スピーカー 1
さあ、ということで今月2月のゲスト本編はですね。
GODAIグループの会長。
スピーカー 3
会長。
スピーカー 1
理事長には初回登場いただきましたけれど
会長の佐藤武昌さんに登場いただいています。
GODAI歴60年以上ということで。
健康に対する思いからこれまでの反省を振り返っていただき、
まるで映画のようないろいろお話を伺っていますので、
今月から4回にわたってお楽しみいただけたらと思います。
それでは佐藤会長の第1回をお聴きください。
どうぞ。
さあ、今日は
GODAIグループ会長の佐藤武昌さんにゲストで来ていただいています。
佐藤会長よろしくお願いします。
スピーカー 3
よろしくお願いします。
スピーカー 1
すぽきゃすTVも始まってもう100回も超えて
最初に理事長には登場いただいて、
そこから始まってもう100回を超えました。
今日は会長に出ていただくということです。
とうとうです。
僕は普段どんなインタビューでも緊張するんですけど、やっぱり緊張しますね。
スピーカー 3
いや、もう一番緊張しますよ。
スピーカー 1
でも会長すごく優しいので、すごくほぐしていただいているんですけど、
今日はもう本当にざっくばらんにお話を伺っていきたいなと思うんですが、
せっかくなので石崎さん、このすぽきゃすTV自体
GODAIのLIFESTYLE with SPORTSを世の中に広げていく一環としてやっているということで、
理事長にも出ていただいて、会長にも今回出ていただくことになりましたが、
やっぱりどこかのタイミングで会長をというのはあったと思いますけれど
その思いを一言。
スピーカー 3
そうですね。
このすぽきゃすTVは名前通りスポーツポッドキャストから始まって、
まずなぜこれを始めようかというところは
そもそも会長がGODAI事業として展開していく
礎となっている部分のところから発生していて、配信したいっていうものがあるので、
今日は根幹の部分をお届けしたいなということで
会長にお願いして出ていただきました。
スピーカー 1
ありがとうございます。
会長、早速ですけど、緊張することとかってあります?
ありますね。
スピーカー 2
ありますか?
いっぱいありますよ。
スピーカー 1
例えば最近は?
スピーカー 2
例えば年初の社員に対して話すときも緊張しますよ。
スピーカー 1
あ、そうですか。
スピーカー 2
この前かな
スピーカー 1
これで報告していただきました。
今日は会長に色々とお話を伺っていきたいんですが
手元に僕が独自に色々調査した年表があるんですが
会長、年齢伺ってもいいですか?
スピーカー 2
はい、私は86歳ですね。
スピーカー 1
本当にお世辞でも社交辞令でもなく、全く見えないです。
実は始まる前に伺ったんですけど、
ここ数年中で一番元気かもしれないということをおっしゃってましたけれど
スピーカー 2
ご自身の年齢ってあまり意識してない?
そうですね、あんまり意識しませんね。
還暦もそうだし、ただ家族に喜寿と米寿は祝ってくれと言ってありましてね。
喜寿は盛大に祝ってくれたんので
大事な一つのエポックだと思いますよ。
それ以外は年はあまり考えないですね。
スピーカー 1
それ自体もある種の健康法の一つなのかなと、ちょっと思ったんですが。
そしてGODAIグループを創業されたのはお父様で、
そこから大学を卒業されて23歳の時に当時入職されたということですね?
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
つまりGODAI歴63年ぐらいで
そしてスクール事業、もうすぐ50年ということで
全てを体現されている方なのでいろいろお話伺っていきたいと思います。
やっぱりGODAIといえばテニス、ゴルフ、もちろん他の事業もありますけど、
僕はそこから入らせていただいたので
一番まず伺いたいのは、スポーツ健康事業部ですね。
これはなぜこれを作ったんでしょうか?
これだけで一代記かもしれませんが。
スピーカー 2
私は23歳で自分の家業である
親父を袋の作った神奈川自動車学校というところに入職しまして
親父が高校2年の時、17歳の時に亡くなったんで、
その後遺言で、昔は後取りって言ったんだよね。
後取りは佐藤武昌って遺言で言われた
その言葉がすごく心の中にずしんとあって、
早く親父のやっていた仕事を継ぎたいと、継がなきゃいけないという思いは異常だったんですね。
そこから私自身も変わんなきゃいけない、
やわじゃいられないっていうことで。
なんでそんな気持ちになったのかわからないけれど
ここは人生にとって一番大きなエポックだと思いますね。
スピーカー 1
結構初期でいきなりですね。
スピーカー 2
そうなんです。自分も変わんなきゃいけないということで
いろんな行動とか言動に出てますけれども。
昔は教習所というのは、今の指定教習所の制度がなかったので
経験があれば運転を教えることができたんですよ。
その頃、教習所は生徒さんが大勢来て
活況を呈していた頃なので、人手が欲しかったんですね。
それで指導員やっていたんです。
そういうことで教習所から入って、大学卒業しました。
大学も本音を言うと、おふくろには
俺は大学に行かないでいい、
先輩に聞いて大学の内容はわかっちゃってるから
大学は行かないで、俺は仕事がやりたいって言いました。その時
おふくろが何言ってんだと。
最高学府だけは私が授業料を出すんだから行きなさいと。
私の頃は親が絶対ですから。
わかりました
ということで大学行って卒業して、この会社を継いだわけです。
本当は私は自動車の教習所の経営関係に入っていくつもりでしたが、
