しかしながらタイトルが普通の相談なんですね。
ひらがなで普通と書かれていて、ここの普通っていうことの射程が、
結局そのごく一般のという、つまり一般に行われている相談っていう言葉を含むんで、
内容自体はいわゆる専門書、あるいは学術奏に近いものなんですが、
一般的な僕らにもややリーチするところはあるだろうというところで、
この辺が難しいところなんですが、
普通の相談っていうこの本は、本のタイトルだけ見ると普通の相談としか書いていないんですが、
目次をパッて見て、前書きの次が普通の相談って書いてあって、
その下に携帯構造1って書いてあるんですね、漢字で。
よくあるフォーマル、ストラクチャーポジションっていうことの漢字で、
携帯構造1って書いてあって、いわゆる3熟語が並んでる、
いかにも講談者、学術文庫とかが好きな人やったら好きだろうなというタイトル。
教科書っぽいですよね。
内容自体も序論1部2部結論という形で、結構いわゆる論文な構成になってますし、
文章の書き方も柔らかい子は書かれてますけども、割とフォーマルな、
主にフォーマルな書き方をされているので、
ちょっとその辺が読書慣れしてない人にとっては難しいと感じられるかもしれないですけども、
理論、展開されている理論自体は非常に明瞭明積で、
文章も何回のところはないので、ゆっくり読んでいけば本章で語られている展開は変わりますし、
心理学とかにそこまで精通してなくても、
フロイトとか聞いたことあるよぐらいであれば、8割7割、著者が展開している話は理解できるんではないだろうかと思います。
おそらく見つからないであろう本をどうやって見つけてきたんですか?
ファンだから余裕で見つけられる?
Twitterで著者をフォローしてまして、出版されるということを聞いて、
もちろん僕はただの物書きであって、ケアする仕事ではないんで、
著者が書いている本を全部フォローしているわけではないんですけど、
普通の相談というタイトルでビビッときたんで、発売日に本屋さんに行って探して手に取りましたね。
8月16日ということはお本もあったの中に。
朝から本屋さんに行って、まだ並んでなくて、これから陳列されますよーのところに置いてあったやつをもらってきたという感じで。
早速読み終えても、やっぱり直感は間違ってなかったなというところで、
僕、最近読んだ本、最近ヒットの本が多いんですけど、
僕自身の仕事というか、そういうお土産を考えていたことに、かなりクリティカルな影響を与えてくれた本だったので。
優れた著作であるとともに、僕自身に結構感銘を受けた本になっておりました。
おそらく客観的にも良い本だと思いつつ、個人的にも非常に良い本だったと。
という感じですね。
198ページでゆったり組んだので、ボリューム自体はそんなに分厚い本ではないです。
ある程度時間があれば読み切れるかなという感じで。
目次字だけ簡単に見ておくと、まず前書きというのがあって、そこから序論が始まります。
第1部が普通の相談の形態、第2部が普通の相談の構造、結論が普通の相談の位置。
最後に補論として、中断塾下状というのがあって、若き心理師への手紙ということで、
若い心理師の人が失敗に直面した時にアドバイスになるような塾下状が書かれていまして、
本書自体は心理師とかこの仕事を携わっている人向けに書かれているということは、
一応念頭に置いておいた方が良いかなと思います。
基本的には対象はケアに関わっている専門家というわけではない。
ケアに何かしらの形で関わっている人が読んだら駅になるだろうという感じかな。
この本、リロ自体は非常にわかりやすかったんですけど、
僕自身が結構知らない用語とかがあったんで、久しぶりに手書きメモを作りながら読んだんですが、
簡単にそれを参照しつつ、目次の通りに追っていけば、
全然こんがらがったところがないんで、目次から順番に見ていけば、この本の論集は終えるかなと思うんですけど。
まず序論で、準備運動かな、この話がどういうふうに展開していくのかが語られるんですけど、
まず最初に3つの風景といって、ケアの現場でも行われているごく普通の相談。
例えば、カウンセラーの人に退学しようと思っているんですって学生さんが相談したときに、
そこで心理的なアドバイスをするんじゃなくて、
例えば、ちょっと凹んでるときには大きな決断はしないほうがいいと。
うちの学校は休学もできるし、休学はお金がかからないから、それをやってみたらいいんじゃないかってアドバイスすること。
これって、プロの専門知識は、心理的なプロの専門知識はほとんど出てこないですよね。
日常的な心に関するアドバイスとか、学校の制度に関するアドバイスが行われているだけですよね。
こういうアドバイスって、たくさんあるよねっていうところがまずスタートなんですね。
たくさんある。そういう場面がたくさんある。
たくさんある。そういう相談っていうのが、世の中にはものすごくたくさんある。
それも確かに一つの相談の形式だし、
相談してきた人の問題を適切に解決できたかどうかは別として、ある程度解決に向かおうとしている。
でも、いわゆる臨床心理学と呼ばれているものの中では、
そういった普通の相談っていうものが扱われていない。
ないしは、もう射程に入っていない。全然見えていない。
これを捉えられる構図を提示したいというのが、本書の目標というか目論みとしてまず掲げられます。
なんかあれなんですかね。前回の言語学というやつが、会話というものをなめくさっているわけじゃないんだけど、
あまりにもありふれていて、ありふれているくせに構造化するのが非常に難しく、記録も残っていないんで、
結局、研究分野としてはあまり発展してこなかった?
