九鬼周造の哲学
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は【九鬼周造】さん終了ということで、雑談会やっていきたいと思います。お疲れ様でした。
はい、お疲れ様でした。結構今回も長くというかね、7回ぐらいだったかな結局。
そうだね、うん。
でもやっぱりね、この域の構造やって、偶然性の問題をやって、2つやったからこそフッキーさんの世界観というか、
二元性とか一元性とかいろいろキーワードあったと思うんですけど、やっぱりいわゆる西洋哲学者と全然違う雰囲気だなというか、
そういう世界観を持っているなというところはね、一緒に見てこられたんじゃないかなと思ったんですよね。
うーん、いやーそうはね。だから当初はすごい具体的な話するなぁと、域とか偶然とか、全然その世界の話ししないなーみたいなさ。
西田さんがやっぱりそこにめちゃくちゃ効き込んだのとはだいぶ対照的だねとは思ってたんだけれども、テーマだけ聞くとね。
ただ結局行き着くところはその偶然なんかだとかなり世界の話みたいなところまで食い込んでたから、やっぱりアプローチが違うからこれでできているとは言ってはいなかった。
西田さんも言ってはいないけれども、この世はこうなっているって言われても納得するぐらいのレベル感で話しされちゃったなーっていうね、面白みがあったね。
具体的な実践の難しさ
兄貴と中でね、結構これすごいねみたいな、全部説明できちゃうじゃんぐらいになってたもんね。
なってた偶然の方でね、だいぶなったね。
どうでした?なんかその世界全体まで及んだよねっていうふうな面白さもあったと思うんだけど、兄貴の中でこれがちょっと残ってるなーとか、もうちょっとこの辺深く知りたかったんだよなーとかって、そういうのってあったりします?
そうだね、具体的な感想っていうよりは、今回その生きの構造がやっぱり具体的な面から言うと面白いなーってすごくやっぱり思って。
ぜひね、実践したいなとは思うんだよね。その生きな人間でありたいからね。
それ思うんだね。生きてやりたいね、そもそも兄貴は。
そうそうそうっていうときに、3要素、備体と生き事と諦めみたいなのがあったときに、いや待てよと。
3要素みたいなものとか、いやだいぶそうだよね、それ生きだよねっていうふうに、だいぶ収録中はすごい納得感があったんだけれども、
じゃあいざ自分が実践しましょうと言うときには、すごい難しいよねっていうことをやっぱり思ったんだよね。
これなぜかっていうのも考えてみると、何て言うんだろうね。
例えばクキさんが生きの構図に行き着いたやり方もそうなんだけど、ケーススタリーでこの人は生きだ、あの人は生きだみたいなものを集めてこれに行き着いたわけじゃないっていう話。
すごいなと思ったんだけど、それを逆をやるのも同じぐらい難しいなと思う。
逆っていうのは構造を知って、実際生きな振る舞いをするとか、生きであろうとするってことかな。
そうそう、ちゃんと説明すると、このクキさんが生きっていうものに着目して生きの構造を解き明かしたっていうのはすごい難しいことだと思うんだよね。
すごいことをやったからこれだけ残ってるって話だと思うんだけど。
逆も確かにちょっと言い過ぎかもしれないけど、これを聞いて自分も生きになるっていうのも同じぐらい難しいんじゃないかって思った。
なるほどね、はいはい。
それから、その難しさっていうのが、ごめんね、ずっと考えながら喋ってるからあれなんだけど。
クキさんがアプローチしなかった、生きな人のケーススタディを集めてその共通項を探すみたいなことはしなかったじゃん、クキさん。
はいはい、そうだね。
だけど、じゃあ自分が生きな人になろうとした時に、それやっちゃいそうなんだよね。
はいはいはい。
あれが生きか、これが生きか、あの人生きだわーみたいな人をバーッといっぱい集めて、その共通項みたいなものを探して、
自分もそうであろうってする時に、たぶんというか、何かが足りない気がするってすごい思ったんだよね。
なるほどね。
で、その何かは何なんだろうと思った時に、めちゃくちゃなのかな、哲学っぽくないかもしれないんだけど、
直感だとか、きらめきみたいな、論理を超えた想像力みたいなものがないと、結局その構造したところでそこにたどり着けねえんじゃねえか、みたいな。
もしくはたどり着くもの自体がないんじゃないか、そもそもみたいなね。
具体性と対象について