いろんな事情があってすぐできない状況でした。
それで、叔父とか義理の兄がやっていた会社がうまくいかないんで、
それをやってくれということで
私がそこに金庫番として行ったんです。
そんな縁があって、30人ぐらいいた従業員を見捨てるようなことは
私は性格的にできないタイプなので
何も経験もないし自信もないけれども、
引き受けちゃおうと。
非常に無謀な考え方ですね。
スピーカー 2
最初に言うことを一晩考えたけれども、
26歳じゃ、そういういろんな話はできません。
言った言葉はいらん。
今日からこの会社の社長にさせてもらいます。
何の経験もないし、何の資質もない。
皆さん不安だと思いますけれども、
東から出た太陽は西に沈むけれども必ず出ますよね、
昇る時がありますよね。
それを信じてやりませんかっていう話をしたんです。
それしか頭に浮かばなかったから。
そこから始まったんです。
赤字の仕事をずっといろんなことをやりました。
うちは本来は神奈川自動車学校という自動車の教習所を
昭和7年、1932年親父とおふくらが作って
始めた仕事ですから、教習所をその頃3つやってたんですね。
そのうちの1つの教習所が白楽で今の支店になります。けれども
そこが指定教習所にするにはちょっと面積が足りなかったんです。
赤字が続いたんですね。
それとその赤字の仕切れた会社というのが、
スポーツ施設でプールや冬場はローラースケートリンク、バッティングセンター、
ゴーカートという組み合わせがバラバラのものをやっていたんですが、
その中でプールについては水泳教室をやっていたんです。
この水泳教室は最初はなかなかうまくいかなかったんですが、
役員の中のお嬢さんが高校でインターハイを取った方がいらっしゃいまして、
その方の縁ができて水泳教室を始めて
私の言ったのはとにかく1週間で泳げるようにしてくれないかというだけでお願いしたんですよ。
そしたら皆さん大勢仲間が集まってきて、
あとは自由にみんなそれぞれいろんな考え方を出しながら、
やがて活況を呈してしてきたんです。
夏の水泳スクールは勝負で約1ヶ月だよね。
その1ヶ月で3,400人くらい当ててたんですよ。
スピーカー 1
桁違いですね。
スピーカー 2
ここですごく私はスクールのシステムがいいなというのがわかったんですよね。
それともう一つはローラースケートリンク。
半端なリンクじゃないんですよ。
1周120mの軽輪場みたいなバンクのついた大きな施設ですよ。
ところがね、ローラースケートで転ぶとコンクリートですから痛いですよね。
これがなかなかね、お客さんが集まらない。
私も覚えてローラースケートの指導員もやりました。
転ぶと痣になってね。
ただ一時良かったのはローラーダービーというものがちょっと流行ったことがあったんですよ。
どんなものですか?
アメリカから来たものでね
走っていって何周があって、
バトンは前の人の後ろを押すとバトンタッチしたと同じようになる。
これで競争するんですよ。
これが何年ぐらい続いたんですかね?その時だけですね。
ローラースケートってスピードからフィギュア、ホッケー全部あるんですよ。
私もホッケーもやったしね。
特にこれはヨーロッパのスペインとか、ドイツ、フランス、イタリアで流行ってたんですよ。
そこで全日本の選手権もやりましたしね。
ただアイスと比べると少ないですけどね。
そういうことをやって何とかローラースケートも流行らせようと思ったけども、
なかなかお客さんが来るようなところまで行かなかったんです。
夏のプールはいいけれども
それ以外の期間を何とかしなきゃいけないっていうことで。
プールがこうありますよね。
周りはローラースケートのリンクですから、5、6メートルで
そういうスペースをどう活用するかって考えた時に、
ローラースケートはなかなか難しいなと思いました。
私も全国いろいろ飛び回って、何かいいものがないかなと、
私はスポーツが好きで、いろんなことをやってきてるのですが
ただテニスはやったことがないんですよ。
そうなんですね。
それで全国を回って
例えば広島とか山梨県とかでは
結構テニスって楽しそうにやってるんだよね。
テニスって面白いなと。
ただ私は女性のスポーツだと実は思っていたんだけれど
それをやったのはなぜかというと
34、5歳とかの頃、50年くらい前に
プール以外の期間に、
ここで何か一面テニスをやってたり、
ここで何か一面テニスコートができるから、
あとは金網の組み立て式で、
セベロンというテニスの大砲型の機械があって
それをアメリカから輸入して、4面ができて
それで中にコートがあるじゃないですか。
コートでいない方はそこで自由に打てる。
そういうものを自分で考えてやったところ
一面で約820人か830人来たんですよ。
これは結構面白いぞと。
それだけやっぱりテニスをやりたいという方が多い
ということが分かったんですよ。
それと同時にこれからの時代というのは
いろんなものがコンピューターから入ってきて
みんな運動不足になる。
コンピューターというのは機械ですから、
それに左右されるわけです。
かなりストレスも溜まるんじゃないかと。
そういうものを解消するのに
テニスというのは狭いところで動きますよね。
運動不足の解消とともに
ストレスの解消になって、
これからの世の中のために
足腰も鍛えられていいんじゃないかということです。
それをやったところ成果が出てきたのです。
でも最初の頃ははっきり言って、
そんなに自信はありませんよ。
10年続くかなというようなことで、
その頃の社員は年俸制ですよ。
10年続けば。私は読めないから。
結果的にこうやってうまく
半世紀近くやれたことは非常に良かったなと、
ラッキーだなと思っています。