1%の情熱物語
海外に住んでいる日本人は、日本人総数のわずかに1%。
この番組では、海外進出や起業を果たしたビジネスオーナーや経営者、
また各業界のプロフェッショナルな方々へ、対談形式でインタビューをしていきます。
日本の未来を背負うグローバルなプロフェッショナルたちの仕事哲学と、
そこに燃える情熱に迫ります。
こんにちは。
1%の情熱物語394回です。
みなさん、お元気でしょうか。
元気でしょうか。
この収録ね、ゆなさんと、今、日本とLAでやってますけど、
ついに1週間前にやったばかりなんだけど、
ちょっとね、いろいろ都合上、またやってるんで、
まだだから、ゆなさんは日本に今いるということで、
そうなんです。
どれぐらい?2週、2,3週間はいるんだよな、だから。
ちょうど2週間ちょっとぐらいかな。
ですね、はい。
どうですか、日本は。
いいですよ、日本はやっぱり。
いいですか。どこら辺がですね。
ご飯がおいしいです。ご飯がおいしいですね。
もう、今だから午前中なんですけど、
朝も卵かけご飯なんて食べちゃって。
そうだよな、生卵はどうしても食べれないな、まだというか。
食べてる人、中にはいるんですけどね、こっちでも。
半熟ぐらいで、ちょっと生にいけないっていう。
アメリカでは、ほんと工夫を凝らして、温泉卵みたいなものを作って、
生卵の気持ちを味わうみたいなことは、結構やりましたけど、私も。
いいな、しかもさ、日本って卵かけご飯専門店みたいなのもあるじゃない。
あります。
卵選べるんですよ。
ね、なんかタレもいっぱいあってね。
すごいですよね。
でも、外国人の方、いっぱいいますよ。
たぶん、観光だと思うんですけど。
東京ですか、今。
東京です。
すごいです。
そうだよね、今から桜の時期だからね。
今からって、これ収録してんのが、だから3月の中盤ですけど、今から桜が咲くからね。
ね、いい時期ですよね、やっぱり。
季節的にも、気候的にも、寒すぎず、っていう感じなので。
まあでも、やっぱ花粉症って、でも外国の方も花粉症なのかね。
どこなんですかね。
日本の方は、わりと何割ぐらいなんだろうね。みなさんも花粉症なんだよね。
私は花粉症ですけど、ひどい人を見ると、私はそこまでではないですっていうぐらいの花粉症なんですけど。
いやでも、わりと多いよね。裸でもう半分以上花粉症なんじゃないかみたいな。
ほとんどだと思います。我が家は家族、両親と妹、ひどい花粉症なので。
つらいよな。
花粉症じゃないっていうと珍しいね、みたいなイメージです、もう。
いや俺ね、花粉症じゃないっていうと、だったはずなんだけど、なんか去年あたり、すげえ疲れてる時に、
これが花粉症ってやつか?みたいな、腹が垂れてきて、みたいなことはあったけどね。
でもそんなにまだだから、たぶんやっとこの入ってきた感じだと思うんだけど。
でも今年は全くそんなのないしね、なんかわりと元気ですけど。
あ、そうですか。
だから、もしかしたら外国の方が日本にちょろっと滞在するぐらいだったら大丈夫かもしれないですしね。
そうかそうか。
ちょっとそのあたり詳しくないんでわかんないですけど、でもいい季節ですよ、今はほんとに。
で、すべてドルで換算すると安って思いますし。
まあそれはね、感覚的にはね、そりゃそうだよね。
すっごいいっぱい食べて、20ドルみたいな、2人ですっごいいっぱい食べて、20ドル安!みたいな感じで、毎日ハッピーに生活してます。
歯医者とかもね、俺びっくりするもんな、昔。昔、歯医者に日本に帰ったときに言って、300円ですよとか言われて、は?と思った。
全然違いますよね。
間違えてないですか?みたいな。
楽しく過ごしてます。
そうすか。羨ましい限りで。
僕もちょっとね、5月末ぐらいに日本に帰ろうかと思ってるので、ちょっと楽しみにしておりますが。
いいですね。
はい。
じゃあ行きましょうか、本編のほうに。
はい、参りましょうか。
いつ戻ってくるんでしたっけ、サンフランシスコに。
えっと、3月の終わりには帰ります。
あ、そういうことですね。わかりました。すみません、余計な、変なタイミングで聞いてしまった。
いえいえいえいえ。
はい、お願いします。
では、参りましょうか。
毎回一人の方のインタビューを4回に分けてお届けしています。
1%の情熱物語。今回はゼットンハワイCEOの長谷川誠さんにお話を伺っています。今回は2回目のエピソードですね。
はい、マイルドさんこと長谷川さんのお話。
先週がね、活動内容ですね、伺ってたりしたんですけど。
えっと、今回が、おいたちから今のポジションに行く前に、その前にオーストラリアにワンホリデー行ってたりね、そして今ハワイというね。
まあちょっと聞いてもらったほうが早いかと思うんで。
はい、それではお楽しみください。
まずお生まれが東京都。
どのあたりですか?大都会ですか?
東京都の足立区。東京の外れですね。足立区の竹戸塚というところで育った一般家庭の少年でございます。
どんな子供でしたか?客観的に。
そうですね。客観的に、でもまあ元気でしたし、スポーツも好きだったし、音楽も好きで。
それこそ、中学校とか高校の3年生ってお別れ会みたいなのがあるじゃないですか。
卒業式。
卒業式の中3の人たちが中1、中2の子たちにもよしものをするみたいな、そんなのがあったんですよ。
で、僕やったのはもう防衛でしたね。ビーブルーで始まって。
プラスティックバムというその2曲。中3です。
それがバンドで?
バンドで、僕ボーカルで。
そうなんだ。
14歳、氷室京都で歌ってました。
あ、そうですか。
そうですね。
それは本当にセキュラメ入りですね。
そうですね。で、ワンパックボーイ、中高校に入って、高校はですね、秋葉原、宇佐久沙橋の公立高校に通ってたんですけども、
その時、部活はちょっとてんてんとしてからしちゃってて、ずっとこうした部活っていうところの過ごし方じゃなかったんですが、
高校はアルバイトしてお金貯めて、で、本当に街に出て遊ぶっていうのがすごい大好きで、
渋谷、原宿、あと六本木、とにかく六本木に憧れてました。
で、
六本木に憧れるっていうのはどういう大人の感じが憧れてたってことですか?
