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面白かった本について語るPoadcast、ブックカタリスト。今回は『会話の科学』について語ります。

今回は、なんだか久しぶりにごりゅごが普通に本を紹介する回だった印象です。(自分の本の紹介とか、ゲスト回などが多かった)

最近は、ブックカタリストで紹介する本がどんどん「今でも印象に残っている本」という方向に変化してきています。

読み終えた直後におお!すごい!と感じた本ではなく、読み終えて数ヶ月経って、この本は面白かったなあ、と思えるような本を紹介しているようなイメージです。

あくまでも自己評価なんですが、そういう本を紹介する方が自分の頭がきちんと整理されて、結果いい感じに紹介が出来るようになってきたような感じがします。

さらに言うと、そういう本は「普通にちゃんと読書メモを残す」ことさえしていれば、ブックカタリストのためだけの準備もさほど必要なく、少ない負荷で本の紹介が出来てます。(もちろん、一冊一冊の本を読んでから、よいと思った本にはけっこうな時間と手間をかけて読書メモを残しているとは思います)

読書メモさえきちんと残っていれば、読んでから数ヶ月が経過してもちゃんと「語れる」という、『アトミック・リーディング』で触れたようなことが、本当に自然に実践できるようになってきているのだなあ、ということが実感できた回でもありました。

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サマリー

『会話の科学 あなたはなぜ「え?」と言ってしまうのか』は、会話に科学的なアプローチをしている本です。会話が言語の本質であることを考えさせます。会話は重要な役割を果たしており、言語学のフレームでは扱いにくい部分もありますが、会話こそがコミュニケーションにおいて重要であると指摘されています。人々は会話の中で無意識にルールを守る場合があり、違反すると相手を軽んじる感じがします。会話の中での質問の短く答えることや、特定の音を使うこともルールの一部であり、情報を伝えるための信号となっています。会話における反応時間やテンポ、言語の特徴について考察しています。日本語は反応時間が早く、会話の結論を準備する早さが特徴的です。また、会話においては応答の準備段階から文意を理解し、テンポを取るための言葉を使うことが重要です。年齢を重ねてこういう時にはこう言ったらいいんだろうなっていうのを地道に語彙を増やしていくと、会話力が向上します。それはでもそのマニュアル的にということではなくて、文脈とセットで使うことを意味しています。英単語を覚えると似ていると思いますね、それはきっと。多分あの本質は一緒なんだと思いますね。会話の科学についての本では、会話の過程や会話の難しさ、言語学の研究の難しさ、そして将来の言語学の展望について解説しています。会話力の向上や異文化コミュニケーションに興味を持ったことが、日本語に対する概念が変わったきっかけになったと話されています。

会話の科学について
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第71回の本日は、会話の科学について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。今回は、なんか、アトミックリーディングの紹介をしたりとか、ゲスト会とかがあったりで、だいぶ久しぶりに普通に本を紹介する印象があるんですが、
以前に読書会でも紹介してもらったことがある本で、会話について科学的なアプローチをしている本というのかな、
サイエンスな観点で、数字とかパラメーターみたいなものでどんな感じなものだっていうのを表しながら、会話がいかに興味深いものなのかを示している本。
私たちの日常のやりとりに注目しているってことですね。
はい、本はですね、文芸春秋から2023年の3月に出た本で、半年前ぐらいかな、おざっぱに言う。
ニック・エンフィールドさんという方で、言語学者の人だったと思います。その方が書かれている本で、
表向きは、何て言うんだろう、会話を科学的な話でこんなことが面白いよとかっていうようなことを言っているんですけども、
言語学って基本的に書き言葉というか文法とか単語とか、
その熟語じゃないよ、文法とか、そういう難しいこと、書き言葉的なものをすごく重要視しているんだけれども、
もっと会話こそが言語において最も重要というか大事なことで、
俺たちそういうのってだいぶ軽視しすぎてきてないっていうようなことが、
裏テーマ的なものとして存在しているんじゃないかなっていう感じがしました。
なるほど、言語学っていうと基本的にその正しい文法というのを抽出して、
そこから言えることは何かっていうふうに展開していくわけですけど、
僕らの日常会話っていうのは文法がしっちゃかめっちゃかなわけで、
扱えないというか言語学のフレームでは扱えないものとして軽視されてきたわけですが、
本書ではむしろ会話が重要ではないかと言ってるわけですね。
そうですね、むしろ会話にこそやっぱり言語の本質があるし、
その扱えないっていうのが今聞いて重要じゃないかと思ったんですけど、
言語学との関係
難しいんですよね、よく考えたら。
書き言葉って結構ルールがはっきりしてるんで、
何が正しいとか間違ってるとかって簡単に分かるようになっているっていうかな。
調べやすいんだけれども、会話って、
例えばなんですけど、今ここでもお互いにまず書き起こしたら文法おかしいですよね。
順番とかも直さないといけないし、そういうものを分析して考えるのが難しかったから
軽視されてきたっていうのはあるかもしれないですね。
確かに扱えないね。
ちょっとカオスというほどではないけど、文法的に見たときに
ランダムな部分がたくさん含まれてて分析しにくいっていうのと、
あまりにも当たり前にこれができてるから、
問題視されないっていうところもある。
正確な文章を書くのって難しいじゃないですか。
でもこうやって乱雑にしゃべるの簡単な感じがしますよね。
だからちょっと格が低い。
だいたいの人はできますよね。できると感じていますよね。
格が低い扱いをされてきたところはありそうですね。
でも当たり前なんだけど、ほぼ100%間違いなく、
我々は書き言葉じゃなくて話し言葉からコミュニケーションを始まっていると思うんですよね。
人類の歴史から考えれば。
だとすると言語の本質というのを考えるなら、
やっぱり会話こそが重要なのではないか。
この場合会話って完全に話し言葉、
あるいは他の人に向けた話し言葉っていう感じですね。
っていうのがすごく重要なんじゃないかなっていうのを思いますね。
やっぱりふと思い出したんですけど、
最近音楽理論みたいなことを勉強していたりして、
それも言語学と同じようなことが言えるような気がして、
音楽理論を学べば学ぶほど、
音楽理論で説明できない現象って音楽にすげえいっぱいあるんですよね。
