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面白かった本について語るPoadcast、ブックカタリスト。今回は『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション (光文社新書)』について語ります。

今回は、前回の『会話の哲学』つながりというか、科学で考えた「会話」を、哲学の方面でも考えてみよう、みたいなのがメインテーマです。

最近のブックカタリストは、本編での「対話」によって、事前準備とはまったく違う新しい思いつきがたくさん出てくるようになり、これまで以上に収録が非常に面白いものになってきています。

たとえば「規範的である」ことが人間関係に動影響するのか。この辺の話は事前に準備していたものでなく、話してる流れで自然に出てきたものです。「あえて規範的でない行動をすること」ってたしかに人が仲よくなるためには大きな作用なのかもしれないよね。いい子ちゃん同士では確かに人間関係って上っ面だけになりがちで「腹を割る」って規範を破ることなのかもしれないよね。さらに、我々が心地よく生きていけるようになるためには、そういう規範的でない行動、発言が許されるような場所って重要なんじゃないかな?

読んだ本について語ってたら、思ってもみなかったようなことを思いついたりする。

そういうのもまた「会話」だから生まれるもので、一人だけだったらこんなことにはなってないよな、と思います。

今回出てきた本はこちらで紹介しています。

📖ブックカタリストで紹介した本 - ナレッジスタック - Obsidian Publish



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サマリー

本日のブックカタリストでは、『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』について話しています。会話はコミュニケーションとマニピュレーションの2つの機能に分かれ、お互いに影響を与え合いながら約束ごとを作り上げていくことが重要だと著者は考えています。その約束事は口に出して同意することによって作られるため、嘘をついてはいけないということは社会をうまくやっていくためには正しくない行為です。「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション (光文社新書)」というエピソードでは、会話における約束事とマニピュレーション、言葉の規範性と非規範性について考察されます。また、犯人の恋人のエピソードを通じて、文学作品が規範を守りながら深い感情を表現する方法についても触れられています。このエピソードでは、規範を破ることとマニピュレーションについての考察や、言語の使用と感情のコントロールに関する議論、そして哲学的な問いの重要性についても話されます。『悪い言語哲学入門』は、読書メモを残すことで考えが深まり、知的なゲームとしても面白い本ですね。

会話の2つの機能
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第73回の本日は、
会話を哲学するコミュニケーションとマニピュレーションについて語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
前回のgoryugoの順番で、会話の科学っていう、
喋ってから0.2秒で人は反応しているぞとかっていう、
なんじゃその驚異的な能力はっていう話をしたんですが、
なんかね、最近全般的に会話とか、人とのコミュニケーション、人間同士の繋がり、
なんかそういういろんなところに興味が出てきておりまして、
その一部、その多分ね、興味の分野が、
人が他人と生きるにはどうするか、うまくやっていくにはどうするかみたいなところだと思っていて、
その一要素として、会話というものにも興味が出たんじゃないかなって、
後から思ったことなんですけど。
逆に言うと、それまで他人とどうやってうまくやっていくかっていうことは、
関心はあまり持ってなかったってことですか?
極論そうですね、面倒くさい人とは関わらないように生きていく、
厄介そうな出来事とはあまり関わらないように生きていくっていうのが、
多分かなりブックカタリストで、
人といろんなことを話していて、考えが変わってきたんじゃないかと思うんですけど。
なるほど、だから所詮、ずっとして言ったマイナスに近づかないというものは持ってたけど、
何かプラスのものを作っていくにはどうしたらいいのかっていう
関心事を最近持ってるって感じですかね。
そうですね、分野として、何て言うんだろうな、
ブックカタリストを勉強だとして、
勉強すればするほど分かってきたことは、
俺一人には限界があって、
他人に頼らないと生きていけない。
そもそも人類というものの最大の強みが、
他人と協力することだっていう。
ヒューマン回答の時もありましたね。
そうですね、っていうことを思うと、
やはりいかに他人とうまいことやっていくって言うと、
何か言い方が悪いんですけど、
その幸福のためにも、社会的な成功のためにも重要なんだろうなと。
今回のテーマに限って言うと、
ぶっちゃけ直接的そういう話はあんまりないです。
はい、なるほど。
割と哲学な分野なので、
会話というものがどういう機能を果たしているかっていうような話から始まり、
最後の方はちょっと著者の意見みたいな感じで、
こういうことをしてはいかんよねみたいな感じの話が出てくるっていうのかな。
もう一つ気づいたのが、
こういうことをしてはいかんよねっていうのを、
哲学の観点で考えるっていうのも最近好きなことなんですよね。
行動規範みたいなものを哲学的観点から考察する?
そうですね、もうちょっと自分なりの砕けた言い方をすると、
本能的にはそれはおかしいことだと思うんだけれども、
そんなこと個人の自由でしょって言われたら反論できないやつ。
そういうやつをその哲学でぶっ倒したいっていう、
哲学だとぶっ倒せる感じがするというのかな。
そう、科学やとそれこそ皆さん好きにしましょう、個人の立場ですって言ってしまうところを、
哲学やったらある観点からその主張が可能というのは、
ちょっとしたその哲学的な姿勢の有利さというか、
あるポジションの取り方っていうのが特徴ではありますね、確かに。
っていうのも最近、これにもそういう感じのことが最後の方にちょっと出てきたりしていて、
そういうことも最近の、完全にあれですね、
どっちもブック型リストを始めていなかったら、
そういうことを思った可能性はほぼゼロなんじゃないかぐらいの出来事かなと思います。
で、だいぶ長い間置きだったんですが、
会話を哲学するコミュニケーションとマニピュレーション、公文写真書、
2022年の8月に出た本です。
ミキ・ナユタさんという方が、やっぱりトランスジェンダーの哲学者だったと思います。
で、そのジェンダー論的なものとか、
この本自体が漫画とか小説とか映画とか、
そういうものの会話を引き合いに出しながら、
これってその哲学的に考えるとこういう意味があるんじゃないの?みたいなことを考えていくっていうタイプの本で、
まあ割とメジャーどころから、俺は全然知らんようなやつからいろいろあったりします。
一部ネタバレ的な要素があるかもしれないので、
時代的に今更大丈夫だと思うんですけど、
そういうことが気になる人は気をつけてください。
オリエント急行殺人事件とかって犯人とかそういうの言っても、今更大丈夫ですよね。
まあでもあれは、今Amazonプライムで確か見てるんかな?劇場版。
そうなの?そういうやつなの?