当時ですね、大人の感じで、ディスコからクラブに移り変わる時代だったんですね。
はいはいはいはい。
はい。で、いろんなね、それで面白いのがね、子供の頃ね、つっぱりマムガーとかいろんなそういうのも好きだったんですけど、
ああ、湘南幕僧族とかね。
湘博とかも大好きです。もう江口陽介スーパーヒーローですね。湘南幕僧族。
そこにね、シャコタンブギーっていう漫画があって。
はいはいはいはい。
車の。
はい。で、そこでね、六本木のディスコのシーンがあったんですね。
で、いろいろその六本木のディスコの世界っていうのがかっこよくて、憧れて、黒服着て華やかなっていうところであったりとか、
ちょっとね、背伸びしてそういういろんな夜のね、バーだったりとかそういったところ。
高校生ですか。
そうですね。ちょっと覗き見して。いろいろ止められちゃったことも多いんですけど。
お酒。
ちょっとワンパック。ワンパック小僧でしたね。
なるほどね。まあまあまあ。もう時効だと思うのでいいと思うんですけど。
そうですね。
ワンパック小僧。
そうそうそう。で、やっぱり六本木の街を歩いて、すごくあの、なんて言うんですかね、インターナショナルな世界にすごく憧れていました。
なので、僕ですね、高校を卒業する時に行ってた学校が新学校だったんですよ。
新学校、はい。
本当に次、大学目指すメンバーが多かったんですが、その中でちょっと一握り就職活動するメンバーがいて、
で、僕も就活してて、2つ候補で出たのが、1つが東京会館だったんですね。
はい。
で、もう1つはですね、別のディスコの会社だったんですよ。
そうなんだ。
僕はね、そっちの世界、本当は行きたかったんですがね、当時はお母ちゃんと話して、頼むから東京会館行ってくれって話してたんですよ。
それはそうですよね、親御さん的には。
でもね、あの時もちょうどバブルがね、高1ぐらいの時に弾けて、で、お父ちゃんは、うちのお父さんはトラック運転手だったんですよ。
はい。
トラックの運転手。
そうなんですか。
でね、あの、ちょっと誠、あの、ミーティングだって言って。
うん。
これこれしか、たぶん大学行かすのは難しいから、まあ行きたいと思うんだけどって。
本当に行きたいならめちゃくちゃ勉強して奨学金取れって言って。
ああ。
車の免許を取りたいとか、そういったところだったらサポートできるけど、あの、限界があるから先に言っとくって、高校1年の1学期に言われたんですよ。
そうなんだ、新学校に入ったほうがいいが。
全然。
あ、じゃあお父ちゃん、じゃあオッケーって分かったよって言って。
じゃあ、俺大学行ってもやっぱり六本木やら街に憧れてて、いろいろ当時ですね、ジュリアナだったりとかいろんなものがあったんですね。
ああいった大人の世界。
じゃあ、あのちょっと今、そうですね、今から背伸びしていろいろ、あの、アンテナ上げて、あの、就職するよみたいな。
そんな話で、だからね、カクテルとかにすごい興味持ってたんですよね。
なるほどね。
で、そこで東京会館、そう、東京会館につながるんですけど、当時ですね、あの、いろんなカクテルブック読むんですが、僕の中で3大バーテンダーの方がいて、クラシックですよ。
パレスホテルにミスターマティーニと呼ばれる今井さんという方がいらっしゃいました。
あと、資生堂パーラ・ロージエというレストランの上田さんという方と、今でもモーリバーという銀座にあるもう、あの老舗のですね、バーがありまして、その皆さん、東京会館のメインバーを出身なんですよ。
ああ、卒業生というか。
そうなんです。
はいはいはい。
もうバーテンダー、一流バーテンダーの東流も。
なるほど。
で、バー学ぶなら東京会館だなっていうところが僕の中であって、最終的にいろいろ倍率も高かったです。10倍くらいあったかな、あの時。で、合格できて。
素晴らしい。
で、東京会館に入りましたね。
実際にこの何、実際にというか、バーテンダーやってみたいなっていうイメージがあったんですか、憧れみたいな。
そうなんですよ。それもですね、地元に竹之鶴にですね、めちゃくちゃかっこいいバーボンバーがあるんですよ。リトルヒューストンって言うんですけど。
へえ。
今もありますよ。僕毎回日本戻ると行くんですよ。
ああ、その方ヒューストンに行ったのかな。なんでリトルヒューストンなんだ。
なんかね、創業の方はお父様で、今息子さんがダイツがれてるんですけど、お父様ね、もうほんとかっこよくてウエスタンボーシでヒゲをあってもう。
アメリカンだ、アメリカン。
もうね、ドノバンフランケンレイターです。
リタカさんもわかってくれる?
はいはい、大好きです。
ジャパニーズドノバンです。
ジャパニーズドノバンと竹之鶴でバーボンバーやってたんですよ。
それは行きたいかも。
最高じゃないですか。今でもあるんですよ。
そうなんだ。
そう、町の人たちがいっぱい集まってそこに。
で、いろんな楽しい話して、なんかこういうお店、いつか結婚して家族とか持つ時代が来たらなんか家族とこういうお店とかやれたらいいなみたいな漠然とした。
でもわかるな、憧れますよね。
僕も。
憧れますね。
美容室のアメリカナイズされた先輩というかスタイリストさんに憧れてましたから。
なんていうんですか、雨車乗ってる感じのね。
そういうの憧れちゃいますよね。
そうですね。
それでも無事というか、お母様のアドバイス通り東京開会に入った。
でも僕その頃からやっぱり自分の未来にフラッグ立てる癖があったんですよ。
僕5年で東京開館で飲食学びきって、町場のレストランで勝負したいっていうのが偶然とあったんですね。
勝負っていうのは自分の店を開きたいっていう意味ですか。
町場のレストランで飲まれて、自分がそれが独立なのか、参加したチームの中で当格を表すか。
いずれにしても一旗上げてやるぜ、みたいな。
そんな気持ちを持って東京開館に入って、丸5年後の3月31日に退社しました。
すごい、本当に有言実行ですね。
そうなんですよ。その頃のちょうど4年目ぐらいに、当時もうネット社会じゃないんで飲食情報全部雑誌なんですよね。
デザイナーズレストラン戦争だったんですよ、東京の中が。
何年ぐらいだろう。
ちょうど2000年ですね。1990年後半から2000年の六本木で言いますと、
それこそ大阪ではちゃんとダイニングさんというレストランのチームの方が六本木にお店出してたりとか、
北海道の方、広島の方、いろんなところから東京で勝負にこらえてる方がいて、
その時に見たのがデットンという会社で、まだ名古屋で4店舗か5店舗ぐらいの創業の稲本さんがフューチャーされて、
アイラブレストランというシリーズ3まであったんですけど、その2ですね。
で、それを見てた時に、当時まだデットンは東京にもお店なかったんですが、
この僕チームは絶対東京に出るし、絶対世界に出るだろうなってなんか思ったんですよね、その記事を読んだ時に。
そうなんだ。
僕も海外やっぱり出てみたいという気持ちはあって、当時他に就職したいなって思ってた会社があったんですけど、
いや待てよと、おそらくこの会社は絶対すごいことになると思うから、今から入って、鍛えられて叩かれて、
その中で当格を表せたらいいんじゃないかなっていう気持ちを持ってね、
入ったのがゼットンの東京基幹店銀座ゼットンというお店なんですね。
東京新室の1号店ってことですか。
正確に言うと2号店なんですが、1号店はエビスのエビスゼットンというね、ちょっと小規模のお店がオープンして、
その後東銀座に銀座ゼットンという建て積み、5階建ての建て積みの大きいプロジェクト。
そこのね、オープニングアルバイトに入った初日に着いたのがマイルドだったんですよ。
あ、あだ名がね。ここで出たマイルド。
20、25年前ですよ。
それ当時おいくつぐらいの?
