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くらぬきです。
中山です。
ザッソウラジオは、くらぬきと学長こと中山さんで、僕たちの知り合いをゲストにお呼びして、雑な相談の雑草をしながらエルフをしゃべりしていくポッドキャストです。
7月はテーマトークということで、老荘思想についてお話をすることになっております。
その老荘思想のゲストは、クラシコムの青木さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
最近、老荘思想を知って、面白いなと思っているにわかファンの代表として参りました。
前回は、老子・荘子の入り口のところと、全体的な格子との違いみたいな話で、
荘子についてちょっと出てこなかったので、荘子をもうちょっとだけ最初入り口のところを話をするときに、
荘子って本当の人物かわからないけど、実在するかどうか怪しいぐらいの人物なんですけど、
エピソードがいくつかある中で、僕、荘子を教えてもらったのは学長なんですけど、
学長じゃんって思ったのが、荘子も著名な諸子百家になったので、
いろんな国で、うちで軍師やってくれないかとか、うちで参謀やってくれないかみたいな、
宰相やってくれないかみたいな、いろいろ来た中で、何だったら一番いいポジションを用意するので、
うちの取締役になってくれませんかみたいな、名誉取締役、型書きがすごいのつくんだけど、
荘子は、いやいや、僕はそういうのはちょっとっていう話をしてて、
いや、その牛を見てくださいみたいな、立派な着飾ってお祭りに使われる牛は、
祭り上げられて立派な格好して、でも最後食べられちゃうのが殺されるのかみたいなことになっちゃいますよね。
いやいや、だったら僕は泥の中で遊んでいたいですって言って、
宰相の地位なんかを辞退したっていう話を聞いて、あれこれ、学長じゃね?って。
生まれ変わったのかな?って。
そういう人なんですね。
それってあれですよね、定例会議とかいっぱいあるんですよね、みたいなやつですよね。
定例行くぐらいだったら僕、エア社員でいいです、みたいな。
エア社員の方が、みたいな。
そうですね。老子も早子も本当にいたかどうかもわかんないみたいな位置づけなんですけど、
老子の方って抽象的なんですよね、なんか表現とかが。
しっぽいっていうか。
そんで、ふわっとしてて、あんなあんなが言ってることさっぱりよくわからないみたいな風に。
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そもそも文字数が全然違ってて、老子は5000号ぐらいらしくて、
相次は6万5000ぐらいあるらしいんですけど、
基本相次の方は多分、老子の言ってること抽象的すぎて全然伝わんないから、
分かりやすく伝わりやすいストーリーにして、いろいろ説明してみようって言って、
作られて書かれてる感じですよね。
グワー、全部グワーが多くて。
だから老子で学ぶですよね。
抽象は逆にめちゃくちゃ読みやすかったですよ。
短いじゃん、めちゃくちゃ。
話の一つ一つがこう。
そうそうそうそう。
だから僕にとっては圧倒的に老子の方が読みやすくて、
分かりやすいのと、あと老子と相次のすごい大きい違いかなと思うのは、
老子って結構実は統治論じゃないですか。
国の話。
国の話というかどう統治するかっていうことについて。
王様はこうした方がいいよっていう話し方が多いですよね。
だけど相次はどっちかっていうとこの認識というか、結構なんか有意識論とかにもちょっと近い。
仏教とかに与えた影響も結構大きい。
中国仏教に与えた影響もすごい大きいというふうに言われて、
禅とかに与えた影響大きいというふうに言われてますけど、
やっぱり個人の認識に結構アプローチしてる。
だから不確実な世の中をどう見る、どう認識するかみたいな。
全ては等しいみたいなこともそうだし。
そこはなんか結構発展型というか広げた感じがありますよね。
統治論みたいな感じを相次が広げて、
ほぼ全ての人に適応できる。
働き方みたいな。
経営論じゃなくて働き方にしたほうが読者が増えるみたいな。
羨ましい。
それはすごいあるかも。
だからそれこそ組織の猫という働き方とかって、
犬的な働き方が儒家的な感じやね。
自由っていうのがキーワードなので猫は牢層。
そうですね。犬的なのは勤勉ですよね。
だから、なんかあの、
儒家と道家の結節線ってどこなのかなみたいな、