特にギターの大元となったブルースとかっていう音楽って、
西洋の音楽理論では説明できないことが無数にあって、
そこら辺はなぜか現代の音楽業界、
スルーして音楽理論はそのまま進んでしまっているというか、
結局ロックの人たちが理論なんていらんって言っているのは、
西洋の音楽理論ではロックンロールは説明できないことが多すぎるんですよね。
だから現場の人たちはそういうものをやはり軽視してしまうし、
ちゃんと分かっているクラシックの人たちは、
ロックなんて音楽じゃないという言い方をしがちにもなってしまうし。
この場合で言うとクラシックが正当な文法で、
ロックが話し言葉ぐらいの位置づけに対応すると。
そうですね。そうやって考えてみると意外とこれはロックな本なのかもしれない。
これまで重たったものと重たってないものっていうものがあったときに、
それを逆転させるような試みは確かにちょっとロックですけどね。
そうですよね。そう言われてみると確かになかなかロックですよね。
やっぱり読んでみると、これまでの言語学理論、そんなにめちゃめちゃよく知っているわけではないんですけど、
出てこないような、説明できないような現象ってやっぱり会話にはすごくいっぱいあって、
それこそがやっぱり我々がコミュニケーションをするという用途においては、
今まで言語学で触れられてこなかったことこそが大事であるっていうことを教えてくれる本とも言えるかなと。
コミュニケーションと会話の重要性
一応、言語学の本じゃなくて会話に注目した内容だと思いますが、言語学的な観点もちらほら出てくる。
そうですね。本の最後の方に、
言語はこうして生まれるか、その人の話とか最新の言語学がどんな風になってきているかみたいなところにも進んできているので、
競技の言語学ではないかもしれないけれども、本質は言語学なのではないかなとここで語られていることは。
そうか、確かにね。言語学のフレームにはこれまで入ってなかったけど、むしろ言語学って、
世界中の言語の大半を占めているのは僕らの会話ですからね、確かに。
発声量とかでもそうでしょうね。
注目すべきは確かにそうでしょうね。
例えばっていうので、そもそも言語とはどういうものかっていうのが第一章なんですけど、
例えば俺たちはね、何か質問された場合に答えるまでの時間って平均的に0.2秒ぐらいで答えを始めるようになっている。
相手が言い終わってから0.2秒。
言い終わってから0.2秒。
かなり早いですね。
例えば1秒より長い間待たされてしまうと、
何かこれ話ちゃんと通じてるのかなって心配に思えてしまったりだとか。
相手がもしかしたら不快に思っているかもしれないみたいなことも思いますね。
っていうことを想像してしまうぐらいその反応が早い。
例えばなんですけど、今ねちょうど世界陸上やってるんですけど、
100メートル走っていうか陸上競技のスタートって、
0.1秒より早くスタートしたらフライングになるんですよね。
なるほど。
脳から身体に電流っていうか、神経の伝達物質が伝わるまで0.1秒ぐらいかかるから、
それより早くは反応できないはず。
アツスリートの最前線の人たちが0.1秒以内にしか
肉体が反応できないのに0.1秒経ってからしか、
俺たちは平均して0.2秒で質問に答えることができてしまっている。
そこは面白いですね。それ自身がなぜなのかを考えたら面白いですね。
もうその時点で、やっぱりまず読みというか結論というか、
基本的には多分聞いてる途中に答えが出てきてるんですよね。
そうでしょうね。
相手の答えを最後まで聞かずに考えないとそんなことはもう不可能。
不可能ですね。
っていうことも、言われてみるまで考えたことなかったなって感じがするんですよね。
確かに。
確かに1秒待たされたら気持ち悪いなっていうか、なんか変な感じするなって思うし。
Book Catalystの読書会でも話したんですけど、
オンライン系の会話ツールがしゃべりにくいのってやっぱりそこで、
Zoomとか何にしてもオンラインで会話をしようとすると、
現代のテクノロジーでインターネットを介してデータをやり取りする限り、
ラグをゼロにすることは絶対に不可能なんですよね。
多分Zoomで平均すると0.1秒とか0.2秒ぐらい音声は遅れているような感じがします。
それはゲスト会とかでうちの奥さんが隣の部屋でしゃべっている声とマイク越しに聞こえてくる声が
すでにもう明らかにワンテンポ遅れて聞こえてくるんですよね。
なるほど。
ワンテンポ遅れて聞こえてくるというのは多分もう0.2秒より遅いぐらい。
ということはやっぱり俺たちがZoomが話しにくいよねって感じているのは当たり前のことで、
こういう間の重要さというか、そこがまだ解決されていない限り、
俺たちがインターネットを介して複数人でリアルと同じ感じで楽しく遊ぶということは
なかなかできないんだろうなっていうことも思い知らされますね。
でもそれと並行してですよ。確かにZoomはしゃべりにくいですけど、
なんとなくその憎さって減っているような気がするんですね。
つまりこの場においてのみ。数を重ねているから、間の取り方がZoomモードになっているというか、
簡単に言うと慣れてきてる?
多分あると思います。文化的にっていうか、
この手の間のやつとかって文化とかにかなり影響を受けているんじゃないかなっていう印象はあって。
その文化的経験は上書きされるというか、新しく学べるものなので。
例えば3人になるとやっぱり途端にしゃべりにくくなるんですね。
それは間の感覚が違う。ないし違う人がいるからか。
だから僕ら二人でこの間を学習してるから、ちょっと相手も別に違和感はないじゃないですか。
少なくともこういうもんやなっていう感じがあるけど、3人入ってくると、
その3人目の人はその間に慣れてないから、その間に慣れなさが僕らにもフィードバックされて、
なんかうまくいかない感じになるんですけど。
だからインターネットの技術が向上しなくても、人間のほうが学習なり経験において、
それなりにコミュニケーション、新しいコミュニケーション回路を開いていくことは多分できるんだろうなと思います。
そうでしょうね。よく考えたら人間同士の相性っていうか、
この人はしゃべりにくいな、この人はしゃべりやすいなとかって、
結局その間が当人の感覚と感触的に違和感がないのかっていうのが多分大きな部分を占めると思うので。
本編なんかにも出てくるんですけど、分かりにくい人っているんですよ。
相性、馬が合わない的なのはあるね。
そして誰ともしゃべりにくい人。
そういうことか、なるほど。
ちょうど出てきたんで、ついでにそういう話をしちゃおうと思うんですけど、
イギリスのマーガレット・サッチャー、あの人が分かりにくいサンプルとして出てきたんですけど、
当人がしゃべり終わるタイミングっていうのが分からなくって、
記者が上手に質問をできないっていうか、
相手と終わったように感じてしまうんですよね。
サッチャーさんがしゃべる文章っていうのが。
当人は本人は終わってるつもりがないので、