当時24でしたね。
え、それはどういうストーリーなんですか、その前で。
ストーリーはですね、それで僕がですね、ゼットン面接行って、でも当時履歴書紙ですよ。
で、僕ね、ゼットンもイケイケでも強くてみんな尖ってるんで、ちょっと入れなきゃと思って、
僕のとこにギターサーフィンゴスペルって書いてあるんですよ。
ギターサーフィンゴスペル、はいはい。
ゴスペル。で当時ゴスペラーズ流行り始めたときで、
僕ねゴスペルのそういうグループみたいなとこにちょっと入って、なんかそういうセッションみたいなのやってたときがあったんですね。
あ、そうなんですね。歌歌ってたときですね、合唱というか。
歌歌ってて、そうですね。で、それ書いたら、あの、はずがですって入ったら、
当時そのときの店長さんがね、しんすけさんという方で、
後のゼットンの2代目社長になられる鈴木しんすけさんという方が、
当時の、それから東京を広げるというところで、東京事業の本部長として店長権認で来られてた方がいて、
で、しんすけさんが、あのゴスペル来ましたよって言って、
もうツボに入ってくれたんでしょうね、面接を見てくれた方が。
で、あ、ゴスペル君来たかって言って、待ってたよって、そっから面接始まって、
お前なんかめっちゃおもろいやつだな、みたいな話になり、
で、いろいろこう、そう、あの、オープニングトレーニングでね、
で店長さんってやっぱ初めましてで、最初ってみんなの名前と顔が合わないんですよね。
で、僕のことを呼びたくて、あの、あのめっちゃくちゃマイルドなやついるから、
あの、マイルド、あのめっちゃマイルドなやつ、あの子呼んでくんない?っていう風に言ってたけど、
みんなわかんなくて、で、あれマイルド、あのインカムで、
あのマイルドさん、マイルドさん誰ですか?みたいな。
あ、まこすさん、まこすさんですよって、あ、俺、もう、あの君はマイルドでいこうってなって、そこから、
マイルドが始まり。
素晴らしいですね。
すごいですね。で、もう夜、クロックアウトして夜はマイルドで、あの、もう通して。
もうやってましたね。
長谷川さん的にも、そのニックネームは嬉しかったっていうか、気に入った感じだったんですか?
なんかもう今や自分の名前になっちゃってますね。
なんか面白いけど特徴あるし、いいかなって最初は感じでしたけど、
なんかすごく皆さん楽しんでくれるんで、そのエピソードも。
じゃあ皆さんにはマイルドさんって呼ばれてるんですか?
そうです。もう僕、名刺もあの、まず真ん中にマイルドって書いてあって、
もうかっこまこと長谷川みたいな。
そうか。じゃあ僕も今日、今からマイルドさんと呼ばせてもらいます。
マイルドさんって大丈夫ですか?
そうか。素敵だなあ、それは。
なんか、え、でもそこからずっといらっしゃるわけじゃないですよね。
そうですね。そこから、えっと、その銀座ゼットンのアルバイトをですね、
10ヶ月やって、で、オーストラリアにワーキングホリデーで行ったんですよ。
ああ、ですよね。それはね、あの、どこかの記事で読ませてもらって。はいはいはい。
ありがとうございます。
プロフィールにも書いてますね。はい。
ありがとうございます。僕、東京会館辞めて約1年、いろんなことやったんですよ。
やっぱり自分の中で飲食入ったんですが、なんかこう、やっぱり歌だったりとか、
人の前に出て、そう笑わせることとかもすごい楽しかったりとか。
でね、書き出したんですよ。25個項目あったんですね。
書き出した。
自分がやりたいこと、そう、ヒップホップダンサーから開始して。
幅広いなあ。
当時、あの、エグザイル広座、その前の順ですよ。チューチュートレインの。
僕らでも中学校ぐらいの頃、ダンス甲子園も流行ってましたけどね。
ダンス甲子園、そうですそうです、もうかっこよくて。はい、それ全部書いて。
まあまあ、チューチュートレインの項目。
で、それをね、チューチュートレインから。で、東京会館からゼットンに入るまでね、
ちょうどその1年間、まあ言ったらフリーターの時期ですね。
に、その25個、もう全部やって。
全部やって。
でもその時にね、出会った人たち。
舞台やってる方とか、芸能やってる方とか、いろんな繋がりで。
本当はその時ね、僕、銀座ゼットンは夜バーテンダーしてて、
当時、渋谷マークシティが開業したばっかりだったんですね。
そこのね、渋谷マークシティという駅ビルがあったのではないですか。
にあるね、飲食店のアルバイト。
昼はそこの渋谷のアルバイトで、夜はこう、銀座のゼットンのバーテンダーの手持ちでやってたんですけど。
その時にね、いろんなことを、刺激を受けて。
で、海の生活、ビーチボーイズ。
もうめちゃくちゃ、ドラマ竹内さんとソリマチさんの。
それはね、すごい長い話になっちゃうから、僕、話したいんですけど。
影響を受けて、僕ね、あのドラマ見て、
マイク、マキさん、ここは俺の海だと。
お前たちの海は自分で探せ、みたいなセリフがあって。
来た。東京海岸バーテンダーやってた時です。
それがね、来た、言われたと思って。
履歴書40枚、手書きで書いて。
千葉の外部をですね、
あれ側から、肩貝まで、
いろんな、ここなら仕事できるっていう、ホテルとか民宿とかペンションに、
全部履歴書入れてったんですよ。
温宿の、
今でもあります。
それでね、一件だけ電話かかってきて。
とにかく海の近くで働きたかったんです。
海の近くに住みたいって。
で、当時フリータナーだったんでね。
で、お兄ちゃん、何だあれ見たぞって言って。
海でやりてえのかって言って。
一夏やりてえぜって言って。
当時5月の終わりぐらい。
じゃあどんぐらいやれるって言ったら、やれるまでやれますって。
じゃあ4ヶ月ぐらいやるか一発って言って。
いつから来れるって。
あさってから行きますって。
お兄ちゃんに温宿まで車乗せとってもらって、竹野塚から。
で、一夏の経験して。
そこでね、本当に同居してた男がね、
もうビーチボーイズさながらサーフィン大好きで世界旅してる同世代のね。
京都から来た男性だったんですよ。
でね、彼がねオーストラリアから戻ってきたばっかりで、
すごいねオーストラリアの話いっぱい聞かせてくれて。
で、オーストラリア行こうと決めて、
で、行くなら100万円貯めようと思って。
で、温宿から各駅停車で東京に向かって帰る時に、
フロムA見たんですよ。
そしたらそのフロムAにね。
旧人雑誌ですね。
旧人雑誌。
そこにね、ゼットン東京寝室っていうのがバンと出てて。
うわ、やっぱり来たと思って。
そのままね、すぐゼットンに駆け込んで仕事させてください。
100万円貯めるためにってことか、100万円貯めるためにゼットンさんに入られたってことですね。
そうなんですよ。
あ、ということは100万円貯まって、辞められてオーストラリアに行ったと。
そうですね、行きました行きました。
そこら辺もかぶってるな。
僕はトヨタ自動車の工場で100万円貯めて、LAに来ましたけど。
そうですか。
いやー面白いな。
でもそれはもう千葉で夏働きながらサーフィンもして。
そうですね、サーフィンしました。
でも本当に立装のビーチボーイな感じになって。
そうですね。
で、オーストラリアに。
ちょっと今テクニカルプログラムで一旦落ちちゃったんですけど。
オーストラリアに行くところからじゃあちょっと今から。
オーストラリアに行くところからですね。
ビーチボーイズに憧れて一夏千葉で過ごしサーファーになり、そして100万貯めてオーストラリアに行くぞと。
オーストラリアに行くぞ、行きました。
オーストラリア最初ブリスベンに行きました。
ブリスベンってどの辺ですかね。
ブリスベンっていうのはですね、オーストラリアって大きくまず出てくるのがシドニー。
あとメルボルン、ゴールドコーストとかケアンズとか出てくるんですが。
ブリスベンというのはゴールドコーストというちょっと暖かくて、それこそサーフィンね。
波がめちゃくちゃいいところから車で1時間ぐらい内陸に走った。
都会っちゃ都会なのかな。
都会ですね。第三の都市と言われます。
順で言うとブリスベン、ゴールドコースト、バイロン・ベイですね。
なんかすごい良さそうなところですね。
良いところですよ。
ブリスベンは一番の目的はゴールドコーストだったんですね。
サーファーズパラダイス、もうそのまんまの場所があるんですが。
そこでサーフィンして英語を覚えて、ワーキングホリデー当時1年で終わりだったんで。
日本に戻ってゼットンで社員で戻してもらいたいっていう話で行きました。
それ行く前からそういう話されてたんですか?
