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時代からの要請で変化する原作とメディアミックスの関係性【よすみの様子見#4】
2026-05-06 27:40

時代からの要請で変化する原作とメディアミックスの関係性【よすみの様子見#4】

ジャンルレスで刺激的なマンガ作品をお届けしているよすみ編集部のPodcast番組。
マンガ研究者のトミヤマユキコ、そしてよすみ編集長の藁谷周太郎が、日々生まれ続けるコンテンツに飲み込まれる前に一度立ち止まって、すみの方からじっくり様子を窺いながら、次の一手を考える番組です。

第4回は『時代からの要請で変化する原作とメディアミックスの関係性』

【出演】
トミヤマユキコ(マンガ研究者)
藁谷周太郎(よすみ編集部 編集長)

【構成・制作(放送作家)】
澤村太星

Produced by よすみ編集部

■おたより、感想はこちらから
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeKAJsvuX-_wrQDUm3sR1q0v0pr58x7A4k2DYEHrWdZ_5Vbrg/viewform

■マンガWEBサイトよすみ
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#よすみの様子見 #よすみPodcast 

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サマリー

このエピソードでは、漫画研究者の富山由紀子さんとよすみ編集長の藁谷周太郎さんが、メディアミックスにおける原作と映像化の関係性について深く掘り下げています。まず、メディアミックスとは何か、IP(知的財産)ビジネスとの関連性、そして漫画がIPの出発点となりやすい理由について解説しました。次に、萩尾望都の漫画『イグアナの娘』を例に、1996年に放送されたテレビドラマ版と原作の違いを分析。特に、主人公が母親にプレゼントする小道具が原作の手鏡からドラマ版ではスカーフに変更された点に注目し、その変更が原作の持つ「光学機器」というテーマ性や、当時の時代背景、ルッキズムといった要素とどのように関連していたのかを考察しました。 さらに、ハリー・ポッターシリーズの映画版における「ニワトコの杖」の結末の改変についても議論。原作ではダンブルドアの墓に杖を返すという儀式的な行為が、映画版では折って谷底に捨てるという結末に変更された理由を、現代社会における王政や共和制といった政治思想の変遷や、メディアの特性を踏まえて解説しました。これらの事例を通して、メディアミックスにおける改変は、単なる原作の忠実な再現ではなく、その時代の社会情勢や要請、制作側の意図が反映されたものであることを示唆し、原作とは異なる視点から作品を評価することの面白さを提示しました。

