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2021-06-01 1:06:45

BC013『コンヴァージェンス・カルチャー』

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今回は『コンヴァージェンス・カルチャー: ファンとメディアがつくる参加型文化』について。

『コンヴァージェンス・カルチャー』

原題

『Convergence Culture:Where Old and New Media Collide』

Convergenceは、「一点に集まること」のイメージ。集約する、集合する、収斂する、収束する。

Collideは、「ぶつかる、衝突する」のイメージ。新旧メディアがどこで衝突するのか。これは二つのニュアンスがあり、「どの場所で出会うのか」と、「どの利害でぶつかり合うのか」という二つの観点が含まれていると感じる。

著者

ヘンリー・ジェンキンズ

南カリフォルニア大学教授。コミュニケーション&ジャーナリズム研究科、映画芸術研究科、ならびに教育研究科で、デジタル時代の参加型文化やファンダム、若者教育などを教えている。同校着任以前はマサチューセッツ工科大学(MIT)にて比較メディア研究プログラムを立ち上げ、ディレクターを長らく務めた。

注意点

原著は2006年であり、現代から見て最新の話題を扱っているわけではない。また、メディア研究の事例が基本的にアメリカなので、日本と合わない部分も当然出てくる。その点は留意が必要。

主要なテーマ

インターネットが登場して、メディアが変化した。双方向になっただけではなく、これまで単なる受信者であった人々が発信者としての役割も担いはじめた。その変化によって、単に古いメディアが死に、新しいメディアが台頭するという単純な変化ではなく、コンテンツがどのように流通し、生産され、消費されるのか、そして利益をどのような形で作っていけばいいのか、というメディアを取り巻く全体像に大きな変化が訪れている。その変化は、拒絶しようと思ってもできるものではなく、考えられるのは「それとどう付き合うか」だけであろう。

本書では、実際のメディア研究をベースにしながら、いかなる行動が情報の送り手(トップダウンの主体者)と情報の受け手(草の根の実践者)の間で生まれていたのかを考察している。2006年からみた「新しいメディア」との付き合い方を考える上で非常に示唆に富むであっただろうし、現代においても示唆に富む内容ではある。

コンバージェンスの転換

一つの端末にあらゆるコンテンツが集まるという意味での「コンバージェンス」ではなく、メディア企業がコングリマットになったり、一つのコンテンツがさまざまなプラットフォーム&流通ルートを持ったり、コンテンツのもとに多様な視聴者が集まったりするような、ある種の多様性が生まれる状況が「コンバージェンス」であると、見方の転換が提示されている。実際のメディアの状況から言っても、この見立ては極めて正しいと言える

目次

* イントロダクション「コンヴァージェンスの祭壇で祈ろう」

* 第1章 『サバイバー』のネタバレ

* 第2章 『アメリカン・アイドル』を買うこと

* 第3章 折り紙ユニコーンを探して

* 第4章 クエンティン・タランティーノの『スター・ウォーズ』?

* 第5章 どうしてヘザーは書けるのか

* 第6章 民主主義のためのフォトショップ

* 結論 テレビを民主化する? ──参加の政治学

* あとがき ──YouTube時代の政治を振り返る

倉下の見立て

日本では「メディアミクス」という考え方がもうあたり前であり、さらには情報の受け手を巻き込んだコンセプトも珍しくなくなっている。その意味で、本書が描いたレールは、たしかに現代にまで続いていると言える。言い換えれば、現代の「あたり前」がどのように生まれてきたのかを巡る旅にも本書はなる。

一方で、現代のインターネット with メディアが全般的にうまくいっていない部分もあり、一体そこで何が損なわれてしまったのかを考える起点にもなる。その意味で、『遅いインターネット』や『ゲンロン戦記』などと合わせて読んでもよさそうである。

最後にはそうしたメディアが民主主義→社会にもたらしうるインパクトも考察されているのだが、やはりこの点も現状は厳しいと言わざるを得ない。むしろゲームの中ですら「政治」や「社会」を体験する場が減っていると感じられる。この点は、おそらく目に見えている状況よりも、一段深いところに問題があるのだろう(日常の中から、政治的な煩わしいものが徹底的に排除されつつある、ということだと思われる)。