そうですそうです。ゼットンに入る時からおよそ1年で100万円食べてオーストラリア行きたいですと。
英語上手くなって世界観上げてサーフィン上手くなって戻ってくるんでゼットンに社員で戻してくださいっていう。
なんかお前なるほどなってておもろいやつだなっていう。
それはおもろいやつだなって思いますね。
そうですね。それで行って、でも英語がほんとゼロだったんで。
やっぱり最初にサーファーズパラダイス行っちゃうとすぐパラダイス始めちゃうだろうなって僕思ったんですね。
サーフィンばっかりして終わっちゃうだろうなみたいな。
なのでまずブリスベンで3ヶ月から4ヶ月しっかり英語学校行ってまず英語の基礎を勉強しようというところで行きましたね、ブリスベンに。
最終的に英語をちょっともっと勉強したいと思って結局7ヶ月エクステンションしてブリスベンで勉強して、
違う違う違う、4ヶ月ブリスベンでゴールドコーストで3ヶ月もう1回勉強したんだな。
そこからおもしろいことになりまして地元のレストランで仕事を始めましたと。
トルコレストランだったんですよ、それが。
トルコレストラン。
ターキッシュレストラン。
サーバーってことですか?
そこのサラーライです。
サラーライ。
最初サーバーやりたくて入ったんですが英語が全然まだまだだったんで、
じゃあ一回洗い場から始めようって言って、じゃあオッケー任せてくれって言って仕事始めたんですけど、僕動き半端ないんですね。
もう東京会館とゼットンで鍛えまくったんで、尋常じゃないんですよ仕事っぷりが。
自分で言うのもなんなんですけど。
そこのオーナーがお前やべえなってなんなんだその気づきと動きは。
当時キッチンが大変でそのレストランが。
興味あったらキッチンやらないっていう話になって、僕料理はねゼットンの時にちょっとやってて、
あとバーテンダーでずっと鍛えてたんで手際よくやれたんで、もう何でもやるぜって。
でトルコレストランのなぜかシェフになり、トルコピザを担当し、ピザ職人になり。
そこのオーナーがお前なんかすごくできるから、もっと残った方がいいよってアドバイスくれたんですよ。
1年で帰る予定だったんですが、当時ジェフっていうオーナーで、今でもフェイスブック友達ですジェフとは。
ジェフが、俺たちもトルコ人ビジネスオーナーとしてここからビジネスエクスパンドしたくて、
ぜひ僕、マカってあだ名が言われてたんですけど、マカに入ってほしいって言われて。
その日本人ターゲットの担当として。
いやそこまでは考えれないけど、ただここから学校行ってホスピタリティとかクッキングの。
試験パスしたら多分A受験取れるぞって教えてくれたんですよ。
オーソラリアの。
いやそれはちょっと興味あるぜってなって。
残ることを決意し、ホスピタリティマネジメントのディプロマカレッジに入って卒業してA受験取ってっていう流れがあったんですね、その後。
A受験っていうのはアメリカと同様にスポンサーの会社が必要な感じなんですか?
いや自分で取るんですよ、オーソラリアは。パーマネントレジデンス。
その会社は関係なくて、学校卒業したら頑張れば取れる。
そうですね。学校卒業して、あと職業別に僕はシェフで申請したんですね。
なのでキッチンの経験と、学校のシェフコースのテストのリザルトだったりとか、英語のIELTSって英語の試験があって、そのテストの点数でクリアしたらA受験が取れるっていう。
ところでね、A受験が取れて、3年8ヶ月トータルだとゴールドコーストに住んでましたね。
へー。すごー。
でもゼットンさん的にはあいつ帰ってこないなーって。
そう。もうね、当時あれですよ。インターネットカフェですよ。今みたいなパソコンでこれじゃないですから。
インターネットカフェ行って、日本に電話する時も海外国際電話テレフォンカードを買って。
買ってましたわ、僕も昔。
その時代で。で、当時の鈴木信介さん、僕の名前を付けてくれた、マイルドさんをね。
マイルドのですね、ボスですね。と、もう密にコンタクト取ってて、この信介さん実はもうちょっとオーストラリアにいたくなっちゃいましたってなって。
お前何言ってんねんって。ゼットンがぐわーっと成長過程にあったので、お前戻ってきたらこうこうこうっていうキャリアビジョンも考えてくださってたんですね。
なるほど。
ただ、やっぱりね、オーストラリアでもう少し可能性広げたいっていうお話をして。
じゃあ、まあならば、やり切れっていう風に言ってくれて。
で、お前やるだけやり切って、自分の目標を達成して、その後にまた戻ってきたいって思えるような会社にしとくからって言って。
うわー素敵な話やわ。
もうその男の、男セッションが繰り広げられて。
そうなんですよ。それでですね、3年8ヶ月で永住ビザが取れて、僕、ゴールドコストマリアットのベニハナっていう鉄板焼きのレストランで仕事をしてたんですね。
で、ホテルからも社員のオファーもらってて、オーストラリアも最高なので結構悩んだんですよ。
いやもう王子になっちゃうかなって。
仕事ぶりを見せたわけですね、そこで。
俺、王子になっちゃうかなって。
すごく、今でもね、兄弟、家族のような仲間たちいっぱいいるので、オーストラリアに。
そんなメンバーとオーストラリアで生活、悩んだんですが、しんすけさんと遠隔でやり取りしてて、ちょっと心を委ねたのがですね、
これから六本木で三井さん、三井不動産さんが10年に一度あるかないかのビッグプロジェクトを今進めてると、デベロッピングを。
そこの入り口に店舗を取れるかもしれないっていう話があって。
もうコンペティション最終段階まで来てたんですね。絶対取ると。お前取ったらこの店やらんかっていう。
それがですね、東京ミッドタウン、六本木の入り口にですね、今でも六本木のオランジェっていうシャンパンビストロがあるんですけども。
そこの店なんですね、ゼットンが運営してるんですけど。
それはすごいな。それはすごいけども永住権取れたんで、3年経ったら戻ってこないといけない条件だったんですよ。
亡くなっちゃうよってことですか?