あのシリーズというか、リメイクじゃないけど、現代風に作り直されてるのよ。
今も劇場でやってたんじゃうかな。とりあえずアマプラで見られんねん。
知ってる人は古典やから言ったら。
ミステリーの古典的なネタとしては有名作品やけど。
でも知ってても面白いかな。
コミュニケーションとマニピュレーションの例
まあ別に言ってもいいか。
ネタバレしたくない人は以降は聞かないほうがいいということは言えるか。
あと読んでみた感想なんですけど、
この本を読んで、批評とか文学論みたいなやつ、
そういうことを書いたり考えたりするときに、
この本で言っているようなことってすごく役に立ちそうだなという印象があって、
その文学論みたいなことをちょっと高度な感じ、文学的に物事を解釈してみたい、
語りたいみたいな場合にもなかなか役に立つというか、
哲学という名前だったんだけど結構文学論的なニュアンスも感じたような感じがします。
自分の場合は。
この文脈においてこの発言がどんな意味を持っているのかっていう分析は
批評的な解釈として捉えることができるでしょうし、
大抵の批評はそういうことをしてますね。確かに。
ニアリイコール、ある意味それは哲学と言えるのかもしれないとも取れるのかもしれないし。
批評と哲学の違いは難しいですよね。
そういう意味でポップでライトなので、ある程度みんなが知っているような場面みたいなことも出てくるんで、
そういえばそういうのってそんな感じのことあるよねとかも言えるんじゃないかなと思っています。
なるほど。
本の副タイトル、サブタイトルにも出てくるんですけど、
まず著者が考えている会話っていうものは何なのかというか、会話とはどういう機能があるのかという話をした場合に、
会話をコミュニケーションとマニピュレーションという2つの機能に分けて考えてみようっていうのが本全体の大きなテーマです。
コミュニケーションっていうのは日本語にもほとんど通用すると思うんですが、交流とか意思疎通とかみたいなことだと思うんですが、
マニピュレーションあるいはマニピュレーターっていうのはあんまり一般的な言葉ではないかなと思うんですけど、
どういう文脈の言葉なんですかね、これは。
コミュニケーションが意思疎通を目的としているという言い方をするのであれば、
マニピュレーションというのは相手を何らかの自分の思った方向にコントロールしようとする行為っていうのかな。
端的に言うと操作、操作する。
っていうと悪い言い方かもしれないんですけど、そこの醤油とってはマニピュレーションなんですよね。
コミュニケーションではない。あるいはコミュニケーションでもある。
でもあるけれど、マニピュレーションとして相手にそこにある醤油を私の手元に持ってこさせるという意図を持ったもの。
そうですね。なのでそこが基本ですね。
情報のやり取り、意思疎通と同時にもう一つ、会話というものには相手に何らかのことをしてもらおうとするという意図がある。
だから一つの会話、会話というかやり取りされる言葉の中にコミュニケーション的機能を見ることもできるし、マニピュレーション機能を見ることもできるって感じ?
そうですね。そういうふうに考えてみると、会話を哲学的に考える場合に切り口として広がるというか、考えやすくなる。
例えばちょっと今思いついたんですけど、挨拶とかにも多分マニピュレーションの機能はあると思っていて、
私はあなたの仲間のような存在であり、敵意はありませんよ、私には攻撃してこないでくださいね、みたいなことがマニピュレーションとしての挨拶の起こりだったのではないのか。
意思一つとしては私はあなたに敵対的な意思はありませんよと示すのがコミュニケーション的で、マニピュレーションはそれによって敵対行動を抑制している。
そうですね。敵対行動を抑制しようとして仲間意識を高めようとしている。
もっと言うと、例えばハローでもおはようございますでもいいですけど、返事を促してますよね。これ結構マニピュレーション的じゃないですか。
ああそうやって考えるとそうかもですね。
で、著者が言いたいのはそういうふうに会話っていうのはまず言葉を通じてお互いに影響を与え合うものだって考えている。
さらに言うと会話って何をすることなのかっていうと、影響を与え合うことによってお互いに約束ごとを作っていくっていうのがその会話を通じて我々がやっていることなのではないか。
約束ごと。
はい。さらに言うとその約束ごとというのは本当にそう思っているかどうかっていうのはあんまり重要ではなくて、
約束ごとを作るということが大事なのであって、自分がどう思っているかみたいなことはさほど重要視をしていないであろうというようなことを後々の事例などを見ながら考えていきましょうというのが大きな流れですね。
なるほど。ちなみに一つだけその約束ごとの例みたいなんて挙げられます?イメージしにくいんですけど。
来週のブックカタリストよろしくお願いします。
お互いに来週の火曜日にブックカタリストの収録をしようとしているという約束ごとを作り上げている。
みたいなごくごく普通のもろに約束でもいいと思うんですけれども。
もうちょっとその哲学的な話みたいなのがその後に出てくる感じです。
そこら辺が大雑把に第1章の話。
第2章タイトルが割と面白くてまず。
口にすることと責任
分かりきったことをそれでも言う。
さっきのコミュニケーションとマニュピュレーションみたいな話を言うと。
コミュニケーションってよく考えられているのがバケツリレー。
よく言われてますよね。
会話と言語というのは間違った例としてよく出てくるのが自分の頭の中にあるものを文字にして相手に渡して相手にその自分の頭の中にあるものを渡そうとする。
それっておそらく違ってるよねみたいなことは結構いろんな科学的な分野だとか言語の研究とかで言われていて。
この著者も同じようなことを言ってるんですけど。
そこで出てくるのが。
漫画のタイトルが全然自分が知らんやつだったので記録とかをしてなくて忘れてしまったんですが。
お互いに両思いなのに相手に対して好きって言えないっていうラブコメ系の超典型のお話ってよくありますよね。
そういうのってよく例えば女の子が好きって言ってよって言われるのに男側はそれでも好きだということを口にすることができない。
