面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第13回の本日は、
コンバージェンスカルチャー、ファンとメディアが作る参加型文化について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回はクラシタのターンなんですけども、著者がヘンリー・ジェンキンズさんという方で、
大学教授でコミュニケーションとジャーナリズムを研究されている方なんですよね。
この本が、原著が実は結構前で、2006年の本なんですよ。
日本語版が2021年に出ているので、15年越しの翻訳になるんですよね。
なんか不思議な感じですね。そんな時期のやつを今、
しかも結構大きく変わってそうなジャンルっぽいのに、今になって出たっていうのは、
今でも通用するものだって言えるっていう感じなんですかね。やっぱりそうなるってことは。
先年文には、古典的名著がいよいよ出版って書いてあったんですけど、
15年で古典的名著もないよなと思うので、ちょっと中途半端な位置づけな点が1個注意しておきたい点と、
もう1個が、どうしてもメディアの事例を扱ってるんですけども、
ほぼアメリカの制作会社が作ったメディアの話が主なので、
ちょっと日本のファンジャンル研究とピッタリ重なるわけではないよなっていうこの2点。
ちょっとだけ古い点とアメリカ発っていう点だけは、ちょっと気にしておいた方がいいかなという注意点ですね、まず。
アメリカの人たちはね、アメリカが世界なので、ワールドシリーズはアメリカで平気でやる文化ですからね。
たぶん俺たちの世界はこれだっていう前提で物事を捉えているという、そこは注意しないといけないですよね。
だから参考になる事例はありつつも、日本は日本でまたちょっと違うかなっていうところがありそうという話で。
もともとこの本を注目したのっていうのは、ファンとメディアが作る参加型文化って、いわゆるインターネットカルチャーが大好きな表現なんですけども、
自分自身でも発信者として活動していく中で、やっぱり1人、自分1人が発信しているだけではやっぱり面白くないんで、
自分の情報発信を見ている人たちと一緒に盛り上がっていったらいいなという思いを2010年頃から抱いてるんですけど、
思った通りにうまくいった事例が少ないんですよね。なんか盛り上がりに欠けるというか。
どうしたらそういうファンを含んだコミュニティを作っていけるかなっていう問題意識があって、
その手の話をいろいろ読んでて、この本にぶつかったというところで、僕の問題意識としては自分の活動にどう活かせるかなっていう風に読んだんですけど、
例えば地域社会っていうのが壊れてくるときに、全員が知ってる人ってなかなかいないんですよね。
みんなが言及できる人っていうのが。その中でリアリティショーとかアメリカンアイドルのように、年齢も性別も関係なくて視聴できる媒体っていう。
特にアメリカンアイドルとかっていうのは家族で結構見られてるらしくて、子供からお父さんお母さんまでがその番組に参加できると。
アメリカンアイドルが丁寧に作られてて、途中から視聴してもちゃんとついていけるように毎回組まれてるらしいんですよね。
だから例えばたまにしか見れないお父さんでもそこの話題についていけるようになっていると。
だからお茶の間とかあるいはインターネット越しの話題提供装置になっていたという話は、たぶんこれ現代でも言えることだなと。
お茶の間という言葉を久しぶりに聞いたなっていうイメージがあって。
言われてみるとお茶の間っていう用語がもはや今の価値観ではなかなかなくなってしまった世界。
家族でみんなで同じことを話せるって。
我が家でも実際そうなんですけど、みんなでテレビ見てないんですよね、全く。
でしょうね、きっと。
で、そのやっぱり能動的に共通の話題というものを探し出さないと、家族みんなで話せることというのは出てこない。
で、それをテレビで楽できるっていうふうにも言えるのかなって思って。
やっぱりサバイバーにしろアメリカンアイドルにしろ、現実の人、キャラクターじゃなくて現実の人なんで、しかも一般の人なんですよね。
アメリカンアイドルはトップになったらデビューするけど、そこまではただの市民なんですよね。
だから芸能人じゃないんで、より感情に輸入しやすいっていうのが多分この2つの番組のポイントで、それは多分今のYouTuberにもつながっていく話だと僕は思うんですけども。
なんかAKBとかもまんまそれやんっていう感じですよね。
そういうことだと思います。
だから、しかし共感できる人が話題の提供者になったことによって、2006年ぐらいでもみんながバラバラな趣味持ってて話題が続けなくなる中でも唯一の話題を提供してくれてたっていう。
特にアメリカは特にそうなんかな。日本の場合はちょっと違う事情があるかもしれませんけど、多分似たようなことはあるでしょうね。
日本だとテレビ番組のクイズとかの誰でもわかるバカを笑う系のクイズって、それに近いものだったんじゃないかなっていう。
この2つの事例の中でもかなり細かい話があるんですが、それを拾っているとあれなんで、後半、中盤に入るんですけど。
3章がマトリックスなんですよね。マトリックス。映画マトリックス。映画マトリックス見たことあります?
