2025-08-09 1:03:15

Vol.362: 中村 謙吾(オーナーシェフ)2/4

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これが配信されてるころはきっと出張中なので、今はフライト前日に書いてます。色々準備してもきっとなにかしらで焦ったりもするんだろうけど、なるべくその場所でしか経験できないことをして、たくさん楽しみたいなぁと思ってる金曜の板倉です、こんにちは。

「1%の情熱ものがたり」91人目のインタビュー、最初のエピソード。
福岡県生まれ、東京・池袋育ち。中学から“レールを外れた”と語る人生は、決して平坦ではなかったことでしょう。山形県のスキー場ペンションのバイトで出会った料理体験が後の人生を大きく飛躍させる原点となる。キッチン、バーテン、店長、エリアマネージャーと飲食業のあらゆる現場を経験。母親の仕事の関係で帯同し訪れたラスベガス、今から大きく発展していくこの街で感じたこと「ここで勝負してみよう」。32歳、自分の直感を信じ海外で初めての起業という大きな決断をして日本食レストランをスタート。言葉や文化の壁はもちろん、日本と現地人スタッフの働き方の違いに苦労しながらもなんとか軌道に乗せていく。頼りだった寿司シェフが退職というピンチの時には、持ち前のめり込む集中力を活かして独学での寿司修行も。その後「Tokyo Style Italian」という独自のジャンルで「中村屋」をオープン。日本人ならではきめ細やかさと素材の味を生かしたイタリアンで自らの料理哲学を貫き続ける。多くの地元客とフードブロガーやメディアにも評価され、アジアン・レストラン・オブ・ザ・イヤーなど数々の受賞歴も。「誰かのために食事をつくる」ビジネスではなくライフワークとなった料理は、きっとこれからも多くの人々に幸せを与えるはず。そんな謙吾さんの美味しく楽しい情熱ものがたり。

飲食業界一筋であらゆる職種を経験して最終的に独立起業、しかも海外で!なんとも昭和の男っぽさというか、ストレートな気質が感じられます。躊躇なく自分の信じた道を突き進む。これが出来る人って実はなかなかいないんだろうなぁ、だからきっと尊いのだ、と思いました。

投稿 Vol.362: 中村 謙吾(オーナーシェフ)2/41%の情熱ものがたり に最初に表示されました。

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1%の情熱物語
海外に住んでいる日本人は、日本人総数のわずかに1%。
この番組では、海外進出や起業を果たしたビジネスオーナーや経営者、また各業界のプロフェッショナルな方々へ、対談形式でインタビューをしていきます。
日本の未来を背負うグローバルなプロフェッショナルたちの仕事哲学と、そこに燃える情熱に迫ります。
1%の情熱物語第362回目です。
皆さん、お元気でしょうか?
お盆だと結構お休みあるのかね、皆さん。
夏休み、夏休暇取られてる方も多いかもしれないです。
そんなこんなでですね、先週僕、ラスベガスに行って、すごいいいホテルと、ブルーノマーズのラウンジの話をしたんですけど、
その次の日に二日酔いで偉いことになりながらも、ちょっとやらかしてしまったという話があって、
ちょっとこの反省を込めてここでも話しておきたいなと思いましてですね。
結構僕、やらかすことがあるんですけど、何かというとですね、
場所はトップゴルフっていうゴルフ場の打ちっぱなしをする練習場っていうのかな。
があるんですよ。分かるかな?
打ちっぱなし、はい。分かります分かります。
ただの打ちっぱなしじゃなくて、なんかゲームができて。
インドアゴルフみたいな感じですか?
かな?ボーリングみたいなさ。
スクリーンに向かって。
外に打つんだけど、なんか穴がポコポコ開いてて、ここに入ったら何点とか、
遠くに飛ばしたら何点とか。
それで順番に5発ずつ打って点数つけて、なんかボーリング場みたいな感じで、
最後に誰がウインナーみたいな感じでさ、やる場所があってさ、
俺もあんまり知らなかったんですけど、そこで遊びましょうっていう風になってて、
皆さん結構2日酔いの中。
03:00
2日酔いゴルフ。
2日酔いゴルフ。
飛んでたんですけど、それは自体はめちゃめちゃ楽しくて、
終わった後にですね、招いていただいた方から帽子をお土産みたいな感じでポンと渡されましてですね、
計10人ぐらいいたのかな。10人弱かな。8人ぐらいだったかな。
それでなんか帽子を3つもらったんですよ。
はいはいって言って僕にも渡されて、
僕その時にお店からなんか景品みたいな感じで帽子が3つ来て、
人数分足りないなと思ったので、僕はいらないですって言ったんですよ。
被らないですって。
だからぜひもらってくださいって言って他の人に渡したんですけど。
実はちょっと空気がその時に変わったなと思いましてですね。
後々気づいたんですけど、その招待してくれた僕ともう2家族のために3つ帽子を、
用意してくれた。
わざわざ用意してくださったのに、僕いらないって目の前で言っちゃってるわけですよ。
やらかしちゃってますね。
やばいこと、めちゃくちゃ失礼なこと言ってるなって。
飛行機の中で俺思って、これはと思って帰りましたね。
ちょっとラグがかかりましたね。
完全にさ、失礼なやつじゃん。
やばいですね。
で、帰ってきて電話で、やっぱりそういう状況だったってこと、僕は気づかずにそんなこと言って、めちゃめちゃ失礼でしたよねって言った。
そうだよ、失礼なやつだなって言って、冗談で言ってくれたんで、よかったんですけど。
でもね、こういうこと結構やるんですよねっていう。
あれ、なんか空気が違うなって時には気づかなかったんですか?
