本質に迫る会話と冒険的なコミュニケーション
でもさ、本質に迫れた方が、同じだったら迫れた方が面白いって思いません?
そうですね。本質に迫ってない、なんか筋のずれたというか、なんか雲をつかむような話をしているのが、なんかいまいち、なんかちょっとうまく合わせられないというか、気持ち悪い。
なんか、例えとしていいのが思いつかないけど、とにかくドリブルパス、ドリブルパスで、とにかくグラウンド上でパスを繰り返すみたいなトークよりも、
なんか、二人で横並びで、横向いて会話しながら、一緒の方向に向いていくというか、奥に進んでいって、何かを探していくみたいな、ちょっとそういう冒険的なコミュニケーション、会話の方が面白いじゃないですか。
本当にそう。
そこの価値観の違い。
確かにな。
それをやるのって、たぶんね、自己開示が避けられないんじゃないかな、一つ仮説としては。
やっぱりそういう自己開示をする感覚するのが無理っていう感覚の人って、割と多分多くいると思っていて。
確かに。
これはもしかすると、付き合うの話につながるかもしれないですね。付き合うがないのに、ここまでの自己開示はできないっていう感覚。
で、我々はそこは割と、割とフリーじゃないですか。
でもそうですね、昔よりはだいぶ何か、何だろう、垣根なく割と自己開示、何か合うなと思った人には自己開示できるようになりましたね。
昔は全然できなかった気がする。
それは何だろう、いろいろな経験とその経験から経った時間みたいなのもいろいろあるだろうなとか思いながら、時間が解決することも消化できるようになることもあるだろうし。
自分はね、そういうふうに自己開示したほうが楽しいし、得が多いって思っている。
特にやっぱり自分が後輩とかとコミュニケーションするっていう時に、自分から自分はこういう人間だよっていうのをダメなところ含めて正直に言っちゃうっていうことをしたほうが絶対うまくいくだろうなっていう感覚があって、
それは狙ってやってた部分もありますね。
確かに。なんかちょっと変わるかもしれないですけど、私結構先輩と後輩なら後輩のほうが昔から仲良くなりやすいんですけど、
でも世の中で言う後輩苦手みたいな人って、すごい後輩に対して肩肘張りすぎてるんですよね。
先輩だから何とかしないといけないとか、指導しないといけない、責任があるみたいな。
私ちょっと話しやすい年下の人ぐらいの感覚で、妹ぐらいの感覚で普通に話してて、後輩にも全然いじられるし、
でも経験談話そうと思ったら別に話すけど、それは対等な立場として話してるみたいな感覚があって、
自己開示と付き合い方の違い
なんかその後輩苦手みたいな、なんだろうな、後輩に対してすごい先輩しなきゃ、みたいな気持ち強い人多そうだなってずっと思ってました。
自分、次回も含めてたけど、大体の悩みとかそういうのって自分で作ってるみたいなんて、そうなんやろうなーって思ったりするよね。
その後輩に対してもそうだし、付き合ってる相手とかに対しても、まあ大体そうなんじゃないとか思うね。
後輩はなんかなんだろうな、まあどうだろう、なんか組織人としての意識の違いかもしれないですけど、なんかすごいみんな組織に属してる、組織の人間として上と下っていうのを感じてるから、
なんか自分は教える立場にあって、組織の人として責任を持って教えないといけないみたいな。
なんか私あんまり組織に属してる感覚が昔から一切ないので、なんか普通に自由に年下の友達ぐらいの感覚なんだと思うので。
それは大事だと思いますよ。自分もそれは大事にしてる。結局、自分という人間と相手の何々さんという人間の、そこの関係性じゃんっていう。
なんか組織の公式見解みたいなのを考えたこともないし、なんかあんまり建前がないからこそ後輩となんか仲良くなりやすいのかもしれない。
まあね、そういう意味でやっぱり建前を代表しないといけない立場の人は本当に大変だなって思うけどね。
大変ですよね。無理だ。でもどうなんだろう、そういう人はそれを好んでやってる説もありますけどね。
組織の中でうまくやっていきたいっていう。
それはある。やっぱりそういう適正がある人がそこに当てはまるだろうし、それはそうだと思いますよ。
何の話からこうなったんでしたっけ。軽い会話のノリと合わないっていう話ですね。
でもだからね、ヤギリンさんがちょっと前にドライブで一緒に行ってきた人たちがいたそうなんですけど、そこの人たちのノリと合わなかったっていう話で。