多分見てると思うんですけど、基本的にあらすじぐらいしか覚えていない。
3部作なんですね。マトリックスとリローテッドとレボリューションかな。3部作になってて。
2部以降の評判はあまりよろしくなくて、3部とかもちょっとわけわからんっていう評価が割と多いんですよね。
もう1個、マトリックスって謎めいてるんですよね。舞台設定とかがなぜこうなってるのかっていう解説がほとんどなくて、
だいたい話がものすごくスピーディーに進んでいく上に、エヴァンゲリオンと一緒ですよね。だからそれっぽいキーワードが凝算出てくるんやけど、
それって何なのかわからないっていう感じで話が進んでいくんですね。
あの時代はそういうのが流行ったんですかね、言ってみたら。
マトリックスもエヴァンゲリオンも似たような時代だと思うけど、そういう謎めいた、暗優的な作品っていうのを、
例えば番組を録画できるようになったことで、停止してチェックできるようになったんですね。
このシーンのここがっていうやつね。
で、これはこういうことじゃないかっていう、例えばインターネットを掲示板に投げると、知識のある人たちがこうじゃないか、こうじゃないかって言うんですよね。
いろんな議論が、これもまったくエヴァで同じことが起こってるんですけど、展開されると。
マトリックスがやったことは、話を、簡潔な話を提示したというよりは、いろんな場所にノードが伸びている謎めいた作品を投下した。
それを受けた人は何かを調べずにはいられない、発信せずにはいられないようになって、
マトリックスっていうものの興味を持ってる人が集まる一つの架空的な場を作ったと。
で、このマトリックスがいろんな人の知識を必要とし、広げていくっていう話と並行に、
マトリックスってね、ゲームもね、映画と同時に発売する、映画の1,2,3と並行して、間にゲームも出てるんですよ。
そうなんだ。
で、ゲームもね、いわゆるストーリー型というよりはMMORPG型というのかな。
プレイヤーはいろいろ好きなことできるけど、主要なイベントが何個かありますよ、みたいなやつらしいんですよね。
で、僕は全然マトリックスファンでもないんで、ゲームはしたことがなかったんですけど、衝撃的な事実があるんですが、
映画の2部とか3部で、例えば、ある主人公がピンチだと、ピンチなタイミングである登場人物がそのピンチを救いに絶妙なタイミングでやってくるんですよね。
で、なぜ彼がそこに来たかの説明は一切ないんですよ。
だから、見てる人からするとかなりポカンとするんですけど、そこはバカすむと。
で、ゲームをやってる人からすると、その主人公を助けに行く人を、所定の時間内にその場所に届けるというイベントがあるらしいんですよね。
うーん。
だから、映画を見てると初めて、その世界が保管される仕様になってるんですよ。
映画には出てこないシーンがゲームをやれば、映画の裏側が見えるようになる。
裏側というよりも、もちろん映画とゲームをすることをセットで語ってるってことなんですよ。
もう、初めからそうやって設計されていたってことですよね。
だから、トランスメディアのストーリーテリングって言われてるんですけど、ストーリーをテリングする媒体が一個だけのメディアじゃなくて、
その栄光で走ってる別のメディアも一緒に見ることによって、より楽しめるっていうようになってる話らしくて、全然知らなかったんですけど、それはすごいなと。
そうですね。そして逆に言えば、やっぱりゲームやらなかったら2分、3分なんて意味分からなくてなりそうですね。
そうそう、だからならなくて当然なんですよ。
例えば映画批評家の人が、単発の映画の話をしても全然的外れやという話で。
マドリックスというのは、その相対音をプレイして初めてわかるものだって言われて。
そうすると、だいぶ射程の大きいメディア展開を初めから意図してたんだなと。
しかも映画批評家を役立たずなものにしてしまう映画でもある。
そうそう。
ゲームやらない映画批評家は批評できないってことですよね、それは。
だから初めからマドリックスっていうのは、ユーザーが活発に活動するだけじゃなくて、
