2022-12-03 52:06

Vol.233: 宮田諦全(高野山米国別院LA 第七代主監)1/4

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日本ワールドカップ決勝T進出!で盛り上がってますね。現地で見ていたサポーターにとっても一生涯忘れられない感動の瞬間だったことでしょう。音楽のライブやフェスでも、そんな風に感動してる観客を見て更に感動しちゃう板倉です、こんにちは。

「1%の情熱ものがたり」59人目のインタビュー、最初のエピソード。
1959年、終戦14年後の日本から、27歳で僧侶として船に乗り渡米を果たした諦全さん。今から60年以上も前に降り立った地、アメリカに何を感じたんでしょうか。91歳となられても尚、元気にご活躍中。断片的に語っていただけるエピソードから分かる時代背景の違いや過酷さを想うと、現代の恵まれた環境に心から感謝したくなります。いつの時代にも、なるべくたくさんの人の中に「心の平穏」がありますように。少しでも多く後世に届けたい大切なものがたり。

まずはロサンゼルスにある高野山米国別院というお寺、主監としてのお仕事のこと。そして、お寺のご子息としてお生まれになった諦全さんが、僧侶としてアメリカに旅立つまでのお話を伺いました。91歳とは思えない元気なお声と記憶力にびっくりです。

投稿 Vol.233: 宮田諦全(高野山米国別院LA 第七代主監)1/41%の情熱ものがたり に最初に表示されました。

00:01
1%の情熱物語
海外に住んでいる日本人は、日本人総数のわずかに1%。
この番組では、海外進出や起業を果たしたビジネスオーナーや経営者、
また各業界のプロフェッショナルな方々へ、対談形式でインタビューをしていきます。
日本の未来を背負うグローバルなプロフェッショナルたちの仕事哲学と、
そこに燃える情熱に迫ります。
今日ね、ちょっと話をしたいかってメモしてたものがあって、今スラックでさおりちゃんにリンクを送りましたが、
見てます。なんだこれは。
それを、なんじゃこりゃって感じだよね。
うんうんうん。
この間衝動買いしてしまったものがありまして、
時計なんですけども。
時計を買った。なかなか時計って買わなくなりましたよね、最近ね。
ないよね。
ちなみに寝室に時計ある?
もう時計ってものが一個もないです。
おお、まじで。壁にかけてるもの?
ないない。
じゃあ携帯のみ。あとアップルウォッチとか?
うんうんうん。
そうだよね。だから俺も時計って壁、一応壁にかけてるのがね、家にあるんですけど、
それ以外に寝室にはやっぱり時計がなくて、
携帯だって見てたんだけど、
ちょっと前の話だけど、携帯を最近寝るときは遠くの方に置くようにしていて、
はいはいはい。
枕の下に置くって言ってたけど。
遠くの方がやっぱ気分がいい気がしていて、
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そうすると時計が見えないわけね、まず。
なるほど。
別にそれで時計が欲しくて買ったわけでもないんだけど、なんか知らんけど広告で、
フィードで出てきて、なんかこれ良さそうだなってクリックしたものが、その時計なんですけど、
アナログ、スイスの時計のテクノロジーを使っていて、100%サイレント、
アナログ時計なんだけど音しないとチクタクチクタクみたいな。
チクってやつね。
あれちょっと気になりだすと。
そうそうそうそう。
アナログとか、なんで、何にもついてないんですよこれが。
だから、そこに書いてあるのは、ノースクリーンズ、だから照明もないし、
ノースクリーンズ、ノーブルートゥース、ノーワイファイ、ノーアップス、ノーノーティフィケーションズ。
なるほどね。
オーガネックミニマリズムなアナログエクスペリエンスっていうのがちょっとウェブサイトに書いてあるんですけど。
マーケティングですね。
そう、もうまんまとハマった感はあるんだけど。
なるほどね。
その意識高い系じゃないけどさ。
いやいやいや。
これの買ったポイントは、目覚ましの音楽がグラミ賞を獲得しているコンポーザ編曲者の人。
なるほど。
音楽を何種類だっけ、8種類ぐらい作っていて、
とかって鼻歌が始まったりね。
オシャレ。
普通の生音楽器で録音したものとか。
それがランダムに流れて、しかも波を打つようにだんだん大きくなってきたりとか。