完全に合わないわけではないし、たぶん一対一では話せるような気もするんですけど、
私がそこ深めたいみたいなところとかをうまく深められないとか、そこは本質じゃないんだけどなぁみたいな話をすごい深い感じでしてるとか、
なんかすごい違和感を感じることも、同年代のワイワイした集団の中にいると、なんか昔より感じるようになったなっていう。
だから結局最初の話なんです。その本質を見つけ出す会話が楽しいと思えるかどうかみたいな感じのところなんですよね。
まあどうだろう、なんか経験にもよるから、それをできた経験がよりまたやりたいって思うかもしれない。
それもあると思います。おっしゃる通り。
そうなんですよね。
なんかなんだろうな、職場で見てる子供の中で、自分の有益になる人としか喋りたくないですっていう高校生がいて。
はいはいはい。
なんか私は時間をかけることによっていろんな人と深められることがあると思ってるんですけど、
なんかそれがなんだろうな、もうその土俵にさえ立たせてもらえないみたいな。
なんかすごい自分にとって有益で、なるほどなっていう考えを持ってる人としか話したくないみたいな感じだから結構シャットダウンされるんですよ。
なんかここには喋りたい先生はいないみたいな感じで言われたりとかするんですけど、
なんかなんだろうな、でもそれも難しいなと思って、それはなんか有益かどうかってその経験によるのだから。
おっしゃる通りで、やっぱりなんだろうな、やっぱ教育の拒否だと思うんですよね、それって。
教育って要はその教育を受ける人がわからない、これを受けて効果があるのかどうかっていうのはわからないけれども、先人、大人、上の人たちがこれが意味があるものなんだよっていうのを本人の納得なしに受けさせて、
本人一人では得られないような効果っていうのが得られるっていうものが教育の一つの本質的な部分だと思っていて、
それで考えるとやっぱりその子は一人で全部判断して話すべき話せないべきってやるわけじゃないですか、
それはやっぱり普通にいろんな大人たちが作ってきたものの教育みたいなとか、そういうものに頼っている高校生よりも最終的なパワーとしては小さくなる可能性があるんじゃないかって自分は話を聞いて思いました。
教育の拒否と勉強する意味
それをでもいかに本人に伝えるかって難しくないですか。
それはその通りで、それは無理なとこは無理ですよ。そこは変に触らない方がいいだろうなというのはありますし、どういう教育を受けてきたんだろうかっていう気持ちにはなりますけどね。
なんか押し付けることも間違いだ、なんか違うなぁと思うので、なんか難しいなと思うんですけど。
でもなんか、すごい思うんですけど、すごいシンプルな問いなんですけど、なんか子供になんで勉強するのって言われたら玄徳さんはなんて言いますか。
それは確かにね、パッと答えられるあれではないから、ただなんとか、まあそのなんていうの適当とまでは言わないけれども、一旦今の思いつきみたいなレベルで言うとしたら、なんだろうなぁ。
でも、もちろん人によるし、さっきも話してた収録外で話してた勉強の哲学っていう千葉雅也さんの、直接的には書かれてないんだけど、みんながみんな勉強をするべきっていうふうに書いて、千葉さんの言う勉強が何なのかっていう話もあるんだけれども、
どういう勉強かっていうのはあるけど、でもやっぱり、よりよく生きるためじゃないかな。やっぱり勉強をするっていうのは、本質的な部分はやっぱり楽しいだし、楽しくないのであれば勉強しなくていいじゃん、それはって思うし。
私もそう思います。
勉強するっていうことは、たぶん自分と向き合うっていうことなんだろうなって思うんですよね。
やっぱ自分がこれが好きだっていうことに気が付くっていうことでもあるし、これは嫌いだもそうだろうし、自分のコンプレックスがきっかけになって研究をやってる人なんてめちゃくちゃいっぱいいるじゃないですか。
だからそういうことも通しても、やっぱりその研究対象を通して自分と向き合うっていう、そういうのがやっぱり勉強の一つ、個人その勉強する主体に対して与えるものだと思うので。
やっぱりそれがつながっていくのは、ただ生きるっていうことは一食中あればなんとかなるんだろうけど、その上でより人間らしく、自分の生きる意味までは言わないけど、そういうものを見出していって、自分に自信を持って自分らしく生きていく。
っていうところに最終的には寄与するんじゃないですかね。