そのことを考えてたときに、
有名なあるじゃないですか、三十にして二つみたいな。
四十にして丸厚みとかっていう。
ずっとあって、七十にしてノリを越えずっていうので一応終わるじゃないですか。
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で、七十にしてノリを越えずの意味って、
七十歳になったらもはや自分の心のままに振る舞っても、
一応外れなくなる。
ノリを越えなくなるっていう意味で、
七十にしてノリを越えずって言うんだけど、
道家の世界ってこれだよねと。
最初からそうですね。
最初からそれを前提としてて、
さっきの一回目のときにさ、
最後、倉抜さんが言ってくれた、
最初からそれでいいんだっけ問題みたいなの。
ここの辺に結構なんか考え方の面白い。
いや、それちょっと知りたいですね。
不悪とか、五十で天命を知る。
最後に七十でみたいな話は、
これ孔子が言ってるんですよね。
孔子が言ってるんですよね。
そのいわゆる立心出世、努力して天命になって、
でも最後は自由気ままで生きれるよっていうところに、
七十かみたいな。
当時七十まで生きた人そんなにいないぞみたいなところに対して、
もうちょっとこう、いつでも無為自然でいるみたいな。
無為自然っていうことと絶対関係してるのって、
道が見えてる。
道を把握しているっていう、
その道っていうのは多分老奏的に言うと、
なんか世の理というか、大きい流れみたいな、
宇宙の法則みたいな、多分そういうことだと思うんですけど、
それが見えてて、
普通にそれ見えてたらその通り、
その道から外れないように行くわなっていう。
そうすれば、ことさらに何か、
頑張らなくても、
大きい流れに合ってるんだから、
いろんなことがうまくいくわなみたいな、
多分そういう考え方なんだと思ってて、
この道が見えてるのかどうかは超重要じゃないですか、
老奏的に言うと。
そもそも、儒家的には道っていうのは、
どっちかというと、
人の行動規範、行為規範みたいな、
社会規範みたいな、そういうものを指しているから、
道っていう言葉の意味自体が全然違う感じですよね。
人の行為規範、ちゃんとやっていくと、
70になったら身についてるぞ、みたいな話。
もともと行為規範みたいな、
仁義礼智みたいなのがありますけど、
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ああいうのってそもそも人が、
本来のあり方と違うような振る舞いをね、
自分の思い通りにコントロールするみたいなことをやろうとしたりとか、
喧嘩したりとかして、
世の中がうまくいかない状態を、
なんとかピシッとさせるために、
仁義礼智大事だぞ、みたいなことを言ってるっていう感じじゃないですか。
そうなんですよね。
最初からそれ何もしなければうまくいくのになっていうのが、
儒家的な考え方ですよね。
老子の中で僕すごく、
それこそそれは発動させられたっていうか、
彼が書いてるのは、
要は道がみんなが見えてて、
徳のある状態に社会があれば、
それが一番いいんだけど、
それが失われるからこそ、
ことさらに人っていうことが言われるようになる。
人っていうのは博愛みたいな感じのことですね。
慈愛とか博愛みたいな。
だからみんなのためにとか、
家族のためにとか、
国のためにみたいな。
そういうことさらに愛情深いとか、
憐れみ深さみたいなことを動機づけに、
その行動を正しくすることが求められるし、
その仁愛も失われると、
今度は決まりごと、
だから礼がことさらに言われるようになる。
マナーみたいなことだったりとか、
ルールですね。
そういうことですよね。
礼の前に義があったんだ。
その仁愛が失われたら、
今度は正義みたいなことがことさらに言われるようになる。
正義さえ失われたら、
もう礼しかないと、
いうようなことが書かれてて、
だからそれって結局、
仁とか義とか礼とかって、
まさに孔子が儒教の中で、
徳として挙げてるようなことって、
実は本当の、
老子が言う徳って道が見えてるっていう、
それと道が見えてて、
それから外れない行動が取れてることを徳だ。
自然と取れてることを徳のある調和してる、
調和してるっていうことを徳だというので、
調和しなくなると、
結局、仁とか義とか礼とかっていうことが出てくる。
これって頭で考えたことなんですよ、全部ね。
人間が。
人間が生み出した概念なんで、