それって何でなんだろうっていうのを考えてみようっていうのが第2章の大きなテーマで。
バケツリレーの概念で言えば私はあなたのことを好きだという概念は意味は届いているので口にすることには本質的な意味はないような気がする。
だけれどもそうではないっていうのがここで著者が考えているのは口にするということはその責任が生まれてしまう新しいあなたが好きだという約束事が新しく作られてしまう。
それが一般的によくあるラブコメとかではそうなることが怖いから好きなんだっていうことを口に出せない。
責任を負いたくないから。
責任を負うことを恐れてしまうというのかな。
うるせえ奴らのシーンとかも出てきたりするんですけれども。
うるせえ奴らとかなんかで言うとラムちゃんがアタル君は何が何でも好きだって言わないんですよね。
最終回のシーンがそこでちょっと事例として出てきているんですけれども。
最後の最後まで好きだって言おうとしないアタル君に対してラムちゃんはその一生かけて好きだって言わせてみせるじゃんって言った場合にアタル君が返した返事というのが今はの際に言ってやる。
これって実は割と文学的にかっこよいというかさっきの結論で言うと好きだということは言っていないんだけれども今はの際まで一緒にいるっていう約束を生み出している。
それって結果的には好きだとは言っていないだけれども好きだと言っていることよりも大きな気欠を生んでいるんだ。
そこがそのうるせえ奴らという多分その漫画のラブコメとしての面白さというかかっこよさ。
文学の表現としてただ好きだって言ってやるだけだったら全然重みがないんだけれども。
人間の言葉と会話の力
そこを今はの際に言ってやるということによってただ好きだと言わせるよりも好きだということを限界に含ませつつ約束ごとをしつつでもアタル君のキャラとして絶対に好きだとは言わないみたいなことをうまいこと生み出している。
こういう感じで全般的にこうやってこういうことってこうやって言ってたんじゃねっていうような話とかっていうのが出てくるんですけどこれを読んで自分の話みたいなのをすごく思い出して約束ごとっていうとちょっと違うかもしれないんですけど大学の頃に麻雀が好きな先輩っていうのがいたんですよね。
よくその先輩が言っていてすげえ面白くって印象に残っているのが。
昨日の中国語の授業料はすげえ高かったって言うんですよ。
中国語の授業を4人で資格になってはいを握りながら中国語の授業を受けてたんですよね。
で先生は結構な授業料をいただくことができ。
その先輩というのは非常に高い授業料を払うことになったんですけど。
なんかねその表現が今でも思い出せるぐらいでなんかあのすごく面白いなと思ったんですよね。
でそれもやっぱさっきの口にすることで責任が生まれるという観点で考えるとなぜ先輩はそのように発言したのかっていうのもこうちょっと深く考えることができるなと思って。
なるほどがこの責任という言葉が多分難しいなここでは。
ある種のコミットメントってことだよね要するにこれは。
あーそうですね。
同義的責任に近い法的な云々ではないですね。
あるこの方に対する主体的な関与性ってことだよね要するにこれは。
そうですねそれを中国語の授業料が高かったという表現をすれば私は同義的に法を破る行為はしていない。
なるほど。
だって4人でなんかあの1から9までの数字とかを勉強したりしてなんかあのいろいろとコミュニケーションをしながら最終的に授業料の支払いが発生したという行為なので。
そういう表現をすれば日本国の法では取り締まれないですよね。
あとその例えばその先輩が負けず嫌いだったとしたら試合に負けたみたいな現実とは違う現実が生まれてるよねその授業料を受けたということ。
あーそうですねそういう観点もあるかもしれないね。
だからある発言がある現実的な認識認知を確立させてしまうと、その言葉をずらすことによってその認識認知をずらすことができるという作用が生まれてるんだろうねきっと。
そうですねあの本人自体はそうすることによって負けたことにはならない。
中国語を学んだだけであって。
そういう感じが起きてたよね要するに。
うんでねなんかやっぱそのよくわかる気がするんですよねそういうようなこと発言って我々ってすごくよくしているような気がして。
そのそこらへんっていうのがそういうふうに考えてみるといろんな会話っていうのがこうねしさ深い会話で溢れているというかなんか何ならほとんどの会話ってそういうことで結構生まれているというかそういうものの方が多いんじゃないかぐらいのことを思ったりもして。
だからその発言でそれぞれの発言でその人が何にコミットメントしているのかっていうのが立ち現れてくるしあるいは逆に何にコミットメントしたくないのかというのもその炙り出す形で出てくるっていう感じがしますな。
うんでやっぱそれってね文学的な表現技法だと思うんですよね直接的に言ってしまったら野望でかっこよくないものをその人は何を重要視しているのか。
俺ちょっとそこまで読めていなかったんですけどさっきのその負けという言葉を口にしないというところで負けず嫌いなキャラクターが出せるのかもしれない。
でちなみにその先輩そういえばなんですけどえっと俺大学1年の時ちょっとだけ陸上部にいたんですけどあの少なくともその陸上部100メートルでねその10秒台で走れるという驚異的な人でその身内の大会とかでならほぼほぼ負けなしな人なんですよね。
なんかあるのかもしれない。
ありそうよね確かに。
そういうことすらもあるのかもしれない。
その日本一とかそういうレベルではないんだけれども全国大会でいい勢いけるぐらいのところまで強いような人だったので。
うんだから勝負ごとにこだわる場合負けたものは勝負として扱わないっていうのはあるやろね。
そうすれば生涯無敗でいられますからね。
そういうことじゃないそういうことじゃないよ。
うん。
今日は自己ベストが出せたっていうことであれば負けても問題はない。
だ、そうだよね確かに。
そうやってゲームをずらしていくというものはそういうまあ諸誠実じゃないけどこうメンタルの保ち方っていうのはあると思うね。
うんなんかアスリートとかはねひょっとしたらそういうことが結構大事なのかもしれないですね。
そういうそういうメンタルが持てるようになることというのが。
