Speaker 2
くらぬきです。中山です。ザッソウラジオは、くらぬきと学長こと中山さんで、僕たちの知り合いをゲストにお呼びして、雑な相談の雑草をしながら、イルクをおしゃべりしていくポッドキャストです。
ザッソウラジオ4年目に入った最初のゲスト、特別ゲスト、青木耕平さんです。引き続きよろしくお願いします。
Speaker 1
よろしくお願いします。
Speaker 2
最終回になりますが、いろんな話に飛びまくり、保守について前回は話をし、保守の先にあるのが希望ではないかという話をさせてもらって、
希望があるから保守していける、希望がなければ絶望したら確信したくなってしまうというのは確かにそうだなという気がするんですけど、
Speaker 1
希望について最近よく考えてるというのが、青木さんと学長がリアルで会ったときに、喫茶店でずっと希望の話をするという。
希望について、希望って何なんですかね?みたいなことを人に言われて、ちょっと説明しないといけない機会があったんですね。
Speaker 3
クラシコの自由平和希望でしたね。
Speaker 1
の希望っていうことはどうやって作れるのでしたっけとかいうことを取材的なものの中で聞かれて、あれこれはちょっと自分たちの確信にあるものじゃないですか。
だからなんか適当には答えられないぞってなって、いろいろ書き始めたら、今まだ書き終わってないですけど、もう今2万字を超えてきてるんで、
着地3万字は超えそうみたいな感じになってるぐらい、ずっと希望って何かっていうことを考えてるんですね。
まさにさっき青木さんが言ってくれたように、希望がないっていう風になっちゃうと、変な意思決定しちゃう。
例えばさっきの中山さんがさ、猫のコジラ性、犬のコジラ性の話してくれたじゃないですか。
それって結局猫が犬に対して希望を持ってない、絶望してる。
Speaker 3
持ってない、絶望してる。
Speaker 1
犬も猫に対して絶望してるっていう。
共に何かをやれるっていう気がしてないっていうことによってそのコジラ性が起きるけど、
もしも今は全然期待持てるポイントがないんだが、きっとこの人たちとは擦り合わせられて共に歩める日が来ると信じてるというか、
それを言ったら根気よく擦り合わせようとするじゃないですか。
何してもやっぱりこの真っ当なやり方で時間と手間をかけ続けていくっていうことに対して、
その希望っていうものがすごく大事なんだなということを考えたんですけど、
意外とこの希望っていうのがさっきの補修、革新とかと一緒で、
いろんな概念がガッタンコしすぎてて、
Speaker 2
意味が複数持たされてるところがあるので。
Speaker 1
そうなんですよ。だからものすごいそれがわかりづらいなと。
だから逆に言うと、本当は希望してるのに希望なんてしてないって言っちゃうみたいな。
それを聞いた人は本当に絶望してると思っちゃうかな。
その連鎖で本当は希望はあるのにないことになってるとか、
いうことも結構起きてるなーっていうのがわかってきたんで、
Speaker 1
これをどうやったらもっとはっきりわかるのかなっていうのをやってたらだいぶわかってきたんですよ。
僕はやっぱり物事を考えるときに、そのことは何かっていう問いを立てて答え出すのってむずいんで、
希望に似ていて希望じゃないもの何かをどんどん探していくっていうのを最初やるじゃないですか。
多分中山さんとも同じようなアプローチ。
Speaker 3
対義語を考えて。
Speaker 1
対義語をアプローチするけど、まずそれをすごい一生懸命やってて、
まず希望って、希望するっていう言葉がある。
Speaker 2
希望するって言いますね。
Speaker 1
希望を持つっていう。
Speaker 2
持つと言いますね。
Speaker 1
あるとか。
Speaker 2
希望がある。
Speaker 1
だから要はこれって希望という、バスケをするとかサッカーすると一緒みたいな、
要するにある行動、動きを意味し、動詞的に見ることもあれば、
希望という状態に対して名付けられた。