その記者が質問を始めてしまってぐちゃぐちゃになる会話が。
本来はそこに、この本では、
俺たちの会話にはルールがあるっていう言い方をしていて、
明文化されていないんですけれども、
明文化されていないルールを守らない相手と会話をするとなると、
すごくしゃべりにくいと感じる。
なるほど。
そうやって考えるとあれかもですね、
会話のルールとルールの守り方
Zoomっていうのは新しいZoomのルールにやっぱり慣れないと、
俺たちはしゃべりにくいと感じる。
ルールっていうのは人対人だけじゃなくて、
環境が定義する、環境が要請するルールなんだな、きっと。
結構俺たちはそういうルールというものを、
意識無意識問わずっていうか、守ってしまうっていうのかな。
なんとなく暗黙のルールみたいなことがあって、
それをなかなか破れないっていうのも面白いなと思って。
その辺の人と会って、近所の人と会って世間話をしたとして、
じゃあまた会ってなかなか言い出せないとか。
言い出せないですね、確かに。
どうやって会話を終わらせようか困るとか。
はい、ありますあります。
それって原理的に考えれば、そんなこと完全に無視できそうじゃないですか。
まあね、じゃあ失礼しますって言ってパパーって立ち去るというのは、
原理的には可能ですよね。
俺たちはそのルールを強烈に守ってしまうような、
何かとしか言いようがないと思うんですけど、何かは存在していて、
ほとんどの人はそれを守ってるんですよね。
やっぱりそのルールを損なうことが、
コミュニケーションを取ってる人に対して、
その人を軽んじるような感じがするからかな。
本に書かれていた言い方だと、ルール違反をすると社会的な損失が大きいので、
お互いにそこを監視して会話をしていて、
それに対して非難とか制裁みたいなものもあるっていう言い方をしていて、
あるような気はするというか、
罪悪感みたいなのは多分感じると思うんですよね。
相手がまだ喋ろうとしてるのに、
俺もう帰るからとか無視して立ち去っていくとか。
そういう感じで、
俺たちのルールみたいなものっていうのが、
本ではあるっていう結構強い言い方をしているんだけど、
確かにあるよなっていうのは、なかなか興味深かったというか。
証明自体はできないですけど、
僕らの行動から逆に観察したら、あるとしか言えない。
それが会話を規定している。
それによって会話が駆動していく。
同時に遮られずに話す権利と、長くならないように努力する義務もある。
そうやね。
遮るのは失礼っていうのはまずよく言われるか、よく意識されるか。
でも後者、長く喋らないって、
確かにそれを破ってる人を見ると、なんとなくモヤッとしますよね。
すげー不快ですよね。
めっちゃ印象に残っている人の名前とかそういうのは何も出てこないんですけど、
人生で出会った最も長く喋る鬱陶しい人っていうのが、
とてつもない才能の持ち主で、
10分から15分、相手に一言も質問の間みたいなやつを与えずに平気で喋り続ける。
明らかに一層失礼ですし、
その話聞いてる人を軽んじてるっていうことはあると思いますけど、
例えば飲み会とか行くじゃないですか。
5、6人でテーブル囲むじゃないですか。
みんなが順々に自分のエピソード喋ってるのに、
一人だけ4倍ぐらいの尺で喋ってる人を見ると、
他の全員を軽んじてるというか、
自我が強すぎるっていうことなのかな、あれは。
なんか嫌な感じがするのは。
その人はね、もうそういう次元じゃなかったですね。
1時間あったら58分はその人が喋るみたいなイメージ。
誰かが質問をしても質問をぶった切ってまた自分の話をするっていう。
それは確かに、その人はルールが通用してないからルールという概念がないか。
そういう人がたまには存在するっていうことではあると思うんですよね。
サッチャーがそういうサインを出せなかった。
自分の話は終わりますみたいな。
っていうのと同じく、
そういう人も存在するんだろうなっていうことは想像ができますよね。
サインを読めないということですね。
サインを発することがまずできないし。
できないし、
相手がもうそろそろ別の人に話を譲った方がいいですよみたいなサインも受け取らない。
そうですね。
長くしないように努力する義務というものを守れない人。
認識できていない人。
僕らはそれを学んできたわけですよね。
ということはギャグに言うと。
そんな、だって誠徳的に備わってるわけないから。
カルチャーですもんね。
そうやって名分化されないものを僕らは知らんまに習得してるわけですね。
そのあたりがちょうどね、これもいいタイミングなんで。
もう順番無視して話すんですけど。
7章8章あたりがそういう話のそのね。
質問の短い回答と特定の音の使用
よくこんな難しいことしてんだっていうことを言ったりしていて。
だいたいわからん時に、
何でとか何とかっていう場合とかっていうのも、
相手が可能な限り短く答えられるように質問をしているようになる。
例えば、
明日一緒にどこどこに行きましょう。
明日一緒に経文館に行ってみましょうっていう場合に。
いつ聞いたらいいか分からなかった時は、
いつって聞くし。
どこに行ったらいいかが聞き取れなかった場合は、
どこって言うし。
全部わからんかった場合は、
何て言ったっていうのを無意識に使い分けられているんですよね。
俺たち。
確かに確かに確かに。
いつだけが分からなかったのに何て言ったって聞けば、
言った側はもう一回明日どこどこに何時に行きましょうって言わないといけなくってめんどくさいから、
相手をできるだけめんどくさくさせないように、
最小限の手間で会話が成立するように、
必要最小限のことしか聞かない。
聞かないね確かに。
それは本書では何によってその短くなる現象が起きていると指摘してるんだろう。
何によって。
例えば一つの説明として、
その方が認知的エネルギーが最小になるからっていう自由エネルギー原理を持ち出すこともできると思うけど、
相手の手間を減らそうっていう人格的配慮みたいなこともあり得るでしょうし、
どういう説明によってその短く答えられるように質問するっていうベクトルが動いてるんだろうなと。
今話してた会話のルールというものを我々はそれを無意識に認識しているっていう事例としてそれが出てきたっていう印象。
なるほどね。
だから別にそれがどういう原理性であるかっていうことはないから、
例えばさっき言った自由エネルギー原理で説明することも一応できるわけだな。
それに近いでしょうね。
コミュニケーションコストを俺たちは可能な限り下げようと努力しているということが会話を研究しても分かる。
なるほどね。
さらにそれで言うと、どこの国でもAみたいな音ってほぼほぼ似てるらしくって。
短く聞き返す時の音。
発音で言うと前舌が狭いからちょっと空いてるぐらいの音っていうのかな。
AとかAとかちょっとバカっぽい口の開け方をした時に出てくる音。
ほうほうほう。
これも話法というか喋る時のエネルギーとして一番楽な音っていうのかな。
素早く出せて。
あーなるほど確かに。
