あります。
あとね、逗子小学校の隣に面してるってことで。
そうですね。逗子小学校のお向かい、体育館の下ですね。
プールの上にあります。
そうですね。
逗子にお住まいの方だったら一度は訪れたことがあるんじゃないかとかね。
中庭のフェスティバルパークというところでイベントよくなったりするんでね。
市民交流センターにいつもいらっしゃると。
います。
というふうな感じなんですけれども、ぱっと見副館長ですよね。
はい、副館長です。
副館長ですね。
中間管理職です。
中間管理職ということで、市の行政にもちょっと関わりのある立場という。
そうですね。
そんな感じの交流センター、副館長なんですけど、初見の人、結構びっくりしません?
割と最初は、それこそ私10年いるんですけども、最初は少しギョッとされたりとか、軽いショックみたいなのはあった気もする。
ショックっていうのは来訪者の方が。
そう。
なるほど、なるほど。
ここ入ったらこんな人いるみたいな、そういう一瞬の間みたいなものは最初の頃ありましたね。
なるほど、なるほど。
今ね、僕の目の前に立っているこの本藤太郎君もね、アディダスのジャージにサングラスして、長髪で髭も蓄えてという感じで、
この人が交流センターの副館長かっていうのが一見してわからない感じ。
そうですね。
それがいいんですよね。
ですね。
僕はそれが最高にロックでありパンクであり、図志っぽいなって思ってるんですけど。
本人としてはこのキャラというか、周りからの反応を含めどう思ってたりします?
正直これ普段通りの日常と実際の格好だったり、振る舞いだったりとかするんですけども、利用者の皆さんからもいろいろ褒められたりとか、
今日はそういう格好なのね、みたいなこと言われたりとかして、
割とお話のきっかけになったりとかもするし、すっかり名物みたいにもなったので、またあいつがいるなっていう感じで、
割と早い段階から皆さん受け止めてくれて、これ図志だなと思いました。
なるほどね。
そういう人もいるよねぐらいのノリで。
すごい多様性の塊の施設ですけど。
市民交流センターは1階は割と超オープンな感じで、市民活動スペースがあったりとか、勉強してる学生さんがいらっしゃってるとかあるんですけど、
結構その中の席とかも見えるんで、元藤さんいらっしゃるなーっていうのが一発でわかりますよね。
オープンオフィスになってるので、よく見に来る人もいますよ。
いるなーっていうね。
いるいる。
ちょっと安心するみたいな。
面識ある方はちょっと安心する。
通りすがって手振って行くみたいなのがよくあります。
なるほど、なるほど。
副官庁就任がこの4月からですか?
そうですね、今年度の4月から指定管理の切り替わりがあったんで、そのきっかけで副官庁に就任しました。
なるほど。10年近くってことですけど、なんでこの仕事を選ばれてされているの?
この仕事を選んだというより選ばれたような気がしてて、何でしょうね。
そもそも文化プラザと共にこの20年あったっていう自覚があって。
自分自身が。
ちょうど20年前に文化プラザホールができたんですよ。
できましたね、2005年くらいかな。
そこでバンド練習ができるって言って、14歳の時ですよね。
すぐ登録しに行って、そこでバンド練習したりとか、レコーディングしたりとかしてましたね。
その翌年に交流センターができたんですけども、正直交流センターとの関わりはつい最近までなかったですね。
そのまま時が過ぎて2013年、13年の頃に自分大学生だったんですけど、東京の美大で美術を学んでたんですけど、
交流センターで図書小学校に向けてプロジェクションマッピングをしてたんです。
その大きなお祭りの中に大学の先輩が小さな展示をしてた。
その手伝いに来たのが本当に初めて入った時ですよね。
ホールとか図書館はヘビーユーザーだったんですけども、交流センターは本当に、それが2013年初めて足を踏み入れた時です。