でも徳のとこだけは、
実はすごいフィジカルな感覚なんですよ。
で、この多分身体感覚で、
身体感覚にフォーカスをするっていうのは、
結構老僧の僕は一つ特徴かなっていうふうに思ってて、
他のとこでも法律とかすごい作るから、
詐欺師みたいなやつが出てきたり、
するじゃんみたいな。
だからそういう決め事多いから、
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社会が乱れるんだみたいなこととかも、
全部人間が考えたことっていうよりは、
もっと身体感覚で、
その道を感じれてる状態って大事だよねみたいなことを。
なんかあれだな、今話聞いてて、
要は、仁とか義とか礼みたいなのが、
要は整備をしていかないといけないってことだと思うんですよね。
で、まあ、仁があったら義はいらないし、
義があったら礼はいらないし、みたいなことになってくけど、
ほっとくとどんどん悪いやつが出てくるから、
ルール作んなきゃいけないねみたいな話になっていくっていうところの、
裏側にあるのが、やっぱり、
わかんないけどその拡大思想なのか、
確実にしようとすることなのか、
相手に勝とうとすることなのか、
要は経済を拡大するなのか、
結構、人間、現代社会にも、
何のために稼いでるのかわからなくなる人って、
僕もめちゃくちゃ働いたとき、たまにわからなくなったのは、
要はめちゃくちゃお金稼ぐんだけど、
稼いだお金でめちゃくちゃストレス発散のために、
いっぱい物を買って、
働かなかったら、
お金使わなくなって、
どっちもいらなくなったのに、
無理して頑張ったことを、無理して解消するみたいな、
ロスエネルギー、エネルギーロスがめちゃくちゃ、
起きてるのが、
立心主席、統治拡大だから、
仁義礼をやらなきゃいけなくなってみたいなことって、
片方だけないってなったら、
やっぱり変な感じがしていて、
最初からなければ、
ずっと幸せみたいな、
ブラジルかなんかのおじいさんが、
めちゃくちゃ魚釣るの前からビジネスマンが来て、
これビジネスにしませんかって言ったら、
いいじゃないかと、
サオを2本にして船を買って、どんどんと魚やったら、
何ができるんだって言ったら、
今やってるわって言ったっていう、
そんな感じは、
今話聞いて思った。
活動自体が地球に優しくないですよね。
地球に厳しい人、資源を浪費してる。
無理を無理で解決してるみたいな、
無理するためのエネルギーを無理なもので、
解決してる感じはあって、
会社で言うと、
僕らの会社ほぼあんまルールがないみたいな、
自然というか、
自由に割とさせてる、
生前説だとかって言われてるんだけど、
世の中めちゃくちゃ悪いやついっぱいいると思うんで、
採用にめちゃくちゃ時間かけてる。
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採用にコストかけることで、後のコスト減らすみたいな、
どこにコストかけてるのみたいな、
話にも通じるなと思って聞いてました。
たしかに。
あ、どうぞどうぞ。
仁義礼智みたいなやつで、
いつも思うのは、
お客さんを大事にしてる人たちの会社の壁に、
顧客第一とか書いてないじゃないですか。
品質ストラブルみたいなのが起こる工場に、
品質第一とか書いてないから、
要するに、それがちゃんとできなくなると、
そういうのが大事だぞっていうのが壁に張られるようになるので、
分業とかしていって、自分がやってる作業の意味が、
何なのかがわからないみたいなことを、
ずっとやってると、人間にとっては、
たぶんそれ自然な状態じゃないですよね。
だから、上の人が得を問われるというか、
あの人のために頑張ろうって思えるような、
あの人にならないと、
誰もそんな細切れにされた分業みたいなのを、
ずっとちゃんとやり続けてくれないよ、
みたいな、なんかすごく平たく言うと、
そういうことだなって思ってて。
そうですね。だから、
やっぱり先ほど言った、
信頼性っていうことにすごい近いと思うんですけど、
例えば、5人の会社で、
オフィスにゴミが落ちてるのを拾って、
ゴミ箱を入れない人っていないじゃないですか、普通。
気がついて。
だけど、これ100人の会社とかになっちゃうと、
そういうことって全然普通に起きるっていうことって、
やっぱりその場とか、
その取り組みに、
個々が信頼性を持ちにくくなる状態なんだと思うんですよ。
なるほど。
100人のとき拾うかっていうと、別にいいことだからじゃなくて、
