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こんにちは、トシです。ミユです。この番組は、考えたり言語化したりすることが大好きな事実婚カップルのトシとミユが、恋愛や自己肯定感など、ちょっと真面目なことを一緒に考えているポッドキャストです。
はい。今日は、いつにも増して緩いですけど、今日は、ちょっと自己肯定感・自己有用感っていうところについて話していきたいなぁと思っています。
タイトルは難しいんだけど、簡単に言うなら、私には何々があるとか、何々ができる、だから私は自分のことが好きっていう、条件をつけている自己肯定感をやめたいっていう話をしたいんですね。
で、条件をつけている自己肯定感って、行動するにあたって足枷になったり、自分にはこれができるからこれをしなきゃいけないという義務になったりとか、何々ができるっていうのを持ってたりできてる時はいいけれども、それを失った時にめちゃめちゃ傷ついて、すっごい絶望するし、
または今の状況から自己肯定感を作り直さないといけないっていう、なんか結構危険な状態に陥ってると思うんだよね。
まあ簡単に言うと、例えば自分には年収がいくらある、だから自分が好きとかさ、私は恋人がいて愛されている、だから好きみたいな感じの自己肯定感だよね。
今回ちょっと参考にしているのが宮崎直子さんの「鋼の自己肯定感」っていう書籍なので、ここの中に自己肯定感が高いとは、ありのままの自分を無条件で受け入れ愛している状態っていうところが定義に上がってくるんですよね。
書籍の中には条件付きの自己肯定感って言葉が出てこないんですけど、この話をするにあたって、自己効力感とか自己猶予感っていう言葉が結構重要になってくるかなと思うので、簡単な用語説明した後に話をしたいと思います。
自己効力感とは、自分ならできるとか、この目標を達成できる、うまくいくぞって思える感情のことで、自己猶予感っていうのは誰かの役に立っているとか、貢献しているとか、自分が何か猶予であるっていうふうに思える感情のことを言います。聞いたことある人も多いかなと思います。
で、としさんに聞きたいんですよ。
はい。
さっきも言ったんだけどさ、私には何々があるとか、何々ができるから、私は自分のことが好きって、この状態やめたいんですけど、どうしたらいいですか?
どうしたらいいか。難しい質問ですね。
それか、この状態について何か言いたいことあります?
思うところで言うと、そもそも自己効力感、自己猶予感というものと、自己肯定感というものがひも付いている状態ってどういう状態なんだろうなっていうのはちょっと思っていて、誰だって別にこれは自分できるなって思う感情ってあるじゃない。それができるから自分が好きってさ、ちょっとまた話が別だと思うんだよね。
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なんかそれって他人に置き換えてみるとさ、友達とかね、友達のこと好きになるときってさ、その人はこういうことができるから好きっていう感じで好きになることってあんまりないなと思っていて。
どっちかっていうと、その人のありのままの性格とか、その人の強み弱み踏まえた全部を見て魅力だと思って一緒にいるみたいなことが多いじゃない。
それと同じように本当は自分を見ることができたら、なんかこう自己効力感、自己猶予感っていうのがあるなし関係なく自分のことも、なんか好きなんだよな、こいつみたいな感じで思えるのかなって思ったりはするけどね。
ただなんでそこのこと自分の話になると、そういう自己猶予感、自己効力感っていう話と、なんかこう自己肯定感の話がひも付いちゃうんだろうなっていうのはちょっと不思議に思うなっていう感じ。なんでなんだろうね。
なんかさ、自己肯定感が高い状態ってさ、ある意味でさ、なんだろう、他の人になんか気兼ねなくいいねができるみたいに、自分にも簡単にいいねができる状態みたいな状態を言うような気がするんだけど、なんかそういうのを認めないですごく高いハードルを設けちゃってる気がするよね。