素敵。
鼻歌が重なって重なってすごいことになるんだけど。
その音楽はウェブサイトで聴けるんで、リンク貼っておきますけど。
オシャレ。
また次のアーティストが今度決まっていて、
その人も音楽を作って、またそこで聴けるようになるみたいな感じで。
なるほどね。
そのランダムで流れるっていうのが気に入っちゃったんだよね。
その次の次は、たいすけさんのね。
そうね。
そういうところまで。
うちの隠し生の。
これはね、なんか気分が上がる。
そのレム睡眠っていうのも波を打ってくるじゃない、バイオリズムみたいに。
浅い時と眠りが深い時とがあって、
それをそのリズムに合わせて音楽が大きくなったり小さくなったりして、
06:00
それがタイミングが重なった時にパンって心地よく目覚めるみたいな。
へー。
風に設計されてるらしい。
しかもなんかオシャレ。
そう、だからいきなりビビビビビビビビビとかってなってさ、いらつくときじゃんあれ。
はいはいはいはい。
それがなくなってゆっくりフェードインしてきて、
なんか知らない間に気分が起きてるっていう。
なるほどね。
体験を300ドルもするんですけど、このパケが。
マジすか。そんなするんだこれ。
そう。
俺もね、ポチってね、これ良かったかなと思いつつね、
まあ返品すりゃいいかとは気に入らなかったら。
思って買ったらまあ気に入ってしまったという。
いいです。でも大事にしそう。
そうそうそう。
それだけやっぱり高価であるし、なんか手が込んでるし。
この話のオチ的にはですね、新時代のビジネスってやっぱりこういうなんかアナログに戻っていきつつ、
うんうんうん。
なんか農業したりさ、ボランティアしたくなったりさ、
ただ年食ってるだけなのかなこれ。
でも最近戻ってるような感じがしますよね。
そういうのあるよね。すごい最先端のテクノロジーを使ってアナログを再現してるみたいな。
そうそうそうそう。ありそうありそう。
そうそう、なんかそういうのも感じたのでちょっとね、話してみたかったという。
面白い。いいですね。
みなさんもちょっとリンク貼っとくので気になる方は、これ日本で買えるのかな、わかんないけど。
ちょっと次回のオープニングは私それに重ねて話そう。
あ、いいねいいね。
そうします。
では本編に入りますね。
はい。
毎回一人の方のインタビューを4回に分けてお届けしております、この1%の情熱物語。
今日はまた新しい方のインタビューです。
はい、今日はもうね、スペシャル編と言ってもいいぐらいのね。
お!
先に言っちゃいますけども、なんと91歳。
え?すご!すごすぎる!
第7代、高野さん、米国別院ロサンゼルスの主幹でいらっしゃる、宮田大仙さんというですね、僧侶の。
高野さんは知ってるよね?
はい。
高野さんは高野さんのトップですよね。
別院があるんですね、ロサンゼルスに。
あ、それは知らないの?
うん、知らなかった。
まじっすか。それはびっくりだ。
ダウンタウン?
そうそうそうそう。多分知ってると思うよ。
あそこが何だろうなっていうのはずっと気になってたんですけど。
高野さんは別院ですよ。
あ、そうだったんです。
第7代なので110年あるんですよ、そのお寺がね。
その辺も出てきますけど、そこで第7代主幹を務められた、2期やられてらっしゃってですね、結構長い間やってらっしゃって。
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今はまあまあ引退されてらっしゃるんですけど、たまに助っ人で行ったりとか、まだ元気に活躍してらっしゃる。
最年長でしたね、これ今までの。
ですね。
でも貴重なインタビュー。
そう、もうスケジュールがね、なかなか3ヶ月前ぐらいからね、風邪ひかれたりとかね、僕が出張行ったりとかいろいろ合わなくて。
なるほどなるほど。
早くやりたいんだけどと思ってたんだけど。
念願のですね。
やっと叶いましたんで。
お楽しみくださいと。
ではまず1回目を聞いていただきましょう。
はい。
1%の情熱物語、今日が59人目のゲストになります。
今日はですね、高野さん別院、米国別院ですね、ロサンゼルスの元主管でいらっしゃる宮田大仙さんにお話を伺いたいと思います。
宮田さんよろしくお願いします。
はい。
はい、これを聞いてね皆さんピンとくるかわかりませんが、高野さん米国別院というのがロサンゼルスにダウンタウンにございまして。