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面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第13回の本日は、
コンバージェンスカルチャー、ファンとメディアが作る参加型文化について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回はクラシタのターンなんですけども、著者がヘンリー・ジェンキンズさんという方で、
大学教授でコミュニケーションとジャーナリズムを研究されている方なんですよね。
この本が、原著が実は結構前で、2006年の本なんですよ。
日本語版が2021年に出ているので、15年越しの翻訳になるんですよね。
なんか不思議な感じですね。そんな時期のやつを今、
しかも結構大きく変わってそうなジャンルっぽいのに、今になって出たっていうのは、
今でも通用するものだって言えるっていう感じなんですかね。やっぱりそうなるってことは。
先年文には、古典的名著がいよいよ出版って書いてあったんですけど、
15年で古典的名著もないよなと思うので、ちょっと中途半端な位置づけな点が1個注意しておきたい点と、
もう1個が、どうしてもメディアの事例を扱ってるんですけども、
ほぼアメリカの制作会社が作ったメディアの話が主なので、
ちょっと日本のファンジャンル研究とピッタリ重なるわけではないよなっていうこの2点。
ちょっとだけ古い点とアメリカ発っていう点だけは、ちょっと気にしておいた方がいいかなという注意点ですね、まず。
アメリカの人たちはね、アメリカが世界なので、ワールドシリーズはアメリカで平気でやる文化ですからね。
たぶん俺たちの世界はこれだっていう前提で物事を捉えているという、そこは注意しないといけないですよね。
だから参考になる事例はありつつも、日本は日本でまたちょっと違うかなっていうところがありそうという話で。
もともとこの本を注目したのっていうのは、ファンとメディアが作る参加型文化って、いわゆるインターネットカルチャーが大好きな表現なんですけども、
自分自身でも発信者として活動していく中で、やっぱり1人、自分1人が発信しているだけではやっぱり面白くないんで、
自分の情報発信を見ている人たちと一緒に盛り上がっていったらいいなという思いを2010年頃から抱いてるんですけど、
思った通りにうまくいった事例が少ないんですよね。なんか盛り上がりに欠けるというか。
どうしたらそういうファンを含んだコミュニティを作っていけるかなっていう問題意識があって、
その手の話をいろいろ読んでて、この本にぶつかったというところで、僕の問題意識としては自分の活動にどう活かせるかなっていう風に読んだんですけど、
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どっちかというとこの本の射程はインターネットっていうのが登場してきたとこで、
古いメディアと新しいメディアがどう衝突してどう新しく生まれ変わっていくのだろうかということについての研究という感じですね。
なんかそれ2006年の本で今読んでも大丈夫なのかみたいな印象を受けそうなんですけど。
正直半分ぐらいはちょっと古いというか、僕たちにとっては当たり前のことが結構含まれている反面、
そんな話もあったんだなと驚くことも反面で、だからその事例そのものの古さは拭えないというか、
2006年なんで、いわゆる日本でいうとインターネットというかTwitterを中心として誰もが使えるようになって、
2011年以降のメディア環境と比べるとちょっと二歩三歩古い感じはあるんですけど、
ただ、批評的に見た時に、そういう消費者と発信者が同じメディアを使っているということが引き起こす問題を捉える射程としてはとても良い本になっています。
あれですよね、それでもあえて紹介するからにはそれだけ面白かったんだぜっていう風に捉えて良いんですよね。
それは良いと思います。一応だからある意味ここまでの我々の文化はどんな風に動いてきたんだなっていうのを確認できる本でもあって、
本の内容なんですけど、現代が英語のタイトルがConvergence CultureでWhere Old and New Media Collideかな、
衝突するというタイトルの意味なんですけども、どこで古いメディアと新しいメディアがぶつかっていくのかっていう。
このConvergenceってあんまり日本語では聞かないんですけど、収束するって一つに集まっていくっていうようなニュアンス。
ちょうどあれですよね、2030年の本を紹介した時に、メイントピックとして技術がコンバージェンスによって大きく変わるっていうのが出てきたんで、
割とホットなキーワードですよね。
しかもホットなキーワードの起点を作ったのがこの本じゃないですかね、年代的に言って。
この人のコンバージェンスっていう言葉が一般化して、これからはコンバージェンスの時代だっていうような言われ方が感じられるんですけど。
だからそれまでの、この本が主張してることですけど、それまでのコンバージェンスっていう集約っていうのが、
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私たちが一個だけ一つの端末を持つ、そこに全てのメディアが集まってくる。
この端末に全てのメディアが集合し、私たちはその一つのメディアから全てのコンテンツを受け取るような未来になるっていう意味合いが、
それまでのコンバージェンスだったんですけど、この本の著者はそのコンバージェンスという意味をもう一段多様に読み換えているっていうのが、この本の一番面白いところですね。
すごいですね、未来を見据えていたのではないか。
この本で描いている未来の方向に実際進んでるんですね。
コンバージェンスとは何かっていうと、多数のメディアプラットフォームにわたってコンテンツが流通すること。
多数のメディアプラットフォームにわたってコンテンツが流通するっていうのは、もう僕たちにとっては当たり前なんですけど。
かつてテレビと新聞しかなかったですよね、その前は。
そういう時代において、インターネットっていうのが出てきて、その衝突っていう言葉のニュアンスっていうのが面白くて、新しいメディアが登場した時に古いメディアは絶滅される。
例えば、インターネットによって新聞がなくなるみたいな話ですよね、簡単に言うと。
よく言われていた、15年前くらいからっていう印象はあるかも。
ニュース媒体、紙媒体が少なくなりつつある中でもニュースメディアっていうのは残ってるわけじゃないですか。
もちろんそれとは別に紙の新聞が重要だという人もいると。
だから、過去のメディアを置き去りにするというよりは、新しいメディアの登場によって過去のメディアの形とか需要のされ方が変わってくるという論点がこの本の一番のポイントですね。
CDとかMP3プレイヤーが出たことによって、レコードを聴くっていう文化も形を変えて残ってるんですよね。昔と全く同じじゃないにしろ。
それが今だとサブスクリプションで何でも聴けるが当たり前ではあるけれども、音楽を聴くという習慣自体は消えていないですよね。形は変わったけど。
レコードも実は別の形で人気らしいんですよね、アメリカとかでも。しかもおっさんが買い子主義で買うんじゃなくて、若者がかっこいいから買ってるらしいんですよ。
実際ね、レコードの話でいうと、やっぱりレコードはかっこいいですよね。あのデカさとぐるぐる回るところと。
だからコンテンツそのものと、そのコンテンツを私たちに届けるビジネスプラットフォームと、私たちそれを需要する文化の形態っていうのがもともとあって、それが新しいメディアが入ってくるとその関係図が変わっていくのだと。
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だから単純に古いメディアが淘汰されているというよりは、その新しいメディアによってその関係性がぐるっと動いて、私たちのメディア環境はより複雑に多様になっていくのだということですね。
ネットワークの話とつながる感じですね。なんかこの表紙もちょっとネットワークみたいな感じもするし。
ファンとメディアが作るという参加型文化がイメージするものも、参加者のネットワークがそこにあるという感じもあって、だから多重にネットワークが生まれるということはありますね。
あとあと事例で出てくるんですけど、単独の媒体、メディア機器が市場を設計するんじゃなくて、いろんな機器を使うようになると。