気持ち悪いからなんだと思うんですよ。
これこそまさに信頼性から行動が立ち上がってるんだと思うんですけど、
例えば100人の会社とか1000人の会社だと、
これは正しいことだからとか、
これは私の愛する会社だからとかっていう、
結構なんか理由、
概念的な理由が急に必要になるみたいなことがあって、
つまり、
さっきの70なのかとかっていう話に近いんだけど、
人間って、現象においてはかなり身体的に、
道的なることが見えている、
感じられていて、
それが身体的な気持ち悪さとか、
やりたいという喜びの通りに動いていれば、
その道に結構沿った行動になるんだけれど、
ひとたび身体性が失われて、
その身体性が失われて、
ひとたび身体性が失われる環境下に置かれると、
その道が身体的に感じられなくなって、
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頭で理解しなきゃいけない。
頭が急に必要になるみたいな。
身体性っていうのはつまり、
自然な感覚とか感情ってことなんですよね。
そうだ。
身体性としか言えないというか、
例えばですけど、
僕が身体性とか身体地について言うときって、
自転車の乗り方の話をよくするじゃないですか。
自転車に乗るっていうことって、
例えば、
自転車めちゃくちゃどうやったらできるかっていう、
設計できるっていう能力があっても、
自転車の構造をどんなに知ってたとしても、
自転車に乗れないってことってあり得るじゃないですか。
練習しないと乗れない。
練習しないと。
身体地なんで、
乗り方とかって本をすごい100冊読んでも、
実際に乗れる瞬間までは乗れないんですよね。
道にアプローチ、
僕は自転車という限られた分野において、
まさに道とつながる瞬間が、
自転車に乗れる瞬間だと思うんですよ。
自転車だけにね。
少なくとも自転車に乗るという分野においては、
道とつながって、
自転車に乗るというごく小さい部分においての
特の表現ができるんだと思うんですよね。
いや、難しくなってきたよ。
難しくなってきたか。
そう、だから、
そういうものがさっきのゴミ捨てるみたいなことも、
ゴミ捨てたら自然と
すっきりするとか、
という感覚に根ざせている状態だと、
自然と得のある行動ができるみたいな。
自然と得のある行動ができる環境をどう作るのか。
そうなんですよね。
それはさっき村瀬さんが言っていた採用で、
例えば、得のある人ばっかりの組織にしたら、
自然とそうなるじゃないですか。
我々も、
我々惑おう理論だっけ?
本当なのかどうか知らないけど、
ああいうこともちょっと近いというか。
さっきのゴミ拾う話で言うと、
三木大さんがずっと前から言っているのが、
会社のゴミが落ちていたときに、
拾わないやつはダメだという話を、
ずっと20年以上前からしていて、
それはどういうことかというと、
会社にゴミ落ちていたら拾って捨てるよね。
会社にゴミ落ちていたら拾って捨てないのは、
ここを自分の場所だと思っていないということだよね。
他人のもんだと思っているということだよね。
ってことは、例えば会社のお金を使うみたいなときも、
他人のお金を使っているって思っているから、
自分のお金だとしないような使い方を
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たぶんしちゃうみたいなことに繋がっていたりとかするので、
要するに自分ごと、
全て自分ごととして
拾えようねっていう。
それを言っている時点で、
孔子っぽさを感じる。
要は、仁なのか義なのかを解いている。
たぶん、仁とか義でもダメだったら、
全員廊下でゴミを見つけたら拾うことっていうルールを
作んなきゃいけなくなる。
っていうのが会社のことになっちゃうんだけど。
人数を減らす。
僕も会社でね、
会社がだんだん大きくなってきている中で、
いろんな機能ごとで会社で役割を分けるみたいな。
会社のイベントの運営をするみたいなことを、
昔は全員でやってたけど、
無理なので、運営やってくれるメンバーがいて、
やってくれるみたいになるんですけど、
ほっとくと感謝は生まれないくなっちゃうんですよね。
人数多くなってくると、
やってくれて当たり前みたいな感じが出ちゃうんだけど、
僕も似たような例えをしたって、
5人でバーベキュー行ったら、
みんな肉焼くやついたり、魚焼くやつがいたり、野菜切るやつがいたり、
