2025-04-12 1:08:49

Vol.346: 佐藤涼介(プロボクサー, ウエストクリフ大学兼任教授)2/4

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「やりたいことと得意なことは必ずしも一致しないんですよねー」とは言いつつも、やりたいことをやらない理由にはならんのだ。視点や方法を変えてみたり、得意なことと絡めたりできないかって考えてみればいいのだ!と思う金曜の板倉です、こんにちは。

「1%の情熱ものがたり」前回に引き続き、87人目のインタビュー。
宮城県利府町出身。小学二年生と中学一年生の頃に父親に同行したタイでの国際ボランティアの体験からか、ずっと海外に出たいという想いがあったそう。そして、高校卒業直後の東日本大震災での体験。全国的に最も被災した地域に住んでいたこと、その時に感じた様々な感情や覚悟が、その後の人生をより輝かせているのかなと想像できます。 18歳から始めたボクシングと並行して、アメリカでMBAプログラムや博士課程を修了。現在はプロボクサーでありながら、大学兼任教授(ビジネススクール)も両立しこなしている特異な存在。自分の心に忠実に。「今は、やりたいと思ったことをすべて全力で行動に移している」やっぱりこれがいわゆる幸せや成功、理想の自分や明るい未来へ近づく最良の方法なんだろうなって改めて思わせてくれました。そして将来はきっときっと何らかの形で、日本の明るい未来を創造し導くリーダーの一人となってくれることでしょう。そんな頼もしさと魅力がたっぷりな涼介さんの情熱ものがたり。

小・中・高校と地元で過ごし、いつか世界に飛び出したいと思ったこと。高校卒業直後の東日本大震災での体験。大学に入って始めたボクシング。そしてビジネスの実践。共感や気づき、学びの多いエピソードとなりました。

投稿 Vol.346: 佐藤涼介(プロボクサー, ウエストクリフ大学兼任教授)2/41%の情熱ものがたり に最初に表示されました。

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1%の情熱物語
海外に住んでいる日本人は、日本人総数のわずかに1%。
この番組では、海外進出や起業を果たしたビジネスオーナーや経営者、
また各業界のプロフェッショナルな方々へ、対談形式でインタビューをしていきます。
日本の未来を背負うグローバルなプロフェッショナルたちの仕事哲学と、
そこに燃える情熱に迫ります。
こんにちは。
こんにちは。
1%の情熱物語第346回目です。
みなさん、お元気でしょうか。
元気でしょうか。
もう4月ですね。
はい。
先月、めめんともりっていう話をどっかでしたんですけど、
みなさん覚えてますかね。
はい、されてましたね。
説明が難しいんだが、人生100年だとしたら、
1年が52週あるので、1列目に52個のドットがあって、
それを塗りつぶしていくと。
それが100列、100行がありますと。
あなたの人生は、今これぐらいですよっていうのが可視化できるっていう。
はい。
で、めめんともりっていうのが、
確かだから、時間は過ぎ去ってみんな死んでいくんだよと。
だから、今をしっかりいきましょうみたいなメッセージが込められたラテン語なんですけど。
はい。
じゃあもう俺買いますって言って買ったわけですよ、この間の収録で。
うんうんうんうん。
早速じゃあ、はい塗りつぶして。
エマさんに見てもらってますけど、
これ自分で塗りつぶしたわけではなく、
だから俺の誕生日を入力して、
で、オーダーすると、
これ塗りつぶされた状態で書いてくるんですよ。
あー、そうなんですね。
これ塗りつぶすのめんどくせえじゃん。
すぎてるところは。
うちの俺47行目とかだからね。
そうだから、塗りつぶされた状態で今ね、今俺手元にあるんですけど。
これ実はね、
じゃあ大体半分ぐらいってことでしょ。
そうそうそう、そうなんですよ。
これね、エマさんに見せてきてますけど、
大体もう半分ぐらい埋まっちゃってる。
半分、100まで生きるとしてももう俺の人生は半分終わってるっていう感じなんですけど。
03:04
これね、なんか俺ちょっとふと思って、
なんか伝えなくてもいい情報かもしれないんだけど、
これオーダーしてからてっきり郵送されてくるもんだと思ってたわけ。
えっついでオーダーしてた。
そうじゃないんですか。
そう思うじゃん。
はい、思います。
なんかこの間、先月だけど約1ヶ月前にオーダーしてて、
で、日本行ったらなんやかんやバタバタしてて、
で、今日も収録があるから、
そういえばあれ来てねえなまだとか思って、
なんで来ねえんだと思って、ちょっとメールをチェックしたら、
オーダーした1時間後ぐらいに、
もうここからダウンロードできます、みたいな感じで。
BFファイルを買ったっていう状態で。
そういうことなんですね。
そういうことねと思って、今自分で印刷したっていう。
これは確かに6ドル安いなと思ったんだけど、
それぐらいするわなって思ったつおちでした。
PDFで配布されてるんですね。
いい商売ですよね。
いい買いですね。
だから来ねえなそういえばと思ったんだけど。
じゃあ飾りたい場合は額とかは自分で用意するっていうことなんですね。
あれはイメージ図だったっていう、商品紹介の。
額が来るとまでは俺は思ってなかったけど、
中の紙は印刷されたものが丸まって送られてくるのかなと思ってたんだけど、
PDFかよと思って。
でもそれどこかに貼るんですか?
いやだからこのレターサイズだからさ、あんまり見栄え的にもよろしくない。
もちろん大きいサイズのやつ頼んだんだけど、
大きいサイズのプリンタブルなファイルの大きさなので、
どっかフェデックスとかキンコスみたいなところにデカめで印刷すればいいんだけど、
それはそれでまた金かかるじゃないですか。
そうですね。
なのでこの場でしゃべったネタで、
もう元取れたかなっていう。
貼るかどうかは分かりません。
分からない。
でもコンセプトは面白いなと思いましたね。
でもやっぱ見えることで違いますか?
でもちょっとこれを見るとさ、もう俺半分終わってんじゃんって思っちゃうよね。
絵マスターはまだだから3分の1ぐらいなんだろうな。
毎週塗りつぶすのもめんどくさいですね。
06:01
あれ?届いたばっかりじゃないんですか?