例えば、今僕たちが何かを映画を見ようと思ったら、映画館行く以外に、今はまずテレビで放送されるのを待つとか、パソコンで見るとか、タブレットで見るとか、スマートフォンで見る。全く同じコンテンツでの視聴の仕方がすごい多様ですよね。
さらに細かいこと言えば、そのネットフリックスで見る、YouTubeで見る、Appleなんとかで見る、Kindle、Amazon TVで見るとかっていう、さらにそういうふうにも分かれている。
だからその、撤退で強者一つの強いものがいて、そこだけに集約されるというよりは、僕たちは好き勝手に、僕、与える側じゃなくて受け取る側が、そのメディアのルートを選べるようになってきていると。
これはもう、現代ではごく当たり前な話なんですけど、2006年からすると、それはかなり新しい変化やったんですよね。
視聴者の方が権力を持ち始めてきているというようなニュアンスですね。
ああ、そういう捉え方はできますね。確かにそうだな。
そのようなメディアコンバージョンが起こってくる中で、そのメディアを発信する人とかは、どのようなことに気をつけていけばいいのかとか、どういう観点を注意してメディアを組み立てていけばいいのかっていうことの参考になったらいいよなという話がメインなんですけども。
3要素あって、さっき言ったメディアが様々な形で集中していく。集約っていうと、一箇所に集まるというよりは多様なものが入ってくるっていうイメージ。
あと参加型文化っていうのも、インターネットでもごく当たり前なんですけども、情報を受け取る消費者という人がただ見ているだけじゃなくて、それに発信活動も含めて参加していくっていうこと。
Twitterで感想を呟くとかもその一環ですね。で、集合的知性っていうのは、これもインターネットでよく言われますけども、そういう人たちがたくさん集まることによって、新しい形のクリエイティブが生まれると。この3つによってメディア環境がいろいろ動いていくから、気をつけましょうというのが全体のメッセージです。
おだしょー なんか気をつけましょうはあれですね。今はそうだからなっていうところになってしまいますね。確かにそうだなっていう。
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その辺がイントロダクションで語られてる話なんですね。だから、僕たちにとってはそれが当たり前、情報の受信者がどのように立ち振る舞うかを考えた上でメディア設計しましょうっていうのはわりかし当たり前なんですけど、この本はそれが必要ですよと2006年の段階で言ってるところは、たぶん、先見性がかなりあったと思います。
おだしょー 確かに当時から見れば、メディアからの目線で見れば、ユーザー消費者の声を拾う方法もなかったし、ユーザー消費者は何も言わずに買うか買わないかぐらいでしかその意思は表明できなかったですよね。それが当たり前だと思っている感覚を確かに俺たちより上の世代だったら持っていてもおかしくないですもんね。
おだしょー だから2006年頃になって初めてある種のアーリーアダプターみたいな人がパソコン&インターネットみたいなのを使って、そこを一方的に受け取る関係を緩がしてきた。それによってマスメディアみたいなあり方も変わっていくだろうし、行かざるを得ないだろうけども、先に結論して言うと、どうすればいいのかっていう処方箋は現状はないと語ってて。
たぶん今でもないんですけど、このようにメディアを設計したら消費者とウィンウィンになれるというようなわかりやすい方程式を伝える本ではないですね。
おだしょー 今の時代の流れで言うと、直接読者と繋がるようにして、いろんな余計な要素を排除してお金を直接もらうような形というのが、ここ数年で流行ってきている方向ですよね。正解かどうかはわからないけど。
たぶんわからないけど。だからそういうことで、今後も観点を考える上でも、そこのファンと発信者の間にどんな力学が働き得るのかっていうのを考える上で参考になるだろうと。この本500ページくらいありまして、サイズもちょっとでかいんですよね。
けっこう普通の半型より大きいやつで、ほとんど1章から5章までがほぼ事例研究で、しかもその事例研究がけっこうディープなんですよね。簡単にさらったというよりはもう、著者自身がその実際のコミュニティの中を覗いてきてこんなことがあったよっていうのを語ってる本なので。
それを一応最後まで付き合う気力が必要ですけども、その分かなり詳しい話があって。1章がサバイバーっていうアメリカのリアリティショーという言い方をするのかな。
無人島とか人の少ないところにプレイヤー、参加者を送り込んで、その中で毎週投票して1人脱落者を決めていって、最後に残る人を決めるっていうサバイバルゲーム、人造サバイバルゲームが昔あったらしいですよね。今あるかどうかは知らないですけど。
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今だとだいぶ違うかもしれないけど、アイノリみたいなやつってことですよね。
ネタバレというよりも誰が生き残るかをみんなで予想しようという視聴者の盛り上がりがインターネットの中で生まれ始めたと。これ自身はちょっとしたゲームみたいなもんなんですけど、ここで集合的知性とかいうのが働き出すんですよね。
例えば、画面から見えている風景からそこが地図上のどこの場所だろうと当てると。
解析される。確かに今は妄想になっている。
そのインターネットの参加者の中には、自分の会社が持っている衛星を使えるから、衛星写真で探すと。なぜかって言うと、サバイバーっていうのはネタバレしないように飛行機が通れない場所を指定すると。
逆に言うと、飛行機が通れない場所ってそんな業者あるわけじゃないじゃないですか。それが逆に情報になって、それを衛星使えるから、衛星でそこを探すと。
あそこに収容者がいているキャンプっぽいのがあるぞみたいなことでここに違いないとかいう、そういう解析ゲームというかネタバレゲームっていうのがインターネットでかなり盛んになってきたと。
そうなると放送する側もどうしてもそれを無視するわけにはいかなくなってきたと。
実際その放送する側が言っているわけじゃないですけど、放送する側の人が掲示板に入り込んで嘘の情報を流したりとか、そういう細かいやりとりがいっぱいあって、非常にわかりにくい手がかりを出してミスリードするとかいうインタラクションが起こっているわけですね。
だから見ている人と放送陣の中で、一人一人だけすごいネタを持っている人が出てきたらしいんですよね。もうなんかそいつの言っていること9割くらい当たるっていうのが出てきて、その人が内部の人間ではないかっていう話をして、ネタバレコミュニティってそういう人が出てくると急激に冷めるらしいんですよね。
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うーん、わかります。なんかその、想像はできる。
それが行き過ぎた時に番組との関係も悪くなるし、そのネタバレ、真のネタバレが入ってきた時に面白くなくなって、熱も冷めてしまうということもあるっていう事例がサバイバーです。
なんかあの、めっちゃ聞いてて思ったのが2006年頃の2チャンネルだなっていう感じがして。
そうそう、日本でも全く同じことが多分あったと思うんですけど。
同じこと起こってただろうなっていう。
アメリカでも起こったと。で、アメリカの場合は特に時差があるじゃないですか、国内で。
あーそうか、国内時差だいぶ違う。
放送される方が、さっきの方がネタバレ優位とかいうのがあるらしくて、なんか世の中もアメリカもメディア的には難しいんだろうなと。
で、同じ番組なんですけども、番組というかテレビ番組としてアメリカンアイドルというのがありまして。
タレント、才能ある人を集めて、で、その中で歌唱力なんかな、歌が上手い人を決めてCD出しましょうって。
これも今でもよく怒られてる。
それもだから、なんか半期ごとに勝ち抜きトーナメントみたいなのが行われて、で、優勝する人はCD出せるっていうアメリカンアイドルっていうのがあって。
で、この頃はインターネットで投票というよりは、電話でテキストメッセージ送るっていうようなやつだったらしいんですけど。
その番組によって、そういう電話通信が爆発的に売り上げが上がったという話がまずあるのと。
あと、このアメリカンアイドルとかさっきのサバイバーもそうなんですけど、面白いのが誰が勝つとか、どの人がいいかっていう会話っていうのが、