亡くなっちゃうね。そうなんですよ。で、しんすけさんと言って、3年限定でも大丈夫ですかって言って。
とりあえず戻ってこいって言って。戻りますって。
でも子供の頃から憧れてた六本木ですからね。
そうなんですよ。だから東京会館に一度挟みながら最終的に、ディスコじゃないですけどね、シャンパンビストロで黒服でマネージャー。
それ良かったって感じですね。
六本木でね、当時2006年から2009年でしたね。六本木もすごくエネルギッシュな時代でしたね、その時に。
じゃあ立ち上げを任されて。
そうですね。立ち上げメンバーでそこを開業して、数ヶ月、7ヶ月、8ヶ月で2代目店長を受け継いで、トータルで3年間、六本木でお店を仕切っていて。
その期間になんとゼットンがオーストラリアシドニー、オペラハウスの目の前にあるオーストラリア国内でも指折りの絶景レストラン、オーシャンルームという200席のモダンジャパニーズの和食レストランだったんですが、そこをMAしたんですよ。
それはでも、マイルドさんがいるからっていう目論みがあってからなんですかね。
当時ですね、やはりマネージメントの方、稲本さん、当時稲本社長をはじめ、新助さんとは僕の中でももうちょっと雲の上の存在のオーナーシップの方たちだったので。
会長みたいな存在ですかね。
そうですね。なのでどこまでの議論があったかは確実にはわかっていないんですけども、でも僕のような海外で勝負したいっていうメンバーたちにその機会を与えてあげれるような、やっぱり海外出展は会社としてしていきたいっていうところで、ちょうどオーストラリアシドニーとアロハテーブルワイキキがほぼ同じ時期に開業になったんですよ。
あ、そうなんだ。
でもオーストラリアが先でしたね。
オーストラリア最初オープンして、その1年半ぐらいに僕がシドニー副任になって、六本木からゼットンオーシャンルームシドニーという会社に副任になって、六本木の黒服のマネージャーからバックバー、グラスウォッシャーからやり直しました。
それはでもそっか、そこはでも店長ではなくてってことなんですね。
そうですね、もうシドニーは別会社で、もうシドニー社のもうストラクチャー、そこのトップのダイレクター、ゼネラルマネージャー、レストランのストラクチャーがもう出来上がってる中に僕が入ったので。
まあ彼、現地のメンバーの方からしたらもう海のものだか山のものだかわからないサーフィン好きの少年、青年が。
やってきたぞと。
やってきたぞと。なんで?
そっかそっか、じゃあ元々だからもう運営がオペレーションされていた中に入ったっていう感じなんですね。
そうですね。
そっからどうなるんですか?
オーストラリアのお店の洗い場から始まって、そこからサーバー、レストランのスーパーバイザー、そしてレストランマネージャーになって、最後にレストランマネージャー兼現地のダイレクター、役員という職位をもらって、
5年間オーストラリアシドニーで、2009年から2014年まで勤めました。
100席入る、超大型ですよね、それって。
そう、超大型で、1階が150席で、2階のプライベートダイニングルームが50席あって、
そういう感じなんですね。
200名、もうすごいです。
よくニューイヤーカウントダウンの時に、オーストラリアが一番最初に年明けるんで、花火、ハーバーブリッジから上がるのって、
なんかイメージ、なんかテレビで見たことあるような、行く年来る年みたいなやつで、
オーストラリアシドニーみたいな感じなんですけど、もうあそこの真下の絶好ロケーションだったんですね。
いやーもうカウントダウンはとんでもないイベントでした、本当に。
そういう時ってどういう方がいらっしゃるんだろう、VIPの方しか入れないのかな。
VIPの方は多いですね。
お店もコース、3カテゴリーに分けて、トップのコースは6万円、7万円、2本円にすると。
お料理、ドリンク付き、そして小築売でですね、一番上、松が6万円、7万円、そして小築竹田、竹田と3万円、4万円で。
一番ボトムのところだと、テラスの1万円でエントリーできて、カクテルドリンクとカナッペ、みたいな。
そういう形なので、花火を見るみたいな。
1000万円、700万円、800万円、1日でセールス、レストランの規模としては、もうすごい大イベントでした。
前回ですね、結婚式ぐらいの規模のイベントですね。
結婚式5発同時くらいな、もうすごいやつでした。
でも5年間素晴らしい経験でしたね、本当に素晴らしい経験でした。
いや本当にいろんなこと経験されていらっしゃって、飲食一筋って感じでね、その中でもいろんな。
そうですね。
そこからでも戻られるってことですか?
そこから、そこを、そうなんですよ。
そのお店がですね、ちょうどサーキュラ、シドニーハーバー、サーキュラキーという船の大型船の船着き場だったんですね。
ポートだったんですよ。
そのポートの改築工事でキックアウトされちゃったんですよ。
レストランごと?