たぶんやらないと思う。やるかな?ちょっとやってみるかじゃあ。
ちょっとどっかそこら辺に貼ってやってみようかなと。
何か心境の変化があればやり続けて。
そうですね。
はい、教えてください。
はい、こんなこんなですね。
ということで毎回1人の方のインタビュー4回に分けてお届けしているこの1%の情熱物語。
今回はプロボクサーでウエストクリフ大学兼任教授、
富士オンリーワン財団、CFO、一般社団法人チーム大川未来を開くネットワーク理事の佐藤亮介さんにお話を伺いました。
先週までが亮介さんのやってる活動内容、ボクシングの練習、どんな感じでやってんのとかね。
大学の話とかをしていただいたんですけど、
今回が老いたち的な話で、宮城県でお生まれで、
まさに東日本大震災の被害が一番大きかったエリアでお生まれになって、
その時の体験のお話だったりとか、
それを踏まえて、やっぱりね、そういう体験をして世の中、世界を見て、未来を見てるっていう目線っていうかね、
そういうのがどうやって養われてきたのかなっていうのを聞いてる感じですかね。
それでは皆さんもお聞きください。
はい、じゃあちょっと今から過去のセクションに、新しいセクション、過去のお話を伺っていきたいんですけど、
まずお生まれが、先週にもお話ししたように宮城県の理風町であってますか?
そうです。理風町というところです。
出身の仙台市の近郊というか、もうちょっと近く?
そうですね。もう本当に隣なんですけど、仙台市って本当にでかいんですよ。
なので、それこそ山奥で山形との県坂山で仙台なので、
なるほど。
そこの隣、まあその太平洋側ですね、の隣町っていう感じですね。
どんな子供でしたか?
私が子供の時は、仙台市じゃない、理風町は本当に私が子供の時はすごく田舎だったんですけど、
今は東北で一番でかいイオンモールができたりとか、
あとはグランディ21っていう国体であったりとか、
この間のオリンピックのサッカーの予選をやるようなどでかい運動競技場ができたりとか。
09:05
ということは交通の便も悪くないし、広い場所もあるしみたいな、そういう感じなんですかね。
そうですね。仙台からも30分くらいだし、
そういうかなりアクセスのいいベッドタウン的なところで。
なので私の子供の時は全部田んぼだったんですけども、
なるほど。
それこそコンビニが1軒しかないような感じで、田んぼだったんですけど、
なので数学の時は大体ザリ金を取ろうとして田んぼに落ちるみたいな、
そういう感じの町だったんですけど。
じゃあどんどんどんどん進化していってるわけですね。
そうですね。中学校の時にできたミニストップが本当に大人気で、
かまっちゃってみたいな。
かまっちゃって、そういう感じの場所です。
ちなみに北のほうに行くと石巻があり、
さらに北には気仙沼、東日本大震災の被害が最も大きかったエリアになるところですね。
はい。
じゃあ小学高校、運動もやってらっしゃったんですかね。
そうですね。高校まで野球のほうやってました。
おお素晴らしい。夢は何でしたか、その頃の。
その頃の夢は、その頃の夢はとりあえず日本から出ることですね。
え、そうなんだ。
それこそ田舎だったので、かなり外に出たいなって欲が強かったですね。
それこそ高校も地元の高校というか、一番、小学校と中学校よりも高校のほうが近かったんでしょうね、家より。
あ、そうなんですね。
それすごく面白いんですけど。
なのでかなり世界が狭くて、小中高との生活線がすごく狭かったので、かなり外に出たい欲がありましたね。
でもそれは、なんだろう、仙台に行こうとか東京に行こうとかよりも、もう海外に行きたいっていうのがあったんですね。
ありましたね。もう海外に行きたいっていうのが。
それ何かに影響されてたとかあるんですか。
そうですね。いろんな、たぶんテレビとか見てたのはあるんですけど、
あと幼少期に、小学校2年生の時に親父に連れられて、タイに連れられてたのとか、
タイにボランティアで連れて行かれたんですけど、小学校2年生が何ができるんだと思いながら行ったんですけど。
ボランティアに連れて行かれた。
そうですね。連れて行かれて、ノーという選択肢はなかったんですけど。
でも連れて行かれたところが面白いんですけど、
ミャンマートの国境あたりのめちゃめちゃ北の田舎の山岳地帯で、
そこに行って、後から聞かせられたんですけど、あそこは人身売買の保護施設に行ったんだと。
でも僕、8歳なんですよ、その時。
なるほど。
いや、俺が対象じゃないかと思って。
そうだよね。危ないよね、それ。
それは国境際でそのようなことが行われていて、そこで保護されている施設があるってことですか。
12:05
そうですね。タイの北の方ですね、山岳の方で、そういう保護施設に行って、そこに1週間くらいいましたからね。
お父様は具体的にどういうボランティアをするんですかね。
父親は本当にいろんなボランティアをやってたから。
それは国際交流ボランティアっていう立ち位置に入ってくると思うんですけど、
あとそれこそボランティアでいいんだけど、先代YMCAっていうのがありまして、そこのうちの親父が繋がりがあって、そこのグループと一緒に行って、
僕はタイにもYMCAがあって、そこと交流をしてそのままいろんなことをやってた。
じゃあ普通にその保護施設のサポートというか、普通の生活の中でできることをやるみたいな感じなんですか。
そうですね、そうだったと思います。8歳だったもんでそんな感じです。
そりゃそうですよね。
でもその時の何か思い出が、タイ外に目を向けたってことですか。
そうですね、その後正直13歳中学1年生の時でももう一回今度は親父抜きで行ってるんですよ、タイに。
で今度はその時に東地スマタラ沖地震の津波がありまして、その時はそれの復興支援のボランティアに中学1年生が行きまして、
そこの時は家を頑張って建ててきましたね。
面白いですね。向こうの家って結構簡単にそういうのないんで、普通に本当にブロックとコンクリート頑張って建ててみたいな。
そういうレベルの家だったんで。
そうですね、ブロック並べてもうやりましたね。
そこが海外志向になったきっかけでもあるってことですか。
そうですね、あると思います。かなり経験はでかいですね。
なるほど。
でも高校まで野球やってたってことは復興支援を目指した普通の球児だったと思うんですけど、そこからその後海外行ってやろうみたいなどういう流れだったんですか。
正直野球は全力でやってたんですけど、途中辺りから野球やっても仕方ないなと思ってきてて。
あと野球だけになるのが本当に嫌で、当時高校野球やってる人なんて正直勉強なんかしないじゃないですか。
そうですね、野球だけでやってますよね。
でもそれが嫌で、このままだから大学に行って野球やる選択肢もあったんですけど、これだけやってたらもう中身のない人間になるなと思って。
大学に行くんですけど、大学行って勉強しましてかなり。もちろん宮城の田舎で英語なんかできるわけもなく。
かなり勉強して、とりあえずアメリカに行きたかったもんです。海外、アメリカに行きたかったもんですから。
15:02
勉強してどうにか留学プログラムに入ってみたいなところで、そこでその気合を出して勉強に勤しみ。
アメリカに行くのも簡単じゃなかったので、お金もかかるし、実力も必要なので、そういった意味ではかなりやりましたね。
東京の大学に行かれて、その間に留学を狙ってたという感じですか?