日常にはどうでもいい話ですけど、その人の価値観を表す話なんですよね。
あの人の行動がいいとか、あの人に頑張ってほしいって言うってことは、その人がどんな価値観を持ってるのかをふんわり相手に伝える会話なんですよね。
そうか、価値観か。確かにそうなのかもしれないですね。誰を好きだと思うという価値観、誰を気に入るという価値観。
そういうのを、だから単なるおしゃべりじゃなくて価値観に触れるようなことを喋れるっていうことなんですけども、
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例えば地域社会っていうのが壊れてくるときに、全員が知ってる人ってなかなかいないんですよね。
みんなが言及できる人っていうのが。その中でリアリティショーとかアメリカンアイドルのように、年齢も性別も関係なくて視聴できる媒体っていう。
特にアメリカンアイドルとかっていうのは家族で結構見られてるらしくて、子供からお父さんお母さんまでがその番組に参加できると。
アメリカンアイドルが丁寧に作られてて、途中から視聴してもちゃんとついていけるように毎回組まれてるらしいんですよね。
だから例えばたまにしか見れないお父さんでもそこの話題についていけるようになっていると。
だからお茶の間とかあるいはインターネット越しの話題提供装置になっていたという話は、たぶんこれ現代でも言えることだなと。
お茶の間という言葉を久しぶりに聞いたなっていうイメージがあって。
言われてみるとお茶の間っていう用語がもはや今の価値観ではなかなかなくなってしまった世界。
家族でみんなで同じことを話せるって。
我が家でも実際そうなんですけど、みんなでテレビ見てないんですよね、全く。
でしょうね、きっと。
で、そのやっぱり能動的に共通の話題というものを探し出さないと、家族みんなで話せることというのは出てこない。
で、それをテレビで楽できるっていうふうにも言えるのかなって思って。
やっぱりサバイバーにしろアメリカンアイドルにしろ、現実の人、キャラクターじゃなくて現実の人なんで、しかも一般の人なんですよね。
アメリカンアイドルはトップになったらデビューするけど、そこまではただの市民なんですよね。
だから芸能人じゃないんで、より感情に輸入しやすいっていうのが多分この2つの番組のポイントで、それは多分今のYouTuberにもつながっていく話だと僕は思うんですけども。
なんかAKBとかもまんまそれやんっていう感じですよね。
そういうことだと思います。
だから、しかし共感できる人が話題の提供者になったことによって、2006年ぐらいでもみんながバラバラな趣味持ってて話題が続けなくなる中でも唯一の話題を提供してくれてたっていう。
特にアメリカは特にそうなんかな。日本の場合はちょっと違う事情があるかもしれませんけど、多分似たようなことはあるでしょうね。
日本だとテレビ番組のクイズとかの誰でもわかるバカを笑う系のクイズって、それに近いものだったんじゃないかなっていう。
この2つの事例の中でもかなり細かい話があるんですが、それを拾っているとあれなんで、後半、中盤に入るんですけど。
3章がマトリックスなんですよね。マトリックス。映画マトリックス。映画マトリックス見たことあります?
多分見てると思うんですけど、基本的にあらすじぐらいしか覚えていない。
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3部作なんですね。マトリックスとリローテッドとレボリューションかな。3部作になってて。
2部以降の評判はあまりよろしくなくて、3部とかもちょっとわけわからんっていう評価が割と多いんですよね。
もう1個、マトリックスって謎めいてるんですよね。舞台設定とかがなぜこうなってるのかっていう解説がほとんどなくて、
だいたい話がものすごくスピーディーに進んでいく上に、エヴァンゲリオンと一緒ですよね。だからそれっぽいキーワードが凝算出てくるんやけど、
それって何なのかわからないっていう感じで話が進んでいくんですね。
あの時代はそういうのが流行ったんですかね、言ってみたら。
マトリックスもエヴァンゲリオンも似たような時代だと思うけど、そういう謎めいた、暗優的な作品っていうのを、
例えば番組を録画できるようになったことで、停止してチェックできるようになったんですね。
このシーンのここがっていうやつね。
で、これはこういうことじゃないかっていう、例えばインターネットを掲示板に投げると、知識のある人たちがこうじゃないか、こうじゃないかって言うんですよね。
いろんな議論が、これもまったくエヴァで同じことが起こってるんですけど、展開されると。
マトリックスがやったことは、話を、簡潔な話を提示したというよりは、いろんな場所にノードが伸びている謎めいた作品を投下した。
それを受けた人は何かを調べずにはいられない、発信せずにはいられないようになって、
マトリックスっていうものの興味を持ってる人が集まる一つの架空的な場を作ったと。
で、このマトリックスがいろんな人の知識を必要とし、広げていくっていう話と並行に、
マトリックスってね、ゲームもね、映画と同時に発売する、映画の1,2,3と並行して、間にゲームも出てるんですよ。
そうなんだ。
で、ゲームもね、いわゆるストーリー型というよりはMMORPG型というのかな。
プレイヤーはいろいろ好きなことできるけど、主要なイベントが何個かありますよ、みたいなやつらしいんですよね。
で、僕は全然マトリックスファンでもないんで、ゲームはしたことがなかったんですけど、衝撃的な事実があるんですが、
映画の2部とか3部で、例えば、ある主人公がピンチだと、ピンチなタイミングである登場人物がそのピンチを救いに絶妙なタイミングでやってくるんですよね。
で、なぜ彼がそこに来たかの説明は一切ないんですよ。
だから、見てる人からするとかなりポカンとするんですけど、そこはバカすむと。
で、ゲームをやってる人からすると、その主人公を助けに行く人を、所定の時間内にその場所に届けるというイベントがあるらしいんですよね。
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うーん。
だから、映画を見てると初めて、その世界が保管される仕様になってるんですよ。
映画には出てこないシーンがゲームをやれば、映画の裏側が見えるようになる。
裏側というよりも、もちろん映画とゲームをすることをセットで語ってるってことなんですよ。
もう、初めからそうやって設計されていたってことですよね。
だから、トランスメディアのストーリーテリングって言われてるんですけど、ストーリーをテリングする媒体が一個だけのメディアじゃなくて、
その栄光で走ってる別のメディアも一緒に見ることによって、より楽しめるっていうようになってる話らしくて、全然知らなかったんですけど、それはすごいなと。
そうですね。そして逆に言えば、やっぱりゲームやらなかったら2分、3分なんて意味分からなくてなりそうですね。
そうそう、だからならなくて当然なんですよ。
例えば映画批評家の人が、単発の映画の話をしても全然的外れやという話で。
マドリックスというのは、その相対音をプレイして初めてわかるものだって言われて。
そうすると、だいぶ射程の大きいメディア展開を初めから意図してたんだなと。
しかも映画批評家を役立たずなものにしてしまう映画でもある。
そうそう。
ゲームやらない映画批評家は批評できないってことですよね、それは。
だから初めからマドリックスっていうのは、ユーザーが活発に活動するだけじゃなくて、
その作品にのめり込んで、マドリックスに関するありとあらゆる情報を自分で摂取してゲームをするであろうという想定のもとに作られているという意味で、
結構新しい。多分だからエヴァよりも、より意図的にそのような不思議さを作っているっていうところはあるんでしょうね、きっと。
その話はね、今でも新しい話じゃないかっていう、今でもその方針っていうのは通用しそうですよね。
やりつつあるのか、スマホゲーでアニメの補完だったり、イラストリーを見せるみたいなことをやったりはしているので。
でもなんかもっとそれよりデカいですよね、やってることの規模感が。
そもそもだって、テレビとゲームっていうメディアの延長。
だから例えば今ドラマやったら、連続ドラマを見つつ、ティーバーで裏話をとかいうのは結構あるんですけど。
だからこれはストーリーテリングそのものが初めからゲームの方にブランチしてるんで。