へー面白い。
せいぜいたどり着くとして、その集めたケーススタディーと同じもの、猿真似みたいなさ。
猿真似ちょっとね、卑下しすぎというか悪く言いすんだけれども、
なんかね、そういう難しさを感じて、いざ実践しましょうという時に、
なんかね、その辺をぜひハヤトにぶつけてみたいなと思って。その飛ばす感じ?想像力?直感?みたいな。
何なんだろうな、だったり、ハヤトもそこに共感してくれるのかどうか、みたいなときに。
そうなんだよね。
これは今僕が感じたところで言うと、やっぱりその、
息であれ、何か人と関わることとか、全く身体表現が伴うものだよね。
息の話でもさ、手の仕草とかさ、姿勢画とかって言うと思うんですけど、
やっぱりそういうのが伴うと、やっぱりロジックだけではどうにもならんというか、やっぱ実践が入ってくるじゃないですか。
じゃあ、その手の動きを勘コピしたとしてさ、その人が息なのかどうかみたいな話、やっぱ思っちゃうんだよね。思っちゃうというか、なるはずなんだよね。
うんうん。だからそのために、まさに構造ではね、その本質としてこういう息とか、意地とか、美体とかがあるかっていうところはもちろん大事だと思うんだけど、
それに乗っかって、ちゃんとそういう仕草とか振る舞いができるかっていう話って、やっぱり全然違うなんだろうな、レイヤーの話だとやっぱ思いますと。
例えば料理とかもそうと思うんだけど、レシピとかをめちゃめちゃ勉強して、記憶しましたと。
でも卵がうまく割れなかったら絶対おいしい料理できないわけじゃん。
まあそうね、はいはいはい。
っていうときに、やっぱりおいしい料理を作るってことには正しいレシピとか手順を知るっていうことと、それをやっぱりちゃんと実行するってやっぱり両方が必要だよねって思うときに、
兄貴が思う息とかっていうのも多分そういうことなんだろうなって思うんだよね。
なるほどなるほど。
そこに直感がどこに必要かっていうと、おそらくおいしい料理を作るってときに、やっぱり何かしか自分らしくとか、自分のやりたいようにやるっていう要素が含まれたときに、
多分その直感、兄貴直感とか想像力、イマジネーションもそしてクリエイティビティも多分両方の想像があるとは思うんだけど、
っていうものが求められるのかなっていうふうになんか感じたんだけど、なんか今の僕の話でどうかな。
わーすごいっす。ありがとうございます。
ほんとですか。
3分くらいさ、3分くらい考えながらダラダラ喋ったことをうまく表現していただいたね。
そうそう、料理だとわかりやすいかも。だからそうだよね、同じ完全にさ、だから料理バトルじゃないけど、完全に同じ食材みたいなものを集めて、
さあどうぞみたいなときに、同じものを作れるのかだったりとか、同じものをできたとしてそれは果たして粋なのかだったりとか、その人の料理と言えるのかみたいな話と確かに近いと思う。
そうだよねそうだよね。例えばなんだろうな、粋って常に言うと関係性じゃないですか。
なので例えばやっぱり料理だとこの人に食べてもらいたいとか、この人に喜んでもらいたいってものがないとそもそも成立しないと思うんだよね、その美体っていうのが大事だから。
おーなるほど、そっか、相手ありきってことだね。
そう、相手ありき。ただ単になんとなくなんだ、オムレツ作ってくださいとか、何万人に食べてもらう会社のオムレツレシピを作るからお仕事やってくださいって言われると途端に粋っぽくなくなるなって話しながら思ったんだよね。
あーなるほど、美人的にはすごいけど行き方はちょっと違うんだね、そっちは。1万人というかマス向けのオムレツはね。
マス向けのオムレツは違うよねと。
はいはいはいはい。
やっぱり特定の誰かとか目の前のこの人っていうところがすごい大事になってくるんじゃないかな。
おーなるほど。
あーそれは面白いね。
となると、さっきの、例えば行きで言うと、さっき言った自分が行きになろうっていう時にケーススタディをいろいろ集める。
あの人は行ったね、この人は行ったねっていうものをバーっといろんな人を調べて、その共通項を見つけるっていうのは、
今のハヤトの料理で言うと、みんな喜ぶオムレツを作る方に行っちゃうから、行き成分がだいぶ薄まっちゃうというか、
あー確かにね。
ちょっと違う方に行っちゃうみたいな、マス向けの行きみたいなものになっちゃうのね、それは。
そうだと思う、そう。
なんだろうな、その時点で分岐しちゃってる?