料理できないやつは片付けしたりみたいなことを
みんな自然とやるけど、50人でバーベキュー行ったら、
バーベキュー運営する人たちがいないとできなくなってきたら、
この肉硬いんだけどとか、
魚焼けてないんだけどって文句言うやつ絶対出てくるなみたいな。
5人の時は絶対、
肉焼けてなくても笑って済ますみたいなのが、
文句言うやつ出てきちゃうって、人数の問題あるなって。
なので、小さくするほうが、
自然に身体性みたいなのを
感じられやすい環境を作れるんだなみたいなのはね。
なんか感じましたね。
そうですね。
感じられる規模とかやり方みたいなのって、
どういうことなのかを結構、
改めて考え直していくっていうのは、
なんかありますよね。
さっきのくらなきさんの、
頑張らないでもいいんだっけみたいな話。
いや、そうなんですよ。
無意識で、無意識前は頑張らなくてもいいのかという。
多分人間にとっての幸せみたいなのって、
他の人との関係性が良いことじゃないですか。
詰まるところ。
そういう意味で言うと、
僕のよく使う言葉、
自己中心的リタっていう表現があるのですが、
自分がやりたくて得意なことやってると周りの人が
喜んでくれてありがとうとか言ってもらえる
みたいな活動。
それが多分自然な状態っていうふうに
僕は思ってて。
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それと頑張る頑張らないみたいなのがまた、
違う話なのかもしれないですけど。
ビジネスとかも、
本当はそうやって自分のやりたくて得意なことをやると、
お客さんが喜んでくれて、
いつの間にか売り上げの数字を上げるみたいな
アクティビティに変わったりとかして、
お客さんにいらない広告とか売りつけたやつが
社内で表彰されるみたいなことになってきたりする
みたいなことがありますよね。
何だろう、
さっきの孔子の富悪60、50、60、70で
70で自由になれるみたいな話は、
自分がやりたくて得意なことをやると
70で自由になれるみたいな話があるのと、
さっきの今の
自己中心でリターみたいな話があるのと、
でも、段階があるんじゃないかなって感じはしていて、
生まれた時から生まれたまま
無為自然なままで
ずっと、逆に言うと
自己中心的リターになれるためには、
自己中心であっても
自分のことができるだけの能力なのか、
力なのか、強みなのかが
ない状態において
リターですって言っても
説得力がないというか、
ただの自己中心になる。
自己中心、リターになるための
何かしらのところまで行くためには
一定の方向性というか
進むみたいな話は
あっても良いのか、逆に言うと
道が見つかるまでは
何かしらの中において
立心修正なのか、成長なのかっていうところを
思考するのか、逆に言うと
その方向性のまま生き続けたから
会社にゴミが落ちても拾わないやつが
出てくるような、ずっとそっちに行っちゃうと
そこで何とかしようとなっちゃうんだけど
最初から掃除目指してるやつって
ちょっと分かんないですけど
大学2年生くらいの人が来て
僕は掃除を目指してるんですって言ったら
まず頑張ろうかって、僕アドバイスしそうになるなと思って
いやいや、寺崎さん何を言ってるんですか
これから無為自然ですよ
就職、働いたら負けですよみたいな
もしかしたら僕の時代錯誤感なのか
その辺ってどうなんでしょうね
いやでも
就職してる時点で掃除と違うじゃん
そうね
いや多分その違和感って
僕は思うには普通の学校教育の中で
大学行ってるくらいある程度やってきたから
27:00
そこにいる人なわけじゃないですか
僕が思うのは
現代の学校教育において
まさに道とつながってる状態だったものを
一旦道から切り離してコントロールしやすくする
人間をコントロールしやすくするのが
なんとなく学校教育っぽい感じがしてるんですよ
だから
よくやっぱり
僕が思うのは
自分の不快感とか
好きっていう気持ちを
克服するっていうことが
子供の頃にかなり求められるじゃないですか
例えばこれでずっと遊んでたいんだよね
みたいなのを克服して
やりたくないことをやるっていうことができるようにすると
逆にやりたくないっていう気持ちを
克服して
いろんなこれは将来メリットがあるとか
いろんなことで
それを克服してやりたくないことを
自分にやらせるっていうことを覚えるっていう期間
だと思うんですけど
これが一回そうなっちゃった人なのに