そうですね、1年とかセメスターの留学、国会入学が、どこの大学にもあると思うんですけど、それを狙ってやって。
無事に留学できたんですか?
留学しました、1年間。
どちらのほうに?
それはオレゴン州ですね。オレゴン州のほうに行きまして、そこに1年間いました。
念願のアメリカ。
このLAとはちょっと違う部分もあると思うんですけど、どんな町だったんですか?
ポートランドっていう一番でかい町から1時間くらいなので、そこも結構田舎でしたからね。
近郊ってことですね、首都近郊みたいな。
そうですね、首都近郊っていう感じで。
多分ね、今だからわかるんですけど、当時はわかってなかったですけど、やっぱり国会入学で行ったところがすごくお金持ちが行くプライベートの私立大学だったので、
そうなんですね。
それは交流があったっていう大学とね。
はいはいはい。
だからもう圧倒的に人種であったりとか、オレゴン州そのまんまそうなんでしょうけど、
やっぱり白人比率がかなり高くて、白人比率と、あとはアジア人ですかね、ハワイアンが多かったから意外と。
へー。
そう、なのでそれこそだから黒人の方とかほぼいなかったですね、1人いるかいないかくらい大学に。
そういった意味ではかなり優遇された大学にいたんだなっていうふうに当時は思いました。
なるほど、まあそれはそれでレアな経験というか。
そうですね、なかなか、はい。
じゃあそこに1年いて、その後どんな流れなんでしたっけ。
その後そうですね、その後日本に帰って、これはアメリカの大学というかアメリカ最高だわと私思いまして。
はい。
まあでも行って英語なんか全然できないなっていうのを痛感したので、
あのこれ勢いでどうにか気合でいけんだろうと思ったらそんなこともなかったので、
で日本に帰って、でもう一回ちょっと勉強し直しまして。
なるほど。
でバチラーというかねバチラー普通の大学の学位を日本で終わらせてから大学院で
あのウエストバージニア州にあるワンシャル大学というところにMBAを取りに来ました。
それもまたすっごい田舎ですけどね。
ウエストバージニア州。
めちゃめちゃ田舎でしたね。
なるほど。そこはちなみに人種的には?
全米で一番白人比率が高い州です。
18:02
あ、そうなんだ。
そう、90何パーセントって言ったかな。
すごいな、なんかそれはそれで。
そうですね。もうすごくいい思い出で楽しかったんですけど。
それこそ当時できたルームメイトとかには結婚式のベストマンとかで呼ばれるし、
まあみんな楽しいんですけど。
この間もお姉ちゃんの結婚式行ってきました、この間は。
だからかなり今でも好意があります。
素晴らしいですね、そういう時間を一緒に過ごせて。
その後にMBAか。
そうですね、そこでMBAです。
そこでMBAなんですね。
MBAでそれで行って、その後カルフォルニアに移ってから今度はドクターですね。
博士号ですね。
博士号の方を取りました。
結構その間に勉強してたメジャーっていうのは、
もうそれはビジネスっていうのがずっと痛感してる感じなんですか?
そうですね、ビジネスの中でももういろいろ。
本当にMBAとかってすごくジャンルが正直ふわっとしてるというか、
全部広く浅くやるんですよ。
なのでどっちかというと経営者側とかマネジメントの人用なので、
会計の知識もファイナンスの知識もマーケティングの知識も
全部必要ない人たちがやるので、
そういった意味ではかなりふわっと広くやった感じですかね。
なるほど。
今ざっと時系列でお話を伺いましたけど、
ちょっと2つ今振り返って伺いたいのがあって、
1つは高校生の時に経験した東日本大震災。
これはちょっとお話いただいてもいいですか。
そうですね、わかりました。
2011年ですね、3月11日なので、卒業式は3月1日だったので、
卒業して10日後なんですよね、私が経験したのは。
ちょうど3年生だったんですね。
そうですね、卒業して10日後なんで、高校生でも大学生でもないタイミングで。
19歳。
18か。
18でまだ18か。
なので2時46分だったと思うんですけど、
私寝てました。学校もなかったんで。
それ普通は寝てるわね。
飛び起きていきましたね。
でも先週ね、ちらっとお話いただいたけど、そこは微妙なところで、
まあ被害はあるが、助けに行ける直撃ってわけではなかったってことですか。
そうですね、私の町はかなり被害は少なかったんですけど、
もちろん電気も通らないし水も出ないし、店も開いてないっていう形なんですけど、
でも家もあるし家族も死んでないっていうのが一番良かったので、
それこそ父親がボランティアの方にかなり精通をしていまして、
そういった意味合いがあって、
21:01
それこそ被災地のボランティアもかなり前の新潟の中越地震の時にいないなと思ってたら、
1週間くらい行ってたらしく。
ボランティアのお父さんが。
そう、ボランティアで。
そういうタイプの人なので。
プロボランティアですね。
そうですね。
なので18だったので私もかなり一緒に行って、いろんなところでやりましたね。
それこそ最初はできることは限られてるんですけど、
できることにつけて。
うちの親父は子どもたちの心理カウンセラーを基本的にはやっているんです。
避難所における子どもたちのメンタルケアみたいなことをやってましたね。
なんかトラウマみたいになっちゃってる。
ならないようにというか。
そうですね。
フラッシュバックとかそういうのもPTSDとかそこら辺のジャンルになってくると思うんですけど、
基本的に家を亡くした人とか家族を亡くした人は基本的に大人だろうが子どもだろうが余裕がないじゃないですか。
そりゃそうですよ。
なので子どもが基本的には遊べないし走り回るとかはできないので、
そういう子たちをちょっと隔離されたっていうか違う場所に連れて行って、
ここだったら好きに遊んでいいから誰も怒らないからいいよ遊んで。
なるほどね。
っていうのが始まったりとかいろんなアクティビティをやったりとかメンタルケアのアクティビティをちょっとやったりとか、
あとは朝めちゃめちゃスーパーに並んでるわけですよ。
1人合品とかそういう感じのとこに行ってお菓子合品買って、
持って行って子どもたちに甘いもの食えやって食べさせるとか。
避難所なんでご飯も決まってるし甘いものがないんですよ。
避難所がなかったんで。
そういった意味で甘いもの買ってどうにか行って子どもたちに甘いものあげて、
いっぱい遊んでまた明日ねっていうのを大体私1ヶ月くらいやってましたからね。
うん。
はい。
涼介さん自身がそういうことされてて、
でもその時にこうなんか感じたものとかありましたか?