そうだね、よしやか兄貴の観点で言うと、誰にやっぱ行きだと思ってもらいたいのかとか、
どういう風な環境の中で自分が行きだということを周囲にやっぱり思ってもらいたいのかっていう、そこが多分大事なんだろうね。
それが想像力と繋がるんだろうね。
なるほど、そこが抜けてると、一気に想像力とか直感みたいなものが働きづらくなるんだ。
そうそう、具体性がなくなっちゃうからね。東京の渋谷なのか原宿なのかも違うだろうし、僕らみたいに岩手とか京都っていう土地でやるのかどうやっても多分違うだろうし。
うわー、なるほどね、それは面白いね。
そっかそっか、だから自然と、自分ってそういう直感ないタイプだと思ってるから、
どうやってそういう構造をした時に、行きみたいなものにたどり着くのかって考えた時に、多分自然とそういうマス向けになっちゃうんだろうね。
そうだね、だってぼんやりしちゃうから。
だから、行きのイデアがあってないってこれだけ散々言ってるのに、そこに縛られてるなって今の話ですごい思ったよ。
そうだね、これ結構あるなと思って、例えば全然また違う話なんですけど、他の仕事でキャリアデザイナーとか、キャリアの相談するっていう仕事をしつつ、
ちょっとマーケティング的なね、今のミライフっていう会社に面談とかキャリア相談してくる人を増やしたいなとかっていう仕事がやってるんですよ。
そこで言われるのは、より具体的にどんな人、ペルソナとか最近言われると思うんですけど、
やっぱりしていかないと、結局メッセージもぼんやりしちゃうよねとか、結局誰でもいいって言うと、やっぱり誰も見てくれないマーケティングになっちゃうねとか、やっぱり結構言われたりするんですよね。
多分それも結構同じ話で、やっぱりこの人にとか、こういういろんな他にも人材商売の会社たくさんある中で、こういうふうに思われたいとかって考えたときに、
そこをとにかく具体的にしていかないと、なかなか物事進まんなっていう思いがあったんだけど、結構今の域の話とか料理の話に近いなって思った。
いやー、そうだね。だからこんだけさ、2年以上か?
ほぼ3年になるね、5月で。
3年になるか。聞いてるのに、そのイデアの呪縛。別にイデア悪くないし、プラタンも全然悪くはないんだけど、
なんかそこから、やっぱりその、いわゆる価値観的なレベル、無意識化レベルみたいな話で、そこからある意味飛び立つというか、そこをフラットにするってのはこんなにも難しいかってちょっとびっくりしてる。
それこそクキさんが言ってたけれども、やっぱり人ってどうしても論理的とか抽象的に考えたくなる。
やっぱそっちを追い求めたくなる部分ってあると思うんだよね。
やっぱりそこにある人を抗って、どこまでも現実の世界とか生きてる世界でやろうとすると、やっぱり生きとは何かといえば、私にとってとか、この場においてとかっていうのは絶対入ってくるんだろうね。
いやー、そうだね。確かにこの場においてとか、誰のためとかそういう具体性が絶対入ってくるんだね。
生き方の多様性
だから、生きの意味だというものは存在しなくて。
例えばクキさんの例で言うと、例えばその誘惑みたいなとこに行ったときの生きっていうものだと、あと家庭生活の中における生きと、あと友達とご飯に食べに行くときの生きは、たぶん全部違うんだね。
違うだろうね。
っていうのはね、わかんないね。これは価値観レベルというか、WishTVで混同しちゃっててわけわかんなくなっちゃうんだろうね。
そうだね、そう思う。
逆に言うと、それぞれは生きの表現としては違うんだけど、構造としては、離体、生き地、諦めがちゃんとあるよっていう、そこの両面を見れるかどうかってことだよね。
いやー、面白いね。
そうだね。
それから同じ人間が2人いたときに、自分みたいなそういう、イデアタイプ。イデア悪くないな。なんかイデアに悪いイメージついちゃいそうね。
まあ、抽象タイプっていうのかな。
抽象っていうと?
要は具体的なシーンとか、今ここってよりも、一般タイプか一般的なことで考えちゃうみたいな感じだね。
あと、例えば他の生きな人を参考にしましょうみたいな、自分も生きになるために参考にしましょうっていうときの参考方法が、そうなっちゃうんだよね。共通項を探す。
みんな、京都で、京都にいる生きな人、大阪にいる生きな人、東京にいる人、東北にいる人みたいなさ。さらに、有格会にいる人も、一般、大衆向け食堂にいる人も。
あり得たことにいる人も、生きよう。みんな、あの人もかっこいい、この人もかっこいい。で、その共通項を割ってまとめちゃうから、割って分かんない。
そうね、そうね。
しくじるみたいな感じだけども、これやっぱりちゃんとそこを直感タイプじゃん。直感タイプっていうと意味不明というか、得体の知らない感じ?
その、抽象タイプから見て得体が知らないから直感タイプって感じちゃってるんだなって思ったから、直感タイプではなくて、なんていうの?悟りタイプ?なんていうの?
