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こんにちは、番組ナビゲーターの伊藤由美子です。
伊藤由美子のCozy Spaceへようこそ。
Cozy Spaceとは、日本語に訳すと、居心地の良い場という意味になります。
この番組では、居心地の良い場とは何かということをテーマに、あなたらしくいられるちょうどいい場所を見つけるためのラジオ番組です。
毎回素敵な方々にインタビューさせていただき、ついつい夢中になってしまうことや、個性を活かして自由に生きること、そして日々気持ちよくいられるヒントなどをお伝えしていけたらと思っています。
伊藤由美子のCozy Space第211回
2024年10月のゲストは、映像音声クリエイターの中江公大さんです。
中江公大さんのインタビューは、第210回から第213回までの4回に分けてお届けします。
2回目のインタビューは、学生時代に起こった出来事についてお話をしていただいています。
では早速、中江公大さんのお話をお聞きください。
一家離散の経験
先ほどお話が出ましたけど、中2、14歳ですよね。
の時に、キメさんのホームページにも書いてあったんですけど、いっかりさんって書いてあったんですよ。
そんな生々しく書いてました?
さらっといっかりさんって書いてあったんですよ。
ちらっと私聞いたことあるんですよ。この辺りで聞いちゃっていいのかわからないんですが。
本当によくあるパターンだと思うんですけど。
よくあるパターン?
テレビドラマとかよくあるようなパターンで。
うちの親が自衛所だったんですよね。
お父さんが。
やっぱり自衛所がうまくいかなくなって、立ち行かなくなって、もともと実家も長らく続いていた家だと思うんですけどね。
お墓とか見ても年号って言うんですかね。明治以前の年号の方の名前、ご先祖様の名前も書かれてた。
家営とかそんな感じの、もう本当に先祖代々鹿児島だったんですけど、自分の親の代でそこが事業を撤退とともに、家が差し寄せられるじゃないですか。
笑顔で言う話じゃない。笑ってますけど、結構時が経ってるから笑えるかもしれないですけど。
もう20年以上経ってるので。
大変なことですよね。内容的には。
そうですね。ただそのタイミングで僕が生まれた家ですね。生成家って言うんですかね。差し押さえられて亡くなっちゃって。
ただ僕の母親も父親も同じ町内だったんですよね。
もともと。
もともと。父親の方の実家ですよね。そっちにはもう住めなくなって、中離のタイミングで母親の方の実家、だからおばあちゃん家ですね。
母方の祖母の家に転がり込んで、母方の祖母と、あとそこにおじもいたので、母方の祖母とおじと僕と3人で中2から高校卒業するまで生活したみたいな。
高校生活の孤独
そうなんですか。簡単に言うと親戚のうちにいたってことですよね。
そうですね。
え、姫さんって兄弟いらっしゃった気がする。
姉がいて。
お姉さんはまた違うところに住んでたってことですか。
ギリギリもう高校卒業してて、社会人になったタイミングだったので、姉は姉で社会人として、当時会社の量もあったので、そういう意味で姉は姉で自分の生活をそっちで始めたみたいな。
そうなんですね。で、お父さんとお母さんはまたバラバラに。
またちょっと別なところでひっそりと。
ひっそりと。いろいろお事情があり。
もともとの世界には住めなくなったので、別なところでつつましく生活していたみたいな。
そうなんですね。その14歳の君さんは、今はね、ちょっと笑ってしゃべっちゃってるぐらいですけど、その当時はどういうふうな気持ちだったんです。
なんか本当に良くも悪くも、自分事と思ってなくて。
そうなんですか。
自分の事のはずなのに、なんかテレビの登場人物見てるみたいとか。
なんかよくドラマであるじゃないですか、そういうシーンが。
そうですね。
何か事情があって一家族で住めなくなってみたいな。
テレビドラマで起きてることが自分のこととして起きてないみたいな。
だからあんまり現実感がなくって。
でもやっぱり時間が経つと実感してくるわけですよ。
で、その時に今の自分だったらいろいろアドバイスできると思うんですけど、当時の自分だとまだネットも発達する前だったと思うので、まだギリダイヤルアップがISDNぐらい。