なんか違うなと思ったけど、2日用意ってのもあったし、判断がいつもより遅くなっちゃった。
なんか違うけど、どういうことだって思いながらも、でも僕そういうところはね、バカ正直というか、結構ね、
結構ね、やっちゃうんですよね。なんかそういうことないですか?えんまさん。
なんでしょう。正直に言い過ぎちゃうってことですよね。
逆に傷つけちゃうっていうか、逆になんかすごい失礼なことを言ってしまってる。
いや俺ね、多分ね、それで何回も嫁さんに怒られてたね、昔のね。
そういう、あんた何を言ってんのみたいな時が。何回かあったのが思い出ですよね。
でも後でね、リカバリーできたから。
06:03
隣でそうやって、ちょっとちょっとって言って、フォローしてくれる人が今いないので、それがまずいよな。
前はちょっとやばいよって言ってくださって。
とかその場をね、さらっとこうなんか違うことを言って、変えるってことができると思うんですけど。
他の人、隣にいたら気づくじゃないですか。
まあちょっと反省をしつつ、ちょっと懺悔的にちょっとやらかした話をしちゃいましたが、すいませんでした。
気を取り直して、進めてまいりましょう。
毎回一人の方のインタビュー、4回に分けてお届けしています。
今回はラスベガスにあるトラットリア中村屋、オーナーシェフの中村健吾さんにお話を伺いました。
はい、健吾さんが、先週ね、まではトラットリア中村屋のお話と、賞をね、いっぱいもらってますよっていう話もあったんですけども。
そんな大成功と言っていいと思うんですけど、収めてらっしゃる健吾さんがどうやって育ってきたかですね。
はい。
なかなか昭和っぽいっていうかね。
っていうと、まあ怒られはしない。また俺、ステレオなこと言ってますかね。言ってないですよね。
いや、もうなんか昔のかっこいい男っていう生き方をしてるんですよ、僕からするとね。
はいはいはいはい。
なんかそんなストーリーになってると思います。
それではじっくりお聞きください。
はい。
はい、じゃあちょっと今から過去のお話になってくるんですが。
まずお生まれがどちらでしたか。
私自身、生まれは福岡県なんですよ。
福岡県の飯塚市というちっちゃい町で生まれたんですけども、
ちょっと両親のいろいろ関係で、もう2歳からずっと東京に住んでましたね。
2歳から。ほぼ東京ですね。
そうですね。
なるほど。ちなみに東京はどのあたりですか。
東京、ほとんど長く住んだのは池袋からすぐ近く。
駅でいうと、区でいうとちょうど練馬区と豊島区の境のあたりですね。
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なるほど。ちょっと僕あんまり地理を理解してないけど、都会のほうですよね。
そうですね。池袋からほんとにすぐだって。
池袋って言ったらめちゃめちゃ都会の今、気にかけてることないけど。
はい。ほんと池袋で育ったような。学校もずっと池袋だったので。
IWGPというドラマがありましたけど。
そうですね。
池袋ウエストベイトパークですか?