いやでも具体じゃない?今ここタイプみたいなね。
そうね、その瞬間瞬間で意気を体現できる人って言って。
その人からするとそれが当たり前だと思うんだけど、じゃあそういう人が、いろんな人を参考にしましょうっていうときは、やっぱりその文脈も含めて、この人はなぜ今ここでこの瞬間生きなんだろうか?
そういうことね。
じゃあこの人は家庭生活のこの瞬間になんで生きなんだろうか?そういうことね。
っていう、同じ現象、同じ事実を見ても、たぶん自分への落とし方とか学びとか、見てるもの、解釈が、たぶんすごい違うんだろうなって思った。
そうだね。
だからその結果同じものを見ても活かせる具体的な方は、そういえばいろんな具体を見てきたから、じゃあこの瞬間はこうしてみよう、試してみようって言って、成功するかもしれないし失敗するかもしれないし、
失敗したとして、あ、そっかそっか、今これは、この瞬間はこうじゃなかったな、みたいなことを学びとして得るわけで、じゃあ次はこの瞬間こうしてみようってできるんだけど、中小タイプだと、もうこれが俺の域だーみたいなさ、もう不意になっちゃうじゃん、もう共通項だから。
そうねそうね。
マス向けの域だからさ。
うちに飛びついちゃうよね。
自宅でもさ、職場でも同じような域を発揮して、もうしくじるみたいな。
でもそのしくじった要因が、そっか、これは域じゃなかったか、じゃあ次の域さーがそうみたいなさ。
なんかそういう違い、しくじりみたいなものを発してそうで、それって多分自分の中の仮説じゃないから、どこがしくじったかっていうと、
お手本にした、マス向けの域が間違ってるんだ、みたいなところしか思わないから、次のマス向けの域をまた身につけて、またどっかで必ず、絶対どっかでしくじるっていう。
そうだねそうだね。
具体的な経験の重要性
あんまり仮説も検証もないみたいなね。少ないというか、ちょっと難しいというかね。
なんかそういう感じがして、いやありがとうございます。すごいなんか、
ハヤトのカウンセリングでね、コーチングでなんか、あれだね、見えてきた気がするね。
いやでもやっぱ、すごいそれは僕も言えてる話、やっぱりこうやって人の話を聞くことで自分の考えが当然深まるっていうのも多いんだけれども、
今の兄貴の話を聞いて思ったのは、やっぱどこまで行っても自分、自己理解とか人間理解にやっぱりこういう話で行き着くんだなっていうのをすごく感じたんだよね。
はいはいはいはい。
例えば同じ域でも、当然男女とかも違うし同じ男性でも、顔立ちとか身長とか体型とかで全然違うとした時に。
いやーそうなんだよね。
もちろん自分に近いモデルの人をもちろん探そうとかってなるとは思うんだけど、
それで100%ハヤトらしい域ができるかってやっぱ違うわけじゃない?
それって外じゃなくて、そうそう、やっぱ内側に探しに行かなきゃいけないんだけど、やっぱそうなった瞬間にもうさ、これだけやるじゃん。
あーそうだよね。
うん。
そういうことを自分とはとかさ、自分は一体どんなふうに周りから見られているのかみたいな、そういうことをメタ認識のことも含めてやろうと思うと、
それは難しいよなっていうか、結構やっぱそこになんだろうな、僕は逆に難しさを感じるなって思った。
あーなるほど。まあ確かにそのレベルまで行くと、
うん。
えーと、いわゆる最初に言っていた直感とか。
うんうん。
っていうのを使っていいレベルな気もするよね。
そうだね、うん。
果たして自分は何をいいと、そのこの瞬間に自分はどうするんだろうかということがちょっとわからんみたいな話になってくるってことだよね。
そうです。だからね、時々言ってそのさ、なんか幸せみたいなものもさ、なんか僕がね、この世のそもそもの幸せとは何かとか、人類にとっての幸せとは何かっていうのを知って、
それがあって初めて自分の幸せを理解できるんじゃないかとかっていうことをいつも思うんですけど、
それはなんか一定あるなと思ったときに、
今って僕、子供がまだ小さくて家族で過ごせるから、家族で過ごす時間が幸せとかって言ったりするんですけど、
例えば20年経ったら、当然ね、子供もひとり立ちとかするよねって思ったときに、
そのときの自分の幸せって何だろうとかって、やっぱ時々考えるんですよ。
はいはいはいはい。
うん。やっぱ今ではわかんないし、なんかよく想像するものの、やっぱりちょっと今の幸せがなくなりそうで怖いとかって思うんですよね。
うーん、そうなんだ。
でも家族で過ごす時間が幸せだと思ったときに、それがいずれやっぱ失われるものだみたいな。
うん。
そういうときに、逆に今の話でいくと、やっぱその時々の自分の幸せとか、
今35歳の自分の幸せと55歳になったときの自分の幸せって違うんだろうなとか、