そうそうそう。毎回何回も何回も自己肯定感について話してるからあれだけどさ、僕の中の自己肯定感って別になんか今これができるできない関係なく、なんかいいじゃん、生きてるんだからっていう感覚に近いというかさ、今が気持ち的に沈んでる時もあれば、何かができる時もあればできない時もあるけど、そういうのをひっくるめて、まあいいじゃん、今生きてるんだからっていうふうに思えることが、
まあ自己肯定感、まあそこまでの人生そのものを肯定できるという感覚が自己肯定感だと思っているから、そういう自己効力感みたいなものを定義として当てはめて理由をつけなくていいのかなと思っちゃうけどね、自分を肯定する理由に。
うーん、どうやったら手放せるのかなということで、なんかそのままの自分って何もできなくて、すごく無力で人の役にも立てないすごいちっぽけな存在だなって思ってしまうから条件をつけたくなるわけでしょ。
そうだね、なんかさ、さっきの話に戻るけどさ、要は逆に言うとさ、他人だったらさ、その無条件の愛情的な感覚を持つことができるわけじゃない、まあ愛情でも友情でも何でもいいんだけどさ、なんでそれを自分に向けることはできないんだろうかってところだよね。
例えばさ、友達だったら、ある意味こう他人だからさ、例えばだよ、その友達がさ、仕事がなくても友達のことを好きは変わらないじゃん、でもその友達が無職であることによってこちらが何かこう被害を被る、なんかマイナスなことを被ること多分ほとんどないじゃん。
もしかしたら、こう誘える回数が減るとかそういうことはあるかもしれないけど、でも自分が例えば無職になった時って、自分にとってさ、いろいろ降りかかってくるじゃん、いや無職の期間、その今後履歴書とかどうすんだよとか、お金がないじゃん、お金どうするんだよとか、なんかそういういろんな心配が降りかかってくるから、なんか自分のことをうまく他人と同じように切り離して考えられないとかない?
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それはあるかもしれないね。要は他人だから文字通り他人事ってことだよね。家族になるとまた変わってきたりするのかな、そしたら。
私結構感覚として、例えば友達がタバコ吸ってんのは全然いいけど恋人はいやみたいな、なんか近くなってくると許せない、遠いとOKみたいな条件があったりする。
あーなるほどね。
近いかもね、そういうのと。
近いかもしれない。それで言うとあれだろうね、やらないといけないことは多分自分の中での悪いと思っているものとか、そういうものの常識を取っ払っていくしかないんだろうね。
だから自分の中では固定観念として、例えば仕事をしている人の方が仕事をしていない人より偉い感覚とかさ、あとはお金の話とかもさ、お金なんて正直資本主義の中での通貨でしかないわけじゃない。
何かを得るために払うもの。で、もちろんそれが必要なのはそうだけど、例えば家族とかよりは普通に生きていくことができたりするわけじゃない。
あとまあ生活保障とかもあるからさ、社会保障的なところとかも。不安はあれど、それでのたれじむぬみたいなところはないと思うんだよね。
でもやっぱその、死ななければいいじゃんって多分思えないからこそ、加減がそこではないというか、死ぬよりももっと違う次元のところでの恐怖とか不安とか、そういうものを持っているからこそ、
社会的地位とかお金とかその他諸々いろんなもので、人は悩んでしまうんだろうね。不安に感じてしまうというか。
逆に言うとそれがあると安心するって話だと思うんだけど。
生きてればいいじゃんとかさ、なんとかなるよ最終的にはとかさ、そういうのってどういうふうにしたら何か考えられるようになるのかなと思って。
生きてればいいの前にさ、まだ段階がいっぱいあるじゃん。
例えば今働いている状態から無職になったとしたら生活の水準が下がるから、例えば引っ越しして環境を変えないといけないよとか、食事も外食したのが難しくなったよとか、今までちょっと食品のこだわりがあったけどそれを考えている余裕もなくなっちゃったよとか、こう下がっていくのが怖いっていうのもあると思う。
なるほどね。これは誰にも当てはまる話ではないからただ僕の話をするんだけど、なんか僕は人生の中で本当にいろんなことはある意味で社会的などん底に行ったことは何回もあると思っていて、何回も行ったことあると思っていて、本当に僕はもう多分社会で生きていくことはできないんだって本当に絶望してた時もあったし、