でえっとまあそういう感じのことっていうのがまあ分かりきってもあえてそういうっていうのはそんなような意味があるよっていう話でえっともう一個ねその会話の変わった特徴というかそういうこれもまたああ言われてみるとよくわかるわっていうやつなんですけどえっとね間違ってるとわかっていても話を進めるということを我々はやってしまう。
ほう。
でそれがそのオリエント急行殺人事件の例を出てくるようなやつなんですけどえっとものすごく簡単にあらすじを述べないと全くわかんない人にはわかんないと思うのでえっとすごく簡単に言うとオリエント急行殺人事件というのはあのまあいわゆる探偵が電車に乗ってて電車の中で殺人事件が起こるんですよね。
で状況的にあのこの中の乗客が犯人でしかありえないという事件だとでえっとまあポアローはあのちゃんと名探偵なのでサクッと推理をできてしまいあの最後の推理の段階で答えは2つあるって言うんですよね。
一つはあの見事に真犯人を言い当ててしまうような推理。
でもう一つというのがえっと本来ありえないんだけれどもなんか電車の中にどっか誰か外部の人たちっていうのが侵入してきてその人を殺していなくなったんだっていう2つの説でえっと。
犯人の話を聞いてみるとあのなぜ殺したのかっていうのがものすごく周りから同情を得られる犯人だったというのかな。
っていうのであの最終的にその列車に乗り合わせていたその人たちっていうのは全員が名探偵ポアローが提案した正しい答えではなくて。
あの犯人がどっかからやってきてその被害者を殺して逃げていったんだっていう説であることにしようということで全員が同意をしてお話が終わる。
でこれもえっと結局はえっと約束事を守ろうというのが目的のそういう約束事を会話にコミュニケーション会話によって作り上げたっていうのがその著者の解釈っていうのかな。
その間違っているかどうか正しいかどうかではなく我々は外部から犯人あの殺人犯がやってきてその人を殺して逃げていったということにコミットメントしましょうっていうことを全員が会話にすることによって会話じゃない口に出して同意することによってそういう約束事を作り上げ。
一生の話を踏まえるのであれば全員がそのことについて責任を負おうと決め、犯人にあの真犯人については口にしないことで全員が存在しないということを了解しようとしている。
約束事っていうことで大事なのはその個々人がどう思ったじゃなくて我々がそのどういう規範を共有していこうかということがその会話の価値なんだと。
そこのその言説そのものを当人が例えば信念として持っているかどうかは二の次だと。
我々がうまくやっていくための規範を作るために会話をしている。
そう聞くと例えばですけど、宗教的観念というのがございますけどもいろいろ。
共同体の規範
まあ僕もほとんど一切信じてないわけですが、かといってそのような法事とかに参加したときに別に拒否するわけじゃなくてそのお作法に沿うわけですよね。
一切信じてないですけど。これはだから何かを大切にしようという約束事に僕は参加しているということとして多分解釈できるんでしょうねこの文脈やと。
そうですねあの倉下さんがその時に何を思っているかはその重要ではない。
重要ではない。なるほど。
社会を回していくために規範を共有することが重要であってそのそこにだからあの極論を言えば嘘を言っているという言い方ができるんですよね。
確かにそうだ。
だから嘘、当たり前に嘘をついているというのはそういうところからもその考えられる。
あのもうもはやそういうことって俺たち大人になればなるほど嘘だと思わなくなってるんですけど。
そうだね確かに。
さらに言うとあれですね大人にやっぱ子供の頃はそういうこと結構できなかったんですよね。
うーん信念と世界が一致してしまっててその距離を空けることができないって感じかな。
うーんっていうのはすごく小さい子なんかだとねえねえなんでこんなことしてるのみたいなことをその場でうるさいことを言ってしまったりだとか
で極論お坊さんがなんか歌みたいなお経を上げていることに
えーとまあ少なくとも俺も同じく何て言うんだろう何らかの儀式以上の価値はないと思っているんですよね。
ただその儀式を皆で規範として共有することでその何て言うんだろうなそこにやっぱ社会としての連帯感が生まれてくるみたいなものもあるんじゃないかと
それは書いてあったことじゃないんだけど思ったりもして。
だからある種の共同体を成立させるためにそういう約束事が要請されて会話はその約束事から確認ないしは構築される目的というか
結果としてそれが構築されていくっていう感じか
うーん
嘘と虚構
なのでその嘘を言ってはいけませんということは社会をうまくやっていくためには正しくない行為なんですよね
だから社会その先ほど成立していった社会の共同社会的共同体の存続を危ぶませる嘘はいけないってことよね
嘘全体がいけないというか部分的な嘘はよくないってことだねきっと
うんその全ての嘘が良いとか悪いとかではないんだけれども
その全ての嘘を悪いと言ってしまうと社会が回らなくなってしまう
確かに
でそのさっきのマージャンの話とかもこれもやっぱそうだよなって思ってそれを良いことだと認めてしまうと
我々は全員日本国の法を破ってもいいものだという規範を作ってしまう
なるほどなるほど
だからそれを口に出してしまうとそれは約束になってしまうんですよね
あなたも私も法を犯しました
だけれども口に出さずに中国語の授業料という話にすることによって
私たちは法を犯していないし社会の規範を乱そうともしていない
だから例えばドラマとかでも耳にしてしまった以上問題にせざるを得ないみたいな
そういうのとかもドラマとかでやりますよね
これだから変な話
あらゆる生物の中で人間だけが認知した現実をスライドさせることができるわけですよね
そもそも言語が人間にしか今のところないと思われているので
その言語を使うことで立ち上がってくる認識を別の認識にずらすことができる
そのずらすことによって共同体の成立とかある場を成り立たせることができる
これはすべて虚構言ったら作られたもので虚構でしかないけど
その虚構が社会を支えているという変わった
そうなんですよね
そうやって考えると社会ってそもそも虚構なので