オープニングとメディアミックスの基本
よすみの様子見、よすみ編集長のわらやです。
よすみ編集部のポッドキャスト、よすみの様子見第4回目始まりました。
この番組は、漫画研究者の富山由紀子さんと、よすみ編集部編集長のわらやが、
日々生まれ続けるコンテンツに飲み込まれる前に一度立ち止まって、
住みの方からじっくり様子を伺いながら、次の一手を考える番組です。
今回も一緒に様子見していくのは、漫画研究者の富山由紀子先生です。
今日もよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回の収録から約2週間ぶりと、よすみラジオとしては2回目の収録となりますが、
前回楽しかったですね。
いや、楽しかったですね。
夢中になって、喋れたんでよかったですね。
あと、思ったのは、わらやさん徐々に先生って呼ぶのを頑張ってやめていったのかっていう。
あら、ダメですか、先生は。
なんか、そんなもう偉くなくてもいいかなと思って。
あー、ちょっとなんかその、教え事恩師っていうキャラ付けが必要かなと思ってやってたんですけど。
本当?呼んでて嫌じゃない?
じゃあ一回やめつつっていう感じで。
言っちゃったら言っちゃったでいいんだけど、私はなんか教え子が立派に成長して、
なんか私は顎で使うくらいになってほしいっていう希望、なんかちょっとマゾな部分があって。
あー、そうなんですね。謙虚ですね。
だから、富山先生、富山さん、おい富山っていう感じで段階的に。
最後はちょっともうだいぶ僕が嫌な奴にならない限りは誕生し得ない気がします。
強めのツッコミが入ったりとかね。
そうなっていくことを期待しています。
いいですね。わかりました。じゃあちょっとそれを頑張ります今日は。
さて今回の様子見テーマはメディアミックスです。
そんなメディアミックスを、イグアナの娘をちょっと富山先生に、また先生って言っちゃった。
富山さんに深掘りしていっていただきたいという感じなんですが、
その前にそもそもメディアミックスっていう言葉、よく聞くけど実際どういうことなのかというところを簡単におさらいしていければなと思います。
メディアミックスとは専門的な言い方をするとですね、
一つの作品を漫画やアニメ映画あるいはゲームやグッズといった複数のメディアで同時に展開していく手法のことです。
もっとちょっと噛み砕いて言うなら、一つの物語をいろんな角度のレンズで覗いてみることで、
漫画という絵で楽しんでた世界をアニメという動きにしたり、実写という現実を肉体に落とし込んだりすることで、
作品の新しい表情を見つけていくっていうそんな感じですね。
最近やっぱ漫画っていうのはIPビジネスとかIPという言葉をよく使われる。
IPって何なの?
IPとはインテレクチャルプロパティで知的財産を指します。
つまり特許権・著作権・表彰権などの創作物や技術アイデアを指すビジネスやエンタメで使われる用語でございます。
なるほど。じゃあ作品とそこに関わっているキャラクターなり何なりみたいなものを
作品以外のところで商品としてサービスとして展開していくときには
IPビジネスと呼ばれるものになっていくということだな。
1個キャラクターとか作品を作ればそれがアニメとかグッズとかそういうものに
たくさんいろんなメディアになっていくその元になっているのがIPですね。
わかりやすい。
やっぱり漫画産業がすごくすごいんで
大体IPの元というかIPの出発点は漫画になりやすいということですね。
そうか。必ずしも漫画である必要はないが我が国においては漫画が出発点になることが多いと。
そうですね。アニメからスタートとかもありますかね。
あるか。今だとあるね。
ちょっと前だとアイドルマスターとかはアーケードのゲームからみたいな
そこからアニメーションになってコミカライズがあってみたいな感じで
どこを出発点とするか本当にたくさんあるんですけど
やっぱり一番熱が加熱している漫画なんじゃないかなと思いますね。
なるほど。わかりました。
『イグアナの娘』ドラマ化における改変とその意味
じゃあちょっとイグアナの娘。話していただけたらと思いますね。
ずいぶん古い作品を取り上げてあれなんですけど
でも漫画が好きな人なら読んだことがある
わりと短い話ですけど萩尾本先生の超傑作大傑作で
大傑作ですね。
テレビドラマになっているんですよ。すっごい昔に。
かんのみほ主演。