そうですね。
こういう感じの町と思ってるんですか。
彼らとは違いますが、ほとんど私にとって池袋の西口っていうのは、
私ずっと立教に行ってまして、小学校から。
なので池袋の西口は本当に庭というか。
ほぼほぼ。
まさにあのドラマに出てくる場所的な場所なんですね。
そうですね。
でも、昔はあんな綺麗じゃなかったので。
そうなんですね。
どんな子供でしたか?ちなみに。
そうですね。小学校の時はですね。
文部洋道みたいな。
運動部ですね。
小学校の時は本当に優等生だったんですよ。
それめっちゃモテるやつじゃないですか。
でもうちは男子校なんで。
そうなんだ。
そうなんです。勉強もトップクラスに行って、運動もできて。
学校が私立だったので、本当に野球が大好きで。
地元の公立の学校にある、要は少年野球に無理を言って入れさせていただいて。
もう野球少年でした。
そうですか。
中学そのまま立教上がって、中学入って野球部が学校にあるんで。
野球をやりながらちょっとずつ人生がずれてきちゃいまして。
悪い遊びを覚えたりですね。そういったことでも。
でも、その辺から高校も運良く上がれたので。
小中高。
12:02
で、高校も行ったんですけど、高校はもう、今だから笑って言えますけど、ほとんど学校行ってませんでしたね。
それは何をしてたんですか、学校に行かないで。
いやー、パチンコ行ったり、地方だからいいですよね。
いいですよ、いいですよ、もちろん。
友達と遊んだり、そんな感じで。
バイトもよくやってましたね。
遊ぶにもお金もいるしね。
バイトを始めた、喫茶店、ありきたりですけどね。
喫茶店でバイトしたり。
上板ですかね。
そうですね、上板です。
ただ、冬休みと春休みに関しては、ほぼほぼびっちり山形県の米沢スキー場というところにアルバイトで住み込みで。
はいはいはいはい。
私の母の知り合いが米沢スキー場でテンションちょうど始めた頃で。
でもバイト代いらないから、スキーやりながら、あと残った時間はちゃんと働きますからということで。
そこが、私のこの道に行ったちょっと原点みたいな。
あ、そうなんですね。
はい。高校生の小僧だったんですけど、結構もう2年目ぐらいには朝食とかはほとんど任されて、肉焼いて、お味噌汁作ったりとか宿泊のお客様の。
もうそういうことは始めてたので。
それ時はもう中の厨房に入ってたんですかね。
そうです。
まあ、厨房もやるし、部屋の掃除もやるし。
それが原点ですね。
そのまま大学という選択もあったんですが、
テンションをやりたいなと。
ああ、だからまさにその山形で働いてたようなのを自分でやってみたいと。
そういったことから、本格的に飲食の会社にお世話になるようになって。
ああ、そうなんですね。
将来ペンションをやるぞっていう目的には、その飲食系の会社に就職。
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そうですね。
それでプロフィールにあった、イタリアントマト池袋って。
そうですね。
なるほどなるほど。
実際、そこでどのくらいかな。
キッチンやったのは実は1年半くらいなんですよ。
ああ、そうなんですね。
その後はそこの会社がいろいろバーだとかいろんな店舗を持ってて。
で、バーテンもやりましたし。
新宿、ロケーションいいとこですね。
新宿徒歩5分くらいの200席くらいあるような大きい本格的なバーテンダー1年くらい。
やりながら、そこから店長をやったりとか。
そうしながら、ほとんどもう料理のほうはもう完全に離れた状態で。
それでもケンゴさんがそっちのほうに長けてたというか、マネジメントが上手だった。
そうですね、多分。
私も若い時は目立ちたがり屋のところがあったので。
キッチンの仕事は好きだったんですけど、あの当時は上下関係がものすごく厳しかったので。
そういうのもあって。
やっぱりバーテンとかそういう前に出たほうがね。
チャラいほう。会社から言われたらすぐにチャラいほう。
中の厨房にいると結構修行的な、ずっとサラダとけみたいな時代なのかもしれないですけど。
そうですね。
そんなこんなで、最後はそちらに書かせていただいた二郎レストランさんにお世話になったんですけれども。
二郎レストラン。
その会社がどういった会社かっていうと、日本で初めてイタリア料理会社組織でイタリアンを始めたっていう会社だったんですよ。
そこで、それまでイタリアンってそんなに興味のあるジャンルじゃなかったんですけど。
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今でこそね、サイゼリアとか。
ありますね。
いろいろありますもんね。何だっけ、忘れちゃったけど。
そういう業態、グループでそういうチェーン店みたいなのを作って、最初に始めた。
そうですね。店舗もその時80店舗ぐらいで、社員数も500、600人。中小企業ですね。中小の大手みたいな。
そこでもやっぱり、実はサーバーというかホールの方で、要は主任っていうのは店長の次。そんなところからもうすぐに店長に上げていただいて。
ちょっと多分マネジメント能力が人よりちょっと高くなってたかもわからない。
ただそこの会社がすごいところっていうのが、店長の権限っていうのがものすごく大きくて。
例えば1年間の予算表とかも、こと細かに全部店長が作らされるんですよ。
店舗によって違うんだ、予算の割合が。
そうですね。上から渡されるものではなく、もちろん自分が作ったものに対して、本社側で修訂を受けたりもあるんですけども、そこで数字に強くなったというか。
経営面も見れるようになったってことですね。