レストランごと、そこはもう本当に船着き場の倉庫に、もう今は改築されてしまってて。
当時、ゼットンとしてオーストラリアとハワイがあって、ハワイがすごくビジネスがこれからもっと展開強めていこうというステージ。
で、はたまたオーストラリアを移転して、もう一回作り直すかというジャッジの時期だったんですが、経営判断でハワイでビジネス集中しようと。
その時にですね、マイルドスでハワイ行くかっていう話になりまして。
英語も喋れるし。
そうですね。
で、僕もオーストラリアのビザがですね、心残りではあったんですけども、やっぱりね、永住県がね、やっぱりまだまだアドベンチャーしたかったんで、ちょっとぜひハワイやりたいですと意思を伝えて、2014年5月にハワイに来ました。
当時はまだ2店舗アロハテーブルとグーフィーを開けた直後でしたね。
でもちょうどその時僕は旧人広告を売り歩いてましたね。
すごかったですよね。あの時のハワイはまた今のハワイとはちょっと違う時代だったなって思います。
そうか、僕今のハワイはちょっとあまり知らないんであれなんですけど、コロナも減ってますしね。
そうですね、やっぱりアップダウンが大きい時代ですね、ここ数年は。
でもコロナも減って、もう徐々に徐々に回復をしていってるっていう段階ですね。
じゃあちょっとそろそろ次のセクションに行かないと時間を超過してしまいそうなので、今から仕事の掘り下げをね、いきたいと思うんですけど。
ということで、これまでの歩みでしたけれども、やっぱりこうやって海外で活躍される方は、いろんなところ、いろんなことを経験して、
やっぱり早い段階から海外に触れる機会があるんだなと思いましたね。
そうね。
まあ確か、わかりやすい中か、バーテンに憧れて、最初は都会のかっこいい大人に憧れてみたいなとこから入っていき、
それが東京会館、憧れのバーテンダーがみんな東京会館のメインのバーからの出身だったってことで、そこに繋がっていくんですよね。
まず東京会館がそういう理由で入社されたんだっていうのがびっくりしたんですけど。
有意識と正しい結婚式とかやるんだよね、きっとね。めちゃくちゃ豪華なホテルだよね。
はい。私はちょうど同世代が結構結婚式を終えてる友達がすごく多いので、東京会館はすごく人気ですよ、結婚式で。
ああ、そうなんだ。
そういうイメージだったんですよ、私は。すごく豪華で、ほんと都会のど真ん中にあって、みんなが憧れる結婚式場でもあるから。
みたいなイメージだよね。
バーテンダーに憧れて東京会館に入るっていう、そういう動機があるんだと思って。
いやでもさ、本当の大人の社交場っていう感じがするから。
そういうことなんでしょうね。
そこで酒を振る舞うっていうのは、なかなかの人間力が必要な気もするけど。
うん。それはそうだと思いますね。
まあ確かに言われてみたら、そう大人の社交場で、そういう場も憧れる場ではあるかみたいな、なんて言うんですか。
納得はすごくいきました。
いやなんかでも、シティボーイだなって思いましたよ、俺は田舎の田んぼのあぜ道をチャリで走ってた人だから。
そういう六本木とか行っちゃうんだと思って、ちょっとびっくりしました。
高校生とかですよ。
言ってましたね、渋谷とか六本木って。
本当に田んぼのあぜ道を鼻の穴に虫が入りながらチャリでさ、やべえやべえ遅刻みたいな感じで走ってた。
全然違うなあと思いながら聞いてましたけど。
でもそうだよね、だから東京海岸行って、その後に5年で辞めるって、そうだそうだ、だから丸5年で辞めて一旗あげるっていうことで、本当に5年で退社をしたということでしたよね。
言ってましたね、最初からそういうビジョンだったみたいな。
ね。
ね。
それもすごいですよね。
で、1年間あれか、何回いろんなことやったって言ってたな。
そして40枚履歴書を書いて、ビーチボーイズに憧れて、海の近くで働きたいって言って、履歴書を配って回ったって言ってましたね。
いやいや、すごいなあと思いました、だから本当に。
マイルドさんは何か憧れとか、これやりたいみたいなものがあったら、そこに向かっていける人なんだと思って。
ね。だからちゃんと惰性で東京海岸ね、もうここでいいやってなりそうなもんな気もするけど、きっちり辞めるっていうのもすごいし。
手当たり次第に履歴書を配って、夏のバイトをするっていうのもね、楽しそうだよなあ。
いや、もう聞いた限りでは、本当に楽しそうって思ってしまう。絶対大変なこともいっぱいあると思うんですけど。
でもね、なんかね、僕もね、海に憧れてたんですよね。なぜなんだろうか。そういうのなかったですか?高校生とか。ないか別に。
どうかなあ。あるかなあ。なんかあんまりなかったですね、私は。
でも、そうですね、自分自身が、やっぱり幼い頃、本当に小学校入るまで、ベルギーとイギリスで育ったので、やっぱりほんと漠然と海外に行きたいなあっていう気持ちはずっとありましたけど、
でも、そういうなんとなくの海を感じられるところに住みたいなあとか、海外でいつか住みたいなあとか、そういうのってずっと心の中でザワザワしてるから、何か決断するときに出てくるのかなあとか思います。
憧れのイメージみたいなものなのかね。それでゴールドコーストに行って、サーフィン三昧かと思いきや、最初はちゃんと小学校に行ったという話もありましたね。
でも、サーフィンしてたんじゃないですか?
まあまあ、途中からしてたと思いますけどね、それは。もったいないと思うんだけど。
いやあ、このあの話がおもしろかったね。でも、尋常じゃない仕事ぶりで、社員にスカウトされたみたいな話がありましたね。
おっしゃってましたね。すごいですよね。だからそれだけ信頼、価値取って。
まあでも、やっぱ最初は一年で帰るつもりだったみたいな。俺もそうだったんですよね。アメリカに来て。
あまり何も考えてなかったのもあるんですけど、やっぱ来てみて、これはずっと住みたいわっていうふうに思えるし、その永住家というものが手に入るんだみたいなことを知るみたいなね。
まあ結局それで、4年住んだということでしたね。約4年。
まあやっぱりだから、行ってみたら自分に合うっていう。
いやそりゃそうでしょ。俺ゴールドコースト行ったことないですけど、行きたいなあと思うもんね。
いやかなりのんびりとした時が流れていそうなイメージですけど。
はい。私もそんなイメージです。
あと、国際テレフォンカードというものがあったんですけど、ユナさんはその存在を知っていますか?
いや私わかんないですね。でもきっと私が本当に海外に幼い頃住んでたときはあったんでしょうから。
そうでしょうね。
両親とかはもちろん知ってるんだと思うんですけど。
まあだから、もちろん携帯電話もない時代で。
あ、ちょっと待って、携帯はあったのか?
いや。
いや。
いや、まあ携帯はあったのか?
もう知れない。俺もでも来たときは、テレフォンカード買いに行ってたもん、セブンイレブンに。
私は日本でテレフォンカードは使ってました。
はいはい。
公衆電話で。
はいはい。それも懐かしいけどね。
それの海外版みたいな感じですか?
それを国際電話で使えるやつ。
なんか、プイポパポって、どっかに繋いでから、
ジャパンの、どっかに電話して繋いでから、その後に日本の電話番号を入れると、確か日本のほうに繋いでくれるみたいな。
なるほど。
でもね、ちょっとしたらスカイプが出てきて。
スカイプ結構最近じゃないですか。
いや、2000年前後な気がするけどな。
そうかもそうかも、確かに。
で、なんかどんどんどんどんインターネットが進歩して、
テレフォンカードがこの世から、この世からまだあるのか知らないけど、見なくなりましたけどね。
まあ、便利な世の中になりましたよね。
LINEで今はね、顔も見て話せるし。
ほんとですよ。
まあでもそんなね、声だけのテレフォンカードを使ってのやり取り。
だって、ちなみに俺来たばっかのとき、文通してましたからね。
えー!
手書きで手紙書いてたからね。
それはそれで楽しかったんだけど。
まあ、そうですね。
その良さもありますね。
マイルドさんが当時の社長さんとずっとコミュニケーションを取ってたと。
ゼットンはバイトで10ヶ月しか入ってなかったけど、戻ってくるっていう約束でシドニーに行って、
その後、約束を破り4年間いて、その間ずっと連絡が通ってたという話がいいよね。
この関係性がつながってるというのがね。
うんうん。
いやー、そんでちゃんと、その社長さんの方が、お前が戻ってきたいと思えるような会社にしとくって言ってたのがね、なんかすごいいい話やなと思いました。
うん。ほんとに。
ね。
はい。
懐が深いというか、マイルドさんがそれだけ信頼されてたんでしょうけど。
うん。そこにだから、そういう信頼関係みたいなものがね、ずっとあったんだなって思うと、なんかそれはいい関係ですよね。
うんうん。
そういう思いが、たぶん今のマイルドさんの働き方とかにもつながってるのかなと思うんですけど、
はい。
そんな感じで、なので、次週が仕事の掘り下げ、仕事の姿勢とか、哲学的なところをね、軽いノリで話すんだが、とてもいろんなことを考えてらっしゃるなぁと思うんですけども。
はい。
そんな話を聞いてます。
はい。それでは次回も楽しみにしております。
はい。
リアルアメリカ情報
このコーナーでは、最新のビジネス生活情報をアメリカからお届けしていきます。
はい、お願いします。
はい。今週もですね、留学生ならではというか、私が感じたことなんですけど、
やっぱリンクドインってすごくないですか?