18歳の時にだったので、
でも子どもたちはね、
でも大人が余裕がないのを子どもたちはちょっと感じるんですよね圧倒的に。
やっぱり意外と空気はちゃんと読めるので、分かるので。
はい。
なんでとりあえずだからもう、自分たちもストレスになるんですけど、
走るのをやめるし喋るのをやめるしね。
何が食べたいとかって普通は言うんだけど、
まあもちろん言えないじゃないですか。
うん。
遠慮してね。
そうそうそう。
目の前で親が泣き崩れてるようなのを見てるので、
余計にそういう子ども、
まあ皆さん言うの私たちのキーワード、
子どもが子どもではいられないような状況がすごく続いてたので、
なるほど。
はい、じゃあこっちに来て、
今日のこの時間だけは子どもになっていいよ、
っていう話をしたりとか、
甘えていいし、わがまま言っていいし、
走り回って騒いでもいいよ、
っていう風にしてましたね。
そうやってストレスマネジメントをしてましたね、その時。
そうか。
素晴らしい活動ね。
はい。
24:00
で、その時の、また話が繋がるんですけど、
その時の、一応子どもの一人ですね、
今の私がやってる一般社のアフォージンのチーム大川の、
代表を務めているのが、その時に関わった小学校、
5年生の子どもが今代表をやってます。
えー、そうなんだ。
そういうことか。
そうなんです。
その子は津波に飲まれて生き残った男の子なので、
えー。
だからね、そういった意味では辛い過去があるし、
石巻の大川小学校で同級生が皆さん亡くなっているので、
かなりそういった意味では辛い過去があるんですけども、
それはそれとして、今25歳なので彼も、
なのでこれからお前も大人だから一緒にやろうかって言って、
今は仲間として、当時は子どもと大人でしたけど、
今は同じ大人なので一緒にやろうか。
そうなんですか。
素敵ですね。
そういう絆みたいなものがね、ずっと続いているってことは。
そうですね、嬉しい。嬉しい関係ですね。
ありがとうございます。
じゃあもう一個ね、僕気になってたのが、
そのボクシングの話なんですけど、
それはいつ頃から始められてるんですか?
ボクシングは18の時に始めました。
あ、じゃあちょうどその頃だ。
そうですね、大学に入ってから始めました。
まあそうですよね、高校だけやってたんですもんね、高校までは。
そうですね。
それなんかずっとやりたかったんですか?
そうですね、やりたかったのはあったんですよ。
なぜかというと正直、団体競技はやっぱり好きじゃなかったんでしょうね、私。
ああ、そうなんだ。
協調性がないって言ったらそうなのかもしれないけど、
でも基本的に自分が練習したからって、野球とかって正直、
大谷選手もそうですけど、勝てるわけじゃないじゃないですか。
はいはい、確かに。
一人だけの力じゃ勝てないですもんね。
そうですね。
あとはその団体、人数が集まると後やっぱり、
政治的な動きっていうか何て言うんですか、
その権力みたいな、いろいろあるじゃないですか。
そういうのがもう本当に私は嫌いで。
で、そういうのがないボクシングだったら自分でやって、
自分で練習した分だけ結果がついてくるような競技をちょっと選ぼうかなと。
なるほどね。
一番わかりやすい質問はすっぱ中で殴り合うだけですもんね。
そうなんですよ。
あれって勝敗がすごくしっかりしてるので、
野球とかって正直点数でやると思うんですけど、
ボクシングが負けた方は地べたに寝てるっていう。
地べたにね。
男としては絶対に負けたくない部類に入っていると思うんですけど。
しかも勝負がね、結構一瞬で決まりますもんね。
そうですね。
本当に面白いですよ。
時間がかなりスローに感じる瞬間とかかなり面白いです。
そのリングの上でってことですか。
そうですね。戦ってる時は意外とその、
27:02
見てる方は一瞬なんでしょうけど、こっちからすると結構長いっていう。
なるほどね。
感覚とするとね。そういう瞬間はかなりありますよね。
そうですよね。きっと3分?1ラウンド3分?
はい。
でもあれやって、やり続けてんのも本当に、
早くゴングなれって思う時とかありそうですもんね。
そうですね。特に。
一旦立て直したいみたいな。
そうですね。特に烈勢の時は本当にその通り。
そうですよね。
本当にその通り。
でもそれはじゃあ東京の大学に行かれて、
一人暮らしを始めて、それと同時に始めたって感じなんですか。
そうです、はい。
同時に近くのジムを見つけて、よし行こうかということで。
でも結構プロボクサーになるにしては遅いですよね。
おそらく始めるのは。
まあ、いや意外とね。
そんなもんなんですか。
日本だと意外とボクシングを中学校とか高校からやる機会が少ないんですよね、意外と。
関東圏だとちょっとあるんですけど、要は高校にボクシング部があったりとか。
親がやってるとかジムがあるとかそういうところはあってことですね。
そうですね。あと試合とかジムとかの数がちょっと日本は特に地方は少ないので。
確かにね。
アメリカだと小学生とかからやって、ジュニアのトーナメントとかいっぱいあるので。
子供の時からやってるんですけど、日本はかなり少ないですね。
だから18から始める人とかは別にそんなに少なくはないです。
そうなんですね。
でももちろん子供の時からやってたら強いんですけどね。
そんな方がいいんですけど。
まあね。
格闘会でもやっぱりエリート的な人はいますしね。
エーサー教育を受けてきたみたいなね。
そうですね。
アメリカはでもいろんなスポーツやるじゃないですか。
高校でも。
それこそアーロン・ジャッジなんてアメフトやってましたもんね。
そう考えるといろんなスポーツやるのはいいのかなっていうふうに思ったりとかするんですけど。
それってでもやっぱそっちの方が強くなれるっていうか、
適性を見つけられるっていう良さもあると思いますけど、
こういう体の使い方したらあっちでも活かせるなみたいなことに気づけるってことなんですかね。
私も正直そうだと思うよ。
筋肉の発達とか。
結構私が好きな言葉が感覚統合か。
感覚統合っていう言葉が好きで。
結局体をどう自分が思った通りに動かすか。
ところが本当に重要だと思ってて。
脳と脳の神経とこの筋肉の動きが一致するかどうかってことですか。
そうですね。
あと自分が想像してる動きを本当にやってるかどうか。
だいたいボクシングとかってみんな手を上げてると、
ここら辺にあると顎のぐらいにあると思ってるけど意外と低かったりするんですよ。
なるほどね。
じゃあそれできてないからみたいな。
30:01
要はそこのギャップが出るとかなり問題になってくるんですよね。
ちゃんとガードしてるつもりなのにされてなかったとか。
そうですね。野球のスイングでもグリップの位置が、
自分はここら辺の高さにあると思っても本当は低かったとか。
そうなってくるとやっぱり合わないんですよね。
なるほどね。
そういうのはかなり重要かな。
いろんなスポーツやるとそういう再現性だったりとか
感覚統合がうまくいくのかなと思ってます。
やっぱでもその辺はこうなんだろうな。
理論的に考えられる頭脳も持ってらっしゃるわけですもんね。
逆に子供の時からやってる人は天才肌が多いんで、
教えるのはあんまりうまくなかったり説明ができないんですけど、
私は遅くからやってるので、そういった意味では
理論は頭で頑張って考えてやるようにしてますね。
客観的にも見れるみたいなのがあるかもしれないですね。
そうですね。
本当なんかマルチタレントなんですよね。
なんなんだろうって思っちゃうくらい素敵です。
はい。
いやーでも結構、経歴のほうに戻りますけど、
2023年に博士号を取得し、そのまんまそこで仕事に就くっていうことなんですけど、
ステータス的にはどういう感じなんですか?
