感情の否定
こんばんは、ゆみです。今日もラジオを取っていきたいなと思います。 このラジオは、人間関係、キャリアに伴走支援しているコーチの私が、普段の気づき、あるいはこれを発信しているラジオになってます。
はい、今日はですね、 無かったことにすんなって話をしようかなと思います。
いきなり唐突なに?って話なんですけど、あのね、 皆さんなんか人生の中ですっごい悔しかったこと、悲しかったこと、苦しいこととかってありませんか?
私はめっちゃあるんですよ、あの、 なんか例えばですね、受験だったりとか、転職だったりとか、
仕事でプロジェクトを任せられた時、なんでもこう、それでも大丈夫なんですけど、全部うまく、なんか思っていた成果が出なかった時って、すごい悔しいなって思う時ってありませんか?
私あるんですよ。 えっと、でも、
まあ大丈夫ですって言っちゃう時ないですか? 大人だから。
なんか感情にさ、なんか、
感情に素直になっている時ってカッコ悪いってやっぱ、 思われやすいからかもしれないし、
なんだろう、 ちょっと合理的な方がスンッとしてて、カッコよさそうに見えるからわかんないけど、
なんか、良さそうに見えるっていうのもあると思うんですけど、 まあなんか、こう、感情的になっちゃいけないみたいなところがあって、
こう、みんな悔しいとか苦しいとか腹立つとか、悲しかったとか、 否定されて辛いし、みたいなこととかあった時に、
なんか、なかったことにするっていうの、意外と癖になってるんじゃないかなって思ったりしたんですね。
過去の経験の重要性
で、私自身も、なんか、
あの、ちょうど去年ぐらいですね、 あの、これはもう開示するのが本当に去年はしんどかった話なんですけど、
まあ、あの、もうすでに話せることでもあるんですけど、 去年私はちょうど1年ほど前ですね、
えっと、会社を退職しまして、フリーランスになりましたと。 で、まあ、あの、思っていた形ではなかったんですよね。
独立するっていうのは、自分の意思ももちろんあったんですけれども、 なんか、どちらかというと、会社が、まあ、あの、業績とかが、ちょっとあまり看板しくなくて、
で、えっと、自分で選択する形で、どっちがいいみたいな、 まあ、継続して残るか、
あ、業務委託として残って、 あの、フリーランス、なんかまあ、なんだろう、
副業として残るか、みたいな感じになって、私はこう、 まあ、ある種副業としてその前職に残り、今も残ってるんですけれども、
残って、今も仕事させていただいて、結果として独立した、みたいな形になってます。
で、なんか、そういうのが、こう、別に苦しくないとか、苦しくない、
苦しくなかったかというと、苦しかったんですよ。 でも、
周りには、いや全然大丈夫だし、みたいな言い方して、 あの、まあ、悲しくないフリはしてたんですけど、やっぱり悲しかったんですよね。
で、悲しいし、苦しいし、辛いじゃないですか、そういうのって、こう、自分が愛着があった場所だったりとか、
あの、大事にしていた場所から、こう、離れないといけなくなったとかでも大丈夫ですし、
まあ、今言っていたように、こう、実、なんだろう、自分の実力が試されるような場面ですっごい悔しい思いして、
なんか、うまくいかなかったみたいな、まあ、前職の、なんか、
なんだろうな、試験受けても全然落ちまくったとかでも大丈夫なんですけれども、
うーん、なんか、やっぱり自分、なんか、こう、 否定された体験とか結構恥ずかしいから、なかったことにしたくなるじゃないですか。
こう、いなくてもいいよじゃないけど、なんか、いらないって言われた体験って辛いんですよね、やっぱり。
もう、今、自分で言ってるだけでも辛い、今、喋ってるだけで、本当に。
なんか、人に必要ないよって言われる、まあ、他者に必要ないよって言われる体験ってすごく私は辛いと思ってるんですよ。
でも、なかったことにしたくなるんですよ。
悲しみの受容