そちらで主管、主な監修と書いて主管ですね。
をされていらっしゃった宮田さんなんですが、その時の主管っていうお仕事内容からちょっと伺っていってもよろしいですか。
私がですね、このロサンゼルスに27歳で渡米した時から今日まで64年間、まあなんとか命をつないでおりますけれども。
このお寺は米国別院は今から110年前に建てた寺で一世を中心とした、いわゆる日系人の中心の場所として現在のお寺があったわけで。
そのお寺に1959年、昭和34年の3月20日に日本からボートでいわゆる貨客船で到着して駐在海峡市として府にしたのが始まりです。
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そして以来64年間の間に別院とそれから桜面と高野山と2つの寺の駐在をいたしまして。
海峡市の仕事は、いわゆる一世、二世、三世にわたる人々のために葬儀とか法事とかメモリアルサービスとかあるいは御祈祷とかそういった仕事をしながら
学校に通いましてUSCで6年間グラディエイトワークをしながら英語の勉強をして卒業しましてマスターオブディグリーをもらいました。これが一番の私が都米した時の成果です。
USCはUniversity Southern Californiaですね。南科大学です。この世界宗教学科を卒業したのが都米してから6年目ですが1966年の9月3日に卒業証書をもらっています。
ですからちょっと6年ほどかかったですからね。
日付までちゃんと覚えてらっしゃるというのがちょっとびっくりなんですけれども。
年は仕掛け91歳。万の90歳と10ヶ月ですわ。
91歳と10ヶ月。ほぼ91歳ですね。
日本流で言えば91歳です。
一番長いのはロサネス別院で赴任してから1978年までおりましてそれから本山の命でサクラメント。
カリフォルニアの首都の小屋さんブーリスチョーチに12年間。
それから1991年にこちらに帰りましてそれからずっと今時までロサネスで居住しているということでございます。
とにかく私が来た時分には冒頭でこのアメリカに神戸で大阪商船でメキシコまで11,000トンで。
11,000トン?
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11,000トン。
トン失礼しました。びっくりした。
11,000トン。8,000トンではないですよ。
だいぶ大きいですよね。
大きいです。客船ですから。それで13日間波島を越えまして金河山沖からずっとロサネスも直行でした。
風速35メートルというまことに厳しい3月ですからまだ季節が浮いておりますので揺れまして船酔いで大変困りました。
13日間。
3日間くらいは食べられない。
同室の人がいまだにニューヨークで住んでますけれどもね。2人で。
そうですか。
ニューヨークで名前はちょっと忘れましたけどジャンって言うんですけど日本人ですけれども。
当時は飛行機が高くて船じゃないと。
飛行機はまだ飛んではおったんですけどいわゆる運用機などが飛んでおった。
駅等で止まってから行くような状態で福岡は高値の花ですよ。
その船の料金がロサンゼルスサンプリロ号までが375ドルです。
当時のドル円の換算だとどれくらいなんだろう。ちょっと分からないですけど。
375ドル10タラですね。とても高かったですよ。
とにかく3食月ですから。
キャビンがあってまことに忘れることができない旅でした。
あとはもう行ったり来たりでは船は飛行機ですけれど。
27歳ですね。
私はお寺の息子ですから。
そして生まれたのが愛媛県大津市畠の松林寺というお寺の長男で。
父がお坊さんにさすために高野山中学、9歳ですよ。
中学に行ったわけですけれど。和歌山県ですよね。
お坊さんになるための学校。
12歳ですよ。
12歳で里から和歌山県高野山の中学に入学したんです。
どうして入ったかというと
父に後に座って子供が来てお経を読みに行ったり
法事葬式に行ったりするときにちょっとやゆされるというか
冷やかされるわけですよね。子供たちが同級生が
お坊さんが歩いているとか
そしたら自分は高野山に行けば人は笑わないだろうという
そういう動機があって
高野山に行ったらもう全部がお坊さんですからね。
だからそれが一つの動機だったです。高野山に行ったのは。
それは大仙さん自ら望んで
18:01
そういうことです。受け持ちの先生は
愛媛県立大津中学校に行きなさいと言ってくれたんですわ。