そうですね。
それを得て、結局お店やるっていうことは、どんなに料理が上手かろうが、どんなに企画が当たろうが、やっぱり経営がちゃんとできてないと。
どんなビジネスもそうですけど、そこでかなり数字を叩き上げられたので、自分的にもそろそろ独立しようかなっていう自信がつきました。
なるほど。
いやーでも本当に全部見てますよね。最初はキッチンの中に入って、次はホール。
ウェイターをやって、ホール主任をやって、店長をやって、エリアマネージャーまで。
それは次は独立ですよね。この流れで言うと。
そうですね。
したくなっちゃいますよね、それは。
じゃあ実際にやられるわけですか、それは。
そうですね。その後から、要は海外移住という流れになるんですけども、きっかけとしては、私の実家が不動産関係の仕事をしてまして。
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仕事というか会社ですね。
はい。
当時私の父は亡くなってたんですけれども、そのまま私の母が受け継いでやってまして。
96年とかぐらいから、なぜか私の母がよく友人とラスベガスに遊びに行かれるようになった。
それが遊びではなくて、物件探しで。
ああ、そういうことね。
はい。要は投資物件ですね。あの当時ラスベガスも本当に東京に住んでる我々からするとクソでしょっていうような金額で家も買えた。
安いっていうことですね。
安いっていうことで。
多分東京の間隔の10分の1ぐらい。
ちなみにそのときのドル円って何ぐらいだったんですかね。
まだ200円ぐらいだったと思いますよね。
まだ日本もバブルの要因というか。
そうですね。
結構お金もあったときですかね。
はい。
そんなこんなで、ちょうど私も独立を考え始めたときに、ちょっと一回遊び半分で母親について、初めてラスベガスに来たんですよ。
それが確か98年だったかな。
ちょうどそのときに長男がお腹にいたときだったんですけども、
ラスベガスって今でこそ215万都市なんですけど、あのときはまだ85万人都市か何かで、これから大きくなると。
とにかく緑が多いのにびっくりして。
確かにラスベガスというとね、街の雰囲気のイメージされる方が多いけど、ここだけですよね。
そうなんです。
都会な感じなのか。
とにかく広々して。
当時はまだ空気も綺麗だったので、
ここ標高、ラスベガスは標高高いんですけど、本当に腰が手で取れるんじゃないかっていうぐらい、
腰空ね。
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差額ですからね。
日本食レストランも6店舗、7店舗くらいしかなかったのかな、当時は。
ただ一回ついてきたラスベガスで、
ちょっとここで勝負するのがありかなっていう。
それはもう直感的にというか、そのレストランとか行ってみて、これ俺がやっても勝てんじゃねえみたいな感じは思ったってことか。
そうですね。
後々大変な苦労をするとは思わず、その時には。
子供を育てるにもいい環境だなと思って。
たまたま現地の不動産関係の方に、いぬきで物件出てないかっていう感じで聞いたら、出てたんですけど。
レストランのいぬき物件。
当時はテロの前で、投資家ビザの取りやすかったので。
やっぱり東京でやることを考えると、値段もものすごく安かったんで。
当時まだ32歳だったので、これだったら一回失敗しても取り返しはつくなと思って思い切って決めました。
なるほど。
それも一回目のラスベガスで決めた、直感的に。
決めました。
面白いなあ、それ。
でも何かあったんでしょうね、感じるものがね。ピンときたんでしょう。
そうですね。
あと、やっぱりサラリーマン生活というか、嫌いではないんですけども、
やっぱり私も、当時エリアマネージャーぐらいまで来ても、はっきり言って7日間働いてたんで。
休みが月に1回、2回。
ちょっとそういう環境から抜け出したっていうのもありまして。
それも、もともと自分でペンションやってみたいみたいな夢も前はあられたってことで、
そこをこの企業に踏み切るっていう、今だって思えたんですかね。
そうですね。あとは東京でやるとか住むっていう、
何ですかね、ちょっと当時のことをあんまり覚えてないんですけど、
とにかく思いっきりというか、思い切ったと思います、自分でも。
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いきなり企業で、住み慣れた町でやるならいいけど、全然外国で。
いきなり自分の店ですからね。それはなかなかのビッグステップですね。
いやー、初めてから大変でしたけど。
ちなみにどの辺が大変でしたか。言葉の壁もあるでしょうし、文化の壁も。
そうですね。やっぱり一番は言葉の壁と、
一番大変だったのはやっぱり、
日本人ってやっぱり英語の文章を作ったりとか、
漢語を知ってるとか、ボキャブラリーはあるんだけれども、
全く通じないと。
発音が喋れないんですね、要は。
発音と、後で聞いた、私の友人がアドバイスくれてからだいぶ良くなったんですけど、
とにかくイントネーションが悪いと。
イントネーションさえ、ちゃんと間違ってないアクセントであれば、まだ聞き取れるんだけれども、
日本人が喋る英語はあまりにもフラットで、
全くわからないと言われて。
確かにな。どこを上げて、どこを強調して言うかで、
全然通じなかったりしますもんね、通じたり。
そうですね。そこがやっぱり一番の問題と、後は、
現地でもメキシコ人だったり、日本人でスタッフを雇ったり、
っていうのがあったんですけれども、やっぱり、