っていうのと全く同じ構造だった。
そういう、僕らの日常にあるものが、これまでの臨床心理学の中では見えてこなかったけど、
ちょっとそれに光を当てたいと。
その光を当てるためのフレームワークというか、捉える構図を描き出そうと試みる本ということですね。
一番普通の人が普通に知りたいことが普通に書いてある。
と思うし、実は学術的な面で見ても、知識、知っていうのをどう扱うか、どう位置づけるかっていうところの構図としても、非常に有用なことが提案されてるんですが、
臨床心理学というか、心理療法と呼ばれているもの。
例えば精神分析とか認知行動療法とか、いろいろあるわけですけども、
そういうのを対別すると、まず学派的心理療法というのと、現場的心理療法論という2つがあるらしいですね。
学派的っていうのは学校の学に派閥の派で、もうその感じからしてわかるんですけど、
例えばフロイトの精神分析っていうのを提示して、
これはこの通りにやるのである、こういう方法でやるのであると掲げる、理念的な方法論を論じるのが学派的心理療法論。
その理念的に対して、実践的というか現場的というのが現場的心理療法論で、
そういう1つの大きな体系とか構造に基づいてっていうよりは、現場で生じるいろんなところを、
例えばあっちの理論からこれを持ってくるとか、あっちの理論からこっちを持ってきて、
何か現場で対応できるように揃えたもの。
僕はこれを読みながら、これライフハック的なもんやなとちょっと理解したんですけど、
体系だったものではなくて、現場で必要とされるものが揃えてあるもの。これが現場的心理療法論。
漢字でいうと、普通の相談、本社が描こうとしている普通の相談っていうのは、
その2つを考えるときに、どっちに属するかって言うとそれは現場的なものなんですね。
明らかに学科的なものではないと。
で、その現場的療法論の中でも、言ったら橋の橋。
つまり、専門性から一番遠いところにあると。
この構造を整理するために、夜勤スキームっていうのが提示されていて、
これ、またこの音声で漢字を紹介するのが難しいんですけど、
刀鍛冶の鍛冶のGですね。
納めるっていうのの、あれが二水になったやつ。
一瞬なんか、チキンって呼んでしまいそうやけど、夜勤スキームって言って、
要するに金属を錬成して、合金を作るような。
鍛冶仕事ですね、要するに。
で、一番、例えばフロイトの精神分析っていうのが純金、純金なわけですね。
で、そこに現場的なもろもろをちょっとずつ足していって、現場で使えるようにしていく。
合金にする。純金という理論があって、それをいろんな混ぜ物をすることで合金にしていくっていうのを、
さっきの話、理論と実践の現場っていう流れを、夜勤スキームという捉え方、
これピンスカーっていう方が整理したらしいんですけど、
一番左に理論っていうのがあって、逆側に実践の現場があって、
どんどん、純から合わさったもの、雑なものへと流れていくっていう構図が、
割とこの分野では一般的。
で、本書が掲示する普通の相談っていうのは、その一番左の、さらに左ぐらいにあるものだと。
で、この見方は違うんではないかというところの挑戦がここから始まるわけですね。
これが今のが、今のが序論です。
この見方が違うんじゃないかというところから始まる。
始まる。
つまりこれが今言ったのが、一般的なこの分野での理解。
でもこの分野では、その普通の相談っていうのがすごい端っこに追いやられてしまっていると。
で、著者は別に普通の相談っていうのをただ適当にやってるわけじゃなくて、
自身のカウンセリングルームに来た人に対して精神分析をするか、ないしは普通の相談をするかっていうある種のオプションがあるらしいですね。
精神分析が必要な人もいれば、精神分析が合わない、ないしはなくても大丈夫みたいな人もいて、
そっちの場合は精神分析がAとしたら普通の相談のBが選ばれると。
このBである普通の相談がどんな形態で行われているのかっていうのがまずつぶさに検討されます。
3つの観点があって、アセスメント・技法・機能っていう3要素で分類というか解析されてるんですが、
アセスメントってもうちょっとわかりにくいことなんですけど、どう適用するかっていうことですが、
例えば問題の性質が極める、どれぐらい重要か重要じゃないか、
あるいはその当人が精神分析を望んでいるかっていうモチベーションとか、
あるいは社会的環境って言って、精神分析ってすごい長い時間かかるんですよね。
週1とか来てもらって、毎回セッションしなきゃいけないから、
例えばそれをやってしまうと経済的負担が高すぎて耐えられないとか、
そのような機微を見据えて、この人は精神分析にしよう、
この人は普通の相談にしようっていう判断が行われている、これがアセスメントということです。
日本語だとあれですね、評価とか査定とかそういうやつですね。
技法は、これは本書の中では個々に説明されていますけど、
聞く、質問する、評価する、説明する、アドバイス、社交、雑談、
その他そういうことが内部的に行われている。
で、もうこの段階であれなんですけど、何も特別ではないわけですね。
今の話を聞いて、普通のことやねっていう、普通の人が普通にやっていることですね。
で、一応機能としては、外的ケアの整備って言って、