あー、すごいっていうのはどういうことですか?
なんて言うんですか?独特の文化だなっていう。
そうなんだ、俺あんまりね、使ったことがないんですよね。
おっしゃってましたね、前も。私たちの出会いというか、がリンクドインではあるんですけど。
そうそうそうそう。
だからそういう時用にアカウント作ってるみたいな感じです。
そう、リンクドインって、日本で言うと転職サイトとか、ビジネス用のSNSみたいなイメージだと思うんですけど、
しっかりそれぞれ自分のプロフィールを登録して、みんなと友達というか、友達みたいな感じでつながりを作って、
自分の近況とか、これまでのビジネス経験を書くっていうようなサイトなんですけど、
私はアメリカに留学生として行くまでは、リンクドインの存在もほとんど知らない状態で。
そうなんだね。日本ではそんなに浸透してないっていうことなんですかね?
うん。日本では使う機会がないです。まったく。なので、リンクドインに出会う機会がないんです。
でも、アメリカで就職活動をするの上では、とか、アメリカでキャリアを構築していく上では、リンクドインってすごく大事で、
内学院の授業がスタートしたときも、一番最初はリンクドインをしてくださいから始まったんですよ。
ああ、アカウント作ってくださいって。
そもそも合格してから、あなたのクラスはこれですよ、とかっていうのが、入学式の前にメールで送られてきて、
リンクドインで、私はユニバーシティオブサンフランシスコのスポーツマネジメント、広報と61ですよ。
あなたはここのリンクドインのこのページでクラスコミュニティに入ってくださいっていうのが送られてきたんですよ。
で、リンクドインとは何ぞやから始まったんですよ、私は。
で、アカウント作らなきゃ、は、英語だ全部、みたいな、当たり前なんですけど、っていうのから始まって、
これは何に使うのだろうか、フェイスブックではないのか、みたいなところから始まって、
で、自分のプロフィールページを、これまでの学歴だったり、これまでの職歴を書くことで、充実させることで、企業からスカウトが来るかもしれないし、
自分が何かどこかの企業に応募したときに、すぐに自分のプロフィールをリンクドインのアカウントを通して見てくれるから、分かりやすいですよ、みたいなことを言われて、
何だこれは、と思ったんですね、最初。
そうだよね。今でこそ、本当にそういう就職活動とかね、キャリアアップのときには必須のようになってるけど、日本ではないのかね、そういうものが。
ないですよ。日本では、それこそ、転職サイトは充実。
転職サイトは充実してると思うんですけど、転職の意思がなかったとしても、アカウントを作って、自分の経歴をオープンにするっていうものがない。
そもそも、転職っていう概念が浸透してきたのは最近のような気もするしね。
そう思います。
なんか一回就職したら就寝雇用みたいな、ちょっと古いけど、そういう文化の違いもあるかもね。
いや、もうまさにそうだと思います。
例えば、日本できっとこのリンクドインのシステムって、浸透するの大変なんじゃないかなって思うのは、やっぱりリンクドインに登録しているだけで、この子、もしかして転職しちゃうんじゃないかとか、転職の意思があるのではないかって、やっぱり思っちゃう、上司とかが。
まあでも、いいじゃんって思うけど、思われると不利になったりするのが立場が。
やっぱりこれ正直、私もなんですけど、会社を私は7年ちょっと勤めて辞めたんですけど、できる限り退社する意思を知られたくないっていう気持ちが、どうしても芽生えて。
もちろん、自分の意思が固まって、言えるタイミング、大学院も合格したタイミングでは伝えたんですけど、大学院を受験している最中とかは、できる限り知られないように、こっそり。
なんでかって言うと、もし大学院に落ちたらどうしようってのもあるんですけど、この子はいずれ会社を辞める子だ、じゃあもう育てなくていいとか、この子に重要な仕事は与えなくていいって思われちゃうんじゃないかって思って。
なるほどね。
なかなかつらい時期ですね、それは。
結構難しい時期ではあったんですけど、やっぱりどうしてもどこかで就寝雇用の文化とか考え方が根強いと、リンクドインっていう概念が浸透するのは難しいのかなと思うんですけど、でもそれがアメリカでは当たり前だったので。
あと、ヘッドハンティングみたいなこともよくあるもんね。
うちの会社来ないみたいなね。
やっぱり、日本はジェネラリストを作る。
で、アメリカはスペシャリストを作るっていうような部分もあると思っていて、
日本だと、出世するために営業部に行って、人事部に行って、総務に行ってっていうのを、会社の中で点々として出世していくっていうところがあると思うんですけど、
アメリカだと、ずっと私は、ヒューマンリソースというか、人事やってますみたいな。
で、例えば、サンフランシスコジャイアンツの人事からゴールデンステートウォリアスの人事みたいな、こういう転職を繰り返していくっていうところもあると思うので。
ある意味、その人の役割とか機能とか、仕事のディスクリプションとか、仕事の範囲もめちゃくちゃくっきり分かれてて、ある意味ドライに合理的に見られていて、
人間っていうか、この人はこれができる人っていう。日本の方はどっちかというと、その会社のオツボネさんとかって、スキルとかよりもこの人がいると円滑に回るとかさ、
この人がいろんなこと知ってるとかさ、この人はこれ持ってるからとか、そういうの多そうだもんね。
たぶん、ほんとにまさにそうだと思う。
関係性、経験とか。
こいつに逆らうと仕事もらえないみたいなさ。
あとは、今までこれをやってきたからとかもあると思います。
そうですね。
アメリカは今、何があなたできるんですか?っていうのを見てる。
年齢とか関係ないもんね。逆に実力があれば、どこの年齢でもできるし、なければすぐに捨てられちゃうというね。実力主義だと思いますけど。
まあ、おもしろいですね。でも、そういうことか。
いや、だからほんとにリンクドインの文化ってすごくて、リンクドインを通して、ほんとに何十社何百社って、みんなたぶん転職というか、次のステップに向けて、いろんなものを出したりとかアプローチしてるはずなんですけど、
ほとんどきっと返信が来ないことのほうが多いですし、
でも、何かを達成したときに、私はこれをやりましたとか、これをアナウンスできて嬉しいです。私はこんなことがありました、みたいなポストをする文化。
あとリコメンデーションみたいなね、友達とかコーワーカーから、この人はこんなに優れた人です、みたいなね、コメントをもらったりもするしね。
すごく独特な文化で、でもアメリカ就活ってこんな感じなんだっていう。
逆に言うと、海外で働きたいなと思っている方は、リンクドインのアカウントを作って、自らアピールすれば可能性はゼロじゃないよってことですか?
本当にそう思います。
私、一番最初の授業で、インフォメーショナルインタビュー、ちょっと何て言うんですかね、OB訪問じゃないですけど、お話しする機会を10人以上と設けて、レポートにしてくださいっていう宿題があったんですよ。
で、私は見ず知らずの人しかいないアメリカに初めて一人で住んで、知り合いも全然いないのに、12人の人とダッシュをしなきゃいけないってなって、全部リンクドインからメッセージ送ってやってもらったんですよ。
でもそこの学校のクラスのOBってことですか?