なるほど。本当にこの図書文化プラザ自体できたのが2005年だったっていう。
僕も覚えていて、練習室っていうのもあるんだよね。
ドラムがあるって言って。
ドラムが置いてあるのが練習室2で、それの本当に初めての利用者は僕なんですよ。
すごい予約取りにくいシステムの。
お金も払う時間があったりとか。
いわゆる自治体の予約のシステムで事前に支払いとかしてね。
でも普段のリハーサルとかと比べるとちょっと書くやすいに使えるみたいな。
中高生的には嬉しい値段設定でしたよね。
パワーハウス以外に選択肢ができたっていう。
これ図志のちょっとローカルな情報ですけど、図志の山の根の方にもJRの線路とパワーハウスっていう。
全員お世話になってますよ。
図志のバンドマン、それこそハーフマイルビーチクラブもそうですけど、
皆さんは全員バンドやってたらパワーハウスという山の根のスタジオ、地下のあそこにお世話になってます。
足を向けて寝られませんよね。
本当ですよ、本当ですよ。
沢田さん元気ですよ。
本当にそういった感じで音楽とかそういった芸術とか、大学の時に2013年ですかね。
その時に本当にメディアアートというか、メディアーツ図志とか、図志小学校にプロジェクションマッピングをやったりとか、
そういったところが結構盛り上がってるな、図志って思ったタイミングでしたよね。
あれから12年ぐらい経つのか。
経ちましたね。
そういったところがきっかけで交流センターの方にも知り合いができた。
そうですね、それがきっかけで出入りするようになりました。
メディアアートフェスティバルですとか、図志アートフェスティバルみたいなものができ始めた時期でもあり、
あとずっと続いている、それこそホールの開館当初から続いている子どもフェスティバルっていう大きなイベントがあり、
そこにもやっぱり、当時自分大学の写真学科っていうか、カメラがとても上手に使える地元にいるフットワークの軽い学生ということで、
若者としてね。
まあまあ引っ張りだこだったんですね。
引っ張りだこですよ。
そこで毎年のようにホールとか交流センターのイベントに顔を出しているうちに、
友達が老若男女本当にできて、その繋がりで今に至るっていう感じです。
なるほどね。
なんか直接ね、この太郎君といったら、いろいろ一緒にやるっていうのはあんまりなかったけど、
どこ行ってもいるみたいな。
お互いにそうだったっていう。
僕自身も10年以上前、図志の子どもフェスティバルっていうところに、それこそホームページを作るお手伝いとかしていたし、
いろいろな企画で、展示とかもいろいろ僕も参加させてもらったりということで、
僕が地域活動を始めた頃に関わらせてもらったっていうような、地域活動デビューの場でもあったなって思いました。
あの頃は熱かったですもんね。
僕もその時20代とか後半だったし、仕事もちょっと落ち着いてきて、地域のことなんかしたいなって時に、
そういうふうにスカウトされるような感じでね。
図志っぽいですよね。
図志っぽい感じでしたね。
なんか関わり方の余白がすごいあったなって当時思いました。
そんな感じで市民交流センターとの関わりができていったわけなんですけど、
そこで働き始めて、こういった風貌でということで、変わった人だなって自分でも思う感じなんですかね。
そこに対しての自覚とその意識だったり、キャラ作りみたいなことまで考えていたりしますか?
します。
交流センターに入って最初に思ったのがやっぱりその公共施設感というか、公共施設っぽさがやっぱりすごくて、
いたるところに張り紙がしてあって、
全てのフォントが統一されてなかったり、水平垂直ガタガタだったり、
とりあえず置こうみたいな、そういう内装もそうだし、
やっぱ使う人も使わせる人もやっぱり同じ属性の人がやっぱり圧倒的に多いなという印象が当時あったんですね。
だし、やっぱり公共施設だからこそカルチャーの領域横断的なことをしないと、
なんかそれって公共性じゃないじゃないっていうのは当時から思ってて、