例えば、部落企業に勤めている人やったら、例えば職場環境を変えないと、
心の問題に取り掛かる前に職場環境を変えないとどうしようもないから、
例えばこういうとこを相談していいんじゃないですかとか、
こういう機関に相談したらいいんじゃないですかっていう風に繋ぐこととか、
あるいは問題の知的整理といって、これはこの状況でこうなってますから、
例えばこういう問題があるかもしれませんみたいな整理をする。
あるいはその情緒的なサポート、つらかったですねと言っていて、
相手の心を認めたりすることかということをして、
視聴者がそれで時間っていうものを確保する。
時間っていうのはどういうことかっていうと、
例えば困ったことがある、相談すると、話を聞いてもらえると、
じゃあまた次来てくださいっていうことで、次が生まれますよね。
問題は解決しなくても。
そうすると、例えば1週間後にまた相談できるからそこまで頑張ろうみたいな気持ちが、
少し余裕が出て、余裕というかちょっと待つことができるようになるみたいな機能が提供されると。
結局その技法と機能を合わせても別に普通なんですね。
さっきも言ったように、特に今ここで力説するようなことではなくて、
本当に僕らが身近な人とかにやってることをあえて分析して説明されているわけですけど、
逆に言うと、僕らは専門職でなくてもこういう相談をしてますし、
それはつまり心のケアを行ってるってことなんですね。確かに対して。何らかの形で。
相談をされれば。
するし、例えば直接力にならなくても相談を聞くっていう態度がもうケアになってるわけですね、これ。
相談を聞くという態度はケアになる。
相手の心に寄り添って同じ時間を共有してあげるということ自体が具体的な解決じゃなくても、
例えば孤独の解消とか情緒的なケアっていうのがもうその段階で行われていると。
だからこれは本来はまさに臨床心理でやってることのエッセンスがもうすでにそこにあるではないかと、
著者は言うわけですね。
ここの機能から、こういうものを見逃さないようにするにはどうしたらいいのかっていうところで、
第2部に移るわけですけど。
ここを今まで検討したのは、著者がカウンセリングルームの中でやってきた普通の相談。
この普通の相談の括弧を外して、世の中に散らばる普通の相談を見ていきたいのだが、
問題は、これはよくわかる問題なんですけど、
普通の相談っていうのはさっき言った学派的、つまり理念的じゃないから、
バラバラなんですね。統一されたものがないと。
だから、学派的な心理療法論の構造では、普通の相談って見えてこないよねと。
整理できない。
そういうのとはちょっと違った観点が必要ではないかと。
難しいんですけど。
学派的なものっていうのを、さっき野禁スキームで整理しましたけど、
あれを別の見方、さっきの話を引きつけてすると、
僕らはこうやって日常的に相談してるし、
例えばそれは古い人が精神分析を始める前から行われてたはずですよね。
それこそ人間がコミュニケーションを始めたところから、
何らかの心のケアっていうのは常に行われてきたはずですよね。
何者かによってどこかで。
家族とか近くに住んでる人とか、あるいはシャーマンとか昔はいたかもしれないけど、
とりあえず学問が始まる前からあったし、
それはつまり、僕らの日常っていうとあれだけど、
僕らの営みにもともとそれは組み込まれているものだと。
だから視点をひっくり返すんですね。
むしろそういう普通の相談、
さっき言った聞くとか質問とか評価するっていう普通の相談がまずあり、
それらのうちの例えば質問するとか評価するとかっていう、
そのある種の行為をどんどんどんどん純化させていくと、
精神分析とか心理行動療法とかになる。
つまり原石が普通の相談なんです。
で、練成したら精神分析とかになる。
ひっくり返ってるんですね。
精神分析っていうのがあって、
それをいろんなものをくっつけていったら現場で使える知識になるっていうんじゃなくて、
そもそも僕らは心理ケアをしてきたと。
その中でもすごく特殊な状況があったら、
僕らの日常のケアでは足りないから、
その特殊な状況にケアするためにごく普通の相談っていう原石を練成していって純化していったら、
学問的なものが出来上がったというふうに見方をひっくり返すわけですね。
僕はまずこの視点が、
一番ビビッとやったかなっていう、この見方の変転。
言われみたらそうなんですよね。
心理療法っていうのがあったか、こういう療法がある前から人は心に何かしら問題を抱えることがあって、
それがケアされてきたわけですね。
そういう日常を送ってきたわけですね。
一つの推論ですけども、
近代化が進む中で、特に個人主義が進む中で、
人の心が抱える問題が多分より厄介になってきた。
おそらくは。
そしてそれに対応するために専門的な理論っていうのが生まれてきたと。
この見方をとると、その学派的な心理療法っていうのは、
ある純化されたものであって、
もちろんそれは非常に必要なことですが、
実は大きなフィールドの中にあるちょっとした点でしかないっていう見方に変わるわけですね。
例えばなんですけど、
僕はこれよく思ってるんですけど、
何でもいいんですが、ライフハックの話に引き付けると、