けれども私は嫌じゃというわけ。
また親父の後について子供が来て冷やかせるのが嫌だから
高野山に行ったら
ああそういうことね。もう少し格の上なというか
本文には300キロありますからね。高野山と大津岡
だから一昼夜は汽車に乗って10年間
昭和19年の4月8日から
卒業して帰るのが昭和28年の12月1日まで
高野山で10年間それから行ったり来たりをしました。
それが中学校かということですか。
中学です。中世中学ですよ。
10年間通われるんですか。
中世中学1年から新生大学4年
ああそういうことですね。
方向は途中でできたんですけれどもね。
ああそういうことですね。
で今の大学を卒業されてという
そして高野山の大学を卒業して
それをトランスファーを持ってこちらのUSCに入学したわけですわ。
ああなるほど。それ卒業されたのが何歳の頃でしょうか。
21歳ですから22歳か。
その後ってのはどういう
あと4年間ほどはですね
地方で学校の先生、中学校の教師を4年間ほどやっておりました。
大津市立
三好中学
それと新屋中学と
で教える内容というのは全科目教える
大体社会学科ですけど英語を教えてくれというのが
あの時分は英語をできる人が少なかったんですよ。
大津先生は英語できた。
読み書きをなんとか少しはできたんですよ。
幼稚な、幼稚な、今から考えれば幼稚な英語を書いたりするということで
学校の職員連中の中には英語をあの時分には
昭和20、そうですね29年30年頃には
英語の先生というのは本当に少なかったんですわ。
うん、だってどうやって物語られるんですか。
社会学科が私の専門で一級免許証なんですよ。
ところが社会科を送らずに英語を教えてくれってみんなが言うんですよ。
ああ他にできる人いないから。
いないから。
特に国語、やらなかったのは理科と数学だけでほとんどやりました。
自分の
ちなみにごめんなさい、英語は高野さんの中学校で学ばれたんですか。
あの時の学長松井善子は
21:02
あんたたちが日本がアメリカに勝ったら
相手のときに何を言うとるかわからないようなことでは
某さんとしてはダメだから英語は必須だったんです。
必須だったんです。
ああなるほど。
そういう腹だった。
あの時分はね、鉄国外国語は排泄が多かったんですけれど
うちの高野さん中学は
あんたたちがもし勝ったら
アメリカ大陸に行って
英語を、相手が何を言うとるかわからないようなことはダメだって言われたわけですよ。
すごいですね、それは。
必須だったんだよ英語は。
1年から中学時、12歳から。
でもその頃からグローバルというかね
世界を意識して
はい、その学長がですね
そういう方針ですが
他の中学は全部女学校でも英語はアウトやったんです。
鉄国外国語で。
なるほど、英語なんか
19年、20年。
そうですよね、普通はね。
すごい頭の視野の広さというか
そういうことですね。
英語をやって
日本が勝った場合には上陸して
相手が何を言うとるかわからないようなことでは
戦争には勝てんということだったんですよ。
ちなみに私は高野さんといえば空海さんということぐらいしかわからないんですが
空海さんも留学というか
そういうことです。
外国に行かれてましたもんね。
学長というか校長がそういうアイディアでおったからですね。
卒業するまで
大学卒業するまで
英語はもうアウトやったんです。
幼稚な英語ですけれども。
それはそれで
他に人は持ってない価値となって
そういうことですな。
重宝されたというか
英語を教えられて
学校の先生を4年間
4年間やりました。
その後は
僕の同級生が
木村賢同という
同級生がトップとして
僕が2番だったんですけど
彼が今
米国別院に
海峡氏が欲しいから
あんた来る意思があるかどうかということを
聞いて
手紙が来まして
押したら行ってみようということになって
そして決まったんです。
急にいきなりですね。
それまでだからお坊さんではなくて
考えてなかったんです。
しかもお坊さんもやってなかったわけですよね。
お坊さんは
学校の先生をしながら
親父のヘルプというか
女法ですな。
それをしとったわけです。
ご実家の小仕事を
小仕事をやった時に
お坊さんが3人いるから
5万円も一緒についてこいということで
行ったわけです。
そういうことですね。
24:00
そういった経験はされていらっしゃって
そういうことです。
親父とかは考えてなかった?