それはすごい、すごいっすね。なんだそれはっていうか。でもゲームやってたら、映画はめっちゃ楽しいですよね、それは。
そうそうそうそう。だから全然階は見えない世界が、同じ映画を見てても視聴体験そのものの質が違うっていうことで。
だからかなり意欲的なものはやったんだ。
当然だからついていける人の数っていうのは減ってしまうんで、そのマッスル系にはならないんですけども。
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それもそれで一つのメディアの展開の仕方なんだろうなという話が、マトリックス第3章ですね。
第4章がね、スターウォーズなんですよ。
誰もがもう知っているというか、テンプレみたいなもんですよね、スターウォーズはある意味。
スターウォーズも実はこのメディアフランチャイズという言い方をするんですけども。
日本では当たり前なんですけど、映画だけじゃなくてグッズ販売もしてますし、さっき言ったゲームも出てますと。
そのような展開をするっていう一つの事例でもあるんですけど、ファンがね、ファンクリエイターになる作品らしいんですよ、これ。
簡単に言うとね、ファンが自分でスターウォーズを題材にした映画を撮ったりするらしいんですよ。
まんまファンがクリエイターになってる。
ごく簡単に言うと、著作権的にはグレーなことをしてるわけじゃないですか。
遥か昔、インターネットがない時代から、そういうファンの活動っていうのはごく普通にあったらしいんですよね。
自分の好きな映画をモチーフにして、ミニ映画みたいなのを撮るっていうのは。
それは別に、自分で見たりとか、同僚と見たりしているだけで終わるんで、私的利用の範囲。
グレーですけど、私的利用の範囲に収まるけど。
インターネットが登場したことによって、それを多数に公開できるようになる上に、やろうと思えばお金を得ることすらできるようになることで。
先ほどまでと同じように、コンテンツを作る人と、コンテンツを楽しんで自分でコンテンツを作る人の利害関係がたまにずれてくるんですよね。
ある一戦を超えてしまったら敵ですよね。
そうそうそう。ある一戦を超えてしまった敵の戦敵を、今んとは基本的に企業側がするわけじゃないですか。
ここからここまではいいですよと。ここからは入ってこないでくださいっていうことは、まずどこまで正しいんだろうかっていう問題提起があって。
もちろんこれが正しいっていうことではないんですけど、一つ事例としては、戦を強く引きすぎると、
すごく純粋に楽しんでいるファンを傷つけることになり、怒りを買うこともあるというのは一つ事例として出てましたけども。
とりあえず、スターウォーズとしては、自分たちの映画を楽しんでもらって、映画を作ってもらうのはいいけども、
このウェブサイトにある素材を使ってねと。ここの素材を使ってくれたら別にいいですよっていう音源とかを利用して、
それを投稿できる自身のウェブサイトも作って、ここは一応了解しますという領域で始めましたとして、
その代わりに、ドメインにスターウォーズっていうのが入っているウェブサイトをことごとく封鎖してもらったらしいんですよね。
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封鎖というか、閉じろという勧告を出してもらったらしいんですよ。
その中に例えば、すごく純粋にスターウォーズが好きだった中学3年生のウェブサイトとかも、それで閉鎖されかかって、
弁護士が出てきかねなくなって、これはどうやねんっていう話があって、これも結局ファン側が訴えかけることによって、
ある程度向こうも、そういうサイトはギリギリですよっていうところで決着したらしいんですけど、
そこの落としどころを間違えたら、多分普通に炎上というか、もっと問題になってた案件でしょうし、
多分現代はこれがもっと大きく起こってると思うんですけど。
なんか無数に今事例を思い出してるんですけど。
そうそうそう。だからもう普通に、この時代からこれは始まってたんですよね、スターウォーズの映画の時代から。
尊権性は持ってたんですね。今だとジブリが無償でこれ使っていいよ素材を提供していて成功していたり、
筋肉マンが変なことを言ってしまって、ネットで感想を言うなとか言ったせいで大変なことになってしまったり。
だからそう、企業としては自分のいわゆる著作権代表される権利は全部きちんと持っておきたいと。
それを持ってるからこそ海賊版が防げるんだけども、それをキチキチにやってしまうと楽しんでた消費者がげんなりしてしまうと。
そうやって楽しむエネルギーを持っている消費者によって確実に市場っていうのは盛り上がってるわけで、
それをことごとく潰してしまうというのは企業活動そのものにとっても多分マイナスになるんだろうなというのを本世の出でも感じますね。
めっちゃ筋肉マンだわ。筋肉マンの失敗例というのがすごく身につまされて分かるというか、
それまでずっと楽しんでたのにちょっと運営の方向を間違えてしまうと途端に冷めてしまって、今どうなのかちょっと知らないんですけど。
いやでもそれは似たようなことがあって、さっき二章に出たアメリカンアイドルっていうのも番組なんで、番組だとスポンサーがつくじゃないですか。
アメリカンアイドルって主スポンサーがコカ・コーラなんですね。コカ・コーラとふずして他に代表的な企業があるんですけど、
アメリカンアイドルが嫌われるとそのスポンサー企業一緒くたに嫌われるらしいんですよ。
メディア運営ってお金を出しときゃ後はなんとかなるっていうより類のものではないよなっていうのは思います。
スポンサーのあり方とか形とかっていうのがだいぶ変わってきてるんですよね。やっぱそのお金を出すということは、
あれなのかお金と倫理が結びついているみたいな感じなのか。
おだしょー だからそうだね。企業イメージに関わって、ダイレクトに関わってくるスポンサーとしてそこに名前を冠するっていうことは、
つまりこれらの活動って合理的な経済活動を飛び越えたもので、著者は常年の経済学って呼んでるんですけども、
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感情ですよね。感情の経済学って言い換えた方が多分わかりやすいですけど、この登場人物が好きやからその人の曲を買うとかいう感情が結びついてるんで、
その感情の結びつきを壊すようなことをすると、もう嫌悪が生まれてしまうんですよね。
単純にこの会社の商品は買わないでおこうという無視というよりは、もう嫌いになるんですよね。
だからこれは結構慎重さが必要で、すごく企業も好きになってもらえるときもあれば、その反動として嫌われることもあるので、
メディアのコントロールというか、コンテンツのコントロールというのはかなり難しい問題を組んでおりますね。
特に大企業の場合って、さっきの言ったら、マスターウォーズっていうのは、映画を作っている会社とゲームを作っている会社は違うわけじゃないのか、原理的に。
一つの会社の中でも部門がいろいろ違っていて、どうもファンに対する距離の取り方っていうのが、部門ごとでも結構違うらしいんですよね。
ファンを引き入れたいところもあれば、ファンを押し出したいところもあって、そこで部門ごとで対応が違うと、どうなってんねんってことにもなるらしく。
だから、全体的にある程度、最初の段階でこういうことが起こったら、こうしましょうっていう統一的な見方は持っておいた方がいいなというふうには感じます。
何もかも現代に繋がっている感じがするっていうか、お金の使い方とか価値観とか、スポンサードみたいなところとかも、
話を聞いていて、VTuberにいっぱい投げ銭をする今の文化みたいなものとも繋がっているような感じがして。
だからVTuberもあれも難しい問題で、本当は中の人っていうのはいないはずっていうか、中の人って誰がやってもいいはずなんですけど、やっぱり代替りがするときに問題が起きるらしいですよね。
企業が安易にVTuber作っちゃうとやっぱダメで、独立系の中の人とイコールになっているVTuberの方が、今は明らかに上手くいってる感じですよね。
だからやっぱりその辺が本書がいう常年の経済学っていうのをちょっと認識しないと、プロモーションって予想しないマイナスを生むことになりかねないってなってはあって。
だからもうインターネットが登場したことによって、もうそのルートにあるんですよね。だから絶対にこうなるんですよね。
この道線路っていうのはその段階から決まってたんですね。だから外れようがないというか。