プロフェッサービザっていうかティーチングビザですね。今は私的に。
それって何ビザになるんですか?
それは今私持ってるJ1ってやつです。
あーじゃあ1年半とか?
いやなんか私が今持ってるのは3年ですね。
あ、じゃあそれはまた違う、種類によって違うの?
なんか種類がいくつかあるみたいで、正直。
J1は一応学生ビザのうちに入るらしいんですけど、
研修ビザと言われますよね。
そうですね。
で、そこで中でも論文を書く人のジャンルがあったりとか、
教える人とかあったりとか、なんかいろいろジャンルがあるみたいで、
私はその中でプロフェッサーの部類に入るみたいで。
3年頂きました、とりあえず。
それはもうそういう仕事したいなと思ってたんですか?
なるようになるかなと思ってて、正直。
私そんなに正直アメリカに固執してるわけじゃなくて、
別に彼らと一緒に日本に帰ってもやることいっぱいあるので。
なんでアメリカで何しようかなって言ったら、
アメリカはやっぱり高等教育が日本よりちょっとレベルが高いので、
そういった意味では。
アメリカにいる間はボクシングと高等教育大学で
論文書いてる教えたりしたなっていうふうに思ってましたね。
それができてるので、今のところアメリカにいるっていう感じですかね。
なるほどね。
会社を立ち上げてたっていう話がプロフィールにチラッとあったんですけど、
それはチラッと伺ってもいいですか?
そうですね。
白紙家庭をやってる時にちょっと実践したいなっていう欲が湧いてきまして。
33:04
自分でやってみたいってことですね。
そうですね。やっていきたいなという欲が湧いてきたので、
日本に帰ってちょっと会社を作ってみようと。
作ってみました。
どんな会社ですか?
それは不動産管理的な会社なんですけど、
ここの不動産管理するからちょっと一定収入を入れてくださいっていう感じで。
月々いくらいくらで管理しますと。
っていうのをちょっと初めて見て。
あと親戚がなんか不動産を持ってたりとかするんで、
じゃあそこの管理やるよみたいな。
そういう感じで、すごく小っちゃいんですけど、
で、私一人しかやってないんで。
あとたまに誰か頼んでバイトでやるって言ったりとか。
うまくやってるんですけど、実際に実践をちょっとしてみたいなと思ってて。
とりあえず会社作ってこっちから動かしてみるみたいなのを。
なるほど。
今も継続してやってらっしゃるわけですね。
はい、今もやってます。
ちっちゃく始めて自分のできる範囲で。
アメリカにいるので。
日本に帰ったらもっとでかくなるんでしょうけど。
もっと力が注げるんでしょうけど。
でもやりたいことがいっぱいありすぎて。
そうですね。
でも教えてる側からしたらね、実践しないとちょっと説得力もないし、
実践やってみないといけないんで。
でもアメリカでそれやっても面白そうですよね、不動産とか。
そうですね。
そう、来年はちょっともう1個会社作ろうと思ってて。
今年はファンデーション。
今年はファンデーションを作ったので、
来年はちょっと自分のフォープロフィットの利益が出るような会社をやりたいと思ってます。
なるほど。
そっかそっか、そのファンデーションはもう登記されたってことですね。
そうですね、はい。
いやーめちゃくちゃ面白そうやな、いろいろと。
いやーもうやりすぎて。
忙しいですよね、でもね。
もうなんか、そうですね、時間の制約もありますけど、
あと頭の中をちょっとこううまく切り替えるのが一番。
結構嬉しいんですよ。
論文書いた後にボクシングでスパーリングやるとか言うと、
なかなか切り替えが難しいですよね。
ねーたまに脳振動とか起こしそうだし、あれだしたら。
そうですね。
気をつけてくださいね、脳はね、ちょっと打撃くらうとあれですから。
気をつけるも何もあれだけど。
まだ綺麗な顔してるんで、あのディフェンスは頑張っていこうかなと。
そうですね。
はい。
ありがとうございます。
じゃあちょっとそろそろ次のセクションに入っていこうかなと思います。
はい。
お父さんとタイに行ったことがきっかけで、世界がすごく広がったんですね。
ねーお父さんがボランティアをやっていたっていう、なんて言うんでしょうね。
36:05
小学2年生ででもボランティアって言われても、あまりピンプルか微妙な年代だよね。
あまり、私は分かってなかったかもしれないですね、小学校2年生だと。
ねー、日本の小学校だと、赤い羽毛巾とかああいう。
あれもあまりよく分からず羽だけつけてた記憶がランドセルに。
なんとなくね。
意味は、子供の頃は。
ピンとはきってなかったよね、解像度低かったよね。
とはいえでも現地に行ってさ、いろいろそういう異文化とか食べ物にしたって、こんな服着てんだとかね、それだけでも大きいよね、きっと。
そうですよね。日本じゃないところに行くっていうだけで、刺激がたくさんありますよね。
特にタイといっても国境際の保護施設って言ってたけど。
そうですね。自分もさらわれちゃうんじゃないかみたいな話もありましたよね。
なかなかあれだと思うよね。不便が多いところだとは思うんですけどね。
ああ、やっぱさ、そういう体験がさ、生きる覚悟を決めるというかさ、ね。
その後ご自身でも行かれたんですよね、中学になって。
そうね。
ご自身でも行かれて、アメリカにも行ってて。
高校生のときに東日本大震災を体験してる。まあ高校卒業直後か。
ねえ、そのなんか一つ一つが何かの要素になって今後を決めていくんだろうなと、なんかしみじみ思っちゃいましたけども。
野球をあとずっとやってたってのも、そっから大学生でいきなりボクシングに転校し、それでプロになるってのもすごいけどね。
全く違う、全く違うそうですね。全然違うフィールドですよね。
そうだよね。まあ、でもアメリカ、まあそういう話も出たけど、アメリカの学校だといろんなスポーツやらせるって話もあったけども、
でもボクもでもサッカーもやってたし、野球もやってたし、水泳もやってたし、いろいろやってたけど、
まあ多分いろいろやった方がいいんだろうなとは思いますよね。
そうですね、いろんな。それこそチームワークとかもやり方違いますしね、そのスポーツによって。
39:08
まあ涼介さんもチームマネジメントっていうか、団体行動的なものが、団体競技が好きじゃなかったって話をしてました。
っておっしゃってましたね。
全然違うよね、やっぱほんとそれとボクシングの、それこそ孤独な戦いだと思うけどさ、マラソンもそうだけど、
自分との戦いでしかないもんね。まあでしかないというか、もちろん相手があってのもんだけど。
みつさんは団体競技と、ソロでやるのと、どっちが合ってますか?合ってるというか好きだったというか。
好きだったのは、でも野球ボクも小中高やってたんで、野球の仲間ができるっていうのはやっぱ友達ができたっていうのはね、大きかったから。
だけど今サーフィンはほとんど一人なんですよね。友達と行ったとしても一人になっちゃうから。
そうですね、個別に。
そうそうそう、それはそれでやっぱり、うちに入るじゃないけど、自分との戦いというか、成長も多分動画撮らない限り自分がどう動いてるかっていうのはあんま見えないんだけど、
なんか今のやつだとこうやって動くべきだったなとか考えたりするんだけど、なんか全然違うもんだけどどっちも好きですね。
今さんは?
確かに。私もバスケットボールやってたんですけど、中高はその何部の人みたいな、何部所属の何々さんみたいな、何でしょう、所属感が安心感があったかもしれないです。
バスケ部の人みたいな。で、いられるみたいな。
一人じゃないみたいな。
今はそれ、何だろう、ヨガとかゴルフとか、その時は一人で、なんか静かにやれるから、みんなといるのも好きなんですけど、そういう時間も落ち着いていられるからいいかなと。
それは作ってます、時間を。
ゴルフもね、自分との戦いというよりかは自分との対話っていうかね、いかに平常心を保つとか、そういうところだもんね、面白い。
イライラしちゃってさ、どんどんこう、悪循環にハマってる。
そうそう。
ありそうだもんな。
面白いね。スポーツって本当この最近、もうなんつうんだろうな、ライブで楽しめるものって、インターネットが発達しすぎてさ、地球の裏側で起こっているものは今、反対側でも見れるっていう状況なんだが、スポーツだけは何が起こるかわかんないから、ライブ感があって面白いみたいな話があるけども、
42:18
それだけじゃなくて、いろんな意味でスポーツって生産性自体はないんだけどさ、エンタメとしてというか、生きる上でめちゃくちゃ大事だよなって思います。
確かに。学生のときスポーツやっててよかったなと、振り返って思いますね。
そうだね。スポーツ団銀になっちゃいましたけど。
まああとあれちょっと俺東北に行ったことがないんですけど、
はい。
絵馬さんありますか?東北の。
あ、そうですね。私もボランティアに行ったことがあります。
あ、その東日本?
はい。宮城と岩手県。
そっかそっか。それは結構何?直後に?
えっと最初は2012年とかに行きましたかね。
瓦礫とかは撤去されてたんですけど、農家の方でご夫婦でされてるから、
でも人でもいないし、雪が降っちゃって作業ができないってことで、雪かきをしてほしいってことで、ひたすら雪かきを。
私大学生だったので、ご手伝いしてました。
どうだった?その時の体験は。
その時は、あとまあそれこそその被害にあった小学校とかも、
えっとボランティアプログラム、その学生が参加できるって言ったので、そこも見せてもらって、
本当にちょっと見るのが辛いぐらい、教室がめちゃめちゃになっていた現場とかを見たので、
こんな高さまで来るんだっていうのを目の当たりにして、本当に驚きました。
津波っていうの見たことがないんですけど、来たところを一年後ですけど見て、恐ろしいなっていうのを改めて思いました。
恐ろしいと思います。
その学校は屋上にみんないて助かった。屋上までたどり着いて、たどり着いたけど、学校の中はめちゃめちゃになっちゃったっていうところでした。
でも屋上のギリギリまで水が来てたみたいな。
怖いよね、本当に。
45:00
話にも出てきますけど、大川小学校っていうのはまだそのまま、中がそのままってことはないかもしれないけど、
当時の爪痕が残されたまま、見れる状態であるっていうことだったんで。
結構多いですね。
学校とか被害残っているまま、皆さんが見れるようにしてるところとか、他にもあるみたいですね。
行ってみたいなと思いますが。
ここだけでもなくね、その後の野党もあったし、いろいろね、また地震が来るとかって話もあるし、なんかもう怖いなと思いつつも、できることをやらなきゃっていう。
岩手で大船渡市、火災もあって。
火災ね。
地震がダブルパンチだったみたいな。
そう、燃えててさ、日本でもこんなに燃えるんだと思って、ちょっとびっくりしちゃったけど。
本当に災害は、いろんな技術が発展しているのに、防げないような、自然はやっぱり。
まあそれは人間ごときでは抑え込めないとは思いますよ。
抑えられないんだなっていう。
一緒に生きていくしかないと思うんですけど。
感じますね。
はい、そんなこんなで。
次回がなので、そういうことを体験してきた丸大介さんが、今ね、おそらく恩返しじゃないですけど、社会に対して何か貢献したいっていうような思いもあり、
いろいろね、仕事に落ち込んでらっしゃる仕事以外にもね、いろいろ勢力的に動いている。
その哲学的なところを聞いたりしている感じですかね。
あと政治にも興味ありってことで、ちょっとその辺の話にも入っていく感じですかね。
さらに深掘りしていくってことですかね。
はい。
次回もぜひお聞きください。
素敵なお話ありがとうございました。
ありがとうございます。
リアルアメリカ情報。
よっ。
このコーナーでは最新のビジネス生活情報をアメリカロサンゼルスからお届けしていきます。
お願いします。
今回は、はい、ドジャース関連のお話をしていきたいと思います。
48:06
東京でも試合があったみたいですけども。
ちなみに今日収録しているのは3月21日なんで、日本でやったのは何日だっけあれ。
ちょっと前ですよね。
2、3日前ですかね。
すごく盛り上がって。
めちゃめちゃ盛り上がってたっぽいですよね。
すごいですよね。
日本勢ね。
鈴木聖弥選手はちょっと打てなかったけども。
大谷さんがもう天井スレスレ、天井当たったぐらいの。
当たったみたいな話はなんかしましたね。
見ましたよね。
本当当たってたみたいな。
ギリギリだと思いきや、本当は全然オーバーしてたみたいな話でしたね。
すごいですけど、新潟県南大沼市の手造会社がドジャースとパートナーシップ契約を結んで、
ハッカイさんがドジャースの公式日本酒になったそうです。
なんそれ。
そうっていうのを見つけて。
そんなのあるの。
公式日本酒。
公式日本酒ってことで、今後ドジャーススタジアムでオリジナルデザインのカップ販売とか、
あと日本酒を楽しんでもらうイベントをスタジアムでするそうです。
確かに日本酒って売ってたっけ今まで、売ってないか。
ビールは見ますけど日本酒は見てないと思います。
どうやって切り込んでいくんだろう。
面白そうだね、でも。
面白そうですよね。
契約期間が3月から2年間らしくて。
2025年の3月から2年間ね。
2年間。
ドジャースの方から打診があったっていう話らしいです。
そうなの?
今回みんな日本に行ったし、日本酒飲んだ人も多いかな、そしたら。
かもしれない、そうですね。お寿司とか食べてましたもんね。
これはまた文化として、日本酒がこれでまた浸透していくきっかけになればね、いいよね。
どれぐらいのお金が動いているのか知りませんけども。
ねえ、そうですよ。
まあだからこの赤井さんが、この会社がドジャースのスポンサーにもなってるっていうことですけど。
いやードジャースパワーすごい。
でもそれ言ったらさ、公式テキーラとかさ、公式ウイスキーとかさ。
51:05
そうなんでも、そうですね。
なんでも行きそうじゃんね。
公式チョコレートとか。
もう赤井さんの公式Xで、赤井さんはロサンゼルスドジャースの公式パートナーですって一番最初に書いてあります。
公式だぞって感じでやってる感じがする。
すごいです。
公式日本酒ってどういうこと?
公式日本酒になったという。
でもアメリカのドジャースタジアムで、なんか日本酒を飲みながら野球を見るっていうイメージが、まだピンとこないですけど。
銀座湖もありますしね。
銀座湖もあるけどね。
なんかやっぱビール飲みたくなるよな。
そうですね。球場というとそういうイメージもありますけど。
そこをどう変えていくかっていうのは楽しい作業ではあると思うけど。
はい。おつまみセットみたいなの作ってくれてるかもしれないですけど。
確かにな。
話のあれかもしれない。今回日本帰った時の機内でも、ほぼ日本人10%ぐらいしかいなかったんですよ。
ジャルに乗ったんだけど。
ジャルなのに。
ジャルなのに。
日本人があまりアメリカに行き来してないんだろうなとは察しがついたんですけど、
ただね、やっぱり日本酒飲んでる人も結構いたんだよね。機内で。
ワインとかももちろんいたけど。
そういうのもちょっとだから、ちょっと来てるのかな?ブーム的なものがね。
日本酒、酒ブーム。
ロサンゼルスのレストランで日本酒って置いてます?
結構ありますよ、それは。ダッサイとかもね有名だし。
ハッカイスさんももちろん昔から置いてますね。
結構いっぱい今種類が増えてて、ありますよ。めっちゃ増えてますよ。
じゃあね、現地の方もどんどん浸透していくといいですよね。
ただどこまで違いがわかっているんだろうかっていうか。
そうですよね。
日本人からしたら、ハッカイスさんだとかね、そういう日本のお酒だってなって頼みたくなるけど、
他の国の方々がどういうリアクションなのかっていうのを喋っていきたいですね。
わかってる人はわかってると思うんですけどね。
いやでもまだまだこれ伸びしろがあって、チャンスがすごいでかいと思いますよ。
ワイン業界のね、このトレーダー場とかホールフードとか行ってもさ、
54:05
ワインのラインナップ。
すごいですね。
霊言じゃん、200種類くらいあるじゃん。
何が何だか。
日本酒は多分まだ、置いてあったとしても3種とか5とか10種類はないよね。
だからそう考えると伸びしろめちゃくちゃでかいよね。
ロジアスタジアムにこれからどんどん日本の企業が入ってくるかもしれないですね。
この日本の盛り上がりとともに。
入ってきてほしいですけどね。
入ってきてくれそうな予感が。
ちなみにえまさん酒ボムって聞いたことある?
ボンボン?
酒ボム、爆弾のボム。
ボム?ボム?知らないです。
酒ボム?
20年前くらいのアメリカで酒といえば酒ボムなんですよ。
ビールグラス、ビール生中的なビールがあって、ビールと酒を一緒に頼むんですよ。
ビールグラスにビールが入って注がれたところに、上におチョコにお酒入れたものをボンって落とすんですよね。
ビールとお酒をミックスしたものを箸の上に置いてパッと外すんだけど、それを酒ボムって言うんだけどさ、
それを差し飲んでたわけですよ、アメリカ人は。
今それやってる人いるか知らんけど。
えー、流行ったんですね。
味なんかどういう味すんだろうって思いながら、俺もレストランで働いてたからさ、
酒とビール同時に頼まれるとさ、あ、こいつやるなとか思いながらめちゃくちゃ汚くなるんだよ、そのテーブルが。
あ、テーブルを叩いて、その箸が落ちて、あ、おチョコもっと入るのか、そのグラスに。
ドボンって落ちるわけよ、ビールが。
ミックスされたものを飲むんですよ。伝わったかな、皆さん。
ビールの上に箸を2個置いて、その上におチョコを置いて、お酒を注ぐ。
テーブルガンガンやって。
お箸がずれてきて、おチョコがボチョンって落ちるみたいな。
えー。
お酒が入ったね。でもそのお酒っていうのは、もう月経間の、いわゆる料理酒と言われるような、安い、きつい匂いのする、昔ながらの臭い酒みたいな。
臭いって言うと、酒と言えばもうそれっていうイメージが、20年前ぐらいだったらあるんですけど。
へー、知らなかった。でもたくさん出てきますね、検索すると。
57:00
そうだよね。
アメリカで生まれた日本酒の飲み方で。
もしかしたらドジャースタジアムで酒ボムが流行るかもな、また。
あー。
応援しながらさ、応援しながらさ、どんどんどんどんやってさ。
バドワイザーとか売ってますもんね。
売り上げ上がりそうだな、いろんな意味で。
あー、再来。酒ボムの再来ですね。
あるかもしんないよね、もしかしたら。
あー、そういうアプローチでいったら、いけるかもしれないですね。
味もクソもないけどね、もうビールと日本酒混ぜて飲んでたら、絶対どう考えても混ざりそうだね。
もうゲームみたいな。
何の話してたっけ、これ。
ドジャースタジアム、ドジャーズの話?
ドジャースタジアムに日本酒が登場するっていう。
日本のね。
これだから別に、ドジャースタジアムは発売さんだけど、じゃあニューヨークヤンキースタジアムは、他の酒蔵がとったりできんのかな。
ヤンキースって今は日本人いないか。
あ、それカブスとか、近く。
そうだね。
そういうのもありだよね。
まだ全然、イベントとかどんなカップなのかっていう詳細が出てないんですけど。
またじゃあそれは、進捗を教えてもらえたら楽しみですね。
そうですね、どんなイベントなのか皆さんもご注目ください。
はい。
はい、ということでここまでリアルアメリカ情報でした。
はい。
締めのコーナーです。
質問。
りょうすけさんの話にもあやかってなんですが、東日本大震災の話ね、ちょっと先ほどから絵馬さんともしてましたけど。
はい。
なんかもう今15年たってんだよね。
だよね。2011年だったもんね。
はい。
その当時の何してたっていう話とか、その辺にまつわる話をちょっと聞きたかったんだけど、
絵馬さんちょっとその直後にボランティアに行かれたっていうのもあるみたいですけど、当日は何してたんですか?
当日は、午後2時45分、6分とかだったんで、部活をしてました。
バスケットをして、体育館でバスケットをしてました。バスケットボールしてました。
1:00:07
あれそうか、あれ午後か。
はい、午後。
あれそうです。
なんかテストとかが何かが終わって、部活をしていて。
それは何、東京?
東京です。
はい。
揺れた。
走り込みの練習してたんで、プレイヤーの人たちは誰も気づかなくて、なんかガタガタみたいな音はしたんですけど、全員で走り込みしてたから、
なんか今日はみんなの熱気がすごいなーとか思ってたんですけど。
なんか自分だけ盲動としてるじゃん、みたいな。
そう、と思ったら、なんかマネージャーの子は動いてないから、みんな揺れてるから止まれ、みたいな感じで言われて。
あ、そうか、走ってる人は気づいてないんだね。
そう、気づかなかったんですけど、止まったらすごい揺れてて、体育館の上のライトがもう落ちてくるんじゃないか、みたいな。
みんなそのライトが落ちてきそうだってことで、体育館の端に行ったんですけど、
端に行ったらその壁が落ちてくるから、校庭に出ろとか言って。
ああ、そうそうそうそうそう。
みんな壁に張り付くなとか言って、校庭に出て。
他の部活してた人たちも全員、校庭に行って、校庭に出たら、近くで工事してたんです。
工事のクレーンとかももう倒れてはなかったんですけど、すごいもう。
怖いね、揺れちゃって。
怖かったです。
その日は、私女子校に帰ってたんですけど、すごくその交通機関が混乱してたから、
制服着て、たぶん電車で帰すと危ないじゃないかっていう学校の判断で、
電車も混んでるし、止まってるし。
今、学校にいる人は一旦、今日は学校に泊まろうってことになって。
そうなんですか。
学校の行動は、なんか耐震がすごくしっかりしてて安全だから。
ああ、そういうことね。
じゃあ、余震でまた電車の…
揺れるかもしれないし、
余震が来たりとか、そういうことを懸念してて。
そう、道中でまた怪我しちゃったり、混乱してるから治安も悪いし、みたいな。
女子高生を返して、途中で何かあったら大変だからってことで、
全員で行動で止まりました。
寒そうじゃない?寒くなかった?
学校に備蓄してあった、銀紙みたいな、開けると少し暖かいみたいな、災害用のパリパリしたのがあるんですけど、
1:03:05
それをみんなかけて、みんなかけてるから、パリパリ、みんな、夜パリパリパリパリって言って、
家にいながら寝て。
まあ、笑い事じゃないかもしれないけど。
食べ物とかも出してくれて?
食べ物は、学校に備蓄してあった、カンパンってもの。
災害用のやつか。
初めてその時食べました。
そっか、じゃあ結構それも避難体験だね、本物。
そうですね。行動の真ん中にスクリーンがあって、そこにずっとニュースを流してたんですけど、多分先生が。
ずっとその津波の映像みたいな、逃げてみたいなのが、永遠に繰り返されてるから。
気持ちがやばいですね。
何が起こってるかした方がいいだろうと思って、多分流してくれてるんでしょうけど、
もう分かったから、いいよって途中から、もう痛くない、もういいかな、みたいな気持ちになってましたね。
なるほどな。それはそれはでも大変な体験でしたね。
怖かっただろうね。
で翌日、親が迎えに来た人から親と一緒に帰るみたいな。
なるほどね。
みんな帰っていったって感じですね。
僕はもうアメリカにいたんでね、本当にニュースで知って、えーって感じだったんですけど、
9・11の時も、えーなんかもう、現実に起きてんのかこれ、みたいな感じの印象でしたけど。
なんか僕はね、それで、その時バンドを結構一生懸命やってた時期で、
音楽イベントをやって寄付を募って送ろうみたいなことをやってたんですけど、
まああんまり人集まんないわけですよね、有名なバンドなわけじゃないし。
で結局なんか場所借りて集まったのが、まあつっても2、30万円ぐらいは集まったと思うんですけど、
そんな金があったら最初から場所借りないで送れみたいなことを最終的に思って、
ただの自己満足とかエゴだったんだなっていうのと、
なんか自分が何にもできない無力さみたいなのをすごい痛感しましたね。
何やってんだこれみたいな、っていう。
だからその時のね、思い出っていうか、思い上がりなことをなんかね、覚えていますよ。
1:06:00
だから直接被害ね、俺はあってはいないし、そういう避難体験とかも多分ないんだよな。
でもそれって結構大きく人生を変えるんだろうなって。
まあ俺も俺の中ではなんかそこでやっぱり変わったものはあったし、自分の中でね。
そういう出来事ってあるんだよなっていう。
確かに。
はい、そんな話をしたかった感じですかね。
確かに。
まあでもエマさんは今はあの、何でしたっけ。防災…
はい。
なんとか市、何でしたっけ。
防災市。
防災市ですね。
でもあられるということで、またね、なんか注意・奮起をしていけたらなと思うんですけど。
あれば。はい、そうですね、随時。
ちょっとさ、やっぱそういうなんか忘れちゃわないように、なんかやっぱ思い出す、こういう話をするっていうのも大事だよなって思っちゃったりもしておりますが、はい。
確かに確かに。
なんかですか。
はい、そうですねみなさん。
何があるかわからないので、なんか1日1日悔いのないようにしようと思ったっていうのがね。
そうですね。
なんかよく聞きます。
はい、震災後にそう思った。それで活動を始めたって方も多い。
それを考えるとこのメント森をやっぱりやるべきだな。
ドットを埋めていくべきだな。
はい。
ね、日々悔いのないように。
一生懸命いきましょうってことで。
そうですね。
はい。
大切にしていきましょう。
ということで、こちらインタビューとリアルアメリカ情報ブログに掲載しています。
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今週も聞いてくださりありがとうございました。
ございます。
それではまた来週。
じゃあね。
01:08:49

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