日本人とは、仕事に対する考え方があまりにもかけ離れすぎてて、
同じ日本人の方でも、やっぱりアメリカに長い方っていうのは、
こんなにも考え方が違うのかなということで、
それが一番悩みましたね。
それは、緩くなっちゃってるってことですかね。
そうですね。
わかりますわかります。
あとメキシカンの方も、僕もレストランのウェイターも
結構何年もやってたんで、なんとなくその中身はわかりますけども、
やっぱりしないですよね、仕事ね。
もちろんする方はいっぱいいますけども。
こんなにも、やっぱり日本イコール企業戦士っていうのは、
まさしくその時に思いました。
よく働くなーって思いますよね。
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よく働くし、会社のためというか、
こちらの方は会社のためというよりも、
自分のために働くというのが大前提にあるような気がしましたね。
それはカルチャーでもあるので、
どうやってうまくマネジメントするかっていうところも、
こちらのやり方だとは思うんですけど、
その辺のアダプトはいきなりには難しいですよね。
難しかったですね。
結局、そのとき、実は一番最初に開けた店は、
日本食レストランを開けたんですよ。
ちなみにプロフィールに書いてると思うんですけど、
歌舞伎ジャパニーズレストランってことですかね。
そうですね。
なぜそのときにイタリアンをやらなかったかっていうと、
街が小さかったのと、日本食レストランが少なかったので、
まずは日本食レストラン。
私がやりたいと思ってた今のこの中村屋を、
そのときにはちょっとラスベガスじゃまだまだ受け付けてもらえないだろうなって思いがあったので。
今の東京スタイルイタリアンのレシピとかそういうのもできるけど、
まだ今じゃないなって思ったってことですか。
今じゃない、まずは日本食かなって。
どうだったんですか、実際。
ビジネスはそこそこ。
ロサンゼルスなんかと明らかに違うのはやっぱり、
ここは日本人の方がすごく少ないので、
やっぱりアメリカ人のお客様をつかんでいかなくてはいけないので、
またそこでやっぱりちょっと英語の問題がいろいろ。
でももうあとは当たって砕けろで。
ちなみに場所はどこのあたりだったんですか。
UNLVという大学がラスベガスにあるんですけども、
その学校の近く。
家ではなくて住宅のところまで。
住宅地、観光客が来ないように。
そうすると地元の人をつかんでからですね。
地元の方、相手。
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そっか、でも言葉の壁はあるようにしても、
その時のウェイターとかは現地の方とかは?
現地の方もやってましたし。
そっか、でもみんなシェフと喋りたいから。
私は当初は統括ではサーバーの手伝いにするし、
キッチンも手伝うしみたいな。
完全なオーナー職みたいな感じでやってたんですけれども、
当時オープンからやってくれてた寿司シェフの方が退職されるという時に、
私もつても誰も知らないので、
人生初めて寿司を独学で学んで。
寿司って独学で学べるもんなんですか?
ある程度料理の知識があったので。
あとは、シャリの握り硬さ、大きさ。
その方が辞める前の1ヶ月半ぐらい、毎日自分で食べた寿司を。
一応、正確的には飽き性なんですけれども、
飲み込む時の集中力だけは結構人に負けないぐらい自信があるので。
最終的には、やり始めて2、3ヶ月で、
日本人の方でも、最近始めたら、
もう長いこと寿司やってるんでしょ?って言われるぐらいまでは。
すごい才能ですね、それは。
でもね、イタリアンと寿司って、
使う道具とか食材とかも結構違くないですか?
魚は自分で卸したりとかできたんで。
イタリアンでも魚使うのか。
なるほど。
握り方っていうところで、
そうですね。
全集中して覚えたんですね。
なるほど。
そこからはもう自分でシェフにもやるし、全部の経営もやるし。
そうですね。
今思うと、あんだかんだ10年ぐらい寿司シェフやってたんだなって、
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自分でもそんな感じです。
なるほど。
最初に始めた歌舞伎ジャパニングフェスティバル、
一番最初は苦戦されたやつだったんですけど、
結局10年以上やられて、
そうですね。13年目に、
ちょっと私の弟分の韓国人が、
お兄さん売ってよって言って、
彼もまだビジネスをやったことがなくて、
なんて言いますかね、
要はヒストリーも何もないので、
ちょっと私の名前を貸しながら、
いろいろビジネスを始めたっていう。
その弟分みたいな方っておっしゃいました?
そうです。
韓国の方。
韓国人で。他の店で働いてる。
それが中村屋という名前を使ってという?
歌舞伎ですね。
歌舞伎の方をそちらの方が?
そうです。
その時にはもう私、中村屋オープンしてたんで。
ああ、そういうことですね。
両方行ったり来たりしてて。
ちょっと話が捨てちゃうんですけど、
その彼も全くヒストリーも何もないので、
メリカって全部そういうクレジットヒストリーだとか、
何かによってここを売りることができる銀行のビジネスポーザーを開けられるとか、
でも1年半ぐらいで行けなかったので、
逃げられたらおしまいなんですけど、
1年半、全て私の名前のもとで。
それから今10年、
彼独立して12年あるんですけども、
今ラスベガスで10店舗持ってます。
歌舞伎ジャパンライスターという名前はもう残ってはいないんですか?
