桐壺の物語の始まり
今回は 源氏物語を 読みます。
源氏物語は とても 長い物語です。
その中の 第1弾の 最初の ところからです。
源氏物語には それぞれ 招待のようなものが ついています。
大きく 分けて 全部で 54の 招待に 分かれています。
それの 一番最初の 招待を 桐壺という 名前で 呼ばれています。
桐壺の 一番最初の ところを 読みます。
では まず 本文を 読み出します。
いづれの御時にか)
苗後、甲斐、
あまた 侍給いける中に、
いとやんごとなき 際にはあらぬが、
すぐれて ときめきたもありけり。
はじめより われは ともいあがり給える 御御方々。
目ざましき者に おとしめ そね見たも。
同じほど、それより下郎の 行為たちは ましてやすからず。
朝夕の宮遣いにつけても、
人の心をのみ動かし、
恨みを追うつもりにやありけん。
いと熱しくなりゆき、
もの心細げに 悟がちなるを、
いよいよ明かず 哀れなる者におぼうして、
人のそしりをも へはばからせ給わず。
世の為しにもなりぬべき 御恩もてなしなり。
かんだちめ、上人なども、
あいなく眼をそばめつつ、
いとまばゆき人の 御恩おぼえなり。
はじめにはいずれの御恩ときにかで始まります。
いずれのはどの 御恩ときは どの時か ということです。
御恩ときは 恩とか 御とか 御とか 御とか 読ませるものでして、
こちらは それをつけることによって、
より敬意を持った 表現になるものです。
おにぎりの 御とか 御者の 御とか。
御家人の 御家人は ちがいます。
御天の 御とかです。
御とか 御とか 御とか 読むものです。
それを 恩とか 御恩と 読むことが あります。
現代語だと おにぎりを おと読みます。
もう少し 敬意が 高まると 恩。
もっと高まると 御恩。
おにぎりだったら 御恩にぎりに なります。
そうすると より 敬意が 高まります。
いずれの 御恩ときにか というのは 非常に 敬意の高い 表現です。
これは どの帝の 御時世か。
どの帝が おさめられていた 在中だった 御時世なのか。
その中で 女後 後位 甘田 侍玉 行ける中に。
女後も 後位も すべて 天皇に 使える 女官のことです。
言ってみれば 天皇の お妃様の 候補です。
ある意味では お妃様だと とらえても いいかも しれません。
女後は 身分が 高い 女性です。
後位は それより 低い 女性たちの ことです。
女後や 後位が 大勢 いらっしゃる 中で。
いと やんごとなき 際には あらぬが。
とても やんごとなき。
やんごとなきは 高貴な 際という 身分です。
高貴な 身分では ありません。
優れて ときめきた もありけり。
優れて とても ときめきな さっている 人が いた。
ときめくは 長相を 受けることです。
非常に 帝から 大事に された ということです。
ですから 身分は そんなに 高くは ありません。
しかし 非常に 長相されている 女性が いたと 言います。
その 存在に 対してはじめより われはと 思い上がりたまえる おおんかたがたは。
はじめから われこそは と 思い上がりなさっている かたがた。
これは 女後 後位の かたがたです。
はじめから 帝の しょうあいを 受けてやる 私が 一番の きさきになってやると 思っている かたがたは。
目ざましきものに おとしめ そねみたも。
目ざましきものは 謎の 女性です。
やんごとなききわには なぬ 女性が 目ざわりだった わけです。
おとしめ そねみたも。
非常に ねたましく 思っていた と言います。
おとしめ そねみたもは 非常に いやがらせを したと 伺います。
さらに 同じほど それより げろうの 後位たちは まして やすからず とあります。
同じほど とは 同じくらいの 身分です。
やんごとなききわには あらぬ 女性と 同じくらいの 身分です。
また それよりも げろうの 後位です。
それよりも 身分の 低い 後位の 人たちは ましてや やすからずです。
非常に おちつかないと 言います。
あさゆうの みやづかいに つけても。
あさゆう つまり 一日中 みやづかいで きゅうちゅうに 何かを しゅっしして おつかいする時にも。
ひとの 心を のみ動かし。
ひとの 心を ざわつかせて。
うだみを おうつもりに やりけん。
うだみを せおった つもりが つもり重なった からで あろうか。
いと あつしく なりゆき。
あつしく なりゆきは 非常に おもたく 病気になって しまいます。