GTDとかってあるわけじゃないですか。
それはいいんですけど、
中でやってることってある意味普通ですよね。
部分的に見れば。
一つ一つの細かなやっていることが。
GTDを知らなくても、
例えばリストを作るみたいなことは普通にしてるわけじゃないですか。
みなさん、全員とは言わないけど。
一般的にやってることを、
それを確かにある方向で純化していったら、
ああいう方向になると。
だから逆にGTDみたいな純理念はそのままでは使えないわけですね。
ある種、そのままでは使えないって言い方はあるけど、
それはある種の理想の形っていうか、
理念の形ですね。
現場的ではない。
ない。だから現場的っていうのはGTDから違った形になるし、
それぞれの人が当然違ったようにする。
これだから、
ケアっていうものとノウハウって、
だいぶノウハウって、
こういう場合は仕事術的なノウハウっていうのが構造的に一緒やし、
これは多分だから、
現場?
人が何か実践する上での知識っていうのは多分、
大まかにこういう形をしてるんじゃないかなと。
突然何か新しいものが発明されたというんではなくて、
よく知っていることが確認され、
純化され、
理論的に整理されただけでしかないんではないかなという感じですね。
話し言葉と書き言葉とかも似たような。
そう、近いね。
そういう感じがする。
書き言葉より一つの理想像やけど、
僕らの日常生活ではむしろほとんど出てこないっていう。
その話でいうと、
学問的な整理でいうと、
書き言葉こそが正しくて、
僕らが使っている言葉はむしろ踊ってる間違ってるって扱われてきたけど、
この本によってむしろ話は逆ではないかと提示されようとしているってことですね。
その構図、
普通の相談っていう雑多なものをどう捉えるか、
どう分析するのかっていうところで、
これまたね、
ヘルスケアシステムっていうのを分析した、
クラインマンさんっていう方がいらっしゃって、
僕はこの方全然知らないんですけど、
こういう時って何がよく言われるかというと、
普通だったらこうじゃないみたいな、
普通という言葉が出てくるんですね。
例えば、その会社は普通に比べてちょっとブラックじゃないとか、
普通だったらこういう反応を返すのにとかっていう、
普通との比較になるんですね。
説明が難しいな。
普通だったらこうやけど、そうじゃない。
なくなっている。
それがつまり悪い状況であるという、
普通との比較で行われるわけですが、
そもそも普通って何やねんっていう話になるわけですけど、
例えば、ゴリゴさんが、
例えば今、すごい荒っぽい言葉遣いをしたとするじゃないですか。
そしたら、何か普通じゃないって思うわけですけど、
それは逆に言うと、
普段のゴリゴさんがそういう言葉遣いをしないから、
普通じゃないって思うわけですね。
だから、僕はゴリゴさんについてある程度熟知してるわけですね。
熟知性があるって本書では言われてるんですけど、
この対象についての熟知性っていうのが、
さっき言った民間レベルの普通の相談を支えてるんですね。
例えば家族でやったらこの熟知性はちゃんと機能しますけど、
例えば、うまく機能しない時ももちろんあって、
例えば、僕の上の人のもの書きの人が僕にアドバイスをくれても、
多分そんなに役に立たないと思うんですね。
それは知ってる世界が違うからなんですけど。
このように熟知性っていうのは個人であるからこそ、
相手の普通を比較できるんですけど、
その熟知性は別に学問的に担保されたわけじゃないので、
全然間違ってしまうこともあると。
そういう時は例えば、
喧嘩が来た時に専門家の知識に投げるわけですね。
この熟知性っていうものから専門家への意向っていうのが、
専門家イコール学派知ですけど、
そのややこしい問題、つまり熟知性の限界の時に専門家が現れるという構図で
説明できるんじゃないかっていうのが、
このヘルスケアシステム理論を用いた普通の相談の位置づけです。
うまいこと説明できてるのかわからないですけど。
だから、この熟知性っていうのは、
関東の学派知と専門知だったかな。
学校知か。
関東もややこしいこと言いますけど。
学校で教えてもらう知識と、
現場の知識っていう知識の対比と、
あと、さっき言った熟知と専門知っていう対比。
ここでセクターが違うということと、
知のありようが違う。
それぞれの分野で働いている知が異なるということが、
この章で確認されます。
普通の相談が、
さっき言った、
僕らが日常的にやっている普通の相談。
スタート、原初としての普通の相談を
普通の相談ゼロと呼んで、
ゼロが連成される過程を進めば、
学歳値になる。
それを途中でやめる。
最後までいかない。
ここら辺でやめとこうかって行われる
普通の相談っていうのがあって、
それが普通の相談Bって呼ばれてるんですけど、
心理療法士の方は多分、
よくやってることだと思われるんですけども、
その方は例えば、
精神分析が専門分野だとしますよね、仮に。
相談を受けたと。
相談を聞いてるときに先ほど言った、
これはあの人のトラウマが云々かんねんっていう風に、
その症状をまず理解すると。
理解の段階があると。
理解の後に価値判断があって、
介入っていうステップを取るわけですけど、