その作品にのめり込んで、マドリックスに関するありとあらゆる情報を自分で摂取してゲームをするであろうという想定のもとに作られているという意味で、
結構新しい。多分だからエヴァよりも、より意図的にそのような不思議さを作っているっていうところはあるんでしょうね、きっと。
その話はね、今でも新しい話じゃないかっていう、今でもその方針っていうのは通用しそうですよね。
やりつつあるのか、スマホゲーでアニメの補完だったり、イラストリーを見せるみたいなことをやったりはしているので。
でもなんかもっとそれよりデカいですよね、やってることの規模感が。
そもそもだって、テレビとゲームっていうメディアの延長。
だから例えば今ドラマやったら、連続ドラマを見つつ、ティーバーで裏話をとかいうのは結構あるんですけど。
だからこれはストーリーテリングそのものが初めからゲームの方にブランチしてるんで。
それはすごい、すごいっすね。なんだそれはっていうか。でもゲームやってたら、映画はめっちゃ楽しいですよね、それは。
そうそうそうそう。だから全然階は見えない世界が、同じ映画を見てても視聴体験そのものの質が違うっていうことで。
だからかなり意欲的なものはやったんだ。
当然だからついていける人の数っていうのは減ってしまうんで、そのマッスル系にはならないんですけども。
それもそれで一つのメディアの展開の仕方なんだろうなという話が、マトリックス第3章ですね。
第4章がね、スターウォーズなんですよ。
誰もがもう知っているというか、テンプレみたいなもんですよね、スターウォーズはある意味。
スターウォーズも実はこのメディアフランチャイズという言い方をするんですけども。
日本では当たり前なんですけど、映画だけじゃなくてグッズ販売もしてますし、さっき言ったゲームも出てますと。
そのような展開をするっていう一つの事例でもあるんですけど、ファンがね、ファンクリエイターになる作品らしいんですよ、これ。
簡単に言うとね、ファンが自分でスターウォーズを題材にした映画を撮ったりするらしいんですよ。
まんまファンがクリエイターになってる。
ごく簡単に言うと、著作権的にはグレーなことをしてるわけじゃないですか。
遥か昔、インターネットがない時代から、そういうファンの活動っていうのはごく普通にあったらしいんですよね。
自分の好きな映画をモチーフにして、ミニ映画みたいなのを撮るっていうのは。
それは別に、自分で見たりとか、同僚と見たりしているだけで終わるんで、私的利用の範囲。
グレーですけど、私的利用の範囲に収まるけど。
インターネットが登場したことによって、それを多数に公開できるようになる上に、やろうと思えばお金を得ることすらできるようになることで。
先ほどまでと同じように、コンテンツを作る人と、コンテンツを楽しんで自分でコンテンツを作る人の利害関係がたまにずれてくるんですよね。
ある一戦を超えてしまったら敵ですよね。
そうそうそう。ある一戦を超えてしまった敵の戦敵を、今んとは基本的に企業側がするわけじゃないですか。
ここからここまではいいですよと。ここからは入ってこないでくださいっていうことは、まずどこまで正しいんだろうかっていう問題提起があって。
もちろんこれが正しいっていうことではないんですけど、一つ事例としては、戦を強く引きすぎると、
すごく純粋に楽しんでいるファンを傷つけることになり、怒りを買うこともあるというのは一つ事例として出てましたけども。
とりあえず、スターウォーズとしては、自分たちの映画を楽しんでもらって、映画を作ってもらうのはいいけども、
このウェブサイトにある素材を使ってねと。ここの素材を使ってくれたら別にいいですよっていう音源とかを利用して、
それを投稿できる自身のウェブサイトも作って、ここは一応了解しますという領域で始めましたとして、
その代わりに、ドメインにスターウォーズっていうのが入っているウェブサイトをことごとく封鎖してもらったらしいんですよね。
封鎖というか、閉じろという勧告を出してもらったらしいんですよ。