Speaker 2
名詞として見てる。
Speaker 1
名詞として見てる。
これさ、希望の対義語である絶望って持つっていう言葉ないんですよ。
Speaker 2
絶望するとは言うけど。
Speaker 1
言うけど絶望を持つって言わないじゃん。
ここがなんか僕最初の起点だったんですよ。
これ何なんだと。
希望はすると持つがあって、絶望はするしかない。
だからこれ持つがあること、希望を持つっていう言葉があることが多分これだいぶ誤解を生んでるんだなと。
ここの特殊性を論理的に言語的になんか説明できるようになれば、かなり希望ってものがクリアになるんじゃないかなと。
っていうふうに思ってて、僕はなんかアランの幸福論みたいなので、
幸福っていうのは常期限の状態なんていうのは自然には絶対ありえなくて、
幸福っていうのは常にこの決断と自己幸福によるものなんだみたいな幸福論があるんです。
それにちょっと似てて、希望ってやっぱするものなんだろうなと。
するっていう決断とその決断に基づく態度というか行動のことに希望っていう言葉がある。
希望ということを叶える状態があるわけではないのではないかっていう問いから始まったんですよね。
この状態は希望がある状態、この状態は希望がない状態、みたいなことは絶望状態っていうのがないんだ。
どんな状態であれ絶望っていうのは決断の問題なので、その大義語である希望も本来そうのはずなのではないか。
Speaker 2
なのにもうどこかにあるものだと。
Speaker 1
あるものかのように言われてると。
Speaker 2
言われてしまう。幸福とか幸せも同じものですよね。
どっかにあるんじゃないかって思ってる。
Speaker 1
でもよく言いますよね、その幸せはどっかにあると思ってるうちが不幸であるみたいな。
だからまず希望ってそうなんだなっていうのと、もう一つ希望とかいう言葉に近い言葉で、
志に望むと書いて、志望っていう。
志望動機のね。
志望動機の志望。これは希望とどう違うんだろう。
先に対して何かを望む気持ちっていうことでは変わんない。
でもこれはみんなの希望って言葉はあるけど、みんなの死亡って言葉ってない。
要するに個人だけのものなのか、周囲の人たち、共同体でも社会でも国でもいいんだけど、
共有できるものなのかっていう違いがあるよねと。
なんか聖書の中に、
熱望しても叶わないのは願い求めてないからですっていう言葉があるんですよ。
熱望とさ、願い求めるも似てるじゃん。
熱望しても叶わない。でも願い求めたら叶う。
これ言ってることがわっきゃ分かんないなと思って。
でもこの熱望に志望を当てて、願い求めるに希望を当てると結構分かるというか、
つまり、志望が叶うことを熱望してる状態って、この会社に入りたい。
将来40代でアーリーリタイヤしてファイヤーしたいという個人の。
Speaker 2
志望がね。
Speaker 1
そうするとさ、これが叶わないと、
Speaker 2
自分の願いは叶ってないみたいになっちゃう。
Speaker 1
けど、何か歳を重ねても充実感と安心を持って生きていけるような社会になるといいよねとか、
そうありたいよねみたいなことだと、
ハウはいろんな方法があるから、
世界からの様々な差し出されるものの中で、
全然これ望んでたわけじゃないけど、
結果なんか良かったねみたいな、これだったねみたいなことがいっぱいあるみたいな。
そういう風になりやすいから、
つまりその聖書で言ってたのは、
小さい構えでその良きことを待ってる、
志望の構えで待ってるよりも、
大きい構えで待ってる方が叶うよみたいな。
話なのかなーみたいな。
希望と志望ってそういう違いがあるから、
この希望で構えるって結構大事なのかもなーみたいな。
Speaker 1
確かにさ、僕もそうだし、くらみきさんとかもそうだけど、
啓蒙の仕方すごいそういうとこあるじゃん。
これ決めて、要するにウォーターフォール的にそこに向かうっていうよりは、
Speaker 2
僕も今それを聞いててそれを思ったんですね。
さっきの、将来何かあると決めてそこに向かっていく、