というのも本当は美術館博物館で働きたくて、学芸員の勉強してたんです。
そこで海外の事例とか見てるうちに、
公共施設ってめちゃくちゃクリエイティブな場所なんだっていうのがわりと頭の中にインストールされて、
だとしたら図紙でそういうことができるんじゃないかと思って、
あえて少しずつ見た目を小出しにだんだん派手にしていって、
距離感を測りながらどれぐらい自分らしくいてもいいかなみたいなジャブを打ち続けたら、
わりとそれが良かったみたいで、利用者の人も働く中の人もだんだん肩の力が抜けてきて、
いろんな工夫とか洗練させることもそうだし、
逆に公共施設っぽくない人が入ってきたときも、
ちゃんと受け入れられるような風土がやっぱりできてきたのがここ5年ぐらいかなと思ってて、
確実にその蒔いた種が機能してるなという気はしてるし、
何よりも自分が働きやすいですね。
その後一回浪人というか、大学生活は割とバンド活動してて、
世界で受験が終わってたんですよ。
嫌をなく浪人生活に突入しました。
その時やってたバンドもやっぱり生活、
やっぱり高校生か大学生に変わったりとかする中で、
なんとなく空中分解をして亡くなったのもあって、
じゃあどうしようかなとぼんやり考えていたときに、
入った本屋さんにあった日大の芸術学部の赤本っていう本ありますよね。
ありますね。
めちゃくちゃ薄くて、これならいけると思って。
日芸の。
そうそう日芸の赤本。
それで倍率が入りやすかった数字的に写真学科を受けたらぬるっと受かっちゃって、
そこで初めてカメラを手にしました。
もともとは図書のバンドマンだったみたいな。
そうなんですよ。よくいる図書のバンドマンだったんですね。
ただそこで割と人生の転換点でしたね。
美大に行くっていうのは。
なるほど。赤本という薄い本を手にとって。
これならいけると思って、とりあえず実力で入れそうなとこに潜り込んで。
なるほど。やっぱり僕も音楽をやってながら、
カメラ、一眼レフ撮ってた時期もあったし、
そう考えると音楽、映像、写真とかって興味関心移っていきやすいですよね。
そうなんですよ。本当に。
あとはバンドマンにこれ聞くと、僕は聞かれた時いつも困るなって思うので、
あえて聞かないようにしてるんですけど、あえて聞いちゃうんですけど、
どんな音楽やってたんですか?
どんな音楽?これ一番困るやつですよね。
どんな音楽好きかっていうのをバンドマンに聞くのほど困るみたいなね。
どんな音楽?やってたものに関しては、
なんていうのかな、古き良きGS、グループサウンド的なコード進行とかリフを中心に置きつつ、
なるべく聞きやすいポップなバンド音楽をやりたいねって言ってやってました。
ただ中にいたのが普通のパンクの人とかもっとポップの人とかいたんで、
なんとなくその要素が混じり合って優しいミクスチャーみたいな感じではあった気がします、今思うと。
なるほど。ライブ活動とかはこの辺でしてたり?
そう、多分皆様ご存知の北栗浜のリバウルとか、あと富士山の全業Zとか、
あと今はない、館内のリザード、リザードなくなっちゃいましたとか、
あの辺りで普通にブッキングイベントとかやったり出させてもらったりとかしてましたね。
なるほど。横須賀のカボチャ絵とかは?
カボチャはね、やったことないんですよ。
意外と。
先輩がやってたバンド見に行ったぐらいで、そこに接点なかったですね。
僕も年代的には5年、10年近くずれてると思うんですけど、やっぱり北栗浜のリバウルっていうライブハウスがあって、
そこは学生の間でも結構ライブさせてもらうというか、
ブッキングライブじゃなくてね、貸切とかもやっぱりちょっとできるんで。
すごく使いやすいとこでしたよね。
あそこでライブハウスデビューみたいな、音デケェなみたいな。
そこからブッキングライブ、全業のZとかか。
あそこは本当にとても温かい箱だったんで、本当に入り浸ってましたよね。
なんかね、ピンクリボン群とかわかります?