みんながやっぱり虚構を守ろうとしないと社会というものは守れなくなる
それがその会話という観点からも
うかがい知れるというふうに今話しながらそうだなというふうに思いました
これが主に間違って取ると分かっていてもやってしまうというやつ
あとこういう約束ごとって
もし例えば誰かが破ってしまったとしても
それで何もかも誤破算になってしまうとかそういうことではなくて
その場合はもう一回約束を作ることでOKなことにしてしまうみたいな
柔軟性も持っていると
一度のルール違反
結局それはルールが外部に存在するだけするのではなく
それぞれを信じている人の心の中で分散しているから起こることなんでしょうね
魔人探偵の大神ネウロ
あれの第1話って覚えてますか
主人公の女の子と探偵がいますよね
第1話って主人公の女の子の家族が全員殺されてしまって
犯人が見つからないままになろうとしていたところを
ネウロの推理によって
犯人が無事逮捕されるっていうのかな
最後の大神ネウロっていうキャラクターは
謎を栄養にする魔物みたいなやつで
第1話の最後のところで
最も我が輩は謎のないこの家にはもう用はないかなって言って
いなくなるんですよね
第1話終了直前に再びネウロが現れて
お前あんたもうこの家に用はないんじゃなかったの
っていう場合に
家には用はないが貴様には用がある
っていうのでお話は続いていきますという展開になっていくんですけど
これも同じように
最初は我が輩は謎のないこの家にはもう用がない
っていう約束事が作られたので
私とあなたは今後交わることはないだろう
っていう宣言をしているはずなんだけれども
会話の約束事と人間の特徴
もう1回現れて
さっきの約束やっぱやめた
家にはないけどお前には用があるので
っていうところで話を続けようとしていく
こういうふうに約束事を
仮に破られてしまっても
なんとかしてしまうというのもまた人間の特徴というのかな
だから約束事っていうのは物理法則とかではないわけで
それこそ決め事なわけだから
決め事は決め直すことができるわけですよね
常に
最近あずまさんの定性可能性という
哲学を読んですけど
まさに定性可能性なわけで約束事というのは
そうですねまんまそれですね
っていう感じの話が
主に口に間違っててもなんとかかんとか
間違ってても言うことにどういう意味があるのか
みたいなこととか
あとちょっと真ん中は飛ばすんですが
コミュニケーションとマニピュレーション
6章のもう1つは
本心を言わないけれども
言いたいことは
マニピュレーションとしては言いたいことをやろうとするという事例
コミュニケーションとマニピュレーションが
一致しない行動というの
一致しない発言というのかな
ここで今度はまたワンピースの話が出てきまして
ワンピースの
割と初期
お医者さん
鹿のやつ
なんて名前だったっけあいつ
ちょっぱー
ちょっぱーが仲間になるシーン
冬の島のところ
ワンピースのパターンで大抵敵を倒して島を出て行って
またなっていうのが
ものすごく乱暴な話の展開なんですけれども
ちょっぱーの話って
ちょっぱーはお医者さんなんですよね
同じ島に師匠が暮らしていたと
女の子ナミちゃん
ナミちゃんとかが
病気
病気というか戦いの怪我で
治療をしないといけない
でも仲間たちはもう行っちゃったから
私も追っかけないといけない
その時にお医者さんの先生が言った言葉っていうのが
医者なので
お前は絶対これから1週間絶対安静だ
絶対にこの部屋から出てはいけないって言うんだけれども
その後に
ちょっと下に用事があって
俺は部屋を開ける
俺じゃないな私は
奥の部屋に私のコートが入っているタンスがあるし
別に誰が見張っているわけでもない
それに背骨の若造の治療はもう終わっているが
いいね決して逃げ出すんじゃないよって言って
いなくなる
これコミュニケーションとしては
絶対出て行くなって言ってますよね
そうよね確かに
でも我々なんかわかるんですけど
どう考えても
俺が見ていない間に逃げろって言ってますよね
確かにはい
その自分自身
著者の分析で言うと
本人にもやはり相反する気持ちがある
なるほど
医者としての倫理観を踏まえると
決してその出て行っていいということはできない
だけれども人情としてって言ったらいいのかな
人情としては
早く仲間のところに追いついてやれと言いたい
それをコミュニケーションとしては
医者としてコミュニケーションを行っているんだけれども
マニピュレーションとしては
人情を優先して行動をしている
なるほど
っていうことも特に漫画なんかだと
めっちゃよくあると思うんですよね
さらに言うと言語学でもよくネタになるんですけれども
言葉の規範性と非規範性
ダチョークラブのネットコマーシャルの時に
押すなよってコミュニケーションをしているのに
あれは大抵の人は押せというマニピュレーションだと
理解して押してくれる
これも会話が
そこに相反する感情というものを
上手に見せている意味があるのではないか
押してくださいって言って押されて落ちても
別に面白くはないわけで
押されたくない人が押される
でも本当に押されないと意味がないっていう
非常に揺れ動いた状況を
あの言葉で表現しているっていうのは確かにありますね
会話の面白さというか奥深さというか
しかも自分が不思議だなと感じるのは
ほとんど全ての人はそれを理解できてしまうこと
まあそうやね
大抵の人は多分その
どうやろうな
ある種精神的な記述によっては
言葉通り受け取るっていう場合もあるだろうけど
七八割は多分そこの文脈を受け取る
スキルを持っているね不思議と
習ったわけでもないですよね
そんなことって当たり前なんだけど
でもあれを押すなよって言って押している人を
なんて言うんだろう
おめえ押すなよって言ったのに
押すなんてダメじゃないかっていう
野暮なことをする人はやっぱりいないわけで
そこもそこはねちょっとあのまだね
自分の中でそのどういう観点で
もうちょっと理解が足りなくって
さっきの規範の話みたいな
そういうところとちょっと
うまく繋がらない部分はあるんですけども
なんかここにもやっぱ会話の深さというか
コミュニケーションと
マニピュレーションという観点で考えると
整理がしやすくなるというのかな
だからむしろ