早いですね。しかしそんな頃から言ったらここまで、つなげられるからつなげられるだけなのかもしれないけど。
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著者そのものがメディアのあり方に興味を持つ人で、こういうの集めてて見えてたからでしょうね。
しかも今でも考えないといけないことが多いし、確かに答えがないというところがむずい。
考えるきっかけをもらえるけどどうしようっていうのはわかんないですもんね、これに関しても。
逆に言うと答えのないものほど事例をたくさん知っていこうほうが良くて、この場合はそのほうにいってうまくいった、うまくいかなかったっていうことを判断材料が増えたほうがいいんで。
これは実際、成功の方程式を知っているというよりは、そこで参加するメディアの人たちがどんな気持ちでファン活動を行っているのかっていうのを直接知っておくほうがはるかに有益でしょうね、きっと。
そうですね。しかも失敗することは妄想する手に出てきた話で、失敗することというのは次につながることですからね。
まさにそうですね。だからいろんな失敗を知っておくということは、わりかしというかかなり重要ですね。ここまでの章は、わりかしだから現代にも通じるし、日本でもそうだよねっていう話だったんですけど、5章がハリーポッターなんですよ、ハリーポッター。
ハリーポッター、日本の文化でわからんことめっちゃありそうだからな。
ハリーポッターも2つ軸があって、著者が書いた原作の小説と、その原作を基にした映画の2つがあるんですよね。
基本的に原作あるいは映画を見て好きになる人が、こっちのハリーポッターでやることってファンノベルを書くということらしいんですよ、自分で小説を書くと。
同人誌って言えばオッケーなんですかね、日本の感覚で言えば。
同人誌に近い、総合的に同人誌であってよくて、これが結構いろいろ形があって、当然その本編中で描かれ省略されたエピソードを自分で妄想して書くというよくあるパターンとか、
あるいは本来こうなるはずじゃなかったパターンを書くとか、ハリーと学校の先生が喧嘩するとか何でもいいんですけど、そういう威風の物語を書くとか、あるいはその世界、ハリーの世界に自分を登場させて。
異世界転生者。
どっちかっていうとね、おままごとに近いかな。
ああ、そういうふうなんだ。
おままごとみたいに自分がその世界にいて楽しんでいる姿を描くっていうことが、話の前提忘れてますけど、そういうファンノベルってどちらかというと若い人が多いらしいんですね。
インターネットだからもちろん正確な年齢はわからないんですけど、18歳で結構年齢高いぐらいの子供たちがファンノベルの主役というか。
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スターウォーズのファンムービーっていうのはやっぱりちょっとお金と技術を必要とするじゃないですか。
映画の機材は少なくとも大変ですからね。今は別として当時は。
小説書くっていうことは別に小学生でもできるんで、だからファン活動として開かれてるっていうのはどっちかっていうと小説を書くことで。
16歳とか18歳の中学生とかぐらいが自分でファンノベルを書く。
で、それをアップするサイトを作る。そうすると興味を持つ人が増えてきて、自分たちもアップできるようにするっていうサイトを作るっていうことが行われてたらしいんですけど。
ここで面白かったのは、そのコミュニティの中でメディアリテラシーの教育が生まれてたっていう話があって。
例えばこういう文章の書き方じゃなくて、こうした方がいいですよっていうようなことが。
小学生を中学生が教えるようなことが、そこで自発的に行われてたらしいんですよ。
へー、その二ちゃん半年ロブレーみたいに、そういう殺伐とした文化がないんだ。
もっと優しくて、もちろん中には大人も混じってるんでしょうけど、書き慣れてない子にはこうやって書いた方がいいよっていうのを、新民になってアドバイスする文化がそこにあったらしくて。
それが、言われたように、二ちゃん以降の日本はそこはなかったよなと思って。
なろう小説、なろうって同じですよね。要するにハリーポッター投稿をするやつは日本でいうなろうシリーズというか、小説家になろうというウェブサイトですよね。
ただ、そこにもやっぱりないですよね、教えてあげるのが。
あれは、結局ランキングで競争じゃないですか。
ファンコミュニティっていうのは、ハリーポッターの世界を楽しもうという人たちが集まってるわけで、誰が一番面白かっていうのを決めるんじゃないんですよね。
注目的はハリーポッターであって、小説を楽しんで名を上げるとかじゃないんですね、小説を書いて。
この世界観をより深く楽しむために小説を書いてるって人たちばっかりやからこそ、生まれた相互教育というのかな。
それによって、例えばどんなふうに発信したらいいのかとか、どんなふうに投稿したらいいのかとか、小説書き方だけじゃなくてウェブでの立ち回りの援助とかも行われてるらしくて。
だから、ここが、この分岐点が我々を失ってたんだろうなと。このレーンだけはね、現代に伸びてないんですよ。
だから、ここを多分どうにかして復興させたらきっと面白いんだろうなと。
たぶんポイントはあれですよね、経済の原理が働いてないことですよね。
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おそらく。当然、ハリーポッターの特に映画側がそういうサイトを潰しにかかった事例がやっぱりあったらしくて、それでも相当揉めたらしいんですよ。
やっぱり作家の方、J.K.ローリンがやったかな。この方はやっぱり小説家やから。そういうサイトは非常に好意的やったらしいんですね。自由にしてくださいって。
でもやっぱり映画になると反権が出てくるんで。勝手に使うなっていうのがあって、いや何を言ってんねんって言って、さっき言った中学生、今やったらもっと高校生とか大きくなってるでしょうけどが、反対運動に立ち上がって。
で、その人が世界中のハリーポッターのファンサイトの相談役みたいになって、問題があったらちょっと教えてくださいみたいな。反旗を翻す旗頭になったっていう話もあって、面白いんですけど。
それ以上にファンコミュニティってこういうものなんだなっていう芯のあり方はハリーポッターの事例で感じましたね。だからクリエイティブを支えてるんですよね。消費者のクリエイティブを支えてるっていうその妙な感じなんですけど、それがファンの中だけで成立してるっていうのが非常に良いです。
おだしょー これは真似できるというか、ここから学びたいですね、その話はすごい。
ここはちょっとまた新たに探求する価値がある章でした。この章が一番面白かったですね。一応最後の6章なんですけど、民主主義のためのフォトショップっていうちょっとわかりづらいタイトルがついてるんですけども、
これは説明しにくいんですけど、ポップなカルチャーっていうかね、ポップカルチャーっていう、いわゆる政治を論じるとかいうんではないテレビメディアとか漫画とかっていうアニメとかっていうものが、
そういう作品をパロディにして政治家を茶化すようなポスターを簡単に作れるようになってると、パソコンによって。
そういうのが政治活動、政治的意識の入り口になるんじゃないかっていう話がまず一つあるんですよ。
だからいきなり政治を論じるのは難しくても、その既存の素材とかをアレンジしてウェブ上に投げるっていうことは、もうちょっとした政治活動の芽生えやから、そこの入り口は閉ざさない方がいいんではないかっていう一つの話と。
もう一個の話が、インターネットの中で街を作るようなゲームってあるじゃないですか。
どっち系ですか。シムシティな方か。
シムシティ系で、それが他人数で参加するような、街を作って街の中で暮らす。だからMMORPGで一人だけ市長を決められるようなものかな、簡単に言うと。
複数の参加人がいて、それぞれ街で生活してるんですけど、一人だけ投票選挙を勝った市長がいて、その市長が街をどう作っていくかの決定を持てるっていうゲームがあったらしいんですけど。
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当然、そこで選挙が行われるんですよね。投票による。
マンマ政治ですね。
そうそう。投票による選挙が行われて、二人の候補が戦って一人が勝ったらしいんですけど、その選挙が終わった後に、不正が行われたのではないかみたいな疑惑が出たらしいんですよ。選挙で。