そういうことは結構考えるようになりましたね。
あー、なるほどね。
まあ当たり前のことかもしれないけどね。
うーん、そうだね。
うーん。
そういうと悩みどころはあるの?自分にとっての幸せ。今度は人類にとってじゃなくて、自分にとっての幸せは何だろうかっていうのに今度は悩みがシフトするというか。
まあ悩みっていうか、なんだろう、やっぱ先生ね、これ時々言うんですけど、やっぱ楽になりたいっていうか、本当は考えたくないんですよね。
はいはいはい。
だからもう自分の残りの人生の幸せはこれだって決めて、それにのっとって生きてたらハッピーで慣れたらいいなっていう、それは無理な場って分かるんですけど。
それは分かったってことなんだね。
そうそうそう。でもなんかまだちょっと認めてきてないなみたいな。
はいはいはいはいはい。
どちらかと言うとそっちの方が強いかな。何が幸せかを悩むというよりは。
もうちょっと太陽年数の長い幸せあるんじゃないみたいな。
そうそうそうそう。
それまだ見つけられてないだけじゃんじゃないって、やっぱすっとりそれは見つけに行きたくなっちゃう。
うんうんうん。
まあやっぱなかなかなくならないですね。
まあ確かにそうだよね。その瞬間瞬間を例えば幸せに生きようとするとか、その瞬間瞬間を生きようとするっていうのは。
はいはい。
結構なカロリーとエネルギーと頭使うだろうから、それをまあ悩みと捉えてもいいだろうし。
そうだね。
まあ楽しみと捉えてもいいだろうし、いずれにせよカロリーは消費しそうだもんね。
ああすると思う。
だからそういう意味ではね、こう自己理解とかね、そういった生活の中の理解を深めるってまあ大事だけど大変ではねって思ったときに、
あそうだ、あれちょっと話したいと思ったんですけど、
ちょうど先日あれです、ソイテツ公演ってあのなんだ、あれはコミュニティって言っていいのかしら。
ソイテツラジオでやらせていただいて、コミュニティの集まりでソイテツカフェをやったんですよね。
その哲学カフェのソイテツ版みたいな感じで、みんなで1時間ワイワイ話そうっていうのをやって兄貴も来てくれたと思うんですけど、
今回のテーマはですね、僕が提案して愛についてっていうのを話したじゃないですか。
いやーそうね、なんでいきなり愛とか言い出してるんだと思ったけれども。
普通に考えるとね、30何歳のおじさんが愛について語ろうって言われたらちょっとやっぱり警戒するじゃないな、どういうことみたいな。
これ何回でも何回でも言うけれども、やっぱりこの哲学素人が、例えばそのオンラインとかSNSで、
哲学カフェやりますみたいな募集を見た時に、次回のテーマ愛ですって書いてた時に、ちょっと警戒するもんね。
するよね、ちょっとそれはいいのかなってなるよね。
もうちょっと選んだ経緯を教えて書いといてみたいな。
確かに。なんでその話をしたかっていうと、愛情とか別に恋愛でもいいし、人類愛でも家族愛でも、別に動物愛でもいいですよとかいろいろ言ったんだけれども、
愛するとかってすごく日常的なことだと思うんですよね。息みたいなものと近くって。
別に普段から何か自分が愛に溢れているとか、誰かを愛してるとかって語れるかって言うと絶対足らないことでもあると思ってて、
愛についての考察
そういうテーマこそ、わざわざそれを設定してみんなで話してみるってことに意味があるんじゃないかって思ったんですよ。
なるほどね。
だったときに、愛についてもいろんな話が出たなと思うんですけど、やっぱりこの今の話をつなげて考えると、
愛そのものとか、世の中一般的に愛とは何かって話はもちろんそうだし、自分のケースに当てはめると、
やっぱり皆さんに結婚の仕方があれば、奥さんととかって言うと思うんだけど、
自分のケースに当てはめたときに、あれこれって愛なのかなとか、
ちょっと違う、大好きと愛って何が違うんだろうとかってあったときに、
言われてみればわかんないなとかっていうふうなことはすごく面白かったんですよね。
やっぱり哲学もそうだと思うんですけど、概念としての哲学と、自分におけたときの哲学。
これってできないものとかもあって、万物の根源は水だって言うときに、
それが自分の生活にどう当てはめるかってやっぱり難しかったりはするんですけど、
特に近代とか現代やっぱりなればなるほど、
じゃあこれって自分の価値観に当てはめたときにとか、自分のまさに生活、
キーさんはそれまさにやろうとした方だと思うんですけど、
自分の人生とか生き方に当てはめたときにどうなんだろうみたいな、
そういうのを考えたらすごく楽しいなと思って。
うーん、なるほど、まあそうだね。
どうだったのか、兄貴が先日愛についてやったときなんですけど、
そこからこんなことを自分でも考えたよとかってある?