あーとかいいとかって口の動き大きくって疲れますよね。
疲れるっていうかエネルギーを消耗するっていうのかな。
で時間がかかる。
なんだけどほぼどこの言語を調べてもAとかUとかウンフンとかそういうのって一番力を使わないような音が使われているらしくって。
そういうのをどこの言語を調べても大体同じだっていうのもやっぱり面白いところで。
そうだよね。そういう共通性が後から生まれていく。
修練進化みたいなことが起こるっていうのは人体が似たような形をしてるからなんやろうね。それはやっぱり。
でやっぱね、そこでもソシュールの話が出てくるんですけど、
やっぱり言語って恣性で説明できないことが増えすぎてるよねっていうのがやっぱりこの21世紀に入ってからの言語学のブームというのかな。
明らかな流れなんじゃないのかなっていうことを言っていて。
あとさっきの話で言うとね、俺たちは道徳があるからそういうことをやっているんじゃないかっていうふうに言っていますね。
道徳心がさっきのようなコミュニケーションのルールを要請している。
相手は協力的であるということを想定してわからない場合はできるだけすぐにわからないことをわからないと伝える。
それを種族としてやっているって言ったらいいのかな。
それはでも例えばですよ。
インターネットとかで質問できない人とか謝れない人っているじゃないですか。
あれはコミュニケーションコスト高いですね。そこだけ見ると。
それはさっきの説明で言うと道徳心がないからっていう。
まず前提として言葉じゃない。会話じゃない。
会話じゃないからか。
え?って言えば0.01秒で終わる。さっき言った0.2秒で終わらなかったらもう耐えられないんです。
コミュニケーションの質が違う。
本来は言語的なコミュニケーションであればより理性的になれるはずだと思うんですけど。
理想としては。
たぶん人類はそんなによくできていないんじゃないかと思えて。
理性的な行動に移るまでのエネルギーが必要で、そこを超えられないんだろうね。
やっぱり情報量が少ないんだと思いますね。
結局文字というものが所詮言語学によって後から付けられたものっていうのかな。
さっき言った会話が何で終わるのかわかるのって、
例えば声の高さが下がっていくとか、大きい声がちっちゃくなるとか、
えーみたいな言葉にもすごく意味があるって言ってて。
これも結構重要な話で、
3章4章ぐらいからが、
あーとかえーっていうのが何で重要なのかっていう話ともつながってくるんですけど、
うーんとかえーとかえーとーとかあのーとかって多い人とかいろんなタイプの人がいるとは思うんですけど、
やっぱそれってめっちゃ重要な信号で、
さっき言った会話のルールで言う、
俺まだ終わってないよっていう合図なんですよね。
バトンは自分が握ってるっていうことを示すサインか。
まだ俺は喋ろうと思っていて、
だからあなたは私の権利を奪い取ったりせずもうちょっと待ってねっていう合図で、
さらにこれもね面白いのが、
情報の伝達と円滑なコミュニケーション
ニュアンスが違う。
うーんっていう場合とえーとーとかっていう場合と、
あのーとかあーっていう場合で、
どのぐらい待ってほしいというニュアンスが結構違う。
確かに名文化はできないけど、
例えば、うーんとえーとは確かに違うとはわかりますね、それは。
一般的に英語とかだと、
UMで発音されるうーんっていうやつと、
UHで発音されるうーっていうやつ。
で、そのUMの方のうーんっていうのは、
ちょっと長く待ってねっていう合図で、
UHのうーっていうのは、
ちょっとだけ待ってねっていう合図で。
で、たぶんそこに波つけてるんですよね、
俺たちは。さらにそこにも。
うーんとーとかっていうので、
そのうーんの時間で足りんかったら今度はとーを足すとか、
あーあのあれあれみたいなのとか。
うーん、そうか。
それが、声の大きさとか伸ばし方とか波のつけ方自身が
もう情報を持ってるということか。
で、その情報によって、
コミュニケーションが円滑になっているというのかな。
ルールが守れるようになっている。
会話における反応時間とテンポの特徴
サインが交換されてるわけやもんね、そのコンテキスト。
で、このサインってやっぱ当たり前なんだけど、
これまでの言語学では研究されてきてないですよね。
うん、確実にそれは。
っていうところがこの本の面白いところで。
うんうん、なるほど。
あとさらに言うと、それにつながる話なんですけど、
俺たちってやっぱ人の話を否定するのって嫌いで。
うーん、まあそうやね。
今ちょっと否定しかかってやめたけど。
その、なんかね否定的な言葉を言う場合はやっぱ躊躇してしまうので、
そこであーとか使うんですよね。
使うね。
今の話でも違いますよねってやっぱほとんどの人は言わないんですよね。
あーそれはちょっと違うと思うんですけどとか。
そう、柔らかいとこから入っていくね。
で、それはね言語のスピードにもきちんと表れていて、
うんっていう時とはいといいえで間がずれる。
うんうんうん。
うんっていう時はすぐに答えが返せるんだけれども、
否定をする場合はやっぱり一段階躊躇してしまう。
ってことは0.2秒では返ってこない確率が高い。
そう、で大体限界がそれが1秒だと言われている。
おー、なるほど。
1秒以上返事がない場合、
あーこれは相手は否定しようとしているんだなって考えてしまって、
さらに多くの人はそこで自分から続きを喋っちゃったりするんですよね。
あーはいはいはいはい、分かる分かる。
来週予定って空いてる?って1秒待っても返事が返ってこないと、
あーそっかじゃあ再来週ならーみたいなこととかを。
なるなるなる。
っていうこと自体が無音がだからちゃんとコミュニケーションの手段なんですよね。
無音の長さが手段ってことね。
あーそうそうそうそう。
それすらもう情報量になっている。
うん、なるほど。
でもそれが書き文字だったらただ空白が空いてるだけだから全然見えてこないよね。
うん、とか書き文字の場合、だからしばらく待って返答があったって書かないといけないですよね。
そういうことをしようとする場合。
確かに。
それを0.3秒ぐらいだったとか0.8秒ぐらいだったって言われてもやっぱ分かんないし。
でもあのたかだか0.5秒と1秒ぐらいの違いというのを俺たちはちゃんと認識できているというのも驚異的なことだし。
確かに。
まあZoomの場合はそこでしょうね。やっぱその1秒待たされてしまうことが多いので。
だからそれに慣れる訓練というか。
日常会話と違うルールで動いてるっていうことをさえ学習したらそこまで違和感はないかなと思うけど。
話しにくいところはもちろんあるけども、全然無理っていうことではない感じがするね。
あとね、ちょっとZoom的な余談ではあるんですけど、
なんて言うんだろうな、このテンポが遅いことがより対話的になるっていうのかな、コミュニケーションというよりも。
それは実際にやってて感じるわ、確かに。
あえてちょっとゆっくり待ってからじゃないと自分の番にならないという感覚があって、