ファイヤーしたいとかどの会社働きたいっていうのを、
Speaker 1
逆算するってことじゃないですか。
Speaker 2
逆算思考で、よく言うバックキャスティングして経営していきますっていう方針と、
僕らは完全にフォアキャスティングしかやらないから、
3年後のこうなってますとか、ほぼ言いたくないみたいなことはあるけど、
Speaker 1
でも進まないわけではなく進みたいと思っている。
Speaker 2
進んでいくときにあらゆる困難障害起きうるけれども、
それを受けながら前に進んでいきましょうっていうのがフォアキャスティング。
バックキャスティングは決めたところを絶対的にやるために、
障害困難あるけど、それをはでのけて目標に到達しましょうっていうのが、
たぶんバックキャスティング的な発想なんだけど、
つまり希望するっていう状態は、
フォアキャスティングのときは希望してるっていうことですよね。
Speaker 1
まさに。だから、世界の方が何を差し出してくるんだろうっていうことを、
どっか楽しみにするっていう態度だなぁみたいな。
Speaker 2
不確実性に対する態度ですよね。
Speaker 1
そうそう。で、この不確実性っていうことも、
不確実性って悪いものとして当たられることが多いじゃないですか。
リスクファクター。
世界はもうどんどん不確実になってる、困ったなぁみたいな。
だけど、宇田川さんの最新の著作の変革経営だっけ、
ちょっと書名がパッと出てこないんですけど、
素晴らしい本があって、僕もすごく面白く読んだんですけど、
あの中で見通しがつかないっていうのは3つ種類あるよね。
曖昧性、多疑性、不確実性。
この間、キャリウレのときに岩口さんがこれ出してくれて、
あーってなったじゃん。
Speaker 2
そうですね。
Speaker 1
で、これ希望の話もすごいこれを引用して考えが進んで、
聞いてる方のためにも言うと、
曖昧性っていうのはそもそも霧がかかってて向こう側に何があるか全く分かんないよっていう状況。
多疑性っていうのは霧が晴れたら3つぐらい山が見えてるんだけど、
どの山が登るべきかっていうのが見方によっていろいろ変わるから、
ちょっとどうしたらいいか分かんないよ。
不確実性っていうのは登る山決まったんだけどこれどうやって登るっていう、
howが分かんないっていう3つの分からなさなんだけど、
この多疑性ってどの山登ってるいいか分かんない。
もう一つの不確実性って登り方が分かんない。
そのなんていうか答えが分かんないっていう感じじゃないですか。
だけどその霧がかかってるって何があるか分かんないって曖昧性って向こうに何があるか分かんないって話。
Speaker 2
分かんない。
Speaker 1
なんで、問いがそもそも分かんないんだけど、
その状態ってさ、不確実だから不安ではあるじゃん。
霧に囲まれちゃってるっていう。
山で霧に囲まれてさ、前にも後ろにも進めないみたいな感じの状態。
うわーってなるけど、霧が晴れたら最悪の状況が目の前にあることもあれば、
分からないってことは最高の状況があるかもしれないわけじゃん。
だからこの曖昧性って、要はこちら側の意思決定と関係なく、
Speaker 2
超いいことが起こる可能性も同時に示唆してるんだよね。
Speaker 1
これって福音じゃんと。
希望っていう態度ってここに対してはオープンなんだよね。
曖昧性っていう状況に対してめちゃくちゃオープンな態度だからこそ、
実力以上の結果が出せることがある。
Speaker 2
いいこと起きるかもしれない。
Speaker 1
かもしれないのよ。
なんだけど霧が向かってるときには、僕も全然そうなんだけど、
ついさ、悪いことしか考えない。
Speaker 2
うわー向こう全然見えない、楽しみっていう人ってあんまいないじゃん。
いや、そうね。
毎回僕もこの話してて思うのが、
僕の流派というか、僕の原点でいくなら、
ウォーターホールとアジャイルって言葉がやっぱあるんですね。
システム開発で要件定義をして作っていくウォーターホール、