哲学と愛の探求
今こうやって2人で話しているのもそうなんだけれども、
やっぱり何人か集まって、それについて話す中で、
みんなの参加している方々の理解がそれぞれに深まるみたいな。
それぞれの中での具体的なものがよりリアルになり、
愛とは何か、今回の構造みたいな話で、
抽象部分だよね。愛とは何だっけっていうとこと、
いうのをなんとなくみんなが言ったり聞いたりしながら、
1時間とかその後の中で、
最初の5分と最後の1時間経った後の、
みんなの愛のイメージ全然違ったっていうのが、
いつも哲学カフェみたいなものを怪しいとかバカにしてるんだけれども、
こういうことかっていうのを感じた瞬間ではあったかな。
嬉しいな。でも確かに今の話を今日の話に引き付けると、
それぞれの愛について語るっていうのは、
さっきの大阪の人の意気と京都の人の意気とっていうのを、
ある種、理解するってことでかなり近い話だと思うんだよね。
ただそこに自分も入り込んでるから、
例えば大阪の人の意気を聞いたときに、
自分の意気ってどうなんだろうとかっていうふうに、
ある種物差しができていったりとか、そこと自分っていうものを比較できる。
それができるのが哲学カフェの面白いところとか、
いいところなんだよなっていうのは今の話を聞いてもすごい思ったね。
自己認識の深化
だからやっぱりこの哲学が面白いのはって、
いきなり哲学の話になっちゃうけど、
自分の考えってやっぱりどう頑張っても相対化しきれなかったりとか、
やっぱり自分の考えを手放すってすごく難しい。
でも今兄貴も言ってくれたように、クキさんの話を聞いて、
自分ってどこまで行ってもイデアの方とか、
抽象の方に行っちゃうんだなとかさ、
具体的に考えて難しいよねみたいなことまで気づけるわけじゃない?
いや気づけないよ。気づけなかったから今回はやっとに聞いて、
そこはもう1クッション必要なんだよね。
自分みたいなわからないやつは。
そこは結構大事なところ。
なるほどね。
例えば本当の、だから一対一だけ。
今目の前のハヤトと喋ってるんだけれども、
そこにはクキさんの話があるから、
これは一対一ではないゲームについてみたいな。
手がかりはなるもんね。
そういう意味で本当に一対一で本当の対話で、
それができる人とかっていうのは、
ある意味、自分の頭の中だけでもそれができるっていうタイプの人だと思ってるよね。
なるほどね。
だから本を読んでそこは理解できたって、
もし自分がこれを捉えてたとするとめちゃくちゃおこがましいというか、
危ない態度なんだよそれは。
なるほどね。
だからその本を読んだというかハヤトから聞いて、
さらにそれを分かんないってことをハヤトにさらに言語化してもらって、
なるほど自分ってその抽象タイプだったわ、
どこまで言ってもダメだわみたいな。
そこでやっとなんとなくこう、
自己認識が少し深まるみたいな。
そういう結構ね、段階を踏んでる話だと思うんだよね。
なるほどね。
全然全然ダメではないとは思うんだけども、
今の話で面白いなと思ったのは、
僕は多分それこそね、
二十歳くらいからなんとなく分かんない分かんないって言いながら手作書を読んだりとか、
なんとなく触れてた中で、
それなりに自分で読んだ時にはこれは自分の考えと違うけど面白いとかっていう、
その見取り、見取り図まではいかないけれども、
なんとなくの地図みたいなものは自分なりに作ってきたんだと思うんだよね。
だからこそ多分自分の中で読んだ時に、
これはこういう装だとかこういう風なタイプだとかっていうのがちょっとずつちょっとずつ今身につけてる段階だと思うんですけど、
それでいくと確かに兄貴にね、
けきさんすごいでしょと自分なりに考えてみてって言っても、
それは難しいよなっていうか、
そこにはギャップがあるよなっていうのを逆に今気づいたのよ。
だからね、
ハヤトがすごいとは言わないけれども、
タイプの話で言うと、
しかもこの領域においてはっていう話で、
いろんな人の考えっていうものだったりとか事象を見た時に、
ちょっとハヤトは幸せに対してはダメだったけど、
この人はなんで今こう考えてるんだろうとか、
なんであの人はこう考えてるんだろう、でも自分はこう考えるのになみたいなものを、
ちゃんとそこは自分はこう考えるのになみたいな、
ここで多分比較しながら来てる。
で、一方で自分の場合はそういうのを見た時に、
あ、あの人の考えもいいわ、この人の考えも面白いわって言って、