それによって遅い思考が促され、より対話的なものができるんじゃないのかというのは、
ひょっとしたらインターネットの新しい可能性としてはあり得るのかもしれない。
うまいこと使えばそういうことを。
例えばチャットとかの場合ってみんながリアルタイムで同時に書き込めるからいいよねって言って、
こっちは一人ずつ喋らなあかんからダメだよねっていう論調がインターネットで強いわけですけど、
一人の話をじっくり聞かなあかん、そういう体制が作れるとも言えるわけですかね、これは。
2人3人、もともと人類の会話なんて数人ぐらいが限界ですからね。
そもそも4人ぐらいが同時に会話できる限界というのか。
会話とスピーチの間ぐらいになりやすいんですかね、そういう意味でいうとZoomとかになると。
会話からちょっとテンポがずれることで何か会話みたいな、反会話みたいなものにずれていく感じは確かにあるかも。
多分だからつまらんという人は、もっとコミュニケーション自体を楽しんでいるという感覚っていうのかな。
正直日常会話なんてどうでもいいことだらけじゃないですか。
そうだよね、グルーミングの意思なもので。
でもどうでもいいことが楽しいのであって、それは重要なんですけど。
確かに確かに。
ただそれはZoomでは満たされなかったとも言えるし。
そうだよね、それだからやっぱり違うことをしている感じであるな。
そのポッドキャストでも打ち合わせキャストでもやっぱりそのテンポがこれに近い、Zoomに近いから。
でもやっぱりその方が話し合う感じにはなるね。
多分我々のようなタイプは、そっちの方がむしろ楽しいんですよね。
それはもう間違いない。
グルーミングは別にいらんと、極論するんですけど、あえて。
日常生活にグルーミングが全くないのは流石にありやけど、
せっかく普段会わへんような距離の人と喋ってるわけやから、わざわざここでグルーミングする必要はないよなとは思うけど。
そういうニュアンスで、話が苦手な人には新しい可能性が開けているというか、そういうやり方というのが。
普通の人に比べて返事が遅い人はこっちの方がいいよね、きっと。
一般的に多分返事が遅い人は嫌われがちだと思うんですよね。
話に乗れなくて、結局全然発言できへんみたいなことが多いと思うよ。
だって0.2秒以内に答えろって単純な話なんですけど、考えてみたらクッソ難しいはずなんですよね。
考えてない発言を基本的には、条件反射で喋ってると思うよ。
0.2秒で、さらに1秒、2秒の間に話者が入れ替わるらしいので。
世の中にちゃんと考えてから答える人もいるじゃないですか。
それは真面目な人というか、まともな人というか。
条件反射で答えるのは嫌やからちゃんと考えたいって人は、当然1秒ぐらいの間が空いちゃうんで。
そうすると定型的な会話のリズムには乗り切れないってことがあって。
言語の特徴による会話の舞台設定
でもインターネット越しの会話とか、ポッドキャストの対話とかっていうのは間が前提やから、逆に喋りやすいっていうのはあると思うね。
テンポが早いことに慣れている人がおそらく多くて、そのテンポで話そうとすると気持ち悪いなっていうか、変な感じするなっていう風に感じやすいというのかな。
数字がね、ちなみになんですけど、0.1秒から0.2秒で話者の交代は起こるんだけど、肉体的な人間の生物的な仕組みで言うと、会話をしようと思って声が出るまではだいたい0.6秒かかるらしいです。
話者交代がきちんと起こってるっていうことは、だいぶ前から俺の話はここで終わって相手が話すだろうっていう期待が醸成されてるってことよね。
話している側は、そろそろ俺の話ここで終わらせるよっていう合図を言葉の中に含めていて、一般的に語尾が下がるとかそんなのだったかな。
その語尾が下がっているということを認識して、0.6秒かけて次に自分が話すことを準備して、相手が話し終わった0.1秒とかっていうタイミングで話し始める。
だからやっぱり僕らは理性で喋ってないよね、そういう考えたら。
しーていうなら予測で喋っているじゃないか。
確かにそうよ。予測と直感で喋ってるよね。
あと面白い話なんですけど、日本語はその中でも言語の特徴として、本の著者が調べた限りで世界一反応時間が早い。
早いということは、会話が終わるだいぶ前から、他の言語よりも前から結論というか反応反射が仕上がっている。
マイナスですね。
マイナスか。でも俺もさっきから食い食いに喋ってるもんな。
平均すると7ミリ秒ぐらい。数字でいうとマイナス500ミリから600ミリぐらいというのが、よくある応答時間の平均。
見た話を読書会に聞いた時も思ったんですけど、日本語って英語は動詞の後に否定がつくけど、日本語の否定って文末につくからあるかないかっていうのが。
だから聞かんと分からへんはずなんだよね。最後まで。一番遅い言語のはずやけどね。その逆が出てるってすごいよなと思うんやけど。
あれなんじゃないですかね。それはおそらくなんだけど、やっぱ書き言葉と話し言葉の違いなんじゃないですかね。
日本、会話の場合は違う。
会話ってそんな丁寧に文末で否定するかなっていう。
私はこの本が好きではないとかって喋んないですよね。
確かに言われてみたらそうやな。
会話の準備段階とテンポを取るための言葉
あと、喋り方でその人が否定的なこと言ってるか肯定的なこと言ってるのが分かりやすいってのはあるけど。
多分そのニュアンスで分かると思うし、だから意図的にそれを崩すことは和力が高いというか、特殊な能力があればできるとは思います。
否定か肯定かが分かってたら動詞が頭の方に来るから分かりやすいんかな。むしろ早いんかな。
日本語って書き言葉で言うと最後がやっぱですとかますとか。
いらん言葉やわね。
でしたがですになったって会話においてはほとんど影響ないじゃないですか。
影響がないか、確かに確かに。
っていう言語の特徴があるんだろうなっていう。
そうか。言語の特徴があるだろうなぐらいの推測の強度は語尾で変わるけど、文意は変わってないもんね、今の。
そう、それをあれですよね。俺はあると思いますとかあるんじゃないかなって考えてるんですよねとかって言ったら、もうあるの段階で分かりますよね。
分かるね、確かに。
あとはただの細かいニュアンスで、長いからちょっと曖昧なんだろうなっていう。
だからもう日本語のこの会話の話し方の中では文章の半分ぐらいでおおむね文意を理解して自分の応答を準備していると。
なるほどね。
だからやっぱ書き起こしが読めないというのは同じことだなとも思いますね。
まあ確かにそうだよね、それはそうだわ。
そのテンポを取るための言葉がある。
あるね、あるある。
テンポを取るための言葉は書き言葉にするとやはり邪魔になってしまい。
かなり冗長になるね、それは。
うん、やっぱ結構音楽的で身体的なんだなってことも思わされるんですよね。
うんうん、確かに。
なので逆に言うとやっぱ身体の訓練で会話ベタというのは治るんだろうなっていうのはこの本を読んでも思ったことで。
あーそうか。
言語学に精通したら会話が上手くなるということは。