あとはなんかこう、実際それでなんかこういろいろチャレンジしたけどうまくいかないとか、何も知らない状態用に出されていろんなことに対して恐怖を抱いたりする時もあったけど、やっぱりなんやかんやなんとかなってしまったっていう生存バイアスはあるなと思っていて僕の中では。
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僕はその、そういうところまで言ったけどなんやかんやなんとかなっているから、これから何が起こってもまあなんやかんやなんとかなるんだろうなって思っている節はある。
それはね、わかる。私も正直わかる。
それがその今までの積み重ねがあるから、なんか友達のいやもうなんとかなるよ大丈夫、今そんな深く考える必要ないみたいな言葉もなんか浸透してくるようになったというか。
そう、なんかね、昔何の本だっけな、なんか前週、まあ仏教の宗派の前週のなんかの本を読んだんだけど、心配事は9割起こらないみたいな。
なんかやっぱ基本的に人間ってその心配事をすごいする心配性な生物だと思うのよ、そもそもね。
なんでかっていうと未来を想像する能力がすごい長けてるから。
未来を想像する能力もすごい長けてるし、なんだっけな、無最高の状態だっけな、あの中にも書いたんだけど、
そういうこうネガティブな方にいろんなものを想像することによって危険予知をこう敏感にすることでこう生きてくることができたみたいなのがあるから、
そもそもこう最悪のパターンみたいなのを想像して生きていく癖はついてると思うよな、生物的にね。
だからこそいろんな心配事をしちゃうんだけど、現代においてそんな心配事ってなんか大抵起こり得ないものとかの方が圧倒的に多かったりするからさ。
多かったりするし、死にはその至らないようなものが圧倒的に多い。
さっきみゆうが言ってたような贅沢みたいなところもなんやかんや実はできたりするみたいなね。
できなくなっちゃうどうしようと思ってたけど、結局今みゆうもさ、
まあなんかみゆうが自分で稼いでるみたいな感覚はないかもしれないけど、
今一緒に住んでさ、要は一人でいた時と同じような食べ物とか食べることができてたりするわけじゃない。
仕事をしてない状態でもね。
そのまあ内容がどうっていう感じの状態としてはね。
そんな感じで結果的にやっぱりその大抵の心配事はなんとかなるっていうのは本当にそうだと思うから、
今こういろいろ考えてるけど、それは大抵起こらないし、
その別にそこを満たすために何かこう自分ができるとか、
自分はこういうことがあるから生きていけるとか、
そういうところにすがる必要はないのかなっていう。
ただ生きていくだけで大抵なんとかなるっていう感覚が、
本当は持てるといいのかもねって思うね。
そこはある意味なんか自分の人生経験、
なんか多分思い返すと誰にでもさ、心配してたけど起きなかったとかさ、
結構思ったよりどん底行っちゃったけど、
なんかその後立ち直ったみたいなことがたくさんあると思っていて、
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なんかそういうところから参照すべきはそういうところなのかなって思いつつ。
あとそうだ、これは前回の話にも通じるかもなと思ったんだけど、
そもそもさ、これができる、これには自信があるってどういうところから
その感情が芽生えてくるのかっていうとさ、
多分他の人と比較してるからだと思うんだよね僕って。
結局前回の話にもつながってくると思うんだけど、
結局前回も話したそのやっぱ人と比較している時点で得られる自信とか不安っていうのは
どちらにせよ多分あんまり健全なものではないと僕は思っているから、
やっぱその自己効力感、自己猶予感みたいなところも
そこには帰着するんじゃないかなって気がする、話としては。
なんかその自己猶予感がさ、うまく育ってなくって、
育ってないっていう言い方はあれなんだけど、
誰かの役に立っているとか貢献しているっていうところを
アドラーでいう健全な状態で貢献しようっていう気持ちからじゃなくて、
自己肯定感が低い状態でこの自己猶予感を持ってしまうと、
誰かの役に立っていたり貢献したりするっていうのが
何かの見返りのためにやっちゃったりとかするんだよね。
そうかもね。
だからその自己肯定、あのなんだ?