考えてなかった。
全然考えてなかったです。
同級生が会計をして
1名どうしても
5人やったんですけど
もう2人しかおらんから
どうしてもいるから
身体が許す限り来てくれと。
それは大正さんが英語喋れるということは
分かってたのか。
それよりは
やっぱり
木村賢同という私の同級生が
よく気持ちがあって
仕事があったりした関係で
彼が先に
1957年に
渡っとったわけですよ。
そして
僕が来たのは59年ですから
1959年ですから
家に先に来て
ここで会計をして
自分も会計をして
他の仕事がしたいと
彼はICBMに入ったんですけれども
もう亡くなりましたけれども
今から50年ほど前に
彼が
福祉に目指して
こんな感じで
でもその時はまだ
電話はあったのか
電話は通じました
電話よりは手紙で来たんです
手紙で
木村賢同さんから
ちょっと来てみるかと
そういうこと
親父よって言ったらいいと
大阪さんの教えを広めるんだったら
大阪さんの手心の中にあると思って
行けということで
親父を推薦して
そしたら
ライロウェイ
福祉のところが深いというか
弟がおりましたし
弟が2人もおったから
長男があんまり
お寺を築く必要はないということです
そうですか
おられー話や
世界に多くに広められるなら
行ってこいという
それの時
大阪さんはどう思われたんですか
それは
いっぺんは降りたいなと思って
行ってみたいなと思ったんだけど
そしたら行こうということに
決めたんです
なんかその時は
決め手となったものがあるんですか
決め手となった動機はやっぱり
あの時分にアメリカに行くということは
大変なことだったんですよ
昭和に
20、30年頃はですね
私渡っての昭和34年ですから
その時分に
私がアメリカに行くということに
乗ったのが愛媛新聞に
乗ってみたりしたんです
その時分ですよ
ちょっと待って
1945年で
終戦なので
その15年後
14年後ですよね
14年後
その時の日本のムードというのは
どういう感じ
その時分はね
紙の使用率が
日本の使用率は
27:01
アメリカの
日本の使用率27倍だったのは
新聞に載ってました
紙の使用量が
使用率が27倍
日本がよく紙を使ってたということですか
使ってなかったんです
アメリカが27倍
それだけだから資源も少ないし
そういうことです
まだまだ戦後は終わったじゃないですか
まだだったですね
まだまだ
今亡くなっている状態から
今から復活していくぞという
途中ですよね
アイスボックスやら
それから扇風機やらが
まだ出ていない自分ですから
出ていない自分ですから
その時アメリカに行くっていうのも
大変だよ
一つ行く方法は
留学生の方法と
宗教者と
2つぐらいだったんです
フルブライトの学生が
アメリカに行くか
フルブライトってご存知でしょう
フルブライトって何でしたっけ
試験があって
それにパスした人は
アメリカ留学ができるという
フルブライトという
アメリカの大儀式が提唱した
システムなんです
よっぽど英語が
優秀じゃない
松田塾とか
そういった人
それから
もう一つは宗教者
いわゆるクリティカル
あるいは仏教
この人とのエキスチェンジは
アウトオブリミットなわけ
その中に入ってるわけです
だから自分が宗教者
宗教者には割合
温暖に
リクエスト来た場合には
美砂が発給されて
それに
自分が
アメリカに行くと
日本の
大衆圏が
そういうことだけど
村とか街にとっては
そこの
フルブライトに行くか
アメリカに行くぞ
大きな話題になるわけです
街の新聞にも出てる
日本新聞が
インタビューに来たり
もう都米しますけれども、もう時代が変わりました。
いや、まずものすごいお元気ですね。
ですね。元気でした。
ちょっとびっくりしちゃいました。
そういえばこの間、さおりちゃんのおばあちゃんがちょうど90歳ぐらいって言ってたよね。
そうです。私の祖母が92歳で、祖母もすごい元気なんですけど、
30:04
ちょうど同じぐらいで、すごいお仕事されてる方って感じのお話の仕方だし。
いやー、それとびっくりしたのがね、やっぱり所々に出てたんですけど、
1959年7月何日まで、
そう、思った思った。
思ってらっしゃるって。
記憶力とそれがパッと出るという頭の回転の速さ。
やばいよね。絶対出てこんもん、俺。
無理無理無理無理無理無理。素晴らしいです。
ね。いやー、ほんとちょっとね。
それが所々に出てね、ちょっとすごいなと思って。
あと風速35メートルとかね。
そうそうそうそう。
1万1000トンの客船とか、そういうのを数で覚えてるっていうのがすごいよな。
350ドルとかね。
すごいな。
ちなみに、さおりちゃんは会教師っていうか、僧侶?お坊さん?
で、身近になんかいたりしましたか?