まあそういう言い方もできるから言語学を学んで練習すれば上手な会話ができるようになるはず。
なるほどね、とりあえずその肉体的な練習っていうのが欠かせないわけだね。
多分なんて反応したらいいかがわからない。
それ何かの時にも何か前喋ったと思うんですけど、語彙が足りないんですよね、幅広い意味での。
コンビニに行ってその袋くださいよどのタイミングで言えばいいかもわかんないとか。
いつ言えばいいかわからんとか。
そのそういうのもやっぱ語彙がわからないだとか何て言われたらかが文脈がないとわからないとか。
なんかねその自分の話で最近になってねやっぱどうでもいいコミュニケーションが昔よりできるようになったと思うんですよね。
それはなんか素晴らしいことですね。
例えばスーパーに行ってなんて言ったらいいんだろうなレジで何て言うんだろうこうお願いしますとかありがとうとかそういうのとかっていうのだったり
なんかそのお店で何かを注文する場合にそのなんて言ったらいいのか。
そういうのもやっぱあの高天的に学べることだなと思ったし。
語彙の増加と文脈理解
年齢を重ねてこういう時にはこう言ったらいいんだろうなっていうのを地道に語彙を増やしていけば。
それはでもそのマニュアル的にということじゃなくて文脈とセットでっていう意味で言うと英単語を覚えると似てるよねそれはきっと。
多分あの本質は一緒なんだと思いますね。
単語だけを知っていてもすみませんという単語を知っていてもそれをどの場所でどういうタイミングでどういう空気の時に使うと適切なのか。
というのはあのやっぱ練習と両方必要知識も練習も両方必要ってのあるね確かに。
でコミュ力が高い人はやっぱそれが無意識にというか多分本人自覚なく上手にできている。
なんかねやっぱあの子供とか見てるとね店員さんに声をかける場合にどういうタイミングで声を出せばいいのかがやっぱ分かんないという傾向がある。
それは大人になっても多分あのできない人はやっぱ練習と経験を積まなければできないままで。
会話が苦手な人は練習から遠ざかるからよりできへん状態が維持されるっていう悪循環があって。
であの僕もあんまりそういうの喋るのが得意じゃないし電話をかけるっていうのがもうめちゃくちゃ嫌というか極論電話なんかかけたくない人生を送っているんですけど。
コンビニの店長をしてた時はやっぱ電話をかけざるを得ないところがあって苦手ながらにやってたらやっぱりちょっとはできるようになりますねあれは。
なんかやっぱその文脈がありますよねうまく言えんけど。
ありますあります。
あと両方の立場を経験してあのどってことないんだなっていうことがわかるとか。
あとまあこういうことを求められてるんだなっていうことがわかればそれを出せばいいからだからやっぱルールとか文脈がわかってないからできひんっていうところは多いですね。
何もかもというかわからんけどやはりそのルールなんだよなっていうかルールをいかに学べるかどうかというのかな。
ルールを言語化して身体化できれば会話はコミュ小からコミュの力の達人になれるみたいなイメージ。
達人になれるかは知らないけど日常雑談に困らないレベルには成長できそうだよね。
なんとなくあの自分で言うとあれなんかなそれを意識するようになったというのかな学習することを。
覚えようと積極的になってる。
なんかその言語に対する解像度が上がってそのさっき言ったそういうコンビニの店員さんに何て言ったらいいのか。
飲食店でどういうふうに喋ったらより伝わりやすいのかというのも究極的な言い方をすると外国語だと考えることができるようになったっていうのかな。
それはでもなんか面白い視点やね。
普段使う日本語も外国語のように考えることでより解像度が上がるというのはある種外国語を学んでる人やからこそ得られる視点というか。
会話のルールとコミュニケーション
こういう場面でだって習ってないんですよねやっぱ当たり前だけど俺たちは。
確かにそう。
ちょっと変な話だけど、最近ご就職様とか残念でしたって言われることが何回かあったんだけど。
何て言っていいのか。
ありがとうございますはここで適切なのかっていうのがわからんしそういうことを書いた教科書もないから最初はやっぱりちょっと結構苦労したよね。
だから習ってないっていうのは確かにその通りだなと思います。
そうですねそのお葬式の時に何だっけなご就職様じゃなくてあのお寂しくなりましてって言われて衝撃的だったっていうのとかもやっぱそうで。
そこで新しい言葉をやっぱ覚えましたからね。
確かにね。
俺もでもご就職様って言われて何て返したらいいかやっぱわからんもん。
わからないよね。
あーあーどうもになってしまう。
そういうなんかモゴモゴとした返し方になっちゃうよね。
そこでやっぱ一歩一歩学んでいくんだろうなって感じですよね。
そういうことだよね。
だからやっぱ日本語を学ぶっていう当たり前のことを日常的にやっていけばいいっていうことなんやけどね。
それはまた難しいのが英語を学ぶとは何て言うんだろう根本的にやり方が違うというか。
本質は多分正しいんだけど学校で学んだ英語を学ぶという方法とは全然違うというか。
そうやね確かに。
でもこういう場面での適切な答えというのは
概ねこういう方向性がいいぞっていうものはあって
それを知っておくと社会生活を営む上でルールを逸脱せずに行動ができる。
そうやね。
っていう風に考えることが自分はちょっとできるようになったっていうのかな。
確かにそれはそうやな。
その感覚はやっぱ英語を学ぶようにという感覚はちょっと今までなかった。
ちょっと目を開かされてる思いやわ。
小魅力を高めるために。
知識の欠落という観点じゃなくて何か会話が苦手っていうアイデンティティだったけど
そうじゃないんだなっていうのはちょっと思い直したね。
そうじゃないと思いますね。
そう思ってちょっとできるようになった気がするからある程度真理はあると思う。
なるほど。
いろいろと余談があったんですけども
あとはそうですね。
あーとかえーの話とかで他にも面白い場合にも
頼みづらい言葉を頼もうとする場合も
余計な言葉をつけがちになるみたいな性質がある。
えーとかって言うよね確かに。
すいませんけどってことをぼやかしたとこから入るね大体。
それもやっぱ我々が無意識にできてしまっている学習している要素だったりだとか。
それでもさ変な話逆の可能性は?
逆。
なんか生物学的にえーって言ってしまうからそれがルールになったみたいな逆。
あーえーと多分生物学的にえーと言ってしまうからえーということが
そういうニファンスを緩める役割として僕らが学習した。
意味が先なのか動作が先なのか?
どっちなんだろう。
えーとえーって言えばこれちょっとごまかすニファンスになるなということが先なのか
えーと言ってしまったがゆえにそれが会話のルールとして成立したのか。
なんかあの人間の自己防衛本能というような印象はあるんですよね。
あーはっはっは。
否定されるのが怖いからそう言っておくことで否定された時のダメージを減らそうとする?