かんのみほ。結構前ですよね。
結構前。ちょっと今何年か忘れちゃった。
96年なんで僕の生まれた年でございます。
赤ちゃんでしたか。
赤ちゃんです。
96年とかだと私が高校生とか大学生とかそのくらいで
かんのみほさんの出世作と言ってもいいです。
彼女がものすごく演技がうまくて当時まだ
アイドルみたいな感じだったからかんのみほさんって
なんだけどそのドラマの中での演技がめちゃくちゃ良くて
この人って女優になっていく人だろうなって
みんなが思ったっていうのが一つ。
すごい時代性を感じますね。
でしょ。それとイグアナの娘ぜひ原作知らない方
ここで一旦原作を読みに行ってほしいんですけど
いろいろネタバレをするので
50ページですからね。
すぐ読めるからちょっと読んで戻ってきてほしいんだけど
自分のことがイグアナに見えちゃうっていう女の子がいると
その子を産んだ母親も娘のことがイグアナに見えちゃう
なんでか知らんがという風にしておきますが
なんでか知らんが見えてしまうという
母と娘の物語になっているので
それをそのドラマに実写のドラマにするときに
どうすんだっていうのがあって
今だったらもういくらでもできるわけ
CGなりなんなり使って
鏡を覗くとそこにはイグアナの私がいるみたいな
周りの人からは普通に人間に見えてるんだけど
お母さんと自分だけですよね
だけはイグアナに見えてますよね
鏡の中を覗いても見えちゃう
そのようにしか見えないっていうようなことを
当時はそこまで技術がないもんで
何でできてるのかな
ラバー製なのか分かんないけど
ゴム人形みたいなものをうまく使いながら
やっていたっていうような
テクニック的な意味でも
視聴者はすごく面白く見ていた作品なんですが
今回メディアミックスっていうところに絡めて
私が今更イグアナの娘の大昔のドラマで
何を言いたいかというと
今と昔を比べると
昔の方が原作を映像化する時の
手つきというかマナーというかが
やっぱり粗削りなんですよね
結構大事ですね
メディアミックスの時のマナーは
常に議論されてますよね
原作ファンが怒っちゃう
みたいなのが
だんだん減ってきている
スタッフさんとか特に脚本家の方とかが
原作のここは変えてもいいけど
ここは変えちゃダメみたいなと
判断がつく方が増えてきている
育成要請されているので
だんだん現代に近づけば近づくほど
不満の少ない作品が生まれるんだけど
95年とかでしょ
そうするとちょっと
今の私たちから見ると微妙みたいなことがあって
イグアナの娘に関して言うと
私はこのたった1個の小道具の文句を今から
ラバー製のイグアナがどうこうみたいな話は
どうでもいいというか
低いとかじゃないですよね
ないないない
むしろラバー製のイグアナはよく頑張っていると思う
そういうんじゃなくて
たった1個の小道具の話をするんですけど
イグアナの娘の話の中で
主人公の女の子が
お母さんの誕生日にプレゼントを渡すというシーンがあって
あるでしょ
お小遣いを雑貨屋さんに持って行って
原作では和風の雑貨屋さんみたいなところに行って
ちっちゃい手鏡を買うんですよね
ちゃんと手を持つところが付いているような和風の
縦長の手鏡を買って
お母さんに渡すと
お母さんが
なんでこんなものを買ってくんだみたいな
お小遣いの無駄でしょみたいなことを言って
ママこんなものいらない
返してらっしゃいとか言われて
物語の中での
クライマックスとは違うんだけど
前半中盤の盛り上がりどころというか
お母さんは本当に自分を愛していないんだみたいな
本当に私ってイグアナなんだみたいな
将来は早くガラパゴスに帰ろうみたいになるっていう
母と娘の関係性がかなり決定付けられる
シーンなんですよ
でここがよ
ドラマになるとよ
ドラマ版何になるんですか
ドラマ版になると手鏡買いに行かないのよ
あらま大事なシーンですよねだって
と思うよ私はね
なんだけどドラマ版では
カンのミホーがね
ちっちゃい時のシーンだから
カンのミホーがやってないかも
別の子役がやってるかもしんないけど
そこはいい
お母さんが以前から通ってるブティックで
気にしてるスカーフがあるんだよ
はーなるほど
それを
主人公はなんとなく
様子を見ててそれこそ様子見
なるほど様子見してて
分かってて
お母さんの誕生日が来た時に
小遣いをはたいて
その赤いスカーフを買って
愛ですね
渡すとお母さんこんなものいらないっていう