ていうことは、こういうの面白いんだみたいな、
ちょっとマス向けな性質があると思うのね。
なるほどね、なるほどね。
そこの違いで言うと、
そのタイプが違うと結構話って噛み合わないことが多分あると思う。
で、その噛み合わなさには、
しかもどっちかというと、
ハヤト側しか気づかない。
はいはいはい。
なるほどね。
だから自分の方は噛み合ったないことに気づかずに、
ハヤト側の人間に、
いやですよね、ですよね、みたいな話をしがちっていう。
肩組みに行っちゃうやつね、よくあるね。
そうそうそう。
はいはい。
面白いね、なんかさ、ちょっとね、
身内をお互いに褒め合うのもちょっと気持ち悪いかもしれないけれども、
そのタイプが違うからこそ、
やっぱり兄貴が今聞いてくれて、
ああいうことって言ってくれてることが、
リスナーさんというか聞いてる方からすると、
すごくそれによって伝わりやすくなるとか、
腹落ちやすくなるっていうことが、
このラジオというかね、
ヤイテムにおいてはあるんだなって思うんだよね。
まあそうね。
だからいろんなラジオ、ポッドキャストとか聞いてても、
意識的にそういう配置にしてたりもするし、
そうだよねそうだよね。
ビジネスで言ってもそうじゃん、
先導二人いて山登るみたいな話でさ、
そこはもう本当にタイプだったり相性の話なんだよね。
確かにね。
いやでもそこまでやっぱり自覚してたら別にさ、
僕も頼まないじゃん兄貴にさ、
ラジオやろうよって言ってさ、
なんか俺はこのタイプで兄貴はこのタイプだからって思ってないけど、
なんかあるんだね、その奥の方にはというか、
まさに構造を捉えようとした時に。
まあだろうしね。
それがその前方に伸びてる人もあんまりいないんだけど、
それはだいぶスーパーマンチックになる。
2方向でも超スーパーマンだから、
1方向に伸びてる人っていうのは多分多いんだろうね。
かえとで言うと、
さっきの考えることに関して自分はこう思うみたいなものはあったとしても、
そこでは幸せみたいなものが、
どっちかというとこじらせちゃってるみたいな感じがする。
こじらせ川だね。
そこはやっぱりとんがりなのかなとは思うように。
難しいよね。
ごめんなさいね。
難しい話からいろいろ言っちゃってるんですけど、
じゃあ自分を知るとかさ、
自分を深掘りするとかって話をさっき言ったけれども、
一方で、自分なんてないっていう発想も僕は受け入れられてるわけですよ。
仏教的にはそうだし、
環境との相互性で自分ってやっぱり嫌がってくるものだから、
自分を知るっていうときは、
自分だけにムーン向けてもダメだよねっていうことも、
やっと腹落ちしつつある感じなんですよね。
今回の話を言うとそれも面白い。
自分もないと考えると、
生活への応用
例えば家庭にいるときの自分と、
子どもと二人きりだけの自分と、
奥さんと二人きりだけの自分とみたいな感じで、
その瞬間瞬間自分って違うんだなみたいな話につながるよね。
でもそれも全部自分だよねってなるし、
だから自分が意気になるんじゃなくって、
意気という自称を自分が表現するみたいな、
だから意気が先で自分が後みたいな、
そういう感覚でどんどんなってくるね、そうなると。
面白い。
だから自分もそうだよね。
確かに自分探し始めちゃうと、
もうどこに行ってもこれが俺なのだみたいなさ。
そうそうそう。
さっきの意気と同じだよね。
どっかでしくじりそうだな、これが俺なのだタイプは。
やっぱり環境が変わったときに、
行きづらいとかやりづらいタイプになっちゃうよね。
まあ、しくじるときはどっかでぶつかるというか、
あ、そうだよ、ぶつかるだと思う。
でもやっぱりさ、これも、
柔軟な人ってやっぱり魅力的だけど、
ともするとやっぱりその場その場、
その場、その場当たり的っていうのかな。
発泡美人的なね。
そうそう的な感じになっちゃって、
本当にこれでいいんだっけって思い悩む自分もいるし。
そうすると行きで言うと、行き地がないバージョンだもんね。
そうそう、行き地がなくなっちゃうね。
だから、そこって本当に難しいなというか、なんだろうね。
正解がないからこそ。
確かに柿さんやっぱりやばいね。
これ行きの話だけじゃないんだ、これ。
やっぱり何でも応用できるね。
できそうな感じにしてくるね。
できると思う。
これ補足情報みたいな感じなんですけど、
それですカフェの時に参加してくれた方に教えていただいたんですけど、