残ってはいないです。
彼らの名前で。
そうなんだ。
そんなのがありの、
2011年に中村屋を開けるんですけれども、
その前にそろそろかなっていう、
やっぱりちょっとやりたいなっていう思いがもう、
木は熟したかなっていう、
要は街も大きくなってきたし、
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その時には海外からとか、
多都市からの有名レストランがストリップにボンボン開き始めて、
ラスベガスの食文化自体もものすごくレベルアップしたので、
そろそろやりたいなっていう形で、
実は歌舞伎の時に、
半年くらい、
半分和食、半分イタリアンみたいな感じで、
ちょっとトライアルで。
東京スタイルイタリアンですね。
そうですね。
そこでトライアル的にいろいろやって、
これは大丈夫かな、オープンしてもっていう。
ある程度そこでアピールをしてから、
当時歌舞伎はロケーションで言うと、
イーストサイドにやったんですけれども、
ウエストサイド、その当時まだチャイネタウンがちょっと開き始めて、
面白い店が出来始めた最初の頃だったかな。
今のロケーションを決めて、オープンしようと。
そっか、韓国弟分の方にも前のビジネスは任せてというか、渡して。
そうですね。
自分渡してやるかと。
では熟したと。
はい。
そういった経緯で今の仕事につながっていくんですけど、
今から仕事の深掘りが入ってきてるんですけども。
はい。
お母様がラスベガスへ物件探しに行って、それについていったのが、
移住のきっかけなんですね。
ね。
すごいターニングポイントですね。
それで一発で初回で決めたっていうからね。
その一回目で。
混沌力がものすごいですよね。
いや、ほんとね。
まあまあ、いろいろ人生的なね、
天気ってその前に何かあったんだろうけどね。
もちろんその元の職場の状況とかさ。
お子さん生まれたっていうタイミング。
結構でもお子さん生まれたタイミングで起業する人も多い気がするんだけど。
そこで起業じゃなくても人生がガラッと天気があるみたいなね。
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まあでも。
32歳ですもんね。
私今31なんで、あれ?同世代だわと思いました。
ほんとだね。
まあでもそういう。
同世代というかタイミングは。
ぐらいでなんかガッとシフトするパターンも多いかもね。
にしてもでかいよね、このだから。
まださ、独立してなくて、それが最初の独立で、しかも海外で。
そうですよね、いきなり。
言葉が通じない場所で。
まあ、投資ガテラっていうのもあったのかもしれないですけど。
まあでも店を買ってるわけじゃないからな、でもすごいよな。
ビザも取りやすかったっていうね、そういう時代でもあったようですけども。
でもビッグチャレンジですよね。
言葉の壁とか、あと現地スタッフの皆さんとの働き方の違いとかも。
そうそうそう、おっしゃってましたけど、まあ大変だろうね。
日本、そうそう、日本じゃよく働く企業戦士っていう言葉が出てましたけど。
僕もだからその頃っておそらく、24時間働けますかっていうCMが流れてたじゃん。
リゲインだったっけか、なんか。
あとリポビタンデイとかさ、めちゃめちゃ働く男みたいなの。
無理やり目を覚ましてでも働き続けるってことですよね。
でさ、それを言われると、なんかちょっとブラックな今はイメージがあるんだが、
その時はそれがやっぱ楽しかったんだろうなと思うしね。
俺も一応自分で会社やってるから別に休みたければ休むが、どこまで行っても終わりはないっていうかさ。
そうですよね。働きたければ働く。
ずっとそんなこと考えちゃうしさ、仕事のこととか。
それで別にいいって思ってる昭和の男たちもいっぱいいたんだと思うから、
一概に社畜みたいな感じじゃないと思うんですけど。
そうですよね。
何の話だったっけ。
日本人はよく働くねっていう。
特にその時代はそうだったんだと思うんですよ。
で、ちゃんと会社に忠誠心もあってさ。
今みたいにコロコロ転職も、今はだいぶ当たり前になってきましたけど。
そうですね。だいたいみんな20代後半とかで一回転職する人が多いですね。
4、5年目ぐらいで。
そういうカルチャーもそうだし、おそらくテクノロジーの進化とかもあって、
会社自体の寿命も短くなってきてるから、転職せざるを得ないとかね、もちろんあると思うんですけど。
45:04
だから本当に、これ何年前の時代だ?
だから90何年とかですよね。80何年とかって言ってたかな。
それぐらいの時代って、だからまだまだ就寝雇用もあったし。
まあ99年か。
そうですね。
そうだから本当に何か働くっていう、今とは働き方がちょっと違ったんだろうなと思いますけどね。
そうですよね。
アメリカがどうだったのかちょっとよく分からないけど。
まあでもマネジメント能力に長けてたと言ってましたしね、けんごさんが。
いろいろと乗り越えて、あとお寿司の握り方?
俺も独学で。
面白かったよね。シェフが退職する前に全部自分で覚えたっていう。
まあなんとなくだから、ヤンキーとは言ってなかったですけども、ヤンチャーをしてたというか学校ほとんど行かず、遊んだりバイトしたりって話もありましたが、
割とその飲食系とか、あとその建築系というか、まあまあいわゆる土方系に行くパターン多いじゃないですか。その土建屋になるとかね。
まあ店自分で開くみたいなね。
それをもうだから地で行ってるっていうか、もうそのまま行っちゃってるなあっていうのがね、かっけえなあと思いますけどね。
まあ一旦はだからサラリーマンになり、その業界でね、いろいろもちろん嫌な上司がいたと思うんですけど、学びつつ、経営面も学んでホールも覚えて、厨房も覚えて、
なるべくしてなってる気もするけどね、こういった話を後から振り返ると。
でも一通り全部やっていらっしゃるから、経営とかもね、うまくいくんでしょうね。
あとその外国でやるってことは、やっぱその神経もずぶといとかさ、あと根性があるとかさ、そういう面も必要じゃんね。ただ経営を知ってるだけじゃできないと思うからさ、気合みたいなね。
アメリカで日本人が成功するというか、そういう経営をうまく乗せるためには、どういうマインドセットというか、マインドが必要ですか?