最悪っすね
オチは一緒なわけで
お母さんがお金の無駄遣いみたいなことを言ったり
お母さんはこんなものは欲しくないって言ったりして
娘は本当に愛されてない娘なんだなって思って
ショックみたいになるっていう
オチのとこは一緒なんですけど
小道具の扱いが違うんですよ
大学の授業とかでもこの話はよくするんですけど
やっぱり
スカーフじゃないんじゃないかっていう話を
まあまあそうですよね
一旦なんでドラマ版はスカーフになったかってところも
なんか話したら面白そうですね
もしかしたら当時の脚本家の人が
これを聞いてたら違うんですと
理由があるんですと
理由はあると思うんですよね
分かってほしいと言われると思うんですけど
そのスカーフの場合だと
お母さんのことを以前から観察していて
お母さんが好きなものをちゃんと見ていて
買うんだけどそれが却下されるっていう
悲しみの話になっている
原作の場合は
そういう下りはないわけ
お母さんが普段からこれをちょっと気にして
欲しそうにしててとかは全くなくて
娘が自分のお小遣いで自分で考えて
手鏡を渡すと
お母さんはなぜかそれを拒否するっていう
下りになっていて
この原作をよく見てもらうと分かるんですけど
レンズとか鏡とか光学機器が
めっちゃ出てくる話なわけ
なるほど
鏡を見るとイグアナに見えるとか
でもパパとかが
七五三とか入学式とかで写真撮ってくれて
現像すると普通の人間の女の子に見えるとか
萩生本作品の中では
レンズ鏡みたいな
光学に関するものが
ものすごくうまく配置されてるんですよね
だからスカーフじゃないわけですよ
見ることとか写すことみたいなのが
いろんなディティールに出てるんですよね
だから娘から渡されたプレゼントが
よりによって手鏡で
お母さんは鏡の中を見なきゃいけないわけじゃない
なので
その辛さっていうか
鏡写しになってしまう辛さみたいなのも
含めてお母さんは
こんなものいらないって言った可能性がある
いやもう
ガナナ娘って読んでいただいた人は
もう分かってるかもしれないですけど
ちょっとルッキズムな話も入ってると思うんですよね
たぶんお母さんは自分の見た目に
たぶんすごくコンプレックスがあって
それがすごく娘が似てきちゃってみたいな
そういう
ただ
愛することができるできないの
母と娘の関係じゃなくて
そこにはなぜ愛することができないのかっていうところに
ちょっとルッキズム的な主題が入ったりとか
っていうのがたぶん漫画の話だったりすると思うんですけど
ドラマ版はもっと
そういうルッキズム的な感じじゃなくて
もっとその
理由はなくてもやっぱり愛すことができないみたいな
そっちの路線を
感情を引き出したかったんですかね
かなぁと
今となっては思うけど
私は原作大好き人間だから
ここは何でもいいから
工学に関するものであってほしかった
ファッションに関するものである必要はない
みたいなことを
我が家いまだに言っているという
メディアミックスの難しさというか
そうですね
やっぱり漫画の仕事としてコミカライズの仕事とかもしているんですけど
ハリー・ポッター映画版における結末の改変と現代的解釈
このメディアを横断するって
めっちゃ気使うしめちゃくちゃ大変なんですよ
だからこうね
原作のそのままをなぜできないんだみたいなことは
この20世紀から20世紀かけてずっと言われ続けている
みんな言う
それでなんか
なんで改編しちゃうんだみたいなところとかでは
いろいろあると思うんですけど
僕もなんかちょっとその
いがなのむすめ
スカーフになった意味は
今紐解いたらなんかあるんじゃないかなと思いつつ
僕もちょっと心思い当たる作品がありました
ワーギャー言いたいやつがあって
そのハリーポッター
もう皆さんご存知ハリーポッターの原作を
めちゃくちゃ僕は日本語版ですけど読んで好きなんですよね
中学の時に朝の読書あるじゃないですか
あそこであの無限に
ハリーポッターの最終刊の死の秘宝を
5往復くらい
謎めたことをやってたんですけど
原作を読みすぎて
公開された時パート1パート2
ウキウキして見に行ったんですけど
なんか腹落ちしないと
原作を読みすぎたのか
特にパート2の最後
ニワトコの杖っていう
最強の杖があるんですよ
ありますな
ハリーポッターもネタバレとかもないと思うんで
喋っちゃう
見てない方が悪いという
ニワトコの杖って最強の杖があって