普通の相談Bと呼ばれるものは、
価値判断のところで精神分析から一旦降りるらしいですね。
で、例えば現実的な対応として、
こういうことをしたらいいんじゃないかとか、
こういう対応があるんじゃないかっていうことを言うと。
で、ここで降りないとどうなるかっていうと、
どんな症状であっても精神分析で治療しようとすると。
ここが多分本書の一番のポイントで、
普通の相談っていうもの、
現状の普通の相談っていうから、
その普通の相談Bっていうものが現れてくるんですけど、
専門的な知識がありつつ、
しかしその専門性からケースバイケース降りることがあると。
で、しかもそれが結構割合としては多いという、
これを本書は普通の相談Bって呼ばれてて、
で、それができひん人って、
臨床としてはあまり力がないという旨のことが書かれてるわけですね。
だから理念、理想しか震えない人は臨床化としては弱いし、
逆に臨床っていうのは常に知としては雑多なものになる。
理想だけを言ってるのは理論化としては素晴らしいけど、
現実的に言うと、
現実に関わる様々な知のありようとか状況とかを見据えて、
相手に必要なアドバイスを出していくことが、
いわゆる臨床の中では重要だと語られておりまして、
これはケアの話を越えてというか、
僕の自分の文脈に引き付けても思うんですけど、
これまさにそうだよなと思うわけですね。
言ったら、完成された理論を提唱することは、
本を書く中ではいくらでもできますけど、
でも多分それは役に立たないんですね、実践の現場で言うと。
結局個々のケースに余ってて、
例えば理想としてはこうした方がいいですけど、
こういう状況だったらこれはやめた方がいいんじゃないですかね、
ということを言える人の方がアドバイザーとしては有能ですよね、どう考えても。
例えば最近ゴリゴさんがオブシディアンのセミナーをやっておられるようですけど、
多分似たような判断が行われていると思うんですよ、きっと。
ゴリゴさんの中ではこれが一番理想的な形やけども、
話を聞くと環境的にはこうした方がいいんじゃないかっていう、
ある種理想から降りる場面があると思うんですよね、意識的なかどうかは別にして。
ほぼ全部そうと言えるのかな、逆に言うと。
そういうことがやっぱり心理応報の世界でも行われているし、
僕らのノウハウの世界でも行われているし、
現実的な実践に関わる知識って、理論と現実的な判断の接中というとおかしいですけど、
どう折り合いをつけるのかを判断できるその技量のことなんだろうなというのを、
ここまで読んでて思いましたね。
理論を知っていることはもちろん当然であるとして、
理論を振りかざすだけではただの専門バカになってしまい、
ここでどう現場と折り合いをつけるかがあらゆる職業というか、
あらゆる物事において、きっと本質的に重要なことではないか。
本職に関わらず、僕は自分の仕事との共通性からそういう普遍性を感じましたね。
この普通のビンって呼ばれている理念と現場の接中は、
逆に言うと正解がはっきりしていない。
常に悩みとともにあるということも書かれていて、
これも確かにそうだろうなとは思いましたね。
だから非常に難しいし、それこそ一対一の話し合いの中で、
機微のある判断をしていかざるを得ないというところはあるだろうなと。
Bの後にCが出てきて、
これは説明が長いので走りますが、
B、Cがあって最後にAが出てくる。
そのAが出てくるのが結論。
普通の相談の位置ですね。ポジションなんですけど。
ここを語ると多分本書の一番面白いところになってしまうと思うんですが、
本書の一部、内書の二部で描かれていた、
さっき言った学問的な地の位置づけがここで整備されて、
内書は統合されます。
非常に大きな地図が描かれまして、
ここはミステリー的な面白さがあったんですけど、
ここは僕が説明するよりも実際読んでいただく方がいいと思うのでやめておきます。
そんなに長くない本なので読んでいただいたらいいと思うんですけど、
僕が一番興味を持ったのは地をどう扱い位置づけるかというところで、
特に理念的になりがちなんですよね。
文章を書くと特にそうなりがちかな。
ある種の完成形、実成形を定めて、
そこに皆さん向かって進んでいきましょうみたいな方向になると。
もちろん理論を研究することは必要なんですけども、
実践の現場はその位置にはたどり着かないし、
もっといろんな知識を踏まえてっていうところ、
あるいはその知識として整理されてないけど、
みんなが実践しているようなことにもめくばせしていく必要があるという観点を考えたときに、
自分がこれからどういう本を書いていこうかなっていうところがだいぶ変わったというか、
整理された感じがしましたね。
なんとなく今まではフロイトの精神分析的な一つの曲を完成させなければならない
みたいな思いがありつつも、
でも例えばGTDの本を読んだときにあまりにも理念的すぎるよなという気持ちもあって、
そこが僕の中でいまいち整理できてなかったんですけど、
この構図で捉えれば割と納得感いく本が書けるんじゃないかなというのが第一印象ですね。
そうか、俺がフロイトの理解がほぼほぼないからなのかな。
あんまりゴルゴさんはそういう理念的に整理しようみたいな思いはないですかね?
