2024-04-13