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2024-07-14 11:41

#85 なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない

なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない/東畑開人
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絶望カフカの何者かになりたいラジオ、この番組は元アスリートのカフカが、日々の絶望と些細なヒントをお送りするラジオです。
最近の絶望は、夜、暑くて起きた瞬間、です。さて今回はですね、
遠波多海人さんが書かれた、なんでも見つかる夜に心だけが見つからない、という本についてお話していきたいと思います。
臨床心理師である遠波多海人さん、人生には迷子になってしまう時期が誰しもある。そんな時に、
7つの補助線を引いてあげることで、自分の心を客観視して、進むべき道がわかる、
かもしれない、そんな提案がされているわけです。
なんでも見つかるように見える、そんな夜にでも心だけが見つからない、そんな孤独を抱えてしまう瞬間って誰しにもあるじゃないですか。
でもそんな時に、何かこう、一つ補助線を引くことによって、
自分って孤独に見えていたけれども、実はそうではなかったのかもしれない。
だからそんな風に客観視できるようになる、そんな本なのかなというふうに思いました。
そこで今回はですね、一つの補助線を引用して、僕自身を振り返ってこんな風に気づきがあったというお話をしていきたいと思います。
まず本の冒頭はユングの引用がされているんですよね。ユングというのは心相心理学者ですね。
ユングは誰の身にも起こり得るような危機の時期というのを、夜の後悔と呼んだんですね。
後悔っていうのは、船で進んでいく後悔ですね。
そういう時に僕らがまるで荒れた夜の海を小舟で行くようなイメージがあると。
で、なんとなくそういうのってわかりますよね。
夜の後悔って突然始まって、暗闇に一人で放り出されて、
暗中模索せざるを得なくなる。
そんな時に心の補助線があれば、その夜の後悔の少し助けになるかもしれない。
そんな風に戸畑さんは言ってるわけです。
そこで7つ登場するんですけれども、僕は特にいいなぁと思ったのが、
馬とジョッキーという補助線なんですよね。
馬とジョッキーってどういう意味だと思いますか?
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馬っていうのは、異のままにならないというメタファーで、
ジョッキーというのは、その馬を異のままにしたいというメタファーとして描かれているんですよね。
つまりどういうことかっていうと、異のままにならない感情的なもの、それが馬であって、
その感情を異のままにしたいというのがジョッキー、つまり理性として描かれているんですよね。
簡単に言ってしまうと、感情と理性という補助線を引いてあげることによって、分けられるよねっていう風に言ってるわけです。
だから今あなたの心は感情がどうなっているのか、理性がどうなっているのか、そういう分け方ができるのではないか。
そういうことで心を深いところまで見れるのではないか、っていうことが戸畑さんは言ってるわけですよね。
戸畑さんは、現代はジョッキーが頑張らなければいけない時代になっている、という風に言ってます。
つまり理性的であらねばならない時代になっている。
まあなんとなくわかりますよね。例えば多様性の時代なんかって言われたりしますけれども、
やっぱり出る空が打たれるというか、あまり良くない方向にバズってしまうような場面って多々ありますし、
関係各所に配慮した発言をせざるを得ない時代にもなっているという風に思います。
まあなんとかハラとかっていう話もありますよね。モラハラパワハラみたいな。
まあだからといって何を言ってもいいという話ではないんですが、
まあとにかく理性を優位に働かさなければならない時代になっているという風に言っているわけです。
だから馬の声を無視しがちになってしまっている。
なんかそんな風な側面は現代はあるのかなという風に思っています。
それと同時に、馬っていうのは僕はその感情という風に表現したんですけれども、
戸綾さんはですね、僕らが傷ついているのはあくまで馬の方なんだっていう風に言ってるんですよね。
まあ何か自分の尊厳がないがしろにされたり、
何か自分が思うように物事が進まなかったり、あるいは壁にぶつかったりした時に、