そうそう、わかる。
そうそうそう。
元ね、元っていうか気まぐれのね、一人の伊関っていう男がいますけども、僕の先輩ですけども。
伊関がよくライブやってて、昔ね、コートドールってバンドだったんですけど、
すごい気まぐれマニアしかわかんないですね、これ。
全業Zでライブやってるのをよく見て、僕もなんかライブハウスいいなーって思いながらやってましたね。
本当にいいとこでしたね。
なんか風貌から僕はけっきり、なんかちょっとポストロックというか、UKオルタナティブとか、
シューゲイザーとか、なんかそっち系かなと思ったんですけど、ノイズ系かなって思って。
割とね、それは後になってからですね、大学入ってから割とそのアート寄りの思考にはかかったんですけど、
それまでは本当に、聴いていたのはやっぱりミクスチャーなんだけども、
リンプビズキットとかコーンとか、今日もちょっとコーン意識してるんですけど、
割とそういうの聴いてたんですけど、仲間がいなかったんで、プレイヤーとしてはやってなかったって感じですね。
なるほどなるほど。聴くのは聴いてた。
聴いてました、聴いてました。
でもなんかこうね、自分の音楽に落とし込んでいくとちょっとポップだったり、タッチになっていく。
自分の技量もありましたから、これは再現できねえって。できるようにしていくとそうなるっていう。
あとメンバーとの音楽性みたいなのもありますしっていう。
いやいや、そんな感じで、なんか共通点が多いですね。
そうですね。
日芸の写真学科進学して、そこから大学時代、アートフェスというか、交流センターとの出会いみたいなところもあったというふうに冒頭にお話いただきましたけども、
大学時代とか図書のアート界隈というか、イベントとの出会いみたいなところはどんな感じだったんでしょうか。
やっぱり美術の大学なんで、いろんな学科があるわけですよ。
そこで本当にカルチャーショックを受けたというか、自分がこの辺で一番面白いと思ってる奴らが日本中から集まってくるんですよ。
よく聞くような話だけど。
そうなるといかに自分が足りてないかっていうのを痛切に感じるわけで。
そこでめちゃくちゃ勉強しましたね。
写真の勉強?
写真というか美術ないし、美術って人文系の要素全部入ってるんで。
世界の歴史とか、文化的な文脈とか、それぞれの絵画、音楽、映画、いろんなジャンルの作品をインプットしまくって。
当時、デザイン学科に入り浸ってたんですよ。
デザイン学科の同級生たちが図書でゴニョゴニョやってるっていうのを聞いて、
それでさっき話したプロジェクションマッピングにつながるんですよね。
そこで文脈が合流したというか、
あれ?自分の生まれた街で今通ってる学校の人たちがアート表現やってるって言って、
そこでいろいろ噛み合って、この施設の中でいろんなお仕事させてもらってました。
なんかその時、お仕事っていうのはいわゆるアルバイトみたいな?
そうですね。本当はアルバイトで。
カメラが使えたので記録写真とか撮ってたんですけど、
そうなるとどこでも呼ばれるようになるんですよね。
重宝される。
その関係で市内のアート関係者とか、あとその学校の関係者とかと、いろいろ一緒にいろんなことをやりましたね。
なるほど。その中心として図書のアートフェスティバルとか、
メディアアーツっていうイベントも過去にありましたけど、
そういったところでね、そこに参加されているアーティストの人とか、主催している人とか、
結構図書って田舎だと思ったけど、意外とクリエイティブな人いっぱいいるよねって。
そう、その筋のもの隠れてますよね。
本当にね、日本を代表する何々を作った人とか、
あれを演出した人みたいに本気でいますからね。
そういう意味でも、僕自身の経験と照らし合わせて話を奪っちゃうんですけど、
なんかワクワクしますよね。
本当にこんなこと言っていいか悪いけど、何もない退屈な街と思ってたんだけど、
人に会えば会うほど、何だこのすごい人たちはっていうのがありましたね。
なんかそのポテンシャルを自分が勝手に感じてワクワクしちゃうみたいな、
そういったところはやっぱり地元民としてはあると。
なんかすごく嬉しくなった記憶がありますよね。
わかる。めちゃめちゃわかる。ここ最近で一番わかる。
地元レペゼンしようっていう。
いや、わかるわ。
なんかそういった感じでアルバイトとしてとか、言い方悪いですけど都合のいい男みたいな感じで。
相当都合のいい男としていましたね。
いろいろと重宝される存在になっていったっていうことで、
交流センターのお仕事だったりに関わっていくっていう感じだと思うんですけど。
そこから大学だったりすると、やっぱり4年とかね、あるじゃないですか、期限というか卒業が。
そこからの道筋みたいなところっていうのと、交流センターはどう関わっていたんですか。
いろいろあって、学生の頃から普通にお仕事してたんですよ、個人で。
その流れでふわふわいくのかなと思って就活しなかったんです。
いや、しなくはなかったんですけども。
基本的に内定はなく、本当に就活をしない学校だったので、
割とそれがデフォで、まあまあなんとかなるだろう、あははと思って。
卒業の後もそこで、日本を代表するスラム街のエコダっていう街があるんですよ。
そこでみんなでパーティーかなんかで飲み会してて、
そこでデイスイしてるときに子どもフェスティバルでお世話になった坊、
まあいいや、村川さんっていう図書のすごい人がいるんですけど、これも大丈夫ですよ。
その人から、確か当時交流センターの副館長してて、
だいぶ可愛がってもらってたんで、何かなと思ったら、
4月から人がいないからアルバイトでとりあえず入ってくれないかっていう、
割と中のこと職員より知ってたんで、設備とか使ってたんで、
多分即戦力として呼ばれたんでしょうね。
それでアルバイトとして週のうち2日とかで入ってました。
その後は交流センターで受付のアルバイトをしながら、
引き続きその写真の仕事とかデザインの仕事とかをして過ごしてましたね。
なるほどなるほど。
週2ぐらいで稼働してたってことですか?