ありましたね。
そんなタイミングだったので、まだネットで調べてっていうのでもなかったので、本当に周りに相談できる相手もいなかったから、本当に自分だけで、自分のその14歳の何も知識がない少年というかが人生考えた時に、人生積んだなと思ったんですよね。
その時にちょっと全部諦めちゃって。
自暴自棄になるとかではなくて。
だから当時の口癖がすごいネガティブな言葉なんですけど、どうせっていうのが口癖だったんですよ。
何やるにもどうせ、そんなもんだろうどうせっていうような感じの枕言葉がつくぐらいな感じですか。
そうですね。だからグレてはないんですけど、誰かとつるむとかではなくて、ただただ一切人と関わりが持てなくなったというか。
自分の中でガラガラシャッ倒してるみたいな感じですかね。
そうですね。だから中学校の時まではギリギリ小学校中学校が一緒の区域というか、同じ小学校の人たちが同じ中学校に上がっていくみたいな感じだったから、ギリギリおしゃべりできるお友達とかはいたんですけど。
高校になってから地域もそれぞれバラバラになるし、僕自身も全然勉強しなかったっていうのもあって、あとは進学できないなって勝手に思っちゃってたので。
今はもっと小学金とかアルバイトしながらとかいろんな選択肢があるよって言えるんですけど、当時の自分はそんなのもなかったから。
まあ、どうせって思ってるからね。
そう、どうせって思ってて、だからもうどうせ自分で一人で生きていくしかないから、高校卒業してすぐ働けるようになるために、商業高校か工業高校しかないなって思って。
ちょうど手に触がすぐつくようなね、資格とか。
ちょっとお恥ずかしい話。工業高校に入れるほどの学力もなくて、当時。
そうなんですか。
本当になくて。で、商業高校あったらギリいけるからみたいな感じで、商業高校行ったみたいな。
なんか前ちょっと聞いたことあったと思うんですけど、高校の時にだから友達が一人もいなかったって。
いなかったです。ひたすら3年間一人で。
えー、それってどんな感じ?
グループワークが死ぬほど辛いですよね。
辛いですよね。給食とかどうされて。給食じゃないか、弁当ですかね。
弁当はいくつか選択肢があって、学校に学食っていうのがあって、学食か売店があるので売店で何か買うか、あとは自分たちでお弁当持ってくるかみたいな感じだったんですけど、
僕は祖母の家に転がり込んでたので、祖母も僕が工業の時に宅配してるんですよ。
そうなんですか。
だから一応お小遣い、お昼代だけいただいて、それで学校の売店で買うか、なんせ食堂使う勇気がなかったので。
食べる人がいないから一緒に。
食べる人がいないから、僕3年間で食物使ったことないんですよ。
えー。
あとお昼も、その昼食代がお昼代でもあり、お小遣いでもあるわけですよ。
僕はゲームが趣味なので、そのお昼代を、パンもめっちゃ安かったですね。
当時で一番安いパンがたぶん1個100円しなかったと思うんですよ。
一番安いのって学生価格なんですかね、70円か80円くらい。
あとその飲み物とかも自販機で70円くらいのやつ買ったので、70円くらいのパンと飲み物買って140円とか50円じゃないですか。
それ買って、お昼代いくらもらったかちょっともううろ覚えですけど、たぶん500円くらいはもらってたと思うから。
そうですか。
だからその350円くらい余るじゃないですか。
それをコツコツ食べて、お小遣いで敷いたみたいな。
あー、それでゲームソフトとか買ったみたいな。
なんかそんな感じでしたね。
そうなんですね。
え、じゃあ何だろう、君さんにとっての高校生活って自分の中であまり思い出したくない過去なんですか。
もう一回やられてたら死んでも嫌ですね。
あー。
でも今思うと当時の自分は本当によくやってます。
その3年間一人で、一人ぼっちで。
不登校にならず。
学校はちゃんと行かれてたんですね。
一応行ってて、ただ本当に嫌な授業とか、そういう生活が続いていくとやっぱり参る時があるので。
そりゃそうですよね。
先は学校休みしたんですけど、でもほら、休みすぎると卒業できないからだし、あと高校卒業して就職しないといけないから、休みすぎるとそういう就職に響くから、そのギリギリのラインで。
ギリギリのラインで学校に行き。
新たな環境での変化
学校に行き。