その中に例えば、すごく純粋にスターウォーズが好きだった中学3年生のウェブサイトとかも、それで閉鎖されかかって、
弁護士が出てきかねなくなって、これはどうやねんっていう話があって、これも結局ファン側が訴えかけることによって、
ある程度向こうも、そういうサイトはギリギリですよっていうところで決着したらしいんですけど、
そこの落としどころを間違えたら、多分普通に炎上というか、もっと問題になってた案件でしょうし、
多分現代はこれがもっと大きく起こってると思うんですけど。
なんか無数に今事例を思い出してるんですけど。
そうそうそう。だからもう普通に、この時代からこれは始まってたんですよね、スターウォーズの映画の時代から。
尊権性は持ってたんですね。今だとジブリが無償でこれ使っていいよ素材を提供していて成功していたり、
筋肉マンが変なことを言ってしまって、ネットで感想を言うなとか言ったせいで大変なことになってしまったり。
だからそう、企業としては自分のいわゆる著作権代表される権利は全部きちんと持っておきたいと。
それを持ってるからこそ海賊版が防げるんだけども、それをキチキチにやってしまうと楽しんでた消費者がげんなりしてしまうと。
そうやって楽しむエネルギーを持っている消費者によって確実に市場っていうのは盛り上がってるわけで、
それをことごとく潰してしまうというのは企業活動そのものにとっても多分マイナスになるんだろうなというのを本世の出でも感じますね。
めっちゃ筋肉マンだわ。筋肉マンの失敗例というのがすごく身につまされて分かるというか、
それまでずっと楽しんでたのにちょっと運営の方向を間違えてしまうと途端に冷めてしまって、今どうなのかちょっと知らないんですけど。
いやでもそれは似たようなことがあって、さっき二章に出たアメリカンアイドルっていうのも番組なんで、番組だとスポンサーがつくじゃないですか。
アメリカンアイドルって主スポンサーがコカ・コーラなんですね。コカ・コーラとふずして他に代表的な企業があるんですけど、
アメリカンアイドルが嫌われるとそのスポンサー企業一緒くたに嫌われるらしいんですよ。
メディア運営ってお金を出しときゃ後はなんとかなるっていうより類のものではないよなっていうのは思います。
スポンサーのあり方とか形とかっていうのがだいぶ変わってきてるんですよね。やっぱそのお金を出すということは、
あれなのかお金と倫理が結びついているみたいな感じなのか。
おだしょー だからそうだね。企業イメージに関わって、ダイレクトに関わってくるスポンサーとしてそこに名前を冠するっていうことは、
つまりこれらの活動って合理的な経済活動を飛び越えたもので、著者は常年の経済学って呼んでるんですけども、
スターウォーズのファンムービーっていうのはやっぱりちょっとお金と技術を必要とするじゃないですか。
映画の機材は少なくとも大変ですからね。今は別として当時は。
小説書くっていうことは別に小学生でもできるんで、だからファン活動として開かれてるっていうのはどっちかっていうと小説を書くことで。
16歳とか18歳の中学生とかぐらいが自分でファンノベルを書く。
で、それをアップするサイトを作る。そうすると興味を持つ人が増えてきて、自分たちもアップできるようにするっていうサイトを作るっていうことが行われてたらしいんですけど。
ここで面白かったのは、そのコミュニティの中でメディアリテラシーの教育が生まれてたっていう話があって。
例えばこういう文章の書き方じゃなくて、こうした方がいいですよっていうようなことが。
小学生を中学生が教えるようなことが、そこで自発的に行われてたらしいんですよ。
へー、その二ちゃん半年ロブレーみたいに、そういう殺伐とした文化がないんだ。
もっと優しくて、もちろん中には大人も混じってるんでしょうけど、書き慣れてない子にはこうやって書いた方がいいよっていうのを、新民になってアドバイスする文化がそこにあったらしくて。
それが、言われたように、二ちゃん以降の日本はそこはなかったよなと思って。
なろう小説、なろうって同じですよね。要するにハリーポッター投稿をするやつは日本でいうなろうシリーズというか、小説家になろうというウェブサイトですよね。