うーん、理念的に整理。自分がやっていることを、例えば。
理念?理念?
まあ、完成された体型を作ろうということかな。
ああ、なんかあれなのかな。完成しないものだと無意識に思っているのかな。
まあでも、しないにしても完成に向かっていこうというベクトルがあるかないか。
僕も完成するとは思ってないけど、完成した方がいいよなという感じは割とあったかな。
ああ、仕事。
例えば、自分の場合、およそ半年から1年ぐらいオブシディアンで仕事を進められるという手法を考えているんですけど、
なんか完成って考えたことがない気がするな、言われてみると。
例えば、そういうノウハウをまとめたとして、そのノウハウを読んだ人が、
例えばそれをどのように授業すること、つまり、この通りやったらいいと思われるのか、
読み物として面白かったらいいのか、なんかどういう位置づけで位置づけてるんだろうか。
えーっとね、参考情報、真似してみる第一歩。
ああ、第一歩としての提示か。なるほど。
っていう感覚があるからなのかな。
自分の中で、そもそもやっぱりまず完成みたいな概念がないんじゃないのかっていうのを1個思ったのと、
完成?うん、そうだな。
何かが、特に自分がこういうやり方手法みたいなものが完成するという概念があんまりないのかな。
あと、体系的な整理っていう。
自分がやってることが、簡単に言うとツリー構造とかにきれいにまとめられて、
これとこれの関係はこうなってるっていう風に理論的に記述することを目指すみたいな。
他人に上手に、他人に体系的にまとめてきれいに説明できるようにしたいなとは思うんですけど、
それは、自分がやることにとってはそんなに重要ではない。
自分の中の目標には特には入ってないんや。
大きな意味での、例えば仕事としてこれを人に伝えるということを考えるんであれば非常に重要なんですけど、
自分が実行するにあたってあんまりその理念的な理想みたいなものはないかもしれないですね。
だからバリバリ実践、さっきの軸で言うと実践のよりな感じなんやな、要するに。
多分、もちろん伝えられた方がいいけれども、伝えられることよりもまずは、
自分一人で新しい方法を考えていつに入っているっていう、割とそういうタイプなので、
これめっちゃいい感じになったっていうので満足している。
だからそれが一番実践に適しているという感じで、
それを理念的に純化すると結局教科書になってしまうというか、どう言ったんやろな。
当人の問題を解決するというよりは、その分野についての知識が得られる本になってしまうっていう感じが僕の中であって。
でも、どういう整理が必要ないかっていうと、やっぱり知識の整理って必要だなみたいな。
思いがあって、だから僕ここ数年ずっとその辺をどういって、やっぱり実践の役に立ちたいという思いが積みあって、
でも役に立つってどういうことだろうみたいなことをずっと考えてたんですけど、
本書のいわゆる普通の実践のあるものと、いわゆる純化された理念型っていう、
お互いにそれぞれちゃんと仕事がある、役割があるんだよという形で整理されてるんですね。
つまり、理念型がダメだという話ではなくて、理念っていうのは非常に複雑な問題とか、
熟知性では対応できないものに対応する一つの特別な方法としては絶対に必要だと。
でもかといって、僕らの一般的なものはもっと現場的なもので解決できるし、
その方が負担が少なかったりもするっていう役割が違うと考えたら、
ノウハウの書の書き方、例えば知的精査の技術とか仕事術の書き方も、
たぶんある種非常に困った問題があって、それを解決するためには特別な技法がおそらくは必要でしょうけど、
でも例えば、誰かがこういうことに困ってますって言ってナチュラルに相談に答えるときは、
たぶんもっと簡単なことでいいんですよね、きっと。
GTDのシステムを作りましょうっていうのは、かなり特殊な状況への問題解決であって、
3つぐらいリストを作りましょうぐらいって多分多くの人はケアできてしまう。
それでいいんだっていうふうにちょっと思いましたね。
そうか、なんかあれかもな、根本的な問題意識みたいなのが、