でも、人とほとんど関わりを持たなかったって言っても、話しかけられたりとか、誘われたりするっていうことってあると思うんですよ、たまには。
もちろん声かけられたのがゼロではなかったですね。
でも本当に、自分が完全に心を開けてなかったっていうのがあって、どうやって人と関わっていいのかもだし、せっかく声かけてもらってもうまく返せないし、自分から声かけるなんてなおさらできないしみたいなことを、1年生からそんな感じだったので、もう1年生でそこを越えられないと、2年生、3年生はもう今さら感がいったから。
そうですよね。なかなか急に同じ高校で急に帰れないですよね。自分も帰れないし、周りもそういうふうに見ちゃいますもんね。
僕がいたのは商業高校なんですけど、学科が商業科、情報処理科、あと国際計算科だったかな。3つの学科があって、全部で8クラスだったんですけど、商業科が4クラスで、僕がいた情報処理科っていうのが2クラスだったんですよ。
だから、1クラス40人。40、40、80人。それで1年、2年、3年って上がってきて。確か1回クラスぐらいあったと思うんですけど、もうそんな感じだから。
同じメンバーなんですね、ほぼね。
ほぼ。だからもう最初はずっこけてるから、もう本当に今さらばっかりできなかった状態で、2年、3年と。
そうなんですか。今の君さんも知ったら、ちょっとその当時知ってる人たちは変わったなっていう印象なんですかね。
ある意味変わったのだし、多分僕のことがよく分からなかったと思います。分かるはずがないというか。
開いてないからね、自分から。
開いてないから。でも休まないし。でも本当にそれは幸いのことなんですけど、いじめとかは一切なかったんですよ。
良かったですね。
いじめられることは一切なく、ただただ僕が一人でこう。
閉じてた。
閉じてて馴染めなかったっていう。
そうなんですね。その自分を閉ざしてた君さんがいつその少しずつ開いていったんですか。
それはやっぱり環境が変わって就職したと同時に山梨に転勤されると思うんですけど、そのタイミングではもうなんかそうやって人と関わることがいきなりできたんです。
そうですね。やっぱり最初の段階で、大学デビューじゃないけど、高校はこうだったから、社会人になったらちょっとこう気合い入れていくぞみたいなのは正直あって、
心を閉ざした理由
本当にバリバリ働いて、見返してやるぞって思ってて。で、高校で入社して、その4年経てば大卒の人が入ってくるじゃないですか。
大卒の人には絶対負けないと思ってて、それをモチベーションにやってた。
プラス、あとさっきの転勤族で山梨の人たちがすごい優しくしてくれたというか、社会に出れば、上は60歳以上の人もいれば各年代いるじゃないですか。
で、同じ近い、でも山梨の方はそうですね、高卒する人があんまりいなかったから、尚の子とたぶん可愛がっていただいて。
一番最年少みたいな感じ。
そうですね。だからその時にちょっと、なんか人の温かさに触れたみたいな。
そのなんか触れたことによって自分もちょっとずつ心を閉ざしてたのが、少しずつ緩んでいったって感じですかね。
緩んでいったかもしれないですね。
でもやっぱり同期の人たちと話すのはちょっと苦手でした。年代が近い人ほど苦手でした。
それは何でなんですかね。
今はたぶんそう、今もちょっと人間関係は、やっぱり年が近いほどなんかどう言っていいのかわかんない。
それ何でですかね。
相手が年上だと胸を借りていけるというか。
甘えられる感じ。
たぶんそれがあるかもしれないですね。でも年が近いと、たぶん今はそうでもないかもしれないですけど、10代後半20代の時とかは、
自分の中で何かを話す話題とか、今でこそゲームっていう趣味をちょっと一回やめていた時期もあったんですよ。
20代の時とかも、やっぱり自分の好きなことを相手に語るっていうのがあんまりしなかったかもしれないですね。
話題を自分から持ち出すっていうことが、学生時代からちょっとそういう、なかなか自分から入っていくのが苦手だったっていうのもあって、話題の振り方とかがうまくできなかったというか。
そういうことですか。だから、例えば年上の方で君さんにいろいろ話題を振ってこられれば、それは結構話が展開できるっていうような感じだったんですかね。
そうですね。年上の人だと、やっぱりそれは仕事の場面が多いので。