YouTubeでこの行きの構造を紹介というか解説してる動画があって、
多分これが哲学チャンネルっていうチャンネルの動画だと思うんですけど、
すごい6万人も登録者がいらっしゃるようなチャンネルなんですけど、
ここでこの行きの構造の前編中編後編というのが語られてて、
そこでは僕が話せなかった行きを視覚的に表現しましたとか、
行きとそれに関わりの深い概念もちょっと説明してますみたいなものが、
まさにYouTube版で図が出てくるじゃないですか、図というか画像が。
で、説明してくれてたんですよ。
なので最初からこっち見とけばよかったじゃんって言われるのをちょっと恐れながらなんですけど、
この哲学チャンネルの行きの構造の回とかももしよかったらご覧いただけると、
7分ぐらいなのですごく見やすいと思うんだけど、
より理解しやすいとか、
そういう概念っていうか、視覚的な整理をシェイクキさんと考えて語ってたんだとかっていうのがイメージ湧きやすいと思うんで。
へー、そうなんじゃ。
こっちでいいじゃん。それで裏情じゃなくてこっち見ればいいじゃん。
そう言われちゃうとつらいからさ。
面白そう。
よかったらね、そういうのもご覧いただけるとより深まるというかね、理解ができるのかなと思ったのでご紹介でしたし、
そういうのを教えていただけるの嬉しいなと思ったんで。
参加者の方に感謝ですって感じなんですけど。
ちょっと遅れたから行く前のお話なのかな?
そうそう、兄貴が来る前に教えてもらって。
そんな感じでね、やっぱり、兄貴の話から愛の話とか料理の話とかいろいろしたと思うんですけど、
やっぱり哲学と生活を生き生きするってすごく難しいっていうか、何だろうな。
多分いろんなやり方がある。
哲学とコミュニケーション
人のテープによって全然、哲学同じじゃん。
この生きの構造っていうのを見たっていうのに対する捉え方とか、表現の仕方とか感じ方ってやっぱり当然人一人で違うから、
まさにそれが福木さんの言うところの生きた哲学とか、生の現実に基づいた哲学って感じだよね。
たぶん哲学カフェとか添え哲カフェっていうのはその生の鉄肉というか、
一人一人のタイプっていうものを尊重しながらやるディスカッションというかコミュニケーションなんだなっていうのはすごい感じるね。
そういう感じだよね。
そういったラジオの話でいくと、こういう僕が学んだことをご紹介するっていう意味では、
よりちょっと抽象度の高いというか、その哲学者のこととかを知るっていう感じだと思うんだけど、
やっぱりそこをね、じゃあ自分だったらとか、じゃあ兄貴だったらとかっていう話をこうやってやり取りする中で、
そういうのを聞いていただいている中で、それこそトレーマーの運転中に聞いてますって言ってくださった方も多いんですけど、
ちょっと自分の方に思いをはずてみるみたいな。
そういうきっかけだったりとか、タイミングでやってくれたりしたらすごく嬉しいなって改めて思いますよね。
そうだね。
そんな感じ。
雑談っていうよりはね、だいぶかきさんに引きつけながらの話になりましたけど。
今回の話で言うとだいぶその、ハヤトの本編の方が抽象に寄ってるから、
はいはい。
より具体的な方ばっかの話をするみたいな、普段だと多分8割抽象2割具体ぐらい。
そうだね。
それを踏まえてるから2割抽象のおさらいと、8割の具体の話みたいな感じでね。
なんか面白かったね。
バランスもちょうどよかったかもね、だし。
やっぱそれがね、ふきさんの作品のすごさなんだから、そっちを考えたくなるというか。
自然になんかやらされてるもんね、もうね。
そうそう、手のひらの上ですよ。
という意味ではね、一緒に兄貴とも楽しめたかなと思いますし、聞いてる方も楽しんでいただけたら嬉しかったなと。
ふきさん回でしたという感じですね。
はいはいはい。ありがとうございました。
次回の計画
じゃああれですね、雑談会はこんな感じでまた次回に打ちていくというところですけど、
あれですね、次回はお便りを紹介させてもらいながら、また日本の哲学者やっていくという話でしたね。
そうですね、はい。次はね、またお辞儀さん、日本の哲学者の3人目というところをやりたいと思っているので、
そこもぜひ楽しみにしていただきたいなという感じですね。
はい、わかりました。では今回はここまでということで、次回も引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。今回もありがとうございました。