ただ、そこにもやっぱりないですよね、教えてあげるのが。
あれは、結局ランキングで競争じゃないですか。
ファンコミュニティっていうのは、ハリーポッターの世界を楽しもうという人たちが集まってるわけで、誰が一番面白かっていうのを決めるんじゃないんですよね。
注目的はハリーポッターであって、小説を楽しんで名を上げるとかじゃないんですね、小説を書いて。
この世界観をより深く楽しむために小説を書いてるって人たちばっかりやからこそ、生まれた相互教育というのかな。
それによって、例えばどんなふうに発信したらいいのかとか、どんなふうに投稿したらいいのかとか、小説書き方だけじゃなくてウェブでの立ち回りの援助とかも行われてるらしくて。
だから、ここが、この分岐点が我々を失ってたんだろうなと。このレーンだけはね、現代に伸びてないんですよ。
だから、ここを多分どうにかして復興させたらきっと面白いんだろうなと。
たぶんポイントはあれですよね、経済の原理が働いてないことですよね。
まあでも無言でなら参加しやすく、無言で参加すればリーブサイレントリーでしたっけっていうこともしやすく。
確かに。
そうか、意外といいかもしれないですね。クラブハウスなんだったっけ、グループみたいなやつとか。
そのぐらいの距離感というのはひょっとしたら俺がやりたいことはそういう距離感だったのかもしれない。
だからまあいきなりは多分難しいでしょうから、最初はこっち側が一方的に喋ることをしといて、
で、喋りたい人が出てきた時にいつでもウェルカムな体制を作っていくっていう、
そのまあ、逆境ですね、簡単に逆境、その観客と生産者の間を簡単に逆境できるような仕組みがそこにあればいいんでしょうけども。
なんかそういうものはね、ちょっと考えていきたいところだなぁと思う次第ですね。ちょっと話がずれてしまったかもしれないんですが。
一応まとめるとそういう今まで言ってきたように、コンバージェンスって何かっていうと、まず多数のメディアプラットフォームに渡ってコンテンツが流通していくことと。
これね、多数のメディア業界が協力することって書いてあって、これもう現代は、
何を言ってんねん。マルチなメディア展開とか、もうごく普通に行われてるんですけど、だからもうこのコンバージェンスは実現してるってことですね。
オーディエンスが自分が求めるエンターテインメント体験を求めて、ほとんどどこにでも渡り歩くことっていうのもあって、これも普通によく行われてて、聖地巡礼とかもこれに入りますね。だから要するに。
あれもメタな視点で楽しんでいるすごいコンテンツですよね。
だからあれも現実の場っていうのをエンターテインメント空間に変えてしまうわけで、これはすさまじいことが行われてるんですけど、そういう要素が集まったものがコンバージェンスカルチャーっていうもので、
それによって、メディア消費という文化の、消化する文化のスタイルそのものが変わってくるであろうという本で、2011年からすると変わったと。確かに変わりましたというのを確認する本です。
結構それが分厚くとんでもないページ数で書かれてるっていうのは結構ハードですね。
これは途中は結構ハードやった。さっき言った事例が本当に細かいレベルで、この人がこうしたからこうなったっていう概要じゃなくて、本当のレベルの流度のレベルで語られてるので、かなりタフな本でしたけど。
でも大雑把な話じゃなくて、個々の参加者がどんな気持ちでそれをやってたかっていう話にフォーカスされてるんで。
事例研究としてはこっちの方がいいでしょうね。だから企業側の視点と言うよりも、むしろその参加者側の視点の方が多分重要なんで、これは。
しかも言ったら体験はできないことですから、細かければ細かいほどそれはいいだろうっていう話でもありますよね。こういう事例で言えば。
これはもう全部読まなくてもよくて、興味のあるものを読めば全然いいとは思うんですが、ただ問題は上げられてるコンテンツが全部海外のやつなので、日本人にはどれが自分が読みたいものと関連するのかがちょっとわかりにくい。