やっぱり年上というか、人生経験がある方たちの話だから、いろんなことを教えてくださる。それを聞いていることが多かったみたいな。
あと共通言語として仕事の話っていう話題があるからってことですよね。
そうですね。
そういうことなんですね。でもそんなね、君さんがね、さっきからも何回か話出てますけど、インタビューをね、インタビュー番組を聞いてたものの、インタビュアーとして誰かにインタビューするっていうことって、その当時じゃ考えられなかったってことじゃないですか。
今はもっと考えられないですね。
なんか今の話聞いてると、え、どうしてどうなってインタビューの番組を自分でやろうと思ったって思ったんですけど。
そうですね。一個は、早川さんの番組を聞きまくっていたからっていうのは大きくて。
その影響を受けたってことですかね、早川さんの。
そうですね。なんか最初は早川さんに興味を持ったっていうよりかは、早川さんが話を聞くゲストの方。いろんな職業の人たちとか、年代も違うし、そもそも今自分がいる分野とも違うしっていう、自分の周りには絶対いないような人たちの話を聞けるっていうのが面白かったんですけど。
そういう人たちの話を聞く中で、今度は早川さんって何者なんだって思いました。
急に気づきだした。あれ、この人はどういう人なんだろうっていう。
そうですね。だんだん僕が自分の境遇もあったんですけど、転勤族だったりとか、家の都合で引っ越しとかせざるを得なくなったとか、でも行く先だけでは一人恵まれていたりとか。
だから自分でいろんなところに行って、いろんな人の話を聞くっていう、冒頭の方の話の繰り返しになるかもしれないですけど、自分から話を振るっていうよりかは、人の話を聞くことが多いっていうのもあって、正直それが僕の中ではすごいコンプレックスだったんですよ。
特に若い時とか、小学校、中学校時代の同級生とかと、ちょっと根松選手とかに会って飲み会とかするときに、終わってみると、話ずっと聞いてたばっかだったなって思って、家に帰って落ち込むみたいな。
聞くのが好きと言いつつも、あれ自分の話一切他の人は知らないんじゃないかっていう寂しさ。
寂しさか申し訳なさ。
申し訳なさ。
聞いてばっかで申し訳ないみたいな。
そうですか。
今思うと、聞くって相手が喋りたいことを話してもらうっていうポジティブな側面だと思うんですけど、僕は聞くっていう行為を相手の人生経験を取りに行ってるみたいな。
奪うまでは行かないけど、そんだけめっちゃ聞きたいみたいな。
だって人って自分の話聞いてもらいたいばっかりですからね。
これが嬉しいっていうのも、20代後半とか30代前半ぐらいに、あ、そうなんだって思い始めたぐらいな感じなので。
なんかちょっとずつですね、人の話が面白いなって思い始めたのと、聞くって相手のためになるんだっていうのを思い始めて、実際それをプロインタビューっていう形で仕事にしてやってる方がいる。
ゆみ子さんも今インタビューいろんな方にされてますけど、だからそういうインタビューって自分の何らかの活動になって、それで相手にも喜んでもらうし、あと自分自身もいいですよね、インタビューするって。
そうですね、いろんなことが、自分自身もその人の話をして整理できたりとか、いろんな気づきいただいたりとかするのでね。
あと僕はいろんな土地とかに行くのが好きなので、どっかよそに行っている人たちの話を聞くっていうのが、なんかその場所の、行ったことないですけど、例えば北海道とかに面白い人がいて、僕が北海道に行くってなると、それはむしろ行きたいになるんですよね。
話も聞きたいし、その土地でも行ってみたいしみたいな。それができるのがとてもいいなと思って。
そういったことでインタビューにもすごく興味を持ってやってらっしゃるってことですね。
インタビューへの興味
そうですね、はい。
それを、自分がインタビューするときと、私の番組もそうですけど、インタビューされたのが…
中池みゆろさんにご登場していただきました。
次回は、映像・音声編集者、そしてインタビュアーとして大切にしていることについてお話していただきます。
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それでは次回もお楽しみに。伊藤絵美子でした。