それがね、だからその義務教育とか高校生レベルの人に聞かれたときにそれを答えるのが正しいのかっていうのはもちろんありますけど。
そうなんですよね。私も思うのは、玄徳さんと似たようなことだと、すごい私自身が実感としてあるのは、開放なんじゃないかと思うんですよね。
いろんなこうしなきゃいけないとかこうだっていうものから、いろんなことを知ることによって、そうじゃないところもある。そうじゃなくてもいいみたいなことを知っていって、元から元いるところから開放されるみたいなイメージ。
教育と福祉の関係
読書ザルさんが独学大全って本を書いてる人なんだけど、教養の定義をその人の生まれ育ちから開放することっていう定義を確か知ってた気がする。
それと多分そのまま同じ話だと思いました。
そうなんですよね。なんかそれはすごい開放だなっていうのを思ってるのと、
あとは中高の先生とかが言ってたことで、中高の先生は基本的にあんま好きじゃないんですけど、ちょっといいなと言ってた人のことを覚えてるんですけど、
同じものを見ても景色が全く違うから、それを知る楽しさみたいな話をしてて、
それを思った時が、大学が教育・福祉学類っていうところだったので、教育と福祉が両方学べるところなんですけど、
それ結構深くて、教育と福祉を両方学べるっていうんじゃなくて、教育が福祉の土台にあるんじゃないかっていう考え方と、福祉の土台に教育がある、今同じこと言いました?
福祉の土台に教育があるんだっていう2つの考え方があるみたいな話で、
教育の土台の福祉はわりとわかりやすいんですよ。だから教育を受けるためには、学校に通いないといけないし、生活を整えないと学校に集中できないし、教育を受ける土台としての福祉っていうのはわかりやすいんですけど、
逆に福祉の土台としての教育っていうのが結構深くて、人間はそもそも知的好奇心とか、もっと良くなりたいみたいな気持ちを根源的に持ってる。
だからそれを満たす、その人間がより良く生きるっていう福祉を満たすのに必要なのが教育だっていう考え方。
だからより良くなりたいとか、もっと知りたいみたいな考えを、そもそも人権に含めてるみたいな。
要はそういう自分で自分の人生とか生活、生命っていうものをドライブする意欲みたいなものがないと福祉が成立しないっていう考え方っていう。
より良くなりたいっていうこと、もっと知りたい、できるようになりたいみたいな気持ち、より良くなりたいっていうのを教育って考えて、それの土台っていう感じなんですけど、
それめっちゃ深いなと思ってて、できるようになりたいみたいな気持ちって教育の根幹にあるなって思うので。
勉強の目的とは
正確にはそういうできるようになりたいっていう気持ちをドライブすることっていうのが教育に含まれてるんだろうね。
そこをたぶん履き違えるとあれなんだろうけど、
そうなんですよね。
やっぱりね、教育は主体性を引き出すことが教育だっていう話になってしまうから大変なんですよね。
そうなんですよね。だからなんかそもそも義務教育レベルの人に何で勉強するのみたいなことを正確に伝えるのは結構難しいと思ってて、
だから私が大学の時にあれをしてたんですけど、
発達障害ある子に学習し、みたいなのをしてたんですけど、
結局引き算ができるようになった。
じゃあ次は掛け算ができるようになりたいっていかに思ってもらうかみたいなことが大事かなって思ってて、
分からないからもうちょっと分かるようになりたいみたいな気持ちで勉強に取り組んでもらうしかないみたいな、
その工夫しかできないっていうふうに思ってたんですけど、
だから根源的な分からないこと、できないことをできるようになりたいっていう気持ちを、
それを勉強、知的好奇心の分野で体験してもらうしかないっていうふうに思ってて、
だからその質問に言葉で答えるのは結構難しいなとは思うんですよ。
だからすごく厳しい言い方をしてしまうと、それを言われてしまった時点で負けなのかもしれない。
それを言わせちゃいけないのかもしれない、教育者的には。
それは現実的に限界はありますよ。もちろん小学校の先生とかいても、家庭もあることだし、いろんな事情もあることだからね。
だけどその答え、その問いに対する答えっていうものに正解は実は存在していなくて、
そのもっとスパンとして長く見た時に、その前で手を打たねばならなかったことなのかもしれないっていう、
そういうのは一つ結論としてはありえそう。