向こうも後輩が来たなっていうのは分かってるってこと?
分かってます。でも本当に誰でもいいので、全然私の言ってる大学院の卒業生じゃない人ともやっていただいたんですけど、リンクドインを通して、自分のプロフィールも充実させてもちろん日本人で、日本でテレビ局で働いてましたっていうのを書いておいて、
アメリカのスポーツ産業にすごく興味があるので、Zoomで15分でもいいのでお話し聞かせてくれませんかっていうメッセージを手当たり次第送って、そうすると身元がわかるので、リンクドインで。
ほとんど無視されるんですけど、たまに心よく返してくれる方もいらっしゃって、そういう方とお話をさせてもらって、
一回NBCスポーツのスタジオ見学もさせてもらって、そのきっかけで。
それめっちゃいいじゃんと思った。それを理由に、いろんな人とは話できるじゃん。
本当に心は折れますよ。無視ばっかされるんで。
でも、やっぱり熱意をある人に対して、自分の経験をシェアするっていうことを厭わない人ももちろんいるので、日本からでもその活動ってできるし、
アメリカはコネクションが大事っていうのもあるので、しっかり根付いてるので、コネクションを作るとか、人間関係を構築することはすごくいいことだと捉えられるので、
そこから仕事の就職につなげることがすごくプラスに捉えられてるから、アメリカでとか海外で就職したいとか、誰か話を聞いてみたいっていう人はLinkedInから積極的にアプローチできると思ってます。
はい、じゃあここで聞いてるね、海外の興味ある方、今すぐLinkedInのアカウントを作り、そして、ユナさんに話を聞かせてくださいとアプローチしてみてください。心よく引き受けてくれると思いますので。
確かに。そうですね。
もしかしたら無視されるかもしれませんけど。
いやでも私もいろんな人に助けていただいたので、私もでも頑張んなきゃと思って、LinkedInは頑張って更新し続けようって思ってます。
素晴らしいです。いいお話。
っていう、就活のリアルをお話しさせていただきました。そんなリアルアメリカ情報でした。
はい。
質問コーナーです。
はい、マイルドさんのお話にあやかってなんですけども、マイルドというね、ニックネームのエピソードがありましたけど、あのめっちゃマイルドなやつ、どこ行った?みたいな話がありましたけど、ユナさんはニックネームありましたか?っていう質問。
まあ俺もニックネームあった?っていう質問をちょっとしてみようかなと。
ああ、ニックネームほんとになくて、
ああ、そうなんだ。
やっぱりユナって名前が短くて、たとえば省略したりする必要がないっていうのがある。
確かに、呼びやすいしな。
と思うんですけど、まあシーって言うなら、基本ベースはみんなユナって呼んでくれてる上で、中学生ぐらいかな、のときはすごく仲いい子に、黒豆って言われたりとか、ポッキーって言われたりとかしてたときがあって、
ポッキー?
ポッキーって言われてた時期もあって、
それはほんとに真っ黒だったんですね、日焼けして私。
ああ、腕がポッキーみたいになってるってこと?
そうです。腕と足、特に足なんですけど、テニスをやってたので、半ズボンと靴下焼けがすごかったんですね。
半ズボンと靴下焼け。
半ズボンと靴下のとこだけが白くて、
真っ白です。なので、太ももから足首だけが真っ黒なんです。
はいはいはい。
で、あの水泳の授業とかあると、なんだそれってなって、
言われてたっていう。
水泳の季節限定ぐらいで、言われてました。
でもそれを言ったら、同じテニス部の人みんなポッキーじゃないの?
いやもう、私ほんとレベルが違って、
なんて言うんですかね、テニス部の部活のお子たちって、やっぱ部活でしかないので、
夕方とかだと思うんですけど、
私はテニスクラブでテニスに打ち込んでいて、
夏とかもずっと試合に出たりとか、練習もそうですけど、
他の人より全然多いんだ。
異次元に黒くって。
テニス界と言われる、例えば関東大会、全国大会に出るような友達たちは、
みんな同じ状況なんですけど、
私はいわゆるお嬢様学校みたいなところに通ってたので、中学・高校。
周りもみんな白いわけね。
お嬢ばっかりってことね。
信じられないんですよ、たぶんそこまで日焼けする人っていうの。
顔も真っ黒で、顔が黒豆って言われて、
水泳の期間になると足がポッキーみたいだからポッキーって言われて、
面白いね。
っていう時期はありました。
でも、ゆなさん的にはちょっと嫌だった?それは。
いやいやいや、もうしょうがないですね。
自分でも変だなってわかってるんで。
でも全然ね、今は白くなってますね。
今はもう真っ白です。
そうなんです。
俺もだんだんさ、夏が近づいてくると、こっから上が黒くなってくるのね。
ウエットスーツ、今はもうちょっとだけ首の途中から上が黒くて、
あと足首から下だけが真っ黒みたいになってるんだよね。
ウエットスーツ。
あー、逆だ。
そうなんですよ、逆なんですよ。
これもね、裸で鏡に映ると面白いんだけどね。
足首だけ真っ黒なの。
裸でも服着てるみたいになりますもんね。
そうそう、面白いよね。
ちなみに俺のあだ名はね、ジャガイモっていうのだけは覚えてますね。
なんかいろいろあった気がするけど。
なんでジャガイモなんですか?
その由来はね、ちょっと話したこともあるんだけど、この坊主頭、俺ずっと坊主なんだね。
ひたすら小学校から。
で、この渦が二つあって、頭の上のてっぺんのグリグリ。
つむじ?
つむじ。
で、そのつむじが交わるところが、こうピヨーンって立ってくるんだよね。
目が生えてるみたいな、ジャガイモから目が。
なるほど。
そう、そんで坊主頭でそこだけ伸びてくるとポヨーンって立ってくるから、ジャガイモだったという話でございます。
うまいですね、ニックネームのつけ方が。
小学校でジャガイモパーティーっていうのがあってさ、今思い出してます。
なかった?そういうの。
ないですないです。
芋をどっかの畑で植えた芋をみんなで掘って、その時はジャガイモをどんな風に料理してもいいから食えるみたいな日で、調味料だけは持ってきていいよみたいな日だったんだけどね。
それでみんなポテトチップスにしてみたり、ポテサラにしてみたり、いろいろな方法で調理するんだけど、ひたすら芋ばっか食ってて、みんなそこらじゅうゲロ吐き出して、最後の方は。
気持ち悪くなってきて、芋ばっか食いすぎて。
食べすぎ。
ここずっとばかりに調味料持ってきてるからさ、いろんなものをつけてさ、食えまくってて。
すごいひどいイベントだったなって。
いやいやいや、本来ひどいイベントじゃないです、絶対それ。
それぞれのニックネームがあればエピソードもありますね。
そうですね。
じゃあ、そんな感じにしときますか、今日は。
では、本編とリアルアメリカ情報の詳細はブログに掲載しています。
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では、今週も聞いてくださってありがとうございました。
ありがとうございます。
それでは、また来週です。
んじゃね。