無為自然って最初から言うの結構難しいと思うんですよ
アンランしないといけないから
そこからやっぱりある程度階段登って
みたいなことが必要になっちゃう
もしも
ナチュラルボーンどうかみたいな育ち方したらどうなるのかな
はちょっと見たことがない分
興味あるんですよね
身体性を壊すっていうことが
大事だと思うんですよね
身体性を壊すっていうことが結構
学校教育の1個の目的かなっていう気がしてて
身体性にあふれてるとやっぱり
集団で成果をなす
パーツとしては少なくとも
過去の時代においてはそんなに
良くないパーツになっちゃう
その意味では
最初から同化的な教育
をくぐり抜けて
僕ら大人になってしばらくしてから
なんかこうじゃないんだよなと思って
ろうしとかに出会ってこれなんじゃねって
今頃思ってるくらいの世代だと思うんですけど
世の常識が最初からナチュラルボーン
これだった中で育つ子供ってどうなるのかな
本当にただ
困った勘違い野郎の集団になるのか
まさに得を体現する
小国下民みたいな感じの
美しい国になるのかは
どっちなんだろうなっていうのが興味あります
なんとなく分かってきた気がしますけど
30:04
例えば僕もそうだったし
うちの会社の社員の人たちは
そういう意味だと
受話的な教育から外れた人が多いですね
というのは子供の頃からプログラミングが好き
寝ても覚めてもプログラミング
僕も子供の時から大学の時も
ずっとプログラミングして
プログラミング続けたくて就職しない大学に行く
卒業論文を
論文じゃなくてプログラムで提出する
そういう人ばっかりが
集まってきた人からすると
さっきの努力するとか
成長するとか
っていうのは全然目的ではなくて
プログラミングしている
ことの方が好きで
それがうまく仕事としてはまった時に
価値になってみたいな状態になってるので
それは無意自然でもあるけど
でも自分たちなりに
プログラムを極めたいという気持ちは
誰よりもあるので
ほっといてもそこに時間を費やすけど
それは自分にとっては努力になってない
みたいなところになってるのが
あるっていう感じと
一方で最近僕らの会社に入ってくる若い人たちは
子どもの頃からプログラミングとか
目覚めてプログラミングやってて
みたいなところではなく
プログラマーになりたくてプログラマー頑張る
みたいな人たちに対して
育成みたいなのを提供するときに
育成をする機会を提供するときに
無意自然とは言えないんですよ
まず自転車と一緒なので
乗ってみようみたいな
何回も転ばせるみたいなことをやっていく
フェーズがやっぱりあるので
それを自家的なところのアンランなのか
もしくはほっといても
自己中心でリーダーにたどり着けるような
ところに行けるための下駄としては
何か必要なのか
その教育自体も
あんまりやらないほうが自然なのか
って言うと悩ましいとこですね
ローソーで言うと
国を治めるときは
王様の存在を誰も国民が
意識しないみたいなやり方
形が一番良い
何もしてない風って僕は呼んでる
環境を整えていって
人には直接言わない
そういう話で言うと
33:02
サッカーの育成みたいなやつとかも
正しくキックができるようになるように
教え込むみたいなのが
塾家っぽい感じだとすると
まずはサッカー楽しいなって思えるように
遊びとして
楽しめるような
環境を作っていくみたいなのが
ローソーっぽいなって思います
だからエコロジカルアプローチ
みたいなのが好きだったりするんですけど
お題与えてやり方は自由
やっぱり子供の頃からプログラミング
好きですみたいになった人って
限定的には道が見えていて
道が見えるとどうするか
努力するとかしないとか
っていう世界というよりは
必要な努力はしてしまうっていう世界に
入ってしまうっていうことじゃないですか
だけどなんか
まだプログラミングできないんだけど
プログラマーになりたいんですって入社してくるって
道が見えてない状態ですね
だからそもそも
道が見えてないのに何々になりたいって思う
っていうこと自体が結構難しい
課題なんだなとは最近すごい思うんですよね
だからこう
エンジニアになったら給料多くなりそうとか
なんか尊敬されそうとかやりがいありそう
っていうすごく想像の世界の中で
自分のことを決めてるわけじゃないですか
僕は創始の中で
の言葉で一番好きで
これ自分の経験にすごい合ってるなと思った言葉が
感じて
然る後に動き
迫られて
然る後に
感じて然るべき後に応じ
迫られて