自分も言ってる通りで、やっぱり勉強することでできないことができるようになる、
分かることによる楽しさっていうのをいかに伝えるかみたいなのはやっぱり大事だなとは思うし、
自分はプログラミングを教える立場に時々なるので、やっぱりそういうことはとても意識しますね。
いかに分かってもらうかっていうことにちゃんと時間をかけるっていう感じ。
確かに。でもそれこそ完全に負けエピソードで言うと、
ごめんや。そんなつもりはなかった。
社会が負けてるなっていうエピソードで言うと、聞いた話なんですけど、
職場の子で、なんで勉強するんですか?中学生かな?連絡聞かれたみたいな言ってて、
やりたいことをやるために、大人になってやりたい職業に就いたりとか、
やりたいことをやるために勉強するって言ってるけど、
大人はやりたいことをやれてるんですか?みたいなことを聞かれた。
その人は伸びます。
私もすごい良い質問だなと思ったんですけど、
でも、そうですね。社会は負けてますね。その質問は。
だって、就活の時思ったもんね。
自分が学生時代にやってたことって全然関係ないやん。
そうですよね。
僕はプログラミングとか学生の時にやってたから関係ある方だけど、
全く関係なくたって、やりちゃうこともあるわけですよ。
っていうもんなので、そこは議論の対象にはならないっていうところはありますよね。
すごい素晴らしい気づきですね。
本当にそういうとこありますよね。
大人がごまかすために将来やりたいことをやるためだよみたいなところを。
やっぱりね、難しい。
トバさんの本とか見てると、そういう虚勢を張ることが大人の仕事だっていうのもあるけれども、
虚勢を張ってくれる人がいっぱいおるやろうと思って、
自分はもうそういうことはあんまりしないですね。
そうですよね。
でもそれこそ難しい。
小学生は楽しいなと思う勉強をしてほしいなと思うんですけど、
中高生とかに真っ直ぐ聞かれた時にどう話すかみたいなのは結構難しいなと思う。
そうね。
まあね。
中学高校時代の学習と社会人の学習の違い
自分は中学高校の時の学習っていう意味で言うと、
どこまでも人と比べられる感じがあったし、
あとはやっぱりやらなきゃいけないっていう感じがすごく強かったから、
それどっちかというと校舎の方が大きかったのかな。
全然勉強する気はなかったんだよね。
逆に社会人になってしまうと勉強が面白くなってくるっていう。
やっぱり自分のペースでできる。
自分のペースでできるってめちゃくちゃ大事で。
学校って本当に真逆ですもんね。
テストに合わせて勉強をする。
テストに合わせて計画を立てて勉強をする力が求められる。
計画立案力みたいなものが求められる。
意味わからんこと言うと受験さえなければ勉強をしてたのにみたいな。
本当そう。
勉強、自分がこれ知って楽しいってか面白いって思ったことを大事にしてほしいなみたいな感覚はあるんですけど。
勉強、確かに進路とかそういうのに関わる部分もあるし、
大学に行くことはいいですかって言われたら、いいですとしか言いようがないじゃないですか。
その軸は確かにあるんだけれども、
それは勉強の一側面を使っている。
マラソンをやっているのにすぎなくて、
勉強の本質的な部分で言えば、
やっぱり自分のペースで自分のやりたいことっていうか楽しいことを追求できるっていうね。
そういう楽しみはやっぱり、
モテてるともちろんいいけれどね。
でもやっぱりなんだろうな、
現実的には中高の時にはそこを分かってもらおうとして分かってもらえるわけではないから、
とりあえず大学受験頑張ろうぜみたいな感じでやってもらって、
それを下敷きにして、それなりに年をくってから、
その下敷きベースにして、
他の支持者に気づいていくみたいな、
やっぱりそういうものになっていかざるを得ない世の中なのかもしれないですけどね。
技術が決められていて、計画立案力が求められて勉強するみたいな、
もう主体性の欠片もないですよね。
というか、計画立案力を求めるなら別の分野でやってほしい。
やっぱり勉強とか受験とかいうものに、
いわゆる社会人基礎力的なもの、
社会が期待する人間、今の人への能力みたいなものを、
いろいろ乗っけすぎてる感はあるよね。
本当にそう。
なんか、さっきから話に出てるトバさんの本で読んだのが、
親時々子供かな?で読んだ話でめちゃくちゃ印象に残ってるのがあって、
学問と祈りっていうところだったかな。
トバさんの家はキリスト教だっけ?
