり。
おとなやればやるほど、自分とか他人に対するこのかのようにが溜まっていくじゃないですか。
溜まって、そこに凝り固まるというか、固着するというか。
そういうのを引き剥がせる機会っていうのは定期的に持つとあれですよね。
いいですよね。
ひでまろうが1個のかのように、1年間はお父さんにも何も言えないっていうのは、本当にどういうことなんだっていうのをめちゃくちゃ思って、意味がわかんないんですよ。
8割ぐらいはひでまろうだと思うので、代わりに謝罪させていただきます。
いやー、そうなんだよなー。
本当に人と話す、外に出るみたいなことが、私は本当に大事な気がしてるし、なーって思いますよ。
私は結構あんまり考えずに、まず走りながら考えちゃうタイプっていうのがあって、めちゃくちゃ。
なので、この綾小路の最後のラストがすごいいいなと思って。
だからまず友達に勝手に訪ねていいよ、みたいな感じで訪ねていくし、
お前まだそのフェーズやってんのか思っちゃダメ、みたいな。こっちはお前みたいな金持ちじゃないから、5、6年前にそのフェーズ終わってるわって言うじゃないですか。
そういう言い方もいいなって思うし、
最後、八方塞がりになったら、突貫していくつもりでなぜやらないって問いかけて、
そのまま別に答えとか応対とかもないままその問いかけて、2人が佇んでいるっていう描写があって小説が終わるじゃないですか。
だから別に綾小路自体も責めたりアンサーを求めるっていうつもりではなくて、
ただ優しくなぜやらないんだって言って終わるっていうコミュニケーションのあり方はすごいいいなって思います。
この八方塞がりになったらっていう時に、綾小路としては分かってるわけですよね。
こいつちょっと八方塞がり感あるな、みたいな。かのようにが仮に世の中全部そうであったとした時に、
自分がいる立場もそうだし、危険しそうとみなされてどうこうされるかもしれないし、
さあ俺はどうしようっていう時に家に引きこもっちゃってる引きこもり君がいて、
03:03
何かしろよって言ってるわけですよね。
何やるんだろうな、綾小路が。特感していくつもりでなぜやらないっていう。やるの対象語は何になるんですかね。
でも秀丸の場合だったら単純に論文を書く、父に父と対話するとかだとまずは思うんですけど。
その2人の会話ですごい難しいなと思ったのが、
じゃあお前だったらどうするんだよって秀丸から綾小路に聞いた時に、
いやもう俺は何も考えないみたいな。
考えない、何も決めない、なるべく決めないでいるようにしてるっていう選択肢があって、
でも考えないっていう選択肢って便利すぎて時に危険っていうか、
ニュータルでいることってすごい大事。
余白を自分の中に残しておくことってすごい大事だと思うんですけど、
でもそれと全然考えないでいることって全然違うじゃないですか。
この考えないっていう選択肢を適切に取れる人でありたいっていうか、
どういう時にやったら考えないっていう選択肢が有効なんだろうなっていうのは思いました。
そうね、確かにね。
どっちを引用するのもあるなと思っているのが、
例えばイトゲンシュタインのカタリエルのことについては沈黙せねばならないみたいなことをよく引用する人がいて、
分かってないことについていろいろ言うなよみたいな一派もいれば、
とはいえ自分が思っていることの範囲で社会に発信していくことが重要である、
取り組むことがまず重要であるみたいな話もあって、
そういうどっちもあるよねっていう感じがこういうところでしますよね。
でもヒルバヌーに関しては完全に一旦何も考えない姿勢必要ですけどね。
必要とは私は思いますけどね。
全然関係ないかもしれないですけど、
絵記者さんが書いてくださっているメモの中にある、
アヤコウジってどんな人なんだろうっていう時の、
描写があって、そもそも太ってるじゃないですか。
背をあぶるようにランドに太った体を近づけて、
両手を腰の後ろに回して少し前かがみになって立ち、
ヒデマロはその2、3歩前に痩せたしなやかな体を。
ヒデマロはすげー痩せてて、アヤノコウジはたぶん活腹品でしょうね。
たぶん脂っぽいデブラでしょうね。
落語も例えば、落語で出てくるヨタロー話っていうじゃないかな、
ヨタローって人がいるんですけど、
ちょっと抜けた人というか、ぼけた人役的に出てくるんですけど、
だいたいヨタローの描写もちょっと太ってるんですよ。
賢いどうこうっていうか、とりあえずやってみようよとか、
06:00
まあいろいろあるけどさ、行こうぜみたいなことを言う人、
だいたいちょっと太った描写されてるなと思って。
気にせずご飯食べるかどうか。
すごいイメージがあるんですけど、
仕事してるとワークアウトして体がなっちりして、
やってる人が優秀みたいなイメージあると思うんですけど、