然る後に動き
やむを得ずして立つっていう
要は徹底的に受動的なんですよね
受け身
インプットがあったら何か応じるし
迫られれば何かしら応じるし
リアクションするし
もうやむを得なければ立ち上がりますよと
でも逆いうとそういうことが起きないかったら何もしませんよ
っていうことだと思ってて
何もしないっていうのは自分の好きなことを
好きなことをしてるってこと
ってことだと思うんですけど
こうなったら
儲かりそうだからこういうものになろうと思う
みたいなこの形とは全然真逆なわけじゃないですか
エンジニアになった方が得だから
入社しようという人にも
36:02
多分お金になる方は別として
そればっかやってたら楽しいみたいなことは別にあるんだと思うんですよ
例えば何か
鋭角のスキーでもいいし
山登んのスキーでも何でもいいんですけど
なんだけどそれを我慢して
エンジニアの勉強しようみたいになるわけじゃないですか
そうするとそれって頭で考えてることだから
やっぱ難くなる
そうですね
ろうそーだと結構
今ここみたいなのが大事
っていう考え方が基本にあって
食いっパグれなさそうだからエンジニアになろう
みたいなやつって今ここを生きてない
未来のために今を犠牲にする
っていうことも
勉強しないといい大学入れなくていい会社入れないよ
みたいなアプローチですもんね
だから僕もなんか自分で経営してて
先読み越して打った手ってあんま上手くいってないんですよ
例えばこのまま行くとこうなりそうだから
こうしとこうみたいなことって
あんま打率良くないなと思ってて
なんかポンって来た球に
おおおおみたいな感じで打ち返したものが
たまたま後ですごく大きな柱になるみたいなことの方が
圧倒的に多いなとかって思ってて
なのでなんかこう来た時に
きびに打ち返せるっていう
リアクションの速さとか
ちょっとした球でも一応取ってみようとする
好奇心とかすごい大事だと思うんですけど
次このため球絶対来るっしょ
みたいな感じでそこに立ってても
結局全然違うところに球行くとか
何ならその予想のために先行投資って考え方あるじゃないですか
将来どうなるかな
例えばこうしとこうみたいなでお金かけとくみたいなのって
なんかまあ成功しないですよね
本当に
だからさっきの職業でもそうですけど
例えば今だったらエンジニアになるの
手に職つけるっていうことかもしれないけど
20年後とかどうなってるのか
わかんないじゃないですか
エンジニアに限らず全ての職業がそうだと思うんだけど
だからなんか
でもプログラミング好きっていう人が
多分それ的なことが何かしら一生あるから
それをずっとただただやり続けていくっていう
今楽しいことをずっとやってるみたいなことの
先にあるっていうのはすごくあるし
今楽しいっていうことを全部やめなさいとか
克服しなさいって言われてたら
それはどんどんその感覚が鈍くなって
僕にはそういうのがないですって人がすごく多いじゃないですか
でもそれって本当はみんなもともとはあったんじゃないの
みたいな
39:00
わかんなくなっちゃってるというか
好き好き
いやもう第2回をね
もう20分たちましたから言ってから20分たちなんだけど
いやもう面白いからちょっと続けますけど
いや好き
本当好きこそもののみたいな話で
好きなものになり好きなことやっていくっていう
でも好きになるまでに
時間かかることないですかっていう
うまくならないと楽しくない
うまくならないと楽しくならないので
それでもそうじゃないのか
それはね僕ね自分の息子を見ててすごく思うのが
ギター買ってやったんですよ
そしたらね
下手な間もずっと弾くんですよ
誰かと比べてないから
一人で弾いてるの
バンドとかも組んでなくて
ずっとやってうまくなるんですね
ゲームもボコボコに負けてる時から続けられるんですよ
やっぱりこの状態
っていうものって多分あるんだと思うんですよね
自分の方角に向いてないものは
そうはならないんだと思うんだけど
別にプログラマーの人も最初からプログラミングが
うまくできたからプログラミングが好きになったというよりも
多分触れた瞬間に
これ自分の道に合ってるやつやっていう
身体感覚として通じるものがあって
没頭してたら気が付いたらうまくなったっていうことであって
おそらくですけど
逆に僕そういうのがあんまりないんで
ある程度プログラミングが経験出てからの方が
楽しくないんじゃないかと思うんですよ逆に
分かるからいろんなことが