自己上院会の第2回の
その自己肯定感が高い方がいい恋愛ができるよねっていう話もそうなんだけど、
期待をして勝手に裏切られたと思って傷ついちゃうみたいな。
これをやってあげたからこういうフィードバックをもらえるだろうと思ってたけど、
それをもらえないとそれ自体がなんだこいつみたいな感情になっていくってことね。
そうそうそうそう。
だからやっぱり自己肯定感が低いまま
自己猶予感だけ育ってしまうと危険な状態になりかねないなっていう感じはする。
どこまでいってもやっぱりその自己効力感、自己猶予感、
まあ自己肯定感もそうかもしれないけど、
とにかくやっぱり自分の問題だと思うんだよね。
ただやっぱりこういうものが健全に育ってない状態って
常にやっぱり周りに人がいる前提になっているというか、
周りから見て自分はどうなのかとか、
その周りと比べて自分はどうなのかとか、
自分がやったことが周りからどう見えているのかとか、
そういうところに目が行っちゃっているから
なんかいろんなものがこう不安になっていくんだろうね。
本当に自分で自分を見たときに
こういう行いは自分としてはやっぱりこういいことだと思う。
それでいいって思える。
その自分自身が取ったアクションを自分自身に信じることができる
っていうところが、そこに対して勇気を持つっていうのが大事かもね。
周りの人の評価にすがらないというかさ。
周りの人にその評価をしてほしくなっちゃうのって
やっぱり自分でそこに対して評価をすること自体の
やっぱり勇気がない状態でもあると思うから。
そこを、でも周りの人からどう見えていたとしても
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自分はこういうことが大事だと思うとか
これをやること自体が意味があると思うとか
これをこの人に対してやることがこの人のためになると思うって
自分自身で自分に対してエールを送るというか
自分自身で自分を信じることができるといいんだろうね。
だから結局自己効力感っていうものは
結構周りと比べたときにこれができるみたいな
相対的なところで自分自身を持っている状態だよねっていう話で
それがあるから自分が好きっていう状態は
やっぱりそのフィードバックとか評価っていうのを
周りに頼っちゃってるから
自分自身で自分がやってることとかを
信じられる状態になれるといいよねっていう話。
それが自己肯定感なんじゃないっていうことを
お話しいた気がするよ。
それってどうやったら自分のことを信じられるようになるの?
勇気だと思う。そこに対してなんか
すごいテクニックとかあんまりない気がするんだよな。
鋼の自己肯定感だとそれこそ
アハーメーションから始めようっていうね。
だから私は自分が好きですとか
私は自分のことが好きになり始めています。
っていう風にまずは口に出して言うとか
思考を切り替える訓練をするとか
自己肯定感を高めていく方法っていうのは
ちょっとこの後にゆっくり話していこうかな
って思ってる内容ではあるけど。
だからやっぱり少なくとも
そういうテクニックとかも含めて
やっぱ自分自身で自分の行動に対して
それを信じ、なんていうの
自分自身の行動を信じられる状態
自分自身ができることとかできないこととか
そういうのをひっくるめて
自分自身を信じることができれば
一旦はいいんだろうね。
信じないとなって思うところだけでも
何かアクションが変わってくるのかもしれない。
うん、そうだね。
だからそのアファメーションだっけ。
アファメーション。
アファメーションみたいなところもそうかもしれないし
勇気っていう言葉を使ったのはあれだよね。
やっぱ幸せになる勇気とか
嫌われる勇気ってものが
勇気っていう言葉を使ってて
そう、アドラーが使ってる。
勇気っていうのはもうその日から持てるものだ
っていう話も書いてあったりするから
変えていこうって気持ちをまず持つところから
変わっていくのかもね、人間は。
ということで、まとめて言うと
まとめてくれんの?今日も。
うん。
嬉しいね。
自己効力感とか
あとまあ
自己猶予感も
そうかもしれないけど
やっぱ周りの人がそう言ってるからとか
周りの人が自分のことを見てくれているから
自分自身があるとか
周りの人と比べて自分はこういうことができるから
そこに対して自信があるみたいな状態は
逆に相対的にそれよりできる人が現れると
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崩れていっちゃったりするから
そこよりも
自分自身がやってることとか
やってきたこととか
経験とか
自分自身そのものをやっぱり信じるっていうところを
やっていくのが
大事なんだろうなって思うし
やっていかなきゃなって思ったところから
何かしらこうアクションが変わっていくのかもな
という話を今日はしましたかね
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