能期を決めて作っていくウォーターホールと、
柔軟に対応しながらいいものを作り続けるアジャイルっていう対比になったときに、
ウォーターホールは、要は未来を決めて、
そこに起きるものは全部リスクだと思い、
その通りにプロジェクトマネジメントすることが一番の正解である。
つまり予測から外れちゃいけないってことですね。
だからウォーターホールで僕嫌いだったのは、
めちゃくちゃメンバーが覚醒してバチバチ生産性上がったら計画狂っちゃうみたいな。
逆にね。
Speaker 2
でも僕からするとソフトウェア開発は学習の連続だから、
絶対的に学習していくと後半の方が、
その連動も上がり、理解も深まり、
テクノロジーに対する知見も高まってるはずなんだけど、
それを最初に計画立てなきゃいけないって、
要はアップサイドのリスク全然受け入れたくないみたいな感じがしてて、
ウォーターホールと僕アジャイルの対比をするときに、
気持ちの問題としてウォーターホールやってるときは、
ドキドキしかなかったんですね。
もうなんか変なこと起きんじゃない?大丈夫?ってドキドキがあったんだけど、
アジャイルでやってると結構ワクワクするんですよね。
大変なこともあるけど、いいこともあるかもしれないね。
ドキドキとワクワクの違いは、
未来決めてるか決めてないかでだいぶスタンスが変わってくるなーって思って。
Speaker 1
それがなんかね、
シームビルディングの時の、
ゲームやるじゃん。
俺が大っ嫌いなやつ。
Speaker 3
体を動かすアクティビティ。
Speaker 1
あの時に、俺が大っ嫌いで全然協力的じゃない感じでやってんのに、
キッチンとしてやるやつが絶対1人か2人いるじゃん。
あの感じが曖昧性の向こう側にある福音なんだよね。
全然俺協力してないのに、
めっちゃやるやつがいるから勝手に進んでいくみたいな。
っていうのが、霧の向こう側にあるもんだんだなっていう、
体感が持てることっていうのが、
希望する上ですごく重要だし、
だから曖昧性っていうものをもっと、
さっきの保守の話じゃないけど、もっとこの曖昧性のいい部分。
つまり、何にも自分が世界に対して努力したり関与したりしないのに、
向こうから何かいいものがやってくる可能性っていうのは、
原理的にはわからない以上必ずあるんだよな。
Speaker 3
でも昔の青木さんだったら、
じゃあこの体を動かすやつをやってくださいっていうお題が出ても、
やらない、これはやらないっていう選択をしてたけど。
参加しないってなってたもん。
Speaker 1
なんだけど参加はする、なぜなら自分が嫌で何もしなくても、
誰かがやる可能性って一定あるし、
だとしたら最高すぎるんで、
参加はするってなるっていう、
だから希望してるってことだよね、絶望してないっていうか。
Speaker 3
だから世界が差し出してきたお題を受け取れるキャパが広がったみたいな。
Speaker 1
広がったっていうことによって、やっぱ本当にある幸せな経験できたと思うんですよ。
その辺の、なんていうか、
世の中的によく言われるいわゆる不確実性というか予測不可能性みたいなことも、
Speaker 3
ちゃんと分解して考えると、悪いことばっかじゃないよなーみたいな。
Speaker 1
しかも、希望の定義っていうのが、
新学者のトマス・アークフィナスっていう人が言ってるのは、
将来の困難な善、つまりまだ実現してない、実現が難しい良いことが、
得られると確信して願望する態度のことを希望と言いますというふうに言ってるんですね。
つまりこれって、困難なことじゃないと希望にならないっていう意味なんです。
僕らもそうですけど、今ドミニにいるじゃないですか。
したら夜、大浴場行ってサウナ入ろうは、希望じゃないですよね。
予定ですね。予測できる気持ちいいこと。
だけど、希望って多分そういうことじゃないと。
つまり困難、どうやっていいか分かんないことを望んでないと希望にならないから、
だから日本って多分こんなに美味しいものをちょっとお金出したら食べられる、