規範の話で言うと
映画のその感動あるいはさっきの笑いは
規範性からの距離によって生まれるんじゃない
そういうことですね
規範をそのまま行くのは日常生活であって
僕たちの心には何も動かないけど
規範があるのにその規範からのずれがあるから
何か心の動きっていうのが生まれてくるから
その日常生活と芸術っていう
この距離の捉え方で
この2つは理解できる気がしますな
そうですね
暑いところに落とされるなんて
嫌だっていうのは
日常生活では当たり前のことで
そうじゃなく
日常生活で言うと
嫌だっていうのが当たり前
でも推して欲しそうに言ってる
っていうそこのずれ
コミュニケーションとマニピュレーションのずれが
僕たちの心を動かすんでしょうねきっと
やっぱそのね
マニピュレーションという概念を持って
考えてみると結構面白いことが増えるというのかな
言ってることは
でもそうだな
もう1個分かったのは
基本的にやっぱ
コミュニケーションとしては
規範は破らないんですよね
ほとんどの場合
文学的なものの場合
マッドマックスであれば
規範を守らないことが面白い
確かにそうだな
でも多くのいわゆるなんていうんだろうな
やっぱ細やかな人情とか
そういうことを描こうとすると
やはり規範を守りながら何かをやろうとしている
っていうのは確かにあるかもしれないですね
ということは言語はむしろ規範に従う
フロイトでいうと
どちらかというと長字側の方に寄っていく
言語で発されるものは
態度っていうのはむしろ
このS的なものに寄っていくっていう感じかな
っていうのはあるかもしれないですね
そういうのともう1個ね
例えばなんか同じような話
近代一少年の話のエピソードっていうのも
あったんですけども
覚えているのに読書メモが残っていない
謎やな
えーとなんかね
ちょっと曖昧な説明になってしまうかもしれないんですけども
犯人が最後に捕まるときに
犯人の恋人みたいな人と
あそこで証拠を残してなければ
俺バレなかったのになーみたいなので
それはこっそり犯人の恋人みたいな人が
こんなことをやったらいかんっていう感じで
あえて証拠を残していっているんですよね
なるほどなるほど
結果的に犯人も
その人が証拠を残したということは
分かっているんだけれども
あそこで証拠を残していなければ
っていう感じのことを恋人は
あれは私がやったんじゃなくて
あなたのミスだよっていう感じの発言をして
その最後の言葉を交わすというのかな
みたいなシーンがあって
そこもお互いに嘘だと分かっているんですよね
お前が俺を犯人だって分かるようにしたんだろう
ということをどちらも分かっているのに
お互いに自分がミスをしたという設定を
作っておくことによって
その最後の別れの演出というものが
深いものになる
それもやっぱり
口にすることはやはり規範的なことであって
そこでお前が言ったからダメなんだろうって言ったら
台無しですよね
やはり台無しにしないというのが文学的に
美しくさせる秘訣なのかなというか
そうだと思います
やっぱり聞いてて思ったというか
前回との話の対比だなと思うんですけど
前回ってリアルな会話の科学的な分析じゃないですか
こっちは文芸作品とか
いわゆる作品 芸術寄りの表質であって
だから規範的になりやすいんだよね
こっちの方が
そうですね
僕らの日常会話は実はもっと脱規範的なこと
普通に相手の責任をなすりつけ合うということが
多分起こってるやろうなとちょっと思いましたね
身近な人であればあるほどやっぱ規範を押し付けやすい
じゃない 脱規範的になりやすい
自分の規範を押し付けやすいっていう感じ
相手を尊重するよりは思ったことをそのまま言うっていう
思ったことをそのまま言うっていうのは
コミュニケーションでも
マニュレーションでもないのかもしれないけど
思ったことをそのまま
グルーミングの一環としては
そうですね ちょうど今別の本みたいなやつを
読んでいたりするんですけど
相手と仲良くなる秘訣って
単純に過ごす時間が長いことと
自分の弱みをさらけ出すことだっていうのが
基本であってそういう観点で見ると
思ったこととは違うんですけど
基本的に何て言うんだろうな
規範を守らないという言い方もできるんじゃないのかなと思って
やっぱ 何て言うんだろう
堅苦しい人とあんま仲良くなりづらいですよね私たちは
確かにその通りだね
そういうふうに考えると
文学的というか規範的でないことというのは
人間関係を深めるためには重要なのかもしれない
そうだね 確かにそうだ
そういう言葉が特にプライベートのうちでやりとりされていると
深まっていくものっていうのは確かにあって
でもそれを一時期細かく描写していくと
文芸作品ではページが足りないから
特に心が動く部分だけが
セリフとして抽出されているというような感じかな
現代社会の問題みたいな話で言うと
おそらく人類は
規範と非規範的であることを
ちゃんと上手に使い分けられていたんですよね
かつては
かつては
ただこれがテクノロジーの発達によって
あいつこんなこと言ってたぞということが
本来非規範的でなければいけなかったというか
そんなところではその人は言わないはずなのに言ってしまった
はいはいそうですね
なるほど
っていうことが
ひょっとしたら現代のSNSの炎上の問題なのかもしれない
うーん
だから僕たちはその個々の発言を
こういう発言は許されるだろうという
前提とか文脈を踏まえて言ってる
だからそれは
本来切り取ってどうにかできるものじゃなくて
そこの場で初めて成立するものなのに
ネットとか特にSNSかな
SNSによってその文脈を
脱文脈した形で広がれば
それは炎上もするよなっていう
だから政治家が会合で言ってたことが
ニュースで広まって
そうそうあれがまさにそうだと思うんですよね
あれって政治家としては多分能力が高くて
共通の敵というか
仲間の外側の人間を作ることで
強い仲間意識を作るっていうのは非常に
なんていうんだろう
テクニックだと思うんですけど
有効なテクニックで
本来そんなことは外に漏れることは
なかったはずなんだけれども
そういうことが必要のないことが
外に漏れてしまうことで
誰も幸福にならないようになってしまう
確かに
そこはちょっと現代の問題点というか