なんやかんやあり
ハリーが手にするんですよ最後
これでモートに勝って
敵に勝ち
最強の杖を手にして
これ元々ダンブルドアの
教授
ハリーにとっての大師匠みたいな
死んじゃうんですよね
謎のプリンス
死の秘宝の前で
返すんですよ原作だと
ニワトコの杖を
でも原作は杖を返すんですよね
お墓に置くんだっけ
ダンブルドアが寝てる墓に
最後ニワトコの杖を返して
あなたのものですって言って
一旦杖は
平定されるんですよ
なんですけど
映画版だと
折っちゃうんですよね
ニワトコの上を回って
戦いが終わって
ロンとかに
その最強の杖どうするんだよ
みたいな
そしたら急に
あろうことが
折った杖を
そのまま谷底に捨てるっていう
すごい衝撃で
全員否定じゃん
最悪やと思って
その分を見た時に
原作と違いすぎるし
折っちゃったら捨てちゃっていくからね
当時の感情としては
ダンブルドアに杖を返すっていうことが
作品のテーマ
杖の所有者みたいな概念が
ハリボタンが大事なんで
杖を返すっていうのが
ハートフルに見える行為なんですよね
むしろ真の夢って戦いが終わったみたいな風に
当時は読んでて
ある意味その杖を返すっていうシーン自体も
感動的なわけですよ
それを映像で見たかったのに
なんかハリーの一存で捨てたことに
あっけなさと
それでいいの?みたいな
そういう儀式的なことをやらなくていいの?
みたいなのが当時すごいめっちゃ思って
めっちゃがっかりしたんですよ
ニワトコの杖をそんな扱いするなんて
ひどいみたいな
思ったんですけど
年月が経ち今
僕は乗らすと良かったんじゃないかな
真逆の評価へ
今ちょっと評価を変えてまして
ハリボタンはイギリスの作品じゃないですか
島国でキングダムじゃないですか
王国があって
ちょっと日本に近しいわけですよ
政治体制というか
地域的にもね
しばしばそういう指摘の声はあるんですけど
やっぱその時に杖っていうのは
一種王冠的な役割を果たしたと思うんですよね
最強の王冠を手にするのは誰だ?みたいな
ちょっとそういう戦いにも置き換えられると思っていて
その王冠を自分が持つのではなくて
そのダンブルドアという
大いなる存在に返すっていうことは
非常になんていうか
王的なキング的な考えだと思うんですよね
そうですね
王政というものは
温存されるということですね
日本もやっぱり明治維新の時に
大政奉還みたいな
この賢能を返すとか
いただくみたいなことに
やっぱりこうなんていうか
あるじゃないですか
そこ思想が入っていくみたいなのがあるんで
たぶん原作小説はある意味
めちゃくちゃイギリス的だったと思うんですよ
そういう意味で
儀式的なものを大事にするっていう
だけどもともとやっぱり
その鶏の杖というのは
最強の武器なわけですよ
危険なんですよ非常に
でダンブルドアに返すっていうことは
ダンブルドアは死んでるんで
危険なんですよ
また誰か盗みに来るかもしれない
盗みに来るかもしれない
だからすごく感動的な一方で
この兵器を
なんかその
また王として
あがめるのは
間違ってるんじゃないかっていう
現代性はちょっとあると思うんですよ
戦いが終わんねえじゃんみたいな
これがある限り
王様が死んだ方が戦いは終わるくね
みたいな価値観ってやっぱりあると思うんですよね
ちょっと共和制的な
ハリーポッターの映画版は
ちょっとそういうメッセージを
込めたんじゃないか説っていう
僕の中であって
ある意味その
王を
次のダンブルドアを据えるとか
そういう価値観から
脱却するラストではあったんじゃないかって
それをこう
ある意味選ばれし男の子である
ハリーが行うっていうことに
ものすごく意味があったんじゃないかなと思って
僕は別に原作が悪いとか
映画が悪いとかじゃなくて
このラストは意外と
いいかもって思っちゃって
それを映画でやるかどうか
さておきなんですけど
ちょっと最近
そういうのもいいなって思ってきたっていう
考えがちょっと変わったんですけども
つい最近まではブチ切れてて
なんやねんあれみたいな
原作のようにせえよみたいな思ったんですけど
意外とやっぱそのメディアミックスの改編は
やっぱ小説と
映画で撮られ方とか
切り取り方が違うっていうのとか
あとシンプルに言うか制作費とか
現実的な制約とかもあるんですけど
そこにプレゼントしたら
政治性みたいなのは
あるんじゃないかなっていう