ずっと祈ることを強制されてきた。
神にこうやってお祈りするんだよ、
サンビカを歌うんだよ、
強制されてきたけど、
それが何でやるのか全然わからず、
神はいるのかどうかもわからないのに、
ずっと強制されてるみたいな感じはあったけど、
ある時にトバさんの友達がいじめられてて、
でも自分をいじめられるのが怖くて反撃もできないし、
もう何もできなかったみたいな。
でもそれを見て苦しいし、
ある時に布団の中で神様あの人をどうにかしてくださいみたいな感じで祈ってた。
子供に対する学びと祈りの関連性
それはもうそれしか自分にはできることがなかったみたいな。
もうその他の手段がなかったから祈ったけど、
あれが本当の信仰だったんだなみたいな話で。
だからその信仰とか祈りっていうのは最初からその与えられること、
強制されて与えられることじゃなくて、
自然に出会うんだなみたいな。
だから自然に出会った時にあれが本当の祈りだったんだみたいな。
だから学問とか学びっていうものもそれに近いんじゃないかみたいな話をしてて、
これを勉強しなさいとか、これを役に立つよとか、
自然に出会うっていう体験がないのにどんどん押し付けられてるから、
主体性を奪われて強制されてるっていう感覚があるから、
学問と祈りは一緒なんじゃないかみたいな話で、
めちゃくちゃ印象に残ってて。
自然に問いに出会う前にめちゃめちゃ潰されてるみたいな感覚。
まあね、難しいところはありますよ。
難しいなとは思う。
やっぱり強制的に頑張ってもらうっていうことが、
あなたにはこれをやることによって得られる効果はわからないだろうけれども、
一旦はやってくださいっていうのが、
大人から子どもに対して言わないといけない瞬間っていうのも、
やっぱり時々あるだろうし、
やっぱりそこのバランスは見ながらなんだと思うんだよね。
ただやっぱり大事なのは主体性の芽をちゃんと育ててあげることなんだと思いますよ。
そういう言葉とかそういう態度とかっていうのが見えたときに、
それをまず摘み取らないことですよね。
それとやっぱりその芽を大事にする大人として、
そのそばに寄り添うっていうことができるかできないか、
そういう人が子どもにとって一人でもいるかいないかっていうので、
その人のやっぱり人生が変わるんじゃないですかね。
救われるんだと思いますよ思い通り。
いやー本当になんかすごいうーんってずっともやもや思ってたんで。
そういう何か主体性みたいなもの?
こういうのが好きでとかこういうのがやりたくてみたいなのかっていうのが見えてくる瞬間っていうのはありますか?
いっぱいありますね。
でもなんかそれをそんなになんだろうな強制的になんか上から抑えつけるみたいな環境ではないので
割といられてるのはあるんですけど。
どうだろうなんか大学の時のバイト先とかだと
おーみたいなそれはちょっとみたいなとかも結構あったので
すごいなんかとりあえず人がスタッフがみんないい人だなと思います。
いやでもやっぱり今はねなんかそういう自分が好きなこと得意なことっていうよりも
その苦手なことを何とかして埋めていきましょうみたいな
でもそういう側面も確かにあります。
考えも強いと思うんで
やっぱりそのこれが得意みたいなのがあんまりこう褒められないというか
みたいな空気もあるとは思うんですけど
そういうのに寄り添ってあげてください。
そうなんですよそもそもなんかあれなので
領域っていう仕事なので
なんか領域っていう側面がそういうところをそもそも持ち合わせてるっていうのはあるので
苦手を潰すじゃないけど
できないことをできるようにする訓練みたいな側面がそもそもあるので
それはちょっとうーんって思いながら過ごしてます。
なかなか難しい話ですけど
そうですね。
引き続き考えていきましょうということで
そうですね。引き続きまた喋らせてください。
今回はこの辺で。