48:05
いや、もちろんそういう知識的なものもあったほうがいいと思うんですけど、それよりもやっぱ自分、推進力みたいなのが大事だと思いますけどね、巻き込んで人のほかを。
何でもいい、間違っててもいいから行くんだって言って行く人じゃないと、無理だと思うよね。
そうですね、それこそその現地のスタッフとかも、うまく仲良くなって。
こいつ何言ってかわかんねえと思われながらも、こいつ重ねえからついていくかっていうふうに思われないとさ。
推進力ですね。
そう、絶対それ、そういう意味での気合とか根性みたいな話ですけど。
そういうことか。
いや、だって理屈なんかほとんど通じないっすよ。だって常識も違うんだからさ。
そうですよね。
気合ですよね。
気合。
なんかでもね、風貌というかね、けんごさんの顔もね、やっぱそういう顔してらっしゃるなって思いながら見てました。
まあ、ウェブサイトにも顔出てますけど、おそらくこれ丸くなったな、お前もって言われてるんだろうなと思いますけど、昔はもっとやんちゅうなかっこをしてたんだろうなとか思ったりね。
なんか想像はつきますけども。
そうかもしれない。
型じゃないとたぶん引っ張れないものはあると思いますけどね。
はい、なかなか。
でね、13年目にして、韓国人の方にビジネス上として。
そうですね。
そこから中村屋、最初の。
お店を、歌舞伎レストランというね、日本食屋を譲った感じだと思うんですけど。
譲ってから中村屋が。
11年。
昭和、あ、昭和じゃない、2011年ですね。
でも、もう14、5年経つわけですね。
いやー、わかりやすく男らしいって、ちょっともう熱いストーリーには僕は思えちゃうんですけど。
ねえ、すごいですよね。
漫画になりそうだね。
レストラン。
情熱もの、それこそ情熱物語で。
そんな感じで。
はい。
まあ来週は、次回がそうですね、そういうけんごさんがどういう姿勢、どういう哲学で仕事をしているのか。
とかね、モチベーションみたいなところをね。
これもまた、スカッとする答え出てきますけどね。
51:02
スカッとしたい。
え、どんなお話が聞けるんでしょうか。
はい、まあそれはお楽しみにということですかね。
来週ですね。
はい。
では、今回も素敵なお話ありがとうございました。
ありがとうございます。
リアルアメリカ情報。
よっ。
このコーナーでは、最新のビジネス生活情報をアメリカ、ロサンゼルスからお届けしていきます。
はい。
今回はですね、ディズニーランドのお話をしたいと思います。
えっと、ディズニーランドのポーンテッドマンション、乗ったことあります?
うーん、記憶には残ってないですが、あるかもしれない。
ソファーみたいなのに乗って、こう、暗い中を。
あるんかな。
いや、俺だってディズニーランドに行ったことが、そもそも小学校の時に1回と、修学旅行かなんかで。
あとこっちに、カリフォルニアに来て、1回デートで行ったぐらいですもん。
ああ、そうなんですね。
そのポーンテッドマンションなんですけど、
はい。
えっと、今年あの開園70周年だそうで、
8月から改修で、一旦閉鎖になりますというお知らせです。
それはLAの話ですか?
あ、そうです。アナハイムにあるディズニーランド。
じゃあ、そのポーンテッドマンションだけが、一旦工事に入ると。
一旦工事に入る。
8月11日から一時休止で、再開が8月22日らしいです。
じゃあ、それをめがけてというか、それを楽しみに行くんですか?皆さん、ディズニーランドは。
行く人もいるってこと?目玉、看板的な乗り物なんですか?
去年、ハロウィンの時に行ったんですけど、ハロウィンバージョンになってて、ポーンテッドマンションが。
お化けが出る。
期間限定だったから、専用のパス、生理券みたいなのが配られてて、
それをもらっても、1時間半以上並びました。
どういう乗り物か、もう一回説明してもらっていい?
なんか、館?ポーンテッドマンション。
呪われた館の中を、椅子に乗って、探検していく乗り物です。
バイキングではなくて、椅子が動いていくのね?
椅子って、そうですね。館の中を探検していくって感じです。
54:00
全く記憶にないな。乗ってないのかな?
子供の時は、ちょっと怖いです。
怖いお化けが出てくる。
ハロウィンにぴったりだね、それは。
子供の時は、ちょっと暗くて、全体的に暗いんで、暗いのが怖かったんですけど、
大人になるとまた、面白いです。
それが好きな人は、もしLAに来るんだったら、ちょっとあれだね、
先に知っとかないと、がっかりしちゃうね。
そうですね。8月22日には再開してるみたいなんで、
このポーンテッドマンションに乗りたい場合は、それを。
結構短いのね、工事。
そうですね。11日から休止だそうです。
10日間だけってこと?