7時間高速の週2、3なら平気かなと思って。
当時なんか自分の自己表現とかそういった活動はしていたんですか?
当時は普通にって言ってるあれだけど、
現代美術の領域の写真っていうジャンル、すごくニッチな世界なんですけど、
の界隈で、割と海外とか、海外の展覧会とかグループ展とかに出したり、
あと日本の若手写真家を集めた冊子の表紙になったりとか、
割と普通にアート活動をやってたんですよ。
お金には正直ならなかったんだけども、
文脈がつくというか、そういう本当にオーソドックスなアートの界隈で写真を発表したり、
あと演劇の制作をやったりとか宣伝をやったりとか、
そういう方面に行ってましたね。
あとこれはこの交流センターにもつながる話で、
東北にある公共劇場、うちのホールみたいな劇場を使い放題にして、
学生を呼んで演劇を作る合宿っていう企画を先輩がやってて、
そこにくっついて1年のうち2ヶ月3ヶ月向こうに滞在して、
劇団のクリエイティブのお手伝いをしてました。
いわゆるアーティストインレジデンスの走りみたいなことですよね。
そこで公共施設っていうものがこんなにバックアップしてくれるんだっていうことを思いましたね。
そこ多分大きく関係してる気がします。
そういった形で自分の興味関心だったりと、
週2で働き始めたところがどんどん近づいていくと。
気ままに近づいていくんですよね。
なるほどなるほど。
そういった形でアルバイトっていう形から今の副館長まで、
今に至る感じですね。
おかげさまで図書のOKとかで買い物してると、
声かけられますね。
この風貌だから。
視聴者さんだみたいな。
YouTube見てます。
チャンネル登録ありがとうございます。
これかと思いながら。
会いに行ける。
そうなんですよ。
やっぱり目立ちますよね。
目立ちますね。
それで良かったなとか、面白かったなみたいなことってありますか?
やっぱりこの施設自体がようやく認知されたなっていうのが、
ウェブ関係を始めて良かったし、
その時に広報班っていうのをセンターの中で作って、
その時にスローガンにしたのが観客を作るっていう。
とにかくお店、ドアが閉まってる飲み屋さんって入りにくいじゃないですか。
そんな感じで見える状態、観客っていうのはつまり庭家ファンですよね。
安全圏から見てるだけっていうところから。
見てるだけの人間を作らないとやっぱり、
こういう施設って結構全国的にも潰れてるんで、
うちらもなくなるよねってことから、
そういう意味で観客を作ろうって言って、
YouTubeを作ったり、SNSをオープンしたりしてます。
なるほど。
やっぱりそういう取り組みって、
太郎くんが入る前後、入る前は、
おそらくコロナ禍っていうのもあったけども、
全然なかったと思うんですけど。
なかったですよ。紙と手書きの世界ですからね。
公共施設のザ公共施設、PDFみたいな感じ。
そういう感じだと思うんですけど、
そこに太郎くんがいろいろ改革というか、
いろいろ進めたおかげで、
公共施設なのに意外とできるじゃんっていう風に、
ポテンシャルを感じた方もいるかなと思うんですけど、
それによって活動が広がったなとか、
こういう人と出会えたとか、そういうのあったりしますか。
それはたくさんありますよ。
それこそお堅い話でいくと、
こういうことをしてるうちにやっぱり目立ってたので、
いろんなところから声がかかるようになって、
例えば一切つながりのなかった別の地域の支援センター、
東京都の新宿、埼玉、川崎、あとはもっと遠くもあったな、
との横のつながりができて、そっちに派遣されて講師をしたりとか、
アドバイザーをしたりとかもあるし、
あと地元の、ここって中間支援の施設って言うんですね。
中間支援っていうのはニーズとニーズをつなぎ合わせるための組織である、
寿司の社会教育、社会福祉協議会の会議に呼ばれたり、
あと最近だと、うちは非営利の中間支援なんですけど、
営利型の初公会の青年部に入ることになったり、
そこでもどんどん横のつながりができていますし、
あと喜ばしいことに、寿司高校と寿佑高校が合併して寿司葉山高校になりましたけど、