その事象自体を悲しくなかったことにしたくなるプライドもあって、なんか、そういうふうに思われたくもないし、そういうふうな、
あの、ふうに、周りから判断された人っていうふうに思われたくもないからさ、なんか平気なふりしたくなるんですよね。
平気なふりしたくなるじゃないですか。でも、なかったことにし続けるとずっと悲しいんですよね、どっかで。
うーん、なかったことにし続けると、表面上は見ないふりはできるんですけど、
どっかで私あの時悲しかったなってずっと思い出し続けるんですよね。
もう人って、やっぱり記憶って恐ろしいもので、悲しかったことをちゃんと覚えてるんですよ。
で、ちゃんと自分の中で悲しみ切るっていうことをしない限りは、頭の中に残り続けるんだと思ってるんですよ。
で、私もすごくそれは自分で実感してるんですよ。
で、今やってたように、私が一番トラウマに残っていることがあるとしたら浪人したこと、自分の価値が一番否定された瞬間だと思っているんですね。
で、浪人っていうのは何でそんなに私が自分の価値が否定された瞬間だと思っているかというと、
大学に落ちたっていうこともそうなんですけど、親にとって
ただのコストになったっていうのがすごく辛かったんですよ。コストです、これは。
社会にとってもコストって思ったんですよ、その当時は。今は思ってないですよ。
で、実際に浪人になってる人が私はそうかって言うと、私は思ってないんですけど、なんか今はね。
でも当時は浪人イコール、社会としてだったりとか家族にとってコストだと思ってたんです。
で、実際家族にとっては特にそうだったと思うんですよ。
なんか、親が働いて順調にいったわけではなく、どっちかというとコストとして扱われた。
扱われたというか、実際そうだったみたいなのに近いから。
なんかその時に私が一番苦しかったんですね。
で、社会に出てもやっぱりこの自分自身がお荷物だとか、何だろう、コストになってるっていう感じる瞬間はすごく辛くて。
あー、何だろうか。
なんかそういうのって辛かったってちゃんと思わないと、なんかずっと引きずるんですよね。
記憶に残る。私はずっと残ってたんですよ。
なんか、前に進む時もあの時こうだった悲しかったってのをもう一回思い出して、あの時こうだったしなみたいなのを思い出して。
なんかまた違うこう、ディスク回避、今その時の経験を持ってこうディスク回避の行動ばっかりしようとしちゃうみたいなのがあって。
なんか今の自分と過去の自分って全然違うのに、判断が鈍るんですよね、これって恐ろしいことに。
だって浪人した時の自分って、なんか、何だろう、今の自分絶対違うんですよね。
私だって今36ですけど、19歳の時の判断、18か19くらいの判断と今の判断軸って絶対違うし、今の方がなんか難しい、変な判断しないっていう自信あるんですけど、
でもその時の悲しみをなかったことにしたがゆえに、
今の自分に影響して、なんかその時の、何だろう、
自分がコストになるのが当然だっていう思考になってしまうと、
そういうこと、自分はそういう存在なんだからそういうの起こしてはいけないみたいな思考が起きるわけですよね、なんかやっぱり悲しみ切ることを忘れてしまうと。
私が判断したこととか決断したことは全て間違っていたから、だから私がコストにならないようにするためには挑戦してはいけないし、なんか前に進んでもいけないし、
なんか、もっと周りの話を聞く必要があるみたいなこととかを、36歳の私でもその話を聞かないといけないかって言うと絶対違うんですよ。
だから、何だろう、なかったことにしてはいけないんですよね。やっぱり当時起きたこととか、今起きている悲しいこととか辛いことなんでもそうですけど、
なかったことにはしてはいけない。今の未来の自分のためにも。 ということを今日はなんか、
なんかこの夜の、なんかこう、すごく思ったことを伝えたくなったんで撮りました。
今日は。 なんかそんな熱量のある思いだけ伝えて今日は終わろうと思います。
はい。ありがとうございました。UMIでした。