そういう改編のされ方も
やっぱハリーポッターから見て
あるんじゃないかなっていう風には
思ったっていうところですね
メディアミックスにおける改変の意義と今後の展望
今聞いて結構説得されたかも
校長先生とか偉い人
偉いもののところに全部
お戻しするとかじゃなくて
若い世代の人たちが
これをどうするかを考えて
決定してよいという
映画版のエンディングは
そりゃそれで意味があるというか
何でも委ねなくても
いいんじゃないみたいに
受け取れる原作ファンとして
行かれる笑やと
これはこれで
非常に現代的であると考える笑やは
別に矛盾はしないかなと思った
原作が生まれた年代と
映画化されたのって
大体10年から20年くらいの時が
経っちゃってるんですよ
そこでやっぱり政治的な
社会情勢変わったりとか
だから僕もイクアナの娘も
90年代に
ドラマが生まれたと思うんですけど
その時はルッキズム的な
問題っていうよりかは
理由なくネグレクトしちゃう
っていう社会問題の方が
もしかしたら可烈だったのかも
しれないなって
下調べしてないんで
間違ってるかもしれないんですけど
でもルッキズムって
みんなが考えるようになったのって
本当にここ数年のことで
その前に毒王や毒母みたいな
コンセプトが出てきて
イクアナの娘をやっていた時は
やっぱり制作人が
ルッキズムの問題なんだ
っていうことに
そこまで思いに立ってなかった
かもしれないな
っていうのは思いますね
だからスカーフでも
特段問題がないというか
むしろお母さんが気にしてた
スカーフを買ったのに
否定されるっていう最悪の
そうですよね
あれも辛いじゃないですか
僕も泣いちゃうと思うんですよ
アニアミックスって
もちろん制作人の
今日はあんまり深く掘らないですけど
やっぱりそれで起こっちゃう悲劇とか
いさかいとかも
あったりするんですけど
その時に社会に要請されてる
作品みたいなものは
あると思って
イクアナの娘のルッキズムみたいなところは
当時の制作人は
もしかしたら捨てたのかもしれないですね
気づいてたかもしれないけど
この作品を今やることに対しては
多分そこの要素は捨てた可能性は
なくて
気づかなかったって可能性もあるかもしれないですけど
今この現代において
イクアナの娘を
仮にドラマだったり映画にすると
やっぱりまた絶対90年代とは違う
メディアミックスになるんじゃないかな
っていうふうには思いますよね
なると思います
高校生が主人公でしょ
絶対スマホが出てくるでしょ
見た目のいいインフルエンサーとかの
あれが流れてきて
いいねを押すみたいなシーンとか
絶対入ってくるでしょ
見てみたいね
見てみたいですよね
SNSでつながりを持っていくみたいな
ところとかが
このイクアナの娘に入ってくると
それは原作版とは違う社会を
照らし出すと思うので
それはめっちゃ面白いと思うんですよね
ですね
原作があるものが
メディアミックスになった時に
ただ単に原点と比べて
評価するだけじゃなくて
その時々の社会が
何を要請していたのかな
とかその時々の社会が
どうだったのかなみたいな
補助性も引きながら考えると
もしかしたらまた違う作品の評価になっていく
かもしれないね
っていうのは原作だけが
偉いわけではないかも
っていう風に見ていったほうが
面白く見られるかなと思います
もちろん特に漫画とアニメって
すごく近いんで
もちろんアニメは原作に忠実である
っていう社会からの要請が
今強いと思う
変に変えるよりか
ただ何か本当に
何で原作通りに作れないんだ
っていう風に
思っちゃう気持ちは分かるんだけれども
社会を形成して生きてる人間にとって
忠実に原作を再現するのは
多分不可能だと思う
どっかでやっぱり
なんていうか
社会が反映されてしまう
それも原作自体が
社会に反映されているものなんで
それをそっくりそのままやるってなると
ものすごくチープなものに
逆になっちゃうと思うんですよね
社会を無視したっていうものが
それはそれでちょっと
みんな違ったなって思うはずなんですよ
原作に忠実すぎるみたいな
だからそういう観点で
メディアミックスを見てもらえると
より面白くなるんじゃないかなと
原作に忠実以外の見方があると
いうところですね
27:40

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