そこの運営委員会みたいなのになったりとかもしてますし、
あとはあれかな、寿司葉山高校で、
うちが主催で、地域の変な人を先生にして総合の授業をやるっていうのがあったんですけども、
そういうところに派遣されて、
その授業のアーカイブ動画を撮ったりとかしてるうちに、
子供たちが、なんかカメラ持ってる変な人が毎年来るみたいになっちゃったみたいで、
わりと声かけられたりとかするし、
来月から元寿司葉山高校の子がアルバイトとしてセンターに入ってくれるようになったりとか、
本当に広く深くつながりが今までよりもできたから、
それこそ当初感じていた、いつも同じ人だけがいるだけの場所ではなくて、
いろんな人が行き交う場所になりつつあるなっていう実感があります。
なるほどなぁ、やっぱりその話聞いていると、太郎くん自身がロールモデルとなって、
後進の育成じゃないけど背中を見せて、公共施設ってこれでいいんだとか、
っていうふうに見せてるっていうのはすごくいい立ち位置というか、重要なポジションな気がします。
公共施設だからとか、ねばならないではなく、
だけどやるにはどうしたらいいかなっていうのを、
みんなで考えられるようになれればいいかなと思うので、
必要に規制を強調したりとか、見に行ったりとかっていうのもしないし、
要望があればできるようにみんなで知恵を出そうっていうふうにチームの中でもよく話してます。
なるほど、何か向かい風的なことってあったりするんですか?
やっぱり図書の風土じゃないですか、好き勝手やってても、
特に目くずら立てる人はいないし、
いい意味で型にはまらなくてもほっといてくれる。
空気があったからできた気がします。
向かい風というのは結構ハードルだったりとか、障壁的なものっていうのは特に。
たぶんなかったと思います。
もしかしたらあったのかもしれないけど、
ハードルと思って多分迂回したりくぐったりとかしてたんだと思います。
なるほどな、言い方すごい失礼で言うと、
どう扱っていいかわからなかったみたいな感覚かもしれないですね。
前例がないみたいなところですね。
だからあれですよね、怖くないよっていう。
結果として良くなってるよっていうのは、
ほどさらにアピールするようにしてて、
それこそ職員の中でもちょっと、
あの人勝手に動いてるから大丈夫かなってあったかもしれないけど、
結果としてみんなも働きやすくなったと思うし、
使う人からのクレームとかも事実なくなったので、
良かったよねってこういう感じで気楽に、
気楽っていうか、ハッピーじゃないといけないと思うんです。
ハッピーに行こうねっていう風にしたら、
みんなも落ち着いてきたなっていう感じがする。
なるほどね。
なんかガチガチでいなきゃいけないとか、
クレームが怖いとかっていう風に考えがちですけど。
そうなんですよ。
でもそういうところじゃないというか。
ハッピーならクレーム来ませんからね。
そうですね。
あれができないのかとかじゃなくて、
むしろタロー君がやってるとか。
もう既にやってますよ、それみたいな。
確かにな。
そういったところの流れから、
正職員としていろいろ図書を交流センターから変えていったと。
そういった実績が評価されて、副官庁に今。
そう、気づいたら4月から副官庁になってましたけども。
いるといった感じで。
僕は今回収録させてもらうにあたって、
本藤太郎という人間をAIも使ってディープリサーチしたりとかしたんですけども、
いろんな記事とかノートで発信されたりとかも過去にあったりとか。
なんかこうやりたいことをやった結果雰囲気が変わったみたいなキーワードも出てたりしたんですが、
なんかそういったところにピンときたりありますか。
やりたいこと、そうですね。
やりたいことをやったというか、
やりたくないことはやりたくないじゃないですか。
そうですね。
例えば事務的な話で言えば、
手書きで書かれたものを誰かが手でExcelに打ち込むのではなく、
入力フォームを使えばいいじゃないかとか、そういうところなんですよ。
今、ノーコードアプリもいっぱいあるので、
そことGoogleフォームをAPIで連携させればできちゃうのよ。