どれぐらいこう、解像度が高いかなっていうか、なんつーんだろう。
身近にはいらっしゃらなかったんですが、
どちらかというと、歴史で学ぶ、
キリスト教の専教師のほうが知識は多いかなって感じですね。
あれ、ちなみに学校はクリスチャンだったっけ?そうじゃないよな。
そうです。私、幼稚園、高校、大学全部、キリスト教の学校だったから。だからかもですね。
そりゃそうだよね。それは逆に知ってないとおかしいよね。
確かに確かに。
そうか。僕も、僕はあんまり、実際にリアルな仕事ってどんなんなんだろうとか言われてみれば、もちろん僧義の時はいいたなーとか、分かるんだけど。
あーって思ってなんかね。
あーでも、こういう話にも出てくるけど、やっぱりそれだけ僧義、法事、御祈祷、あとメモリアルサービスとか、昔は結婚式とかに来たみたいですけど。
あーなるほど。
それだけで結構1年、毎日入ってるみたいで。
いやー、忙しい。
いやー、何がすごいって、やっぱり私祖母が同じ、ほぼほぼ同い年なんですね。
で、戦中戦後の話をいろいろ聞いているので、
はい。
で、祖母の学校では、やっぱり英語なんて敵国の言葉だから絶対に話しちゃダメっていう教育だったって聞いているので、
はい。
その中でも英語を習得されて、しかも戦後15年後にアメリカに渡ったっていうこと、この事実だけでもものすごいことですね。
そうなんですよ。それがね、なかなかその空海の話、空海が留学してたってことは外国に出てたからってのもあると思うんだけど、
33:09
それによっておそらくその学長さんが、高野さんの学長さんがその英語を学ぶっていうことを良しとしたんだよね。なかなかレアだよね。
すごいレア。めっちゃかっこいいなって思っちゃいますね。
すごいよね。なんか、戦後14年ってどういう感じだったんだろうって、何にもなかったのかな。
何にもなかったって言ってましたよ。
そうだよね。
何にもなくて、生活で精一杯だし、やっぱり、でもその中でやっぱりアメリカに渡るっていうことに対して、みんながよく思ってたわけじゃないと思うし、
そりゃそうだよね。敵国ってまだ思ってる人もいただろうし。
もちろんもちろん。すごいですね。本当にこのお話を聞けてるだけでものすごい貴重なことだと思います。
そうなんですよ。これは本当にね、残しておくべきだと思いまして、
僕もちょっとうまくお話を引き出せているのかどうかわかんないんだけど、本当にこれ貴重だなと思いながら、ありがたいなと思いながら話を聞かせていただきましたが。
本当ですね。
それで、次回はどんなお話になるんですか。
はい。なので、いつもとはちょっと構成が変わってる感じですけど、今回がアメリカに渡って、船で渡ったと。
来週がサンペドロ港ってね、僕らの住んでるところの近くですけど、港に船で降り立った。そこで初めての体験をしたみたいなね、ちょっと面白話、面白話があったりね。
なるほど。
あとはお寺の具体的な仕事の話だったりとか、あとね、誤聴書、本をね、書かれていたりね。
そういう話が出てきますんで。
あとはまあ、仏教、仏陀の話とかも出てきてね、その辺も興味深いと思いますんで。
すごい楽しみにしております。
はい。
36:02
リアルアメリカ情報。
いいよ。
このコーナーでは最新のビジネス生活情報をアメリカロサンゼルスよりお届けしてまいります。
はい。
えーとですね、この前、仕事上も私はそのIT関係の新しい仕事の内容とか、どういう仕事が人気なのかとか需要があるのかとかってそういうのを見ることが多いんですけど、
まあ調べるということが多いんですけど、まあそれを調べてて、まあ前にも話した通りARとかVRとかね、バーチャルリアリティとかそっち系はもちろん、まあ多くなったり、ちょっとしぼんだり、まあ多くなったり、いろいろやっているわけですけども、
その中で、まあこんなのが、こんな需要もあるのかっていうところのご紹介なんですけど、
こんな需要。
そう。さあみつさん、VR、どういう場面で今みんなが使ってると思いますか?
まあゲーム、あと工事現場とかそういう建築現場だったかっていう話はありましたよね。
ありましたありました。
まああとエロビデオを見てる人とか。
そこは、いや、そこのね需要すごいみたいですよ。
うん、だよね。
本当にお金を稼ぐ出る人はやっぱそっち方面でお金を稼いでるって。
まあそっちはねお金が動きますからね。
みんな言わないけどね。
まあでも俺実際にあまりそのVRとかそっち系を体験したことがないのでよくわからない、あのメガネも持ってないし、あのなんだっけ。
ヘッドセット。
ヘッドセット。
オキュラスとかね。
オキュラスとかね。
そうそうそう。
わかんない。
まあまあ発展途中って感じの分野ですけれども、みつさんが言った通りやっぱりゲームがメインですよね。
はいはいはい。
こうヘッドセットをつけて、銃とかを持ってみんなでリアルにゲームが体験できるとか。
世界に没入した感じでゲームしてるとかね。
ゲームしてるとかね。
そうそうそう。
あとは交流の場として、私も前使ってたけれども、その世界の人たちといろんな場面で交流ができると。
カフェに行ってみたりとかね。
そうそうそう。
まあネットワークですね。
で、その中でバーチャルリアリティ、VRプロポーズというものがあるみたいですよ。
おー、これまた。
これまたでも確かに言われてみたら、あ、なるほどなと思ったのが、
そのVRの利点っていうのは、自分でどこの場所でも、どんなものでも、あるものでもないものでも、全部作り出せるわけですよ。
39:03
あ、だから架空の世界だからね、想像の世界だからってことね。
夕日が出てる、夕日、朝日が出てるとかももちろん全部作れるし、
宇宙で告白、宇宙でプロポーズしてもいいわけだし、とかね。
で、このなんか昔に、これ2017年なのでちょっと前なんですけど、
そういうVRでのプロポーズをしたっていう人の事例があったんですね。
はい。
オーストラリアのアレックスさんという人が彼女にプロポーズをしたと。
彼女に、はい。
で、2人ともゲーマーで、サバゲーじゃないな、なんていうのかな。
銃を持ってバババババンってヘッドセットをつけながらやるようなゲームを行う施設みたいのがあるので。
はい、ちょっと整理すると、バーチャルの世界の中での彼女なんですか?