私ちょっとアヤコウジみたいな体型の人好きなんですよね。
狸体型。
狸体型、ちょっと太ってて、
猫背で温かいものだったらふーっと当たっちゃうみたいな人が、
すごい好きだなっていう。
まあどっちがいいかはね、
いい人なんだろうなって感じがしますよね。
ひねまるみたいな奴が家をわざわざ訪れるから、
めっちゃいい奴なんだろう。
私はひねまるちょっと嫌な奴だと思ってる。
いや、絶対イメージしてる人いるでしょ、それ。
アヤコウ嫌な奴っているでしょ。
キメラみたいに混ぜてちょっとイメージしてますね。
混ぜる奴の元は大体嫌な奴ってことですね。
このアヤコウさんって何か悩みはあるのかな。
何か考えてることがあるのかな。
でも絵があんまり売れてないじゃないですか。
1年に1枚とかしか売れてないから、きっと悩んでますよ。
自分の想像性について悩んでるんじゃないかな。
この人は一応あれですよね、
ひねまると大学の時の同期か何かですよね、確かね。
大学の時の高校の同期で、
でもなんか画家になるわって大学は行かずに、
普通に絵の勉強をして今にいたっていう方ですよね。
ヨーロッパにも絵か何かで留学して、
向こうでまたパリに行って仲良くなってみたいな。
頭はいい人ですと。
だからひねまると話せることも何かあって、
頭がくるくる回るんだけど、
ある種の出世階段を登るとか、
それっぽく言うよりかは売れない芸術家を目指しました、みたいな。
いいよな、こういう人ね。
そういう意味では何か、何て言うんだろう。
ちょっとかのようにが混ざっているっていうか、
同じ高校に行ったら東大行くでしょ、みたいな。
ある種のかのようにを外している、あえて外している。
確かに打破している。
けど画家ならパリでしょっていう、
そのかのようには踏むんだ、みたいな。
人によって、外してここはフォローしてっていうのが、
かのようにっていうのは生き気があるんでしょうね。
本来こうすべきだけど、あえてやらないみたいなのがあれば、
そこは王道でしょっていうのが、
09:00
一人の人の中に遠くすぎっていうのかな。
そうですね、すごい理想的な、こんな人間はいないんですけど、
理想的な人間なり方の人はニュートラルな自分みたいなのがあって、
気分とかに応じて、
今日はこのかのようにをトッピングしていきようとか、
この場ではこのかのようにで生きようみたいなことができるような感じだと、
たぶん生きやすいんでしょうね。
そんな人は無理ですけどね。
仏かな、仏なのかな、それは。
もともとはベースのニュートラルな自分って思っているものの中には、
いろんなかのようにがこびりついた自分っていうのがいて、
でもなるべく着脱できるかのようにが増えていると、
いいのかも、優しい社会になるのかもしれないですね。
これなんていうんですか、関係ないかもしれないんですけど、
最近ポッドキャストで、国用野外学習センターっていう、
なんかシェアして呼びました。
すごくいい内容で、第2回かな、
アフリカのブッシュマンっていう狩猟再生民の生活をテーマにした、
文化人類学を研究されている方を呼んで、
狩猟再生民ってどういう生活をしているんですか?
っていうのを聞いていくっていう会で、
めちゃめちゃ面白いんですけど、
その中で印象的だったのが、
あえてラベルを付けないみたいなことがありますと。
あやこうじじゃん。
あやこうじ。
何かっていうと、狩猟再生民なので狩猟と再生をするんですよ。
現実的には、男性が狩猟して女性が再生するってことが多いと。
それは事実としてそうですと。
ただ、文化人類学者が現地の狩猟再生民に、
じゃあ男性が狩猟して女性が再生するってことですねって言うと、
お前は何も分かってないと。
あのおばあちゃんはまじで若い時は狩猟が上手かったんだみたいな話をされるんですって。
確かに事実としては、
我々が観察している男性女性っていう区切りで言うと、
確かに男性が狩猟をやってる人が多くて、
女性が再生やってる人が多いと。
ただ、そのラベルによってそのものごとを理解しない。
何を言おうとしているか伝わりますかね。
事実として、例えば家で、
あるけどそれを真理としないっていう。
そう、真理としない。
女性が確かに家で煮滝をする方が多いです。
ただそれは煮滝が女性がする仕事であるっていうことを必ずしも意味しない。
かのようにってある種の前提付け、ラベル付けじゃないですか。
そうであるっていうことを一旦規定するってことだと思うんですけど、
12:01
それをしないと。
例えばとある人が狩猟再生民で、
最近都市に住み始めて移住しました。
最近やってる仕事は道路工事ですっていう時に、
あなたは道路工事をする職業の人なんですねって言うと、
そういう私は自分のことは理解していないと。
確かにやっているんだけど、