俺にはそういう問題意識が存在していなかったかもって聞いて思いましたね。
そうか、なるほど。
何だろうな、ちょっとそれも上手に言語化できるものではないんですけど、
なんかあれかな、やっぱ、例えばさっきの話で言うと、
例えば理念化するみたいなものというのは、
俺がやることじゃねえなって無意識にもあんまり気にしていないというのかな。
やっぱりでも理念化できるとかっこいいみたいな。
それすらもないのかも、そうやって言われると。
かっこいいんだって今言われて思った質問、かっこいいと思うんだって。
例えばどうやろうな、KJ法とか野口さんのお知らしファイリングとか、
その人が発明した何かみたいなものに対する憧れみたいなのが結構長々と持ってたんですけど、
なんかそういうのがあってもいいけど、
でもなんか自分の方向は違っててもいいかなっていうふうにはちょっと思ったね。
ああ、そういうことか。なんかちょっと分かった気がする。
だから、例えば精神分析があった時にフロイトっていう人がいてさ、
フロイトのやり方気に食わんっていう人たちが新しい理論とかを展開していったわけじゃないですか。
その時に例えばKJ法っていうのがあったとして、
いや、KJ法ではいかん、TK法だみたいなそういうのを考えるのが一つの自分の仕事のプロセスだと思ってたけど、
例えばそういうんじゃなくて、KJ法のこういう部分を使いましょうっていう、
実践側に引きつけるアプローチを紹介するみたいなことも、
この本で言うと普通のB的に役立つだろうし、
多分射程はそっちの方が広いだろうなという気。
多くの人に役立つのはそういう理念を追求するとか、理念そのものをブラッシュアップするよりも、
実践的に役立つ形で引き出せるっていうものを目指した方がリーチは広いかなとか。
だから、知の扱いとか実践とか、本書で言うと臨床かな。
現場に臨む時の知のありよっていうものの見方が、僕はだいぶこれで刺身されましたね、この本を読んで。
なんかね、あくまでもイメージなんですけど、倉下さんは知的生産の技術とかめっちゃ好きじゃないですか。
あれってジャンルで言うと普通の相談じゃないかと思ったんですけど。
普通の相談、だから自分が書いてることって普通やなって思ってたわけ、ずっと。
だからもっと理念的にならなければならないみたいな批判性があったわけ。
でもよくよく考えたらみんな普通に仕事、これでできてるよねっていうところを改めて言ったら、
普通のノウハウっていうのをちゃんと再評価できるようになった。
日本でおそらく一番売れているクラスの一つの到達点、知的生産の技術は普通のことがいっぱい書いてある。
普通の相談がいっぱい書いてある。
書いてある、そうそう、そういうことだと思う。
あんまそんな別に理念的なものではなかったような気がして。
そういうのがこの本を読めばむしろ当たり前、普通の実践で。むしろいつ出すとかじゃなくて、それが当たり前なんだっていうふうには感じますね。
GTDなんてね、パソコン使ったら多分GTDじゃないですからね、極論を言ってしまえば。
書き出す時は紙に書き出していく。でもそうやな多分。
で、書類ボックスに入れとかないとダメですからね。
そうやね。
デジタルツールを使った時点で多分理念からは外れる?
一応だからアレンはアプリを開発しようとしてるらしいよ、ずっと。
でもずっとできてないですよね、あの人。
だからやっぱり無理があるね、GTDというシステムと合ってないんだよね、きっとそのパソコンが。おそらくは。
それは極論を言うとプログラミングできないってことはやっぱり理念にはなりきらないってことなんじゃないかなとも今思ったんですけど。
多分紙でやることが理念の内に入ってるんじゃない?
物質化して扱うことでみたいなところが、本人の知らんうちに組み込まれてたってとこじゃないかな。
確かに想像なんですけど、紙であることは重要そうですよね。GTDを言われた通りにやろうとすると。
特に最初の書き出しは紙でやった方がいいと思う、あれは。
あの紙をでもどうするのかはGTDの方には書いてなかった気がする。
分類したらもう捨てていいんですかね?