やっぱ当たり前だけど
規範通りにしかしない人と仲良くなれない
ということは
やっぱ誰かと仲良くなるためには
規範とマニピュレーション
規範を破らないといけないはずなんですよね
そうだね確かに
でもその規範を破るということが
ほとんど全てがパブリックになってしまった
我々の生活で果たしてどうやっていけばいいのか
うーんそうだね
それはやっぱりクローズを
あるいはローカルを取り戻すという形でしかあり得ない
という感じはしますね話を聞いていると
だからやっぱ録音禁止の
写真撮影禁止のイベントというのは
そういうところにも意味があるだろうし
ネットよりも直で会うことで
記録が残っていないという
お互いの証明にもなるので
確かに
腹を割ってしゃべりやすい
一番最初に言葉にすることで
責任が生まれると言いましたが
書いた言葉が録音される
あるいは文字に残るとなると
責任の強度が上がっていく
どう考えてもそうなると思います
だから
会話する程度の強度だったら許容されることも
記録として残るものでは許容されないものがあって
ある程度許容される中で
生まれる関係とか場があるのに
SNSでそこまで親身に友達になるってことは
なかなか考えられないわけだから
実際そういう関係性の希薄さというか
そういうものが生まれてるんでしょうね
腹を割って話せる仲間がいないので
たぶん親密な友達がいないことは
毎日タバコを15本吸うのと同じぐらい
健康へのマイナスがあるらしいみたいな
そんなんとかも最近読んで
いかに友人が重要であるか
ロンリネスでないことがいかに重要なのか
みたいな観点から考えても
こういう場では破れないですけど
規範とかを破らないといけないんだろうな
みたいなこともちょっと思ったりしてきているかな
だから規範っていうのは自然じゃないし
長自我に属するもので
Sとかをなくして長自我だけで生きていきましょう
って言われたらそれは無理ってことになります
社会は成り立たないので
そこでお酒っていうのがすごく有効だったんでしょうね
かつての人類において
その場で規範を破ってしまったとしても
あれはお酒のせいだという
責任をお酒に押し付けることによって
規範を破るという快楽を得つつ
仲良くなるという社会的効果を得つつ
その責任だけはないことにしていた当時は
だから責任っていう概念があっても
その責任を逃れるものがセットになったんだよ
昔は今はその片方が抜け落ちて
責任だけが残っていて
生きづらさになっているという構図はありそうだな
実際今時でも
確かにやっぱ酒飲んでも行ったらいかんことになって
当然あるので
ある程度言いやすくはなるけれども
その酒癖悪いやつなんてやっぱ嫌われますからね
とはいえ難しいところだなと
難しいというか難しいでいいのかな
規範制だけで生きていくのは無理があるから
どう脱規範な関係性を作っていけるのか
というのが課題ではありますね
初対面の人同士で規範を破ることは難しいですからね
言語と感情のコントロール
一般的に
冒頭ですね冒頭それは
そうなるとどうすれば良いのか
どうやって親密な仲間を見つけていくと良いのか
みたいなことはやっぱちょっと考えていかないといけないことなのかもですね
最後の方
最後の最後っていうのが
さっき言ったコミュニケーションとマニピュレーションというので
マニピュレーションに関しては我々は
なので社会的な責任って問いづらいんですよね
だって言ってないんだもんっていう
ただ社会
マニピュレーションって悪意を持って
活用することで非常に社会的に
害がある行動もできてしまう
法律には触れないけども
それに等しいような悪いことを可能にしてしまうと
例えば1個出てきた
1個じゃない2個ぐらい事例があったんですけども
それも文学とか小説とかを元にしてるんですけど
オセロ
シェイクスピアのやつで
正確俺原作を読んでいないので
伝え聞きであるだけなんですけれども
悪人オセロさんで良かったかなが
あなたの奥さんって浮気なんてしてないですよね
みたいなことをいうことで
本来自分は考えてもいなかった奥さんが
浮気しているかもしれないという可能性を
口にすることで頭の中に
そういったことを発生させてしまう
例えば著者が書いていた
コミュニケーションで問題はないけれども
マニプレーションとしてものすごく悪意がある発言というものが
例えば紹介されていて
ゲイを差別するわけじゃないけれど
でもみんながゲイになったらどうなると思う
本来そんなありえない仮定を用いることで
コミュニケーションとして全く問題のない発言をしながら
周りの人たちを自分の都合のいい
思考に誘導しようとしている
マニプレートしようとしている
こういうものをちゃんと
マニプレートに関しても
口にすることで責任が生まれるんだとするならば
悪意を持ったマニプレートというものにも
責任を発生させないといけないんじゃないか
ただしその進級が難しいよね
もちろん哲学はだいたい簡単には答えてないですからね
言語的なコミュニケーションであれば
言葉の意味を定義していくことによって
これが例えばヘイトかヘイトじゃないか
っていうのは言えるけれども
さっきのような誘導的なものっていうのは
受け取った人次第ですよねっていう
開き直りがいつでも可能で
何が悪いか悪くないかを
どの観点で判断するのかというところを
どう設定
もちろん善悪ということを考えてみるという提案は
全くその通りですけども
裁判所のようなものが設定可能なのか
あるいは言語解析とかで可能なのか
それとも1回1回の文脈ごとに場面ごとに
誰かが判断していくのかっていうような
別の問題を感じますね
悪い言語哲学入門って
以前ブックカタリストで話したやつ
あれも似たようなこと
その問題だと考えていて
その悪い言語哲学入門の読書メモなどを
改めて見直していたんですけれども
その悪い言語哲学入門で言うと
差別用語っていうのは
勝手にランクをつけてしまうことが悪だと言える
もう一つは言語の使用というのは
行為を伴う
ということに考えれば
マニピュレートという行為だと思えば
発言に悪意がないということは
理由とは言えないんじゃないかみたいなことを
考えられるのではないか
それは例えばその人の発言の結果
こういうことが起こったから悪いみたいなこと?