それがでもそういう特徴的な反応であればある種生成文法ではないけど生物的に共通、人間的に共通する言語基盤に近いよね。
だからえーとかあーとかってオノマトペに近いんかなどっちかっていうと。
その単語というよりはある感覚。
あー性質はめっちゃ似てる気がしますね。
なんか身体的感覚を表すものとして発話されてるって感じがするななんとなく。
音でニュアンスが変わるっていう感じもあるしえーとかうんとかってやっぱそのちょっとニュアンスは違うし。
その長さで明らかに響きが変わりますからね。
響きっていうか相手に届く印象が。
これは言語そのもの、純言語そのものよりはもっとオノマトペとか身体的に近いものとして発話されているとして位置づけたら
まあそれはいろんな人間がみんな一様に口を揃えて言うから。
ルールは後から見出された。この発話に関してはルールは後から見出されたものっていう感じがするな。
うーん。あー多分ねそうですね。
基本的にほとんどこの本がなんて言うんだろう後から見出されたルールから理由を考えていくっていうような感じはしますね。
なるほど。
イエス・ノーの解釈と文脈共有
まああとえーとまあこれはね面白かったなってことなんですけど。
質問に対して答える場合ですら、俺たちはすげールールというかいろんなことをやりまくっているというか。
ほう。
えーと例えばまあ昔の話なんですけど電話をしてもしもしゴトーですけど倉下さんのお家ですかタダノリさんはいますかって聞いた場合に
はい。
いますって答える人はほとんどいないですよね。
そうですね。いないと思う。まあいるとしたらちょっと変な感じで受け取られるよね。それいるって答えたら。
うん。とか例で出てきたのがあのお店に行ってクレジットカードって使えますかって聞いた場合に
はい。
使えますっていうよりもあのちゃんとわかってる人はそのアメックスはダメですとか。
うんうんうん。
スターとビサなら使えます。JCBは使えませんとかっていうそのこれも必要ないことはやっぱ言わずにさらに勝手に推測して答えを先読みして答えていくことによってお互いのコミュニケーションを減らすということを我々ほとんどの人は無意識にやれてしまっている。
うーん。まあ要するに意図を推論するってことだよね相手の。
うん。
推論した上で一番適切であろう質問を勝手に答えてると。
勝手に答えてしまう。
うん。なるほど。
さらにこのイエス・ノーに面白いことはあのね適当にイエス・ノーをランダムに言ってるだけでも人間は勝手に解釈して自分で好きなように解釈をしてしまうという性質も持っているらしい。
しそうやなそれは確かに。
でこれその実験とかであのねボットみたいなロボットみたいなのを使ってそのはいといいえというのをランダムに答えさせるみたいなことをやってみてその誰かの相談に乗るみたいなことをするとあのもうね自分の都合のいいよイエスというのはあの全て自分の都合のいいように解釈ができてしまうというのかな。
はいはい。
さらに最初にノーって言ってたのに後からイエスって言われた場合もあの多分この人はいろいろ考えてさっきと意見が変わったんだろうなーって自分で納得ができてしまう。
なるほど。
っていうようなあの勝手な解釈みたいなことをしてしまうっていう話だとかあと答えが関連性によってイエス・ノーが変わるっていうのかな。
ほう。
面白いなと思ったのがコーヒー飲むって聞いた場合にコーヒー飲むと目が覚めるよねっていう答えが返ってきた場合その答えはイエスなのかノーなのかは場面によって変わりますよね。
あーそうやねそうやねこれからネアな感じとこれしばらくお人かな時期でイエスかノーが変わってくるね今のは。
うんこういうのもそれで通じてるんですよね俺たちって。
イエスノーとは答えてないけどもその文脈の方を示すことで相手にそれを理解してもらおうとする。
さらに文脈を共有しているので共有していないとできないはずで。
そうやな確かに。
あの例えばアメリカと日本でやっていたらまあコーヒー飲むって物理的に不可能だけどそのできないことだしそのそれで会話が成立できてしまうより文学的になるという感じも受けたんですよ自分の場合。
そうやな確かに解釈任せになるよねそこは。
っていうのもやっぱ勝手に俺たちはなんて言うんだろうやっぱ勝手に予測しているという言い方をしたらいいのかな。
そうやねうん。
なのでやっぱあの一体はない議論というのも同じなんだろうなということも思うし。
うーんそうか。
特にそのひょっとしたらあれなのかもね日本語が答えが早いっていうのはあの余計なことをできるだけ言おうとしないというようなところもあるのかもしれない。
うーん長々とお互いに長々と喋れないから早い。
そしてその分あのお互い意図が文脈を同じ文脈を持っていると前提しているので伝える必要があるものが少ない。
そうか。
要するに村社会型やと文脈の共有率が高いから言葉そのものも早いしそこでやり取りされるイエスノーも当然予測可能なものに留まるから答えは早くて済むけど。
まあ異民族が多い国の場合はもっとちゃんと喋らないと意思の底が起こるからもうちょっと時間かかる。
まあ日本がちょっと独特かなというのは確かにあるかなその意味では。
会話の過程と難しさ
そもそもね日本語の語源調べるとクソ面白いのが日本語に似てる言葉が全然見つかんないらしいですからね。
さらに配句とかそういうものってとんでもないなって思うんだけど
575で英単語だと何ワードぐらいに相当するものだろう。
古い家は河津飛び込む水の音を単語アルファベット数にしたら3倍4倍ぐらいいきますよね多分。
その上日本語の組み合わせが持つ情景の豊かさは多分表せないんだろうなきっと。
情報量が少なければ少ないほど文学的になるというのかいろいろなものが。
ふと思ったんだけどそういう文学とかをやる場合にも会話とかっていうのを考えてみると意外と役に立つことがあるのかもしれない。
会話っていうのは基本的に平均を取ればある種ローカルな営みじゃないですか。
書き言葉特に書き言葉を研究するような人たちないしは哲学者っていうのはパブリックな言葉を紡ぐ人ですね要するに。
そこに大きな違いがあるわけですね性質として。
ですね。
文脈の共有度が天と地のほどの差があるわけだねその2つには。
文脈を共有していない前提で書かれる、書きますよね書く側は。
だから本っていうのはおそらくそういうためになる。文脈の外にいる人に自分の文脈のことを伝えるからこそ本を書くんでやって。
会話っていうのはむしろある程度日常的に文脈を共有している人たちの中で行うコミュニケーションやからその同じ言葉という現象でもすごい性質が違うんよねこれきっと。
残ってないからねやっぱ研究できないんだろうなってすげー思うんですよね。
確かに残ってないね。
俺たちどんなに頑張っても平安時代の会話は資料がなくて、資料がないのかなちょっと俺が思いつく限りでは資料がなくて。
貴族の会話ならギリ記録があったとしても資生の会話はまず手に入らないでしょうねきっと。
例えばなんですけどその頃なんて人間に名前すらついていなかったみたいなニュアンスがよくあるじゃないですか。
確かにはい。
だからそのやっぱ当然そうなると個人というものがやはり存在していないんだなっていうか概念として我々が感じる個人というものとは圧倒的に概念は違うんだろうなって思うし。
そうかだからローカルである上に定型定性でも定量でもないんかその会話の会話っていうものの中身が。