そうですね。10日間。
一時、8月閉鎖期間がありますっていうことが載ってました。
それで、またアップグレードするってこと?
はい、そうですね。回収。
そうなんだ。それは、結構ビッグニュースなんですか、それは?
どうなんでしょう、どうなんでしょう?
ディズニー行く人いるかなと思って、夏休みに。
そういうことですか。
ちょっと、はい、ピックアップしてみました。
なるほどですね。はい、すみません。
あまり話が広げられず、すみません。
ホリデーバージョンっていうのも、今度やるみたいで、
それもアップグレードして、映画のホリデーバージョン。
新しい乗り物と、別の?
新しい、回収して、別のというか、ホンテッドマンションの飾り付けとかを、
またホリデーバージョンっていうのも登場するらしいです、今後。
ということで、ディズニー行きたいなって方は、
そうね、ちょっと注意しておきたいですね。
スケジュールを確認して、行くといいかもしれないです。
では、ここまでリアルアメリカ情報でした。
はい。
締めのコーナーです。
質問を投げますが、ケンゴさんのお話にも出てきたんですけど、
ラスベガスが、ケンゴさんが起業を決めたタイミングっていうのが、
ラスベガスが今から大きくなるっていうような時だったっておっしゃってたんですけど、
街が変わったなって思った経験ありますか?っていう、なんか微妙な質問なんですけど。
57:04
街が変わったな。
でも、久しぶりに母校に中高通ってた母校に行った時に、
周りの建物が、それこそ飲食店とか、全然変わっていて、
どこだっけ?母校が。
思い出がよみがえらないくて、寂しいなって時。
多摩地にある、東京の三田多摩地にある学校なんですけど、
高校生ぶりに行ったら、全く飲食店はほぼほぼ変わってたかな。
10年以上ぶりってこと?
そうですね。10年以上ぶり。
そっか。それもなかなかね、ここのコンビニでからあげ食ったなとかっていう思い出が、もうなくなっちゃったってことね。
でも、あれなんですよ。
学校帰りに寄り道禁止っていう拘束だったので、学校の周りのお店には入れないんですけど。
マジで?そんな拘束、それいいの?もう学校の外の話なのに、そんな拘束いいの?
だから、学校のある最寄駅ではみんな買い物できない。
電車乗って2、3駅行ってから、何かコンビニ行ったりはしてる。みんなしてるとは思うんですけど。
先生の目に入るところにはいけないんですが、でも通学路の景色が変わったなと思って。
そっか。寂しいですね、それはなかなか。
あと、実家もなんか再開発で、今後、なんか新しいビルが建つらしいので、帰国して、もし実家帰ったら、多分風景が。
え?実家が東京だったっけ?
実家は神奈川県なんですけど。
そうだ、神奈川だね。そうだよね、変わるよね。
また変わってると思います。
いや、俺も実家の周りはめちゃくちゃ変わったな、そう言われれば。マンションができちゃって。
茶畑とかあったのに、昔、子供の頃ね。後方もないな。
なんかすごく家賃も高くなってるって、聞きますよ、噂で。
同じマンションに帰国して、同じマンションに住もうと思ったら、家賃が5万ぐらい上がってたみたいな。
そうよね、上がってくよね、そりゃね。
それは街が大きくなってるってことだと思いますけど、逆に加速化しちゃってるとこもあるからね、地方。
そうですよね。
家賃がどんどん安くなって、仕事もないみたいな、いろいろありますけど。
1:00:05
リトル東京、LAのダブルタウンにある、あそこも結構この10年、20年でガラッと雰囲気変わったなって。
そうなんですね。
昔結構ね、もうちょい寂れてたっていうか、寂しげだったんですけど、すごい今にぎやかにあるね、いろいろ。コントメニューもいっぱい立っててさ、綺麗でさ。
結構韓国勢の力も多いみたいですけどね、リトル東京と言いつつも、韓国系の店多いとかね。
そうですね、もう住んでる人口が全然違いますもんね、韓国の方の方が多いって。
まあ、なんかね、変わってきますね、いろいろね。
そうですね。
まとまらない話でしたが、はい。
どんどん進化していくでしょうね、ロサンゼルスもね。
そう、なので、今回のお便り募集は、劇編とかがあったら面白いですけどね、この街がこんなに変わっちゃったみたいな話があったら、教えてほしいなと。
はい、身の回りの劇編したエピソード、どしどしお寄せください。
こちらは番組ホームページのメールフォームからお待ちしております。
はい、番組内で紹介された方には番組ステッカープレゼントです。
はい。
はい、名前と住所を書くのをお忘れないようお願いいたします。
楽しみに待ってます。
はい、ねえ、欲しいですね、メッセージ。
さくら要員を頼まないといけないかな。
いやいやいやいや、ナチュラルに送ってくれる方をお待ちしております。
待ってますんで、お願いします。そこのあなた、聞いてるあなたお願いします。
お願いします。
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本週も聞いてくださりありがとうございました。
ありがとうございます。
それではまた来週。
じゃあね。
01:03:15

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