証拠はなかったんですけども、ゲームなんで悪さできるじゃないですか、チート的なことっていうのが。それを専門にしてる奴らと、受かった市長が密会している証拠があったらしくて、その選挙の数字が実はいじられたものではないかっていう疑惑が出たらしいんですよ。
よろしくないことなんですけど、それによってゲーム内で選挙はいかにあるべきかっていう議論がものすごく活発であったらしいんですよね。
すごいな、現実が、もうバーチャルリアリティどころか現実世界ですね。
ゲームの中の選挙って何かって考えるってことは、でも結局現実世界の選挙にも目を向けることにつながると著者は言ってて、そういう意識の変容が実際ユーザーにもあったっていう話があって。
だから、いきなり政治っていうのにダイレクトにするんじゃなくて、ゲームとかポップなカルチャーの中で、政治性っていうものに触れることによって、自分がどんなふうに意見を表明したらいいのかっていうのをある種シミュレーションの中で学ぶことによって、実は民主主義にとってもいいことが行われているのではないかっていうのが6章の話です。
なんかあの仮想空間、VRではないんだけど、仮想空間というものが人類を成長させる大きな教育ツールとしての原動力になるんじゃないかみたいなのは、2030を読んで以来すっげえ思ってるんですけど、なんかまさにそれですね。
これは実験というよりは実際に、しかも意図しない形で行われた政治性の体験ということで。だから、ゲームをさせないというよりはむしろゲームをさせるっていう社会、特にオンラインゲームとかで人と会話するようなゲームって、どうしても社会性が絶対出てくるんですよね、あれね。
だからやっぱりそこで学ぶことっていろいろあって、特に現実世界の場合って所属が決まってて、この場ではこの人に従うっていう感じが、プロトコルが決まってるんですけど、オンラインゲームって結構フラットというか、立場が一緒での会話が行われるんで、だから社会性を身につけるのって実はああいう場合は適してるんですよね。
それもね、現代で言うとなんですけど、Oculus GoとかでVRチャットっていうチャットツールがめっちゃ流行っているらしくて、
俺は正直試して、もう価値観が古いのかですね、正直何が面白いのかがちょっとわからなかったんですけれども、それもね、だからもう起こってるんですよね。そこに行くと、当然まだ日本語化もされていないようなツールで、日本だと特殊な日本語サーバーみたいなところを探さないとなかなか楽しめないとかにはなるんですけど、
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音声聞こえるんですよね。参加してるのね、やっぱ小学生、中学生とかが英語で意味わからんことして遊んでるだけで結構盛り上がっていてね、見知らぬ人との距離感みたいなのがVRの謎の世界で楽しむというのが、少なくとも当たり前になりつつある。
なるほど。
そこから政治経済の話までちょっと繋がるほど、VRチャットについての造形が深くなさすぎてわかんないんですけど。
VRのゲームの世界の中に政治性っていうのがなかったら体験しようはないですよね。だからみんなが好き勝手に遊びましょう、終わりって言うんでは多分社会性とか政治性っていうのは身につかないですけど、何かを決めるときにみんなの意見を集めましょうみたいなことが始まった瞬間にもうそこには政治が完成するんですよね。
VRチャットとかね、だから俺やってみたけどね、根本的に概念が理解できなくて何をするツールだとかがわかんなかったんですよね。30分から1時間触っただけでは。
なるほどね。
これはある意味もう感覚の劣化というものを痛感した出来事でもあったんだけど。
確かに。多分僕らのような人たちってあんまり相手を権威に見ないというか、結構フラットに会話するじゃないですか、僕らって勝手にゴリラさんも巻き込んでますけど。
意識的にそうするようにしてますね、自分の場合は。年上と年下を区別しないようにしようとしている。
それはやっぱりフラットに人と交流してきた経験がものを言ってるんじゃないかと思うんですけど、だからそれはもっと加速するでしょうね、VRとかによってきっと。
そうですね、それに関して言うと、たとえば中学生にタメ口聞かれたらムカつくという感覚を持っていたら、これからの社会の大人はうまくやっていけないのではないかという考え方もできる。
それはそうでしょうね。でも特定の分野では確実に自分より能力を持っている人間というのがその年下にいるわけでね、そんなことでいちいち生きていけないですよね。
でも多分ね、俺たちと同世代、俺もしかもそう思う感情が全くなくなったわけでも全然ないから、その俺たち世代でももうやばいですよね、そういう危機感を持っていないと。
まあ確かにね。だからこれ自身は最初はメディアと企業の関係性の話だったんですけど、最後の章でだから、そのような体験そのものが社会参加の意識も変えていくであろうと。
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ただし、楽観主義というよりはどっちかっていうと、良いところしかまだ見えてないから実際もっと悪いことは起こり得るだろうというようなことも言ってて、まあこの人の見方は正しいなと。
闇みたいなのはこの10年じゃないか、この3、4年で散々見させられたというか、まあ無数にありますよね。
両方希望もあるし、闇もあるっていうのが当然そうなんですけど、やっぱりいいところを生かせば、さっきみたいなハリーポッターとか面白い事例もあるし、だからマトリックスに面白さを消費者自身が調べて広げていくようなコンテンツのあり方っていうのも、まだ今後広がっていけるでしょうし。
だからまあ、この2006年から今に向かって流れていく線で、どこを残して、どこを壊して、どこを新しく作っていくのかっていうのを、だから考える、結構深く考えるきっかけになりましたね、この本は。
そうですね、今で言うとやっぱあれなのかな、この辺の話を聞いていてちょっと思ったのが、後半の話を聞いて思ったのが、やっぱ全員と仲良くなるよりも、同じ趣味が合う人たちと仲良くやっていった方がうまくいきやすいのではないか。逆に言うとやっぱTwitterって危ういのではないか。
あれはコミュニケーションツールじゃないからね、あれは。あれは一人ごとの交差点みたいなところだから。
うーん、でもその人はもうそういうふうに認識されていないツールになってるじゃないですか。
確かにね、そう。いやだから最近、スラックとかディスコードを作る人たちがちょっと増えてきてるんで、個人サーバーで作る人が増えてるんですけど、まあそういうことの一つの現れなんでしょうね、きっと。
うーん、でもそれってあれですよね、悪い言い方をしたらまた分断が起こっているっていうことでもあるんですよね。
そう、まあ悪い言い方したら分断ですけども、やっぱクローズしないと、さっき言ったファンコミュニティみたいなものって生まれないんで、だから閉じてはいいでも、参加したい人は誰でも参加できますよっていう形の閉じ方であれば僕はいいかなと思うんですよ。
ただ、オープンって言った時にGoogleで検索して全部見つかるっていうことを意味するだけじゃなくて、参加はできますよっていう開き方でも検索に引っかかりませんよっていう閉じ方っていうことができたら良いのではないかなと。
あーあれですね、やっぱポッドキャストは炎上しにくいとかっていうのが、例えばポッドキャストでアラを探そうと思ったらこの番組を60分聞いて文句を言わないといけないので、やっぱテキストだと3行でムカつくところを書いているところだけ見つけて怒れるんだけど、
まあポッドキャストの場合はそこまで手間をかけてまで文句を言おうとする人は、逆にその人もファンですからね。
57:00
確かに、そこまで聞いてたらね。
真っ当な批判になるはずですからね、そこまでやってくれる人だったら。
だからやっぱりそのオープンっていうことの意味をどう捉えるかっていうことですけど、ある程度全部公開とか見れたらいいっていう話よりは、ある程度敷居入るための心理的なコストとかいうものを設けておって、その中で初めて生まれる人間関係の生態系というんですかね。
ぐらいが人類にとって良いのではないかという感じなのかな。
でも特にその人を、例えばさっき言ったようにメディアリテラシーを教えるとかっていうのってやっぱりその閉じた環境でないと難しいと思うんですよ。
なぜならば、安心感がいるんですよね。教える人とか教えられる人の間に、この人なら信頼できるっていう関係がないとなかなか教育って進まないと思うんですよ。