それもただ今やっていることに過ぎなくて、狩猟再生民である。
その中でやっていることが狩猟再生ももちろんするし、
たまに道路工事をすることがあるし、別の仕事もすることがあるっていう。
付けるラベルに対してすごく敏感だって話があって、
あえて付けないという選択肢を積極的に取るって話があって、
めちゃくちゃ面白かったですね。
確かに秀丸にも教えてあげたらよかったですね。
お前は別に史学っていうラベルもあるし、
力士学者っていうラベルもあるけど別に、
それ以外のラベルを使ってもいいし取ってもいいし、
だよって言ったらよかったんですよね。
そうだと思います。
周りがそう言うかもしれないけど、
自分自身がそれに絡め取られる必要は別にないし、
自分の自分に対するラベル付けと他人から自分に対するラベル付けって
別に一致している必要は必ずしもないからっていうことを言うと、
ちょっと秀丸行きやすくなったのかなっていうふうに思ったりしますよね。
でもきっと神話の世界とかっていうのがすごい生きていく中で、
ずっとそれが神話が絶対的なものとして生きてきたんでしょうね。
そんでドイツに行った時にあれ?みたいな。
神話って結構都合主義じゃない?みたいなことに気づいちゃった時に、
それを否定するっていうのがすごい苦手だったんでしょうね。
これは普通に自分が信じてたものとか、
当たり前にされたものが違う、
それに対して変わらなきゃいけないっていうことは
普通に難しいことではありますね。
うーん、そうね。
だからこそ一人だけで変わることは難しいからね。
マジでみんなで変わるとか。
そうね。
しなきゃいけない。
ほんとそうね。
大企業の仕事をしていると、
いやこれはファクトなんですよってことをやると多分神話ですね、
みたいなことがあったりしますからね。
いやーそうね。
確かに今だったら私たちの神話の用法って嘘みたいな。
都合主義の嘘っていう感じですけど、
多分この時代は神話が正しいものみたいな。
真実みたいな感じだったわけですよ。
少なくともここで大きくテーマにしている天皇制ってことについては、
うーん、マジで。
天皇が絶対っていうか。
扱いの難しい、
明治期を過ぎて科学技術の発展し、
あれ?みたいなことがいろいろ出てくる中で、
とはいえその神話っていうことというか、
ある種の虚構というか、
そういうことが力を持っていた。
15:01
とはいえちょっと思うのは、
科学も神話なんじゃないかってことを言う人もたまにいたりして、
我々は過去が神話で今がそうじゃないと思っているかもしれないけど、
我々も同じように神話の世界を生きているっていう。
個人的に。
もう総体験を始めたらキリがないですね。
いや本当にキリがないですよ。本当にキリがない。
仏教の人たちはこの世は空であるって言いますからね。
あらゆることは難易度であるみたいな。
そうっすね。
だからどっかで考えないっていうスタンスを書く腹を決めて、
それで前に進んでいくのしかないっていうのは、
もちろん。
現世の私たちとしてはそういうものなんです。
まあそうっすね。
ライフゴーズオンと生きていかなあかんねということなんでしょうね。
最後の綾野孝司の問いかけとかはすごい私は面白いです。
そんなお前かのようにとか言ってるけど、
お前がじゃあかのようにもしバンって広めたとしても絶対みんな信じないよみたいな。
フィクションをフィクションと思わないですがってくるのが人間なんだからみたいなこととかも言ってる。
ああそうっすね。
そうっすね。
そういうのも本当そうだなって思って。
人が物語を求める理由とかもそういうところにあるなと。
自分ならどうも思わずとかフィクションをフィクションと思わないのが人間と。
まあでもそうね。
そうかもね。
そうかもね。
そうかもね。
マジでだから秀場はマジ人とご飯行ったりとかしたほうがいいよっていう話。
お金あるんでしょ。
お金あるんでしょっていう話。
何人かに、信頼できる何人かにかのようにで壁打ちして、
あれ意外と、意外とダメだなって。
こういうふうに言ったら意外とソフトランディングできるかもみたいな。
道を探していけと。
そうそうそうそう。
なるほどなあ。
本当に私これが108年前の人間とは本当に思えなかった。
ひでまろのような状態になってしまうことは本当にあるなと思って。
それがなんか面白かった。
いやある。
この人間との関係が本当に面白かった。
22世紀の人間もたぶんこれで悩む。
21世紀の人間もこれで悩んだが、
22世紀も23世紀もこれで悩みません。
ずっとずっとこれで悩む。
ずっとこれで悩む。
いやそうね。
そうだろうなあ。
17:36

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