理性的に自分のやってることが相対的にどうとか
相対的ってことは
もっとすごい人いるのに
もっと正しい方法あんのにとか
それは
それこそ段階がある感じですよね
だんだんできるようになって
やっぱりできないと面白くないから
だけど
ある時できるようになってできるようになったら
面白くなって自分天才だと思うんですよ
天才期みたいなのがあるんですよ
これは絶対自分は天才だなと思って
やればやるほど天才としてやればやるほど
深みにはまるので
深みにはまるほど世の中のさらにすごい人を
築き
波がまた今度下がっていって
いやいやもう自分は見たら兼許期みたいなのが
そこまでいって初めて
技術の世界でよく言うんですけど何々ちょっとできる
っていうんですね
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Rubyっていうプログラミング言語を作った松本さんが
僕C言語ちょっとできるとか
いやいやちょっとできるどころじゃないだろって
波が始まる前の人からすると
天才期に行く前の人からすると
よちよち期からすると兼許期の人を見て
心折れさせられるんですね
神のやつがちょっとできるとしか言わないみたいな
Linux作ったやつがLinuxちょっとできるとか
言うのがあって
それはそれぞれの人だねっていう風になり
自分期が来るみたいな
よちよちがあり天才が兼許があって
自分のところに落ち着くみたいな感じが
あるので
やればやるほど難しいというか
しんどくなるという時期も兼許期はあるけど
それ乗り越えたら
さらにまた面白くなるっていうか
なんぼでもやっても面白いなみたいな感じのやつだけど
そのよちよち期が
さっきの話で出会った瞬間に
みたいな話になると
どうだったんですか?
そう言われてみたら僕は
確かに出会った瞬間だったのか
小学生4年の頃なんで
40年ぐらい前のことなんで
ちょっと覚えてないですけど
でもそうね
今の話を肯定すると
うちでやってる育成の仕組みが崩壊するので
でも1年ぐらいは
最初1年かな半年ぐらいはしんどいって言ってた
半年ぐらいしたら
面白いって言い出して
休みの日もやっちゃいましたみたいな感じになってるんですよ
確かに
それもあんのかなという気はしてはいる
あるでしょうね
さっきの最初に言った話ですけど
行きがかり上始めちゃって
自分の意思で簡単に辞めたりできないみたいな時に
やってるうちに
そういう領域に
来せずして足を踏み入れちゃって
ハマっちゃうみたいなことって全然あるじゃないですか
だから
最初はこういう気で始めたんだけどみたいなことは
いくらでもあるでしょうねそういうことってね
今のちょっとできるみたいなやつ
それもローソーっぽいなって思って
要は今まで
できてやってきたことっていうのが
あるじゃないですか
でも今まで自分が
まだやれてない可能性みたいな
自分が今までやってきたことよりも
もっと無限大にでかい
まだやれてないことっていうのが
45:00
見えてるからちょっとできる
っていう表現になるのはローソーっぽい
考え方だなと思って
あるとないは一体になってて
あるのところってほんとちょっとだよなみたいな
可能性がすごいいっぱいあるみたいな
そこからいろんなものが出てくるんだけど
自分が進化すると自分のコンフォートゾーンとか
今のゾーンと同時に
ポテンシャルも広がっちゃうじゃないですか
どんどんポテンシャルがたくさん見えてきちゃうから
相対的にちょっとになっちゃう
進化するとほんのちょっと
パーセントで言うとどんどんちっちゃくなっていく
感じてるポテンシャルに対しての
自分が今できる割合って
実はどんどんちっちゃくなっちゃうんで
それはちょっとって言うよな
確かに僕も会社初めて始めた時に感じてた
経営っていうもののポテンシャル
20年近くやってきて感じるポテンシャルが全然違うから
始めた頃に今の自分見たら
いやすごいなーみたいな思ったかもしれないけど
今の自分としては感じてるこの
広大なポテンシャルの中の
マジでちょっとしかできてない
謙虚気だ謙虚気
謙虚気というか自己嫌悪気ですよ最近
いやいや他人としては
いやいや他人と比較しないほうが良いっていう
そうですね
はいということでいつもの2倍
かかったのでもしかしたら編集の都合上2回に
分かれるかもしれませんが
ということであともう1回
お喋りさせていただけたらなと思います
ではよろしくお願いしますまた来週
雑草ラジオ
by H.