だからツイッターで知識が交流できるといったって、突然ディスられるわけじゃないですか。
お前誰やねんっていうやつから。
そうなるとやっぱり困っていることを人に相談しにくいんですよね。逆にそういうのを先回りして考えて計算してしまうんで。
やっぱりある程度の安心空間を作るという意味で閉じた場所を持つと。
閉じた場所を持ちつつ、当然完全に開いた場所に出ていけることももちろんあっていい。
閉じたけりゃいいっていうもんではないんですけど。
でもコミュニティ的なものっていうのは、ある種の閉じ性、クローズド性っていうのを意識した方が良いのではないかなと。
これだからあやすきサロンビジネスと結構線引きが難しくなってくるんですが。
でもさっきのハリーポッターのコミュニティもそうですけど、別に会自体にお金性が発生しないんですね。ただのファンコミュニティなんで。
そこが多分オンラインサロンとかの一番の線引きの違いになるんじゃないですかね、きっと。
そうか。でも例えばなんだけど、お金を取っているから変なやつが来ないという言い方はできますよね。
もちろんね、もちろんできます。ただでも参加するためにメールを送ってください。
招待URLを返信しますっていうゲートを作るだけでも激減すると思うよ、きっと。
確かにそうですね、方向で言ったら。
もちろんその仕切りの高さは100円のお金を払うことよりは低いけど、検索したらすぐ見れるよりは2段階くらいはそれだけでも上になる。
なんかねイメージがね、街の将棋会館みたいなイメージがなんとなく出てきていてね、それがうまくウェブでできたらいいんじゃないかっていうのをちょっと想像していたんですけど。
確かにそういう感じはありそうですね。
このお話は消費者、消費者というか情報の受け取り手と、情報を発信してお金を得ているメディア企業とその間の関係性をどうデザインしたらいいのかっていう問題提起で、
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でもさっきも言ったようにやっぱり明確な答えっていうのがなくて、しかもメディアがコングリマットになればなるほど答えがわかりにくくなるんですよね。
意思統一もできなくなってくるので、いろんなメディアが参加してくる。だから小さい規模の方が多分コントロールはしやすいはずで、
僕らは大きくなりようがないから別に心配する必要はないんですけど、ある程度の小ささでそういうのを維持できて、
参加する人たちがただ聞いてるだけじゃなくて、自分も発信できるような、多分iPadウォーカーか、もう多分似たような方向性を目指してるんじゃないかなと思うんですけども、
単に受信者であるだけじゃなくて受信者でもありつつクリエイターにもなり得るような、そういう場を作っていけたら面白いでしょうね。
そうか、そことあと最近、あずまさんの話で言ってた観客っていうのもすごい思っていて、そこの観客も加われるような、クリエイターでもいいし観客でもいいっていう距離感のコミュニティというか、
ディスコードだと観客になれない感じがするんですよね、俺の中で。
なるほどね、なるほど。
でね、自分が例えば新しいコミュニティに参加する場合ね、やっぱり観客なら行けるっていうのはすごい思っていて、
観客の距離感で参加ができて、ちょっとクリエイター側に行こうと思えば行けるみたいなものが何かこうできたらいいなっていうのはすげえ思ってるんですよね。
確かにそうやな。いきなりクリエイターっていうのも難しいし、クリエイターを強要されるのもなかなかしんどいものがあるし。
強要されたらやっぱ入れなくなってしまうので、小さく閉じる目的のものはあってもいいと思うんですよ、そういうクリエイターの集まりという。
ただそうじゃなくって、この観客の距離感のものを何かできないかっていうのは、ここ数ヶ月結構考えているところで。
実際このポッドキャストを聞いている人は、当然本を好きな人が多いわけで、おそらくですけども。だからその人たちが持っている面白い本の話は聞きたい。
だからクリエイター側に参加してほしいという思いもありつつも、かといって強制参加っていうのもおかしい話ですね。
うん、観客。あれか、クラブハウスとかツイッタースペースとかそういうことなのかな、距離感で言ったら。
かもしれないかな。だからそれで挙手した人が話したくなった時に話せるような場をたまに作るみたいな。
で、その人がすげえ面白かったら今度こっちにも来てもらうみたいな。
別に観客だけで参加したいのであればそれでいいので、顔は出てしまいますけどね、参加してもらう場合に。
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まあでも無言でなら参加しやすく、無言で参加すればリーブサイレントリーでしたっけっていうこともしやすく。
確かに。
そうか、意外といいかもしれないですね。クラブハウスなんだったっけ、グループみたいなやつとか。
そのぐらいの距離感というのはひょっとしたら俺がやりたいことはそういう距離感だったのかもしれない。
だからまあいきなりは多分難しいでしょうから、最初はこっち側が一方的に喋ることをしといて、
で、喋りたい人が出てきた時にいつでもウェルカムな体制を作っていくっていう、
そのまあ、逆境ですね、簡単に逆境、その観客と生産者の間を簡単に逆境できるような仕組みがそこにあればいいんでしょうけども。
なんかそういうものはね、ちょっと考えていきたいところだなぁと思う次第ですね。ちょっと話がずれてしまったかもしれないんですが。
一応まとめるとそういう今まで言ってきたように、コンバージェンスって何かっていうと、まず多数のメディアプラットフォームに渡ってコンテンツが流通していくことと。
これね、多数のメディア業界が協力することって書いてあって、これもう現代は、
何を言ってんねん。マルチなメディア展開とか、もうごく普通に行われてるんですけど、だからもうこのコンバージェンスは実現してるってことですね。
オーディエンスが自分が求めるエンターテインメント体験を求めて、ほとんどどこにでも渡り歩くことっていうのもあって、これも普通によく行われてて、聖地巡礼とかもこれに入りますね。だから要するに。
あれもメタな視点で楽しんでいるすごいコンテンツですよね。
だからあれも現実の場っていうのをエンターテインメント空間に変えてしまうわけで、これはすさまじいことが行われてるんですけど、そういう要素が集まったものがコンバージェンスカルチャーっていうもので、
それによって、メディア消費という文化の、消化する文化のスタイルそのものが変わってくるであろうという本で、2011年からすると変わったと。確かに変わりましたというのを確認する本です。
結構それが分厚くとんでもないページ数で書かれてるっていうのは結構ハードですね。
これは途中は結構ハードやった。さっき言った事例が本当に細かいレベルで、この人がこうしたからこうなったっていう概要じゃなくて、本当のレベルの流度のレベルで語られてるので、かなりタフな本でしたけど。
でも大雑把な話じゃなくて、個々の参加者がどんな気持ちでそれをやってたかっていう話にフォーカスされてるんで。
事例研究としてはこっちの方がいいでしょうね。だから企業側の視点と言うよりも、むしろその参加者側の視点の方が多分重要なんで、これは。
しかも言ったら体験はできないことですから、細かければ細かいほどそれはいいだろうっていう話でもありますよね。こういう事例で言えば。
これはもう全部読まなくてもよくて、興味のあるものを読めば全然いいとは思うんですが、ただ問題は上げられてるコンテンツが全部海外のやつなので、日本人にはどれが自分が読みたいものと関連するのかがちょっとわかりにくい。
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間的に理解しがたい部分はありそう。
マトリックス、スターウォーズ、ハリーポッターぐらいは日本でもわかるんで、読めるとは思います。
そうですね。そんな感じでしょうかね、今回のお話は。
では、番組への感想や質問、リクエストなどはTwitterでハッシュタグ、カタカナでブックカタリストをつけてお送りください。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
01:06:45

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