そこは自分がまだきちんと答えが出るレベルまで
考え抜けてはいないんですけれども
自分が考えるきっかけとしてそんなようなことを
思ったという感じなんですけど
ここは難しいところだよね
そもそもコミュニケーションの悪を
そもそも判断が簡単ではない
だから発話っていうのは
行為とどこまで同等なのかっていうところもあるし
マニピュレーションとなると
本人の意図
意図を捨てない意図っていうことももちろんあって
悪い悪いがあったとして
それを刑法に結びつけられるかはまた別の判断が
いるでしょうねきっと
現代の問題はそれを独自の正義でさばえてしまうことが
半ばできるようになってきているというのは問題なんだけれども
とはいえやっぱそのね
悪意があったマニピュレートというものはほっておいても
できないだろうなということも
もう一個その同志少女よ敵を打て
の中でも
そういうようなマニピュレーション
言語をコントロールすることで
感情も一緒にコントロールするみたいな
話が出てきて
同志少女よ敵を打ての
主人公がドイツ兵を
ドイツ兵を撃つソ連の狙撃手ですよね
ドイツと戦うで
ドイツ兵のことをドイツ兵って呼ぶんじゃなくて
フリッツという呼び名を与え
狙撃兵のことをカッコーという名前を与えることで
本来は
もともとは同じ意味だったんだけれども
仲間うちでフリッツフリッツカッコーカッコーという言葉を
使っていることでだんだん
もともとは同じ意味合いなのに
伝わってくるニュアンスが変わってきてしまう
ドイツ兵だと人間だと思うので
撃ちづらくなるんだけれども
フリッツという人間ではない存在を
という名前を与えてしまうというのかな
それによって簡単に殺せるように
感情がコントロールできてしまう
哲学と問いの重要性
これも言語を
うまく調節することによる人の心の
マニピュレーションというのかな
もともと人類が
仲間じゃないものは共感しにくいとか
人だと感じにくいみたいな性質っていうのを
もっと悪意を持って使うとやっぱこういうことが
できてしまう
つまり人間の共感性の幅を
狭めるようなマニピュレートは
悪とは言えるかな
共感の幅
共感の対象を狭めてしまうような
マニピュレーションは悪と言っていいと思う
そうじゃないものを善と言って
人類全体の幸福から見たときに
全てのマニピュレーションに対して
どうこうは言えないかもしれないけど
ある操作は悪とは言える
哲学というジャンル全体が
そもそも論というか答えが出るものではなく
こういうことをきっかけに
考えてみようということだとは思うんですけども
例えばさ
僕らは哲学者にマニピュレートされてると言えるかな
分かりきっていない質問を与えられて
考えさせられている
もっと根本的にとかそもそものをつい考えてしまうのは
ある種
そのような操作を彼らが望んでいたかどうかは別にして
マニピュレートされていると言えるかな
マニピュレートだし俺の中ではモチベートされているだと
思いたいんですけれども
両義的なのかな
外国者から見たときにマニピュレートされていて自分から見たら
モチベートされているということなのかもしれないが
自分のことはマニピュレートされているということに含まれるんだな
というのは今の話で思いますね
ビジネス書の目的は
マニピュレートなんですよね
モチベーションっていうアップっていうマニピュレート
そういう効果が
言説には言論とか言葉にはそういう効果があって
非常に単純化するとそういう
良いというか
アクティブにするマニピュレートと
ネガティブにするマニピュレートっていうのが多分あるって感じかな
そうですね
この手の哲学のほうが
だいたい最後のほうにこうやって
著者が言いたいことが
うまいこと挟まっていて面白いなと思うんですよね
最近この手のやつ
難しくって答えが出るものでもないんだけれども
読んでちゃんとメモを取っていると
何も考えないよりは考えることができるようになった気がする
あれかな
問題設定すら多分自分ではできなかったかもしれないこと
っていうものの
問題を与えられるという意味では
本質的な哲学ではないのかもしれないんだけれども
むしろ俺は本質的な哲学ってそういうことだと思うけど
あれ問いを作り出すことなんじゃないかと思うんですけどね
でも違うか違うか
そうとは限らないか
それは問うっていうことそのものが哲学的な歩みで
問題設定が与えられようが与えられまいが
自分がある問いに向かうという行為そのものが哲学の本質で
哲学史とはまた別のものじゃないかな
そうですね
問いを生み出すみたいなところに重要なことがあるかもと思ったんですが
そうでもないですね
確かに与えられた問いだろうが何だろうが
十分というか多分本質ですね
という気がします
という意味で
昔より哲学の本みたいなことで
哲学ができるようになったかなっていう印象も
ちょっと感じたりしていて
雑に読むと読んで終わりなんですよね
まあそうでしょうね
うるせえ奴らとかって面白かったんだなとか
ワンピースってすげえんだなっていう
読書メモの重要性
でもやっぱり
悪い言語哲学入門を読んでいたのと
前回の会話の科学を読んでいたので
問題の捉え方が立体的になっているような
印象は受けますけどもね
そうですね
やっぱり一冊に書いてあることよりも
単純に3個あれば3次元ですからね
そういう視点の捉え方で初めて思考の深みという
あるいは著者が考えている観点を理解しつつ
別の観点からもその対象について
考えられるようになってくるっていうような
印象を受けますね
そうですね
知的ゲームというか知的遊戯としても
十分に面白いと思うし
一人で書いていても
そういえば悪い言語哲学と結論似てるなみたいなことは
メモさえ残っていれば書けるし
俺メモがないと
何が悪いって言ってたっけとか何も思い出せなかったんですよね
それが普通だと思うで大体
最後はこういうのが悪いとかって言ってて
っていうことだけは覚えてたんですけど
クラインの
蒸気性みたいなものだって話だけ覚えてて
まあなんだけど
やっぱ読書メモを残しておくことで
ほんの1年2年なんですよね
1年半ぐらいかな
でも簡単に忘れてしまうし
メモっとけば思い出せるという意味でも
やはり読書メモで考えが深まった
というのは間違いなく言えるんじゃないかな
と思う1冊でもありました
そうですね確かに
という感じです今回は
番組のサポーター募集
ではBook Catalystは番組を支援していただけるサポーターも
募集しておりますので
よかったら概要欄などから詳細ご覧いただければ
ありがたいです
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
01:03:55

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