捨てるかな、確か。
教えとしては。
捨てるから多分いいねん、あれ、要するに。デジタルだと残っちゃうからね、結局あんまり整理できないので逆に。
いつかやることだってね、多分捨てるはずなんですよね、紙に書いてたら。
それでいいと思うんだよな。
だから、どんどん過去に送っていくっていうのを採用するとバレットジャーナルみたいな、一冊ごとに移り変わるみたいな理念になって。
バレットジャーナルも理念。
あれも理念だね。あれも理念で整理できると思う。
で、そういうふうに今言ったような、例えば方法論の中にある理念みたいなのを、こうやって今整理して喋るの、僕大好きなわけですよね。
でもこれは、そういう楽しさであって、実践には多分あんまり役に立たないよなとはちょっと思いますね。
あと、どちらも仕事術だけど知的生産じゃないんですよね。
でもまあ、そこ完全に分離できるかは怪しいところやで。ちょっと重なる部分は絶対あると思うけどな。
もちろん重なるとは思うんですけど、主目的をそこに置いていないというのかな。
まあそうか。難しいところやな。
どちらも情報整理という観点で共通項を持つんだよね。
情報整理という観点で共通項は。
だから逆に言うと、情報整理というカテゴリーを立てると、その下に知的生産の技術と仕事術が入ってくる。
そうなのかな。
僕はそう思うけどな。もちろんだからその円、円、100%重ないんで、その円、円、円が入ってるっていう感じやけど。
ああ、ベンズとして重なる部分があるは分かる。
情報整理という本を仮に書いたとしたら、情報を生み出すための整理と、情報を生存するための整理みたいな項目があって、
それぞれが知的生産のことを言ってるやろし、ある部分は仕事術のことを言ってるみたいな感じの整理のされ方をすると思うけど。
こういうのも結局完全に理念的な話になってて。
これも理念的な話か。
実践でどう役立つかっていうのはその分類はほとんど関係なくて、この書類どう整理したらいいでしょうみたいなことじゃないですか、結局。
その整理は、これは知的生産の技術ですっていう分類は別に二の次の話になってやな。
頭の中ではこれは知的生産の技術やなと聞きつつも、口に出す言葉としてはもっと現実的な何かになってくるみたいなのがおそらく必要で。
実践に役立とうとしたらやっぱりセミナーが一番いいんだろうなと思いますね。
だから本書で臨床としてカウンセリングが出てきますけど、当人の問題を現実的に解決するにはやっぱり少なくとも一対一とか一対複数Nの形で対話して現場的な判断を出していかないとダメなんだろうなというのは、
本を書く人間としては難しい話なんですが、ちょっと思いましたね。
そうか、本を書く人間としてはそのフォーマットが取れないですもんね。
だから臨演型を追求するか、梅沢とかのようにエッセイ風に自分の問題解決を書くかっていう二通りしかないわけやけど、
でも何か別のやり方がありそうな感じを本を読みながら感じてましたね。
ようやくイメージがつかめた気がします。
僕の説明が減ったっていうのはあるんですけど、
分野ごとの知識の違いとその知識をどう配置するか、
僕らが一般的にやっていることをむしろ原初と捉えて、それぞれの専門的な知識を練成されたものとして位置づけるっていうこのパースペクティブは、
僕にとってはパラダイムシフトというと大げさですけど、大転換がありましたね。
自分は言われて気づいたのが、注意を払っていない分野だったんだなっていう。
そうかもしれないね、確かに。
覚えていないに近い、記憶されていない、解像度のうんぬんでもないような感じがした。
そういう意味で言うとやはり気になることというのは人によってそんなに違うんだなっていう。
これはだいぶ違うし、論文的な方がどこを受け取るかがだいぶ違うんじゃないかな、きっと。
フラットに書かれてるから、きっと。どこに注意を止めるかが人によって違う。
ビジネス書とかで強調されてたらそこに目止まるじゃないですか、当然のように。
フラットに書かれてないから。
だからこういう論文形式の方が人によって受け取り方が、引き取り方が違うんじゃないかな。
僕は主に知と知識、実践に役立つ知のありよみたいな文脈で読みましたね。
これあれだな、なんか俺、哲学の入門系のものを読むとよくこういう構造で書かれているなっていう印象があって。
ほうほうほうほう、なるほど。
こういうのもそういう書き方をするんだっていう感じがして。
これは、ちなみに論文風に書かれてるけど、実際ちょっと違ってて、これは読むとわかるんやけど。
普通の本文の間にちょこちょこっと中ではなくて、インデントがあって補足でもないかな、
著者の心の声みたいなのが合間合間に挟まれてるんで、純粋な論文ではない。
読み本としてそこら辺の肯定の付き方が面白かった。
というわけで、一応ケアを営んでいる人向けの本ですけど、
専門値とか熟知性とか、その辺り、知をどう位置づけるのかっていう構図に興味がある人は、
多分結構楽しめるんじゃないかなと思います。
まさにあれですね、今さっき言った倉下さんが悩んでいるようなことが悩んでいる人にとっては、
素晴らしく響くのではないか。
この整理の仕方は僕はかなり新しかったですね。
それのような、何か注意をしていない人からすると、やっとわかったっていう感じぐらいだったりもするので。
なるほど。
面白いですね。こんなに違うのかっていう。
専門値っていうこと?学問値とか専門値とかっていうものとの心理的な距離でだいぶ違うんだろうね、これは。
そういうのもあるかもですね。
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それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。