それともリアルな世界での?
リアルなリアルな。
ああ、そういうことね。
確かに。そこはリアルな人間2人なんですけど、
ああ、OK。
そう、そのリアルな人間2人がいて、その2人ともヘッドセットをつけて、バーチャルリアリティの中でゲームをしてるわけです。
リアルの世界で彼女で、バーチャルの世界でも一緒に遊んでるということね。
そうそうそうそう。ややこしいですね、これね。
それで、2人でゲームをしていました。そしたら、画面がバーって変わって、
なんかこう、街並みが急にオシャレになって、
で、彼は目の前に立って、彼、バーチャルの中ですけどね。
目の前に立って、お花を持っていて、指輪を持っていて、
で、なんだ、どこだろうっていうふうにこういうありを見渡したら、
自分の、その彼女のね、彼女のおばあちゃんの家、もうないのかな。
もう存在はしないけれども、昔あったおばあちゃんの家っていうところにすごい思い出があると。
それを仮想空間で再現してあげた、改善してあげたっていう感じなんですね。
その思い出の場所を作って、そこで、仮想空間の中でひざまずいて、プロポーズをしたと。
あー、なるほど。
いう事例はありました。
あー、面白いですね。
まあ、リアルの世界にはもうなくなっちゃってるけど、バーチャルの世界でそれを再現して。
すー、すー、すー、すー。
っていうことがあったということで、
で、これをやる人がいるということは、そこにも職業があって、
はいはい。
その、3Dモデラーとか、バーチャルリアリティを作る人のフリーランスの中には、
VRプロポーザルも、プロポーズね、VRプロポーズもできますよ、みたいな。
42:02
僕はVRプロポーズを専門でお仕事してますよ、とかっていう人もいると。
それは、だから、その周りを全部お膳立てしますよ、的な?
そうそうそうそう。作ってあげるよ、あなたの希望を。
なるほどね。
を再現してあげる、ってことね。
あー。
そんな職業考えたこともなかったけど、今は存在するのね、っていう。
そうだね。面白いね、それ。
ブライダルプランナーも、実際の世界ではどういうお花を用意して、
どういう会場で、っていうね、仕組み立てをする人ですけれども、
それが今3Dの世界になって、場所はどこがいいですか?
宇宙がいいですか?アフリカがいいですか?とか、動物がいいですか?とかね。
過去がいいですか?とかもね、できるもんね。
過去の。
なんでも。
江戸時代がいいですか?とかね。
だいぶリアルの世界の結婚式よりも自由度が高くなるよね。
遊び心が燃えてきちゃう感じだよね。
そうそうそうそう。どこまででもなんでもできるから。
そうだよね。
うん。
まあ、それってさ、でもこう気持ちが高ぶってさ、
うわー、おばあちゃん家にいるとかさ、で、結婚するんだって、
気持ちがドキドキした後にさ、
この眼鏡をパカッと外した後に、現実に戻る時ってどういう心境なんだろうね。
確かに。
なんか、現実戻っちゃったみたいな。
2回やるってことで、その中でやって、外してまたもう1回みたいなね。
それも考えとかないとね、その外した後の、もう1回サプライズあればいいけどさ、
普通になんか汚い部屋で戻ってきたぞみたいな。
でも確かに例えば、いろんな理由でどこか遠くへ行けないとか、旅行ができないとかっていう時に、
行きたいところを再現してあげて、例えばね、
ないあがるの滝の中で水を浴びながらとかできるかもしれない。
それはね、今思い出したけどね、
前にロサンゼルスに来てたね、若い何さんだったか忘れちゃったけど、
ソフィちゃんも知ってるかな、VRを使って、
もうお年寄りの方で、もう体が不自由で旅行にも行けないけど、
あの、なんだっけ、昔行った、旅行に行った場所の、思い出の場所をVRで見せてあげたりとか、
それをするために世界中回って、世界中の写真を360度で撮って歩いてる。
45:05
クラファンで、やってる子がいてね、ずっとフェイスブックとか、
ソーシャルメディアでつながってるんで、ちらちら見て、
頑張っとるなーと思って、すごいなーと思いながら見てますけど。
そういう使い方もあるよね。
あと、みんなが集まれなくても、みんなで、もしヘッドセットがもっと普及して、
みんなで同じところに集まれるようになったら、トップルポーズのときも全員一緒に集まれるようになるかね。