それでこれだけの人件費、残業代が削除できるっていう技術的なところから、
あと嫌なことは言っていいよっていう空気ですよね。
例えば名札にフルネームと写真があるのって、
今だと結構リスクが高いじゃないですか。
それがたぶん小さなストレスになって積み上がっている空気があったので、
まず自分が役職だけを書いたプラカードを下げて歩き回ってみたんですよ。
そしたら特に何もなかったから、
じゃあこれは変えていきましょうっていう風にしていくとか。
なるほど。歩くDX。
歩くDXだし、あとはやっぱり館内の空気ですよね。
例えば今収録しているギャラリーなんかは、
もう何年もブラインドが全部下がったままで、
みんなから廊下だと思われていたんですけども、
ブラインドを開けるとめちゃくちゃ明るくなるんで、
すごくいいギャラリーなんですよ。
いいモデルの使い方じゃないですか。
なんか最近、
ちょっと面白いセミナーやってるなと思ったんですけど、
生成AIに関するセミナーを、
しかもすごい有名な方をお呼びして、
どんなセミナーだったんですか。
まず前提として、
もう生成AIは使わなきゃならないし、
今、検索するって検索しませんよね。
それぐらい自然にAIを使う時代になると思うんですよ。
しかもうちの主対象である市民活動団体とか、
障害学習の人ってジムで苦しんでいる。
そんなの全部AIに任せればええやんって話をしていたところ、
うちの若手スタッフが別のアルバイト先で、
今、AIの実験をしている桐島ローランドさんっていう、
もう有名人がいて、
その人と繋がることができたんですよ。
最初は彼写真家だから、
私毎年写真のセミナーここでやってるんですけども、
たまにはゲストを変えようかなと思って、
しようかなと思ったら、彼が今AIのことを喋りたいと。
市民の皆さんにこそ聞いてほしいっていう話があったんで、
そこで意気投合して、今回のセミナー満員恩礼でやりました。
6月に開催。
5月の末でしたね。
新しいテクノロジーっていうのは、
自分たちを助けるためにあるはずなので、
全然怖くないんですよ。
だからそれを少しでも伝えることができてよかったなと思いますし、
その第2弾として、
実務者レベルのインストールの仕方から質問の仕方までの相談会を
8月に私がやる予定です。
やっぱりAIだったり、先ほどもGoogleのフォームだったり、
いわゆるGASとかGoogle Apps Scriptとか、
いわゆる自治体のDX化みたいなところに、
真正面からガンガン開拓してるわけですからね。
生成AIと交流センターみたいなところでいうと、
やっぱり可能性は大きいですか?
大きいと思いますよ。
本当にそれこそ残業も減らすべく、
いろんなことをシステム化してますし、
多分聞いてる方想像できるかわからないですけど、
いろんなExcelやWordのデータ、PDF、紙の手書きもあるんですよ。
そういうのを集めて解析して書類にしていくっていう作業も、
やっぱりブルーシットジョブなんですよ。
うちの職員も決してみんながみんなデジタルに詳しいってわけではないけども、
とはいえフォームとかAIは、
そういう人こそ使いやすいツールだと思うので、
まずその恐怖心を拭うところからホツホツ今やってます。
この辺の話が分かる人が交流センターに窓口にいるっていうだけでも、
相当貴重だなと思うんですよ。
それでだから、うちって無料の相談業務っていうのがあるんですよ。
市民活動に関わっていれば何でも打ち返しますよって相談があって、
最近AI関係で雑談に来る人いっぱいいますね。
こんなこと言われたんだけどとか、何て質問したらいいのかとか。
なるほどね。
もう最近はプロンプと考えるっていうよりもね、
自分自身を分かってくれて、
メモリとか貯めてね、それでもう一言でも返してくれるみたいな。
本当に日進月歩どころじゃないですよ。
1週間ぐらいで10年分変わりますよね。
本当にね。
2週間前にAIにこれはできないって言ったことができてるわけだから。
本当そうですよ。
マジですごいですよね。
やっぱりそういったところを含めて、
交流センター自体がどんどん変わっていくわけなんですけど、