だからその科学的な分析にそりゃ乗らへんわな普通に考えて。
統一的なものってだってここで研究されてるのも現代の会話なわけじゃないですか言ったらこの本の中で研究されてるのも。
だから会話の射程って実はもっと広いよねきっと。
もう全然違うと思いますね。
言語学の研究の難しさ
そのさらにものすごく激しく変わっているだろうなって思うし。
そりゃだからハードサイエンスには向かないっていうところはあるねその会話の全体像っていうのが。
本の中でもちょろっと触れられたりしてるんですけどあのねめちゃめちゃ大変らしいです。
大雑把なイメージなんだけど60分の会話を聞いてえって何回言ったか数えるとか。
まあそういうことを当たり前にやっているみたい。
なるほどね。
まあなのでやっぱあの楽ですから人間は意識無意識関わらず楽なことをやっぱりやろうとしてしまうので。
はい。
言語学もその書き言葉に向かいたがるというのはすごくよくわかる気がする。
うんうんそうだよね。
研究しやすいしね。
でなんか研究した成果もなんかパッて示せるけどね。
その1時間にA何回言ったかって発表してもなんかそれほど世間の関心は集めなさそうやからね。
まああのねフィールドワークやるような人たちはそういうことを平然とやれてしまうんだけど。
まあでも平然とではないですよね絶対。
まあどこまで楽しいかはちょっと本人に聞かんとわからんけど簡単なことではないわね。
まあそういう感じで会話がいかに面白いかっていうかあの舐められてきたっていうニュアンスで感じていたんだけど
喋ってみて思ったのはやっぱ難しいから手を出せていなかったみたいなのもかなりでかいのかもしれないですね。
そうやね特に事例を集めるのは相当難しいとか少なくとも録音機械が一般的になる以前は絶対研究できないわけやから。
で現代の場合はこうやってその多分会話が録音されている一番盛んな時代じゃないですか今は。
将来の言語学の展望
やっとですねやっと一般人が録音できるようになった。
ここからが多分その会話の数学じゃない会話の科学の黎明期が終わってっていうところじゃないかなきっと。
そこからとなっていくかですね。
あと最後の方はね将来的な言語学がどうなっていくのかっていうようなこともこれからの期待みたいなことも結構書かれていて
ただあの難しくすげー難しかったんであんまちゃんと答えはちゃんとした説明ができるほどではないんですけど
その例えばブックカタリストで紹介はしてないんですけどよく話題に出てきている言語はこうして生まれるっていう
盲点クリスチャンセンさんとニックチェイターさんが書いていたそういう言語がどうやって生まれてきたのかみたいなこととかも
最近その説とかが有力になってきていたりしてしたりとかさっきの和釈が交代するとか修復を促す言葉みたいな
えーとかうんとかっていうああいう言葉の影響で文法って結構そういうものに影響を受けて変わってきてんじゃないって考えているような人だとか
あとはそれを時間軸とともに研究しないといけないというくそ難しいことになってきている
でも文法っていうのがもしそのような修復なりある種だから身体的なものから来る要素によって変化していくものだとしたら文法っていうのは普遍的なものではないわけで
だからそこはそのいわゆる言語学の普遍文法みたいなのが概念がまるっと入れ替わるのか一部入れ替わるのかわからないけど結構ラディカルな変容になっていく気がしますけどね
変わっていきそうですねそういうあとさらにそれによって人間の脳がどういう影響を受けてきているのか
そうやな確かにそうかそこはその進化心理学との兼ね合いも必要か
何十年何百年っていうそのダイヤクロニックな影響がどうなのかっていうのと個体レベルで人は生きている間にその言語によって脳はどういう影響を受けているのか
それもあるやろうねきっと
っていうようなことも最近はその研究がされてきているよっていうのが最後の章にまとめられています
面白いめっちゃ面白くなってるなって思いましたねやっぱこういうので言うと
なんかでもそのいわゆる言語学って肩から見ると何であんなことしてるんだろうってちょっと思うその研究のための研究な感じがすごいしてましたけど
こういう会話の話になってくるとすごく日常的なことでしかも非常に射程の広い話になってて面白いですよね
たぶんねやっぱねあのソシュールが調べてからあの普遍文法じゃない生成文法みたいな言葉とかってやっぱねあれはもうねあの
高生行きすぎてたって言われるんじゃないかと俺は思うんですよね
なるほどね
ちょっとなんか言語学が始まった頃の迷走なんじゃないかぐらいにあのマイルドに言っておくんですけどぐらいな印象をこれを読んでいたら受けましたねやっぱ
なるほどなるほどまあちょっとわかりますそれは
うんという感じでまああれからだからむしろ言語学というものがこんな面白い可能性があるんだぞっていうことを知る本として
そのポピュラーサイエンスな観点から非常に良かった本なんじゃないかなと思います
なるほどねちなみにこの本読んで会話力が上がったみたいな実用的なコーナーってあります?
この本というかやっぱねさっき言ったなんて言うんだろう言語に対する解像度が上がってもうちょっと長いスパンで言えば上がったと思います
うんなるほどなるほど
ですねそれはあれかなやっぱいろんな外国に行ったが一番でかいかも
英語がわかるけどなんて言ったらいいかわからんが原体験でしたね
なるほどね
聞き取れることとしゃべれることは単語がわかってもしゃべれない会話の中では
旅行では体験できなくてその時はなんかそのエバーノートの集まりみたいなやつで英語でコミュニケーションじゃなくあれなのか
会話をしようとして初めて言語の会話というものに対する概念が変わった
あーそうかそうかなるほど
あの相手が明確に善意を持ってこれを買いたいんですけどこれは5ドルですはいどうぞならできるんだけど
はいはいはいはいはい
なんかカンパーイ昨日どうだったっていうのはできないっていう
おーそうかでも確かにできないよねそれは
あの前者はある種ある種丸暗記とちょっと言葉の入れ替えだけでできるけど
それはだから開門するっていうコンテキストが固定されてるからか要するに
うん
日常的な会話はそうじゃないそのコンテキストを見つけ出すことから始めなあかんから無理なんだなきっと
昨日どうだったって言われて日本語ですら俺なんて答えたらいいかわからんから
まあそうやね確かに
最近どうとかって言われても
ぼちぼちとしか言えないそうな
でもまああの日常会話として最近どうあーまあぼちぼちなんだよねーはやっぱ入りとして重要なことだと思うので
確かに
分からない日会話をしたっていうのが一番大きな影響だったですかねそういう意味で言うと
会話っていうことそのものの難しさに遭遇してその会話の原風景を見たって感じだよね
そうですねそしてこれは日本語でも同じだと気づけた
確かに確かに
俺が答えられないのは同じ現象だなって分かったことからその言語に興味が出たとかそこからかもしれないですねひょっとしたら
なるほど
はいという感じです
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それでは今回もお聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
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