やっぱり傷つくのは僕らの馬の方なんですよね。
でジョッキーがそれをなかったことになかったことにして、
必死に馬にまた鞭を叩いて走れ走れと言うと、
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そうやって僕らは現代を生きるしかなくなっているっていう構造がある。
そんな風にも言ってるんですよね。
そして馬が合うっていう言葉があるじゃないですか。
その馬が合うっていうのは実はその馬の弱さが合うということなんだ。
そんな風にも言ってました。
つまりその傷ついている部分だったり、本来あまり強くない馬の部分が人それぞれにやっぱり個性としてあって、
その個性が何かこうするようにマッチするような人同士が馬が合うっていう風に言うんだ。
そんな風に僕には解釈できました。
なんとなくこの感覚ってわかる人多いんじゃないかなと思います。
感情有意なのか理性有意なのかっていう話もありますけども、
そもそもがみんな感情と理性のバランスをとって生きていて、
やっぱりみんな相対的に理性有意になりつつあるけれども、
感情を無視しがちなんじゃないか。
そんなことってあるような気がします。
僕自身を考えても、アスリート時代からずっとジョッキー、ユイで
頑張れ頑張れってムチを叩き続けていたんじゃないかなっていう風に思うんですよね。
馬に対して。
特に僕は心ということもそうなんだけれども、
自分の体に対してムチを打ち続けていたっていう部分は非常にあるなと思っていて、
でもその体をいいのままにしたいとずっとジョッキーは思いながらも、
やっぱ体はいいのままにならないんですよね。
思うように体は動かない。
特に年齢を重ねてくる上で、
なかなかこう自分の思い描くようなパフォーマンスは出せない。
だからそこに乖離があったなっていう風にはずっと思っている。
ジンバ一体が一番いいっていう風に言われたりしますけれども、
まあその理性、ユイ、プラス馬とどんどんかけ離れていってしまったということはあるのかなという風に思っています。
全然余談なんですけれども、
あの好きな食べ物って皆さんありますか?
僕はあのラーメンが好きなんですけど、
あのアスリートなのでやっぱり食事制限とかを多少なりともするわけです。
なので好きな食べ物ってラーメンとかって小麦粉と油とっていうところであんまり体に良くないっていうところで、
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それを抑えて抑えてっていうことをまあいろんな本来好きな食べ物って多分あったんだろうと思うんですけど、
節制しているうちにですね、なんか体に良いものが自分の好きなものだと思い込むようになってくるんですよね。
それってまさに馬の声をもう聞かなくなってしまった結果として、
かなりジョッキーユイの状態になっているってことなのかなって僕自身は思ったりしました。
まあなので今はラーメンを積極的に食べてますけど。
それは言い訳として。
でも食事に関してはなんかだいぶ理性でコントロールしまくってきたっていう部分があるので、
心の声、馬の声を聞くのってだいぶ苦手になってるのかもしれないなーってこの本読んで思ったんですよね。
で話を戻りますけれども、アスリート時代から引退を迎えて、今なおずっとジョッキーユイで馬の声を無視してきた
という気持ち、振り返ってきてそういうふうな気持ちもあるんですよね。
ちょっと頑張りすぎてきたのかもしれないなーっていう。
まあそのおかげでセカンドキャリアというところにおいては、スムーズに移行できたなっていうふうにも思う一方で、
なんかこう馬の声を無視していたかもしれない。なんかそんなふうにも思ったりします。
まあとはいえね、なんかこう、自分探し的なことではなくて、なんというか、あの、息抜きっていうところなのかなって思ったんですよね。
馬の声ばっかり聞いても良くないし、そこはやっぱり理性を持ってジョッキーユイでやっていかなければならないっていうところもあって。
だから時々息抜きをして馬の声を聞いて、まあラーメンを食べるのか、ちょっとわかんないですけど。
皆さんは馬とジョッキー、どちらが今、優位になっているでしょうか。
もしよかったら自分の心を眺めながら、その補助線を引いて考えてみてくれたら嬉しいなというふうに思っています。
というわけで今回は以上になります。最後までお聞きくださりありがとうございました。ではまた。
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