ものこころ ぼそげに さとがちなるを。
ものこころ ぼそげは 体調が あまり 安定しない 様子で 病気になって しまいます。
さとがちなる。さとに くだる。つまり じっかに かえって 休む ということです。
きゅうちゅうに そのまま いると 非常に たいへんだから さとに かえる。
いよいよ ますます あかず あわれなる ものに おぼうして。
ますます あかず。
あくは 現代語で 言う あきる という 字を あてます。
これは 満足する という 意味です。
あかずは 満足しないで その いとやんごとなき きわには あらぬ 女性のことを あわれなる ものだと おぼうす という 敬語です。
おおもいに なる。
ここから 敬語が 使われていることが 分かります。
これは みかどです。
みかどが 非常に この いとやんごとなき きわには あらぬ 女性が 病気がちになって さとに くだるので、
ますます 大事にして かわいそうに とおおもいなって、
物語の構成と展開
ひとの そしりをも はばからせたまわず。
ひとの そしり。
ひとの そしり。
ひとが 悪く言う。
そんなふうに その女性を ちょうあいしては いけませんよ ということも まったく はばからせたまわず。
はばかることも おできにならないで。
世のためしにも なりぬべき おもてなし。
世のためしは 世の霊と 書いています。
世間の霊に なってしまいます。
つまり 世間の 悪いひょうばんや 悪霊と なってしまう。
そのような おおもてなし。
そのような おようすであった。
おもてなしかたであったと 言います。
それに対して かんだちめ うえびとなども あいなく 目をそばめつつ、
いとまばゆき ひとの おおんを おぼえなり。
かんだちめや うえびとは みかどの そっきんのかたがたや かなりレベルの高い みうんのかたがたです。
そういったかたも あいなく よくないな というふうに 目をそばめつつ。
目をそばむ というのは そばとは 外側の はたという意味です。
目をそむけながら そんな いとまばゆき ひとの おおんを おぼえなり。
ひじょうに この まばゆき ひとの おおんを おぼえ。
ひじょうに このちょあいが ふかかった ということです。
みかどが まずは あるみぶんの ひくい女性を ものすごく ちょあいして しまいました。
それに たいして まわりの にょうご・こういたちは いやがったのですが それでも やめることなく。
それで そのほんにんは ストレスになって しまって さとがちになります。
ますます みかどは かわいそうに おもって ちょあいします。
まわりも それは さすがに よくないのではないか というふうに ちゅうこくしますが ぜんぜん きこうとしません。
そんな ごようすである ということから 始まります。
この なぞの 女性に できる 子どもが この 源氏物語の 主人公 光源氏 その人に なっていく ということです。
まず 最初は 光源氏の お母さんの エピソードから 始まります。
源氏物語の 1節には このように 最初の部分は あとから 作られたと されることも あります。
もう少し あとの部分から 光源氏が 登場以降から 始まって あとから お母さんの エピソードが つけ加えられた という 節も あります。
いろいろな 節が あります。
ただ 今となっては この最初の部分が 源氏物語の 最初として 非常に 有名な 場面です。
しかし まだまだ 光源氏は この段階では 出てこない ということです。
今回は このあたりに しましょう。
もう一度 本文を 読みます。
いずれの御時にか、
にょうご、
こうい、
あまたさぶらい給いける中に、
いとやんごとなききわにはあらぬが、
すぐでてときめき給うありけり。
はじめより 我はと思いあがり給える御方々、
めざましき者におとしめそねみ給う。
同じほど それより下郎のこういたちは ましてやすからず。
朝夕の宮塚へにつけても 人の心をのみ動かし 恨みを追うつもりにやありけん。
いと熱しくなりゆき 者心ぼすげにさとがちなるを、
いよいよ明かず 哀れなる者におぼうして、
人のそしりをも へはばからせ給わず、
世のためしにも ないぬべき世をもてなしなり。
かんだちめ、うえびとなども、
あいなく眼をそばめつつ、
いとまばゆき人の御恩をおぼえなり。
こちら、即本としておりますのは、
門川ソフィア文庫 ビギナーズクラシックつつ
日本の古典の源氏物語から、
ご紹介いたしました。
お聞きいただいてありがとうございました。