確かにね、お客さん、そうだね、離れててもみんなで集まってってことができるもんね。
そうそう、とかできるかもね、って感じです。
そういえば、Appleがそろそろ出しそうだよね。
って言って、2,3年経ってるけど、そろそろ絶対出るかな。
この間写真見たよ、なんかで、記事。写真っていうか、デモ機っていうか。
はいはいはいはい。ね、ずっと言われてますよ。
そうなんだね。
確かにずっとこの業界、ずっとくるくるって言われて、4,5年経ってるっていう。
あれ?みたいな。
あんまり状況変わってねえような気もする。
そう、そんな気がする。
さっきさおりちゃんも言ってたね。
盛り上がっているようで、沈んでいるようで。
そうそうそう。注目ではありますね。
そうだね。
はい。ということで、リアルアメリカ情報でした。
はい。
はい、では、締めのコーナーです。質問。
はい、質問。
タイセンさんのお話にあやかってですが、
はい。
さおりちゃんは、今のね、旦那さんとか、今までお付き合いした方たちとかのこの、いわゆる記念日というやつを、
はい。
どこまで覚えてますかっていう質問を投げてみようと。
なるほど。どの記念日は、付き合った日。
は、付き合い始めたというかその、ははは。
そう、付き合った日と、結婚記念日。
はいはいはい。の2つ。
と、誕生日。
誕生日。これぐらいかな。
ちなみに何年とか覚えてる?
最近と言えば最近だよね。
5年前ですから、まあまだね。
え、それ、みつさんは?
いやでもまあそんなもんだよね。俺もだから、えっと、だから僕妻の誕生日と、結婚記念日?時間覚えてねえよ。
48:13
結婚記念日の方はもう何年だったかあまり定かでないっていう感じですね。
付き合い始めた日とかなんて絶対覚えてないんだけど。
いやだからタイセンさんがめちゃくちゃ日付覚えてたじゃない。
なるほどね。
いろんな。
すごい。
もしくはだから自分がアメリカに来た日とかさ、覚えてる?
まあそれ覚えてます。
マジで?
うん。
全く覚えてないんだけど。
覚えてる日と覚えてない日があるけど。
そういう覚えてる日ある?他に。
えー、なんだろう、でも昔、なんか最初の頃。
最初ってなんだよ。人生の最初の頃。
中学生とかね、すごい最初に好きだった、なんか先輩の誕生日とかっていまだになんか記憶に残ったりする。
マジで。
ない?
いやまあ、そうね、彼女の誕生日で覚えやすいやつは覚えてたりはするけどね、前に付き合ってた彼女とかのね。
なるほどね。
いやー、でもこれって日付って覚えられる人と覚えられない人が絶対いると思うんですよね。
まあ得意な人とそうじゃない人とね。
そうそうそう、もううちの旦那は全然、私の誕生日もギリだから。
マジやばいよね。
毎年。
それはもうアラームで入れとけって言っとかないと疲れんじゃん。
そう、入れ、ダメなんですよ。
10日ぐらい前から。
そうなの。
アテンションメールを送って、間もなくあなたの奥さんの誕生日がやってきますって。
しないと。
リマインダーを入れてかないと。
そうそうそうそう。
いやーでもさ、昔は携帯がなかった頃は、
うんうんうん。
実家の電話番号とか、友達の電話番号とかはやっぱ記憶暗記してたのは。
確かに。
確かにあるから、そういう年代生まれたからこそ覚えてんのかなとか思う、今ふと。
今の子はさ、別に記憶しなくてもいいわけだからさ、そこは多分機能しないと思うんだよね。
めっちゃグッドポイントじゃないですか、それ。
ね。
だから、昔の人ほど覚えてんのかなーって。
かもしれない、うわすごい、その通りだ。
ねー。
確かに、面白い。
面白いよね。
いやいやいや、ちょっと次回も楽しみですね、お話を伺うのかね。
でわでわでわ。
おもろい。
おもろい。
おもろいって言うとちょっと失礼ですけど。
51:00
すごい貴重で。
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ということで今週も聞いてくださってありがとうございました。
ありがとうございます。
また来週お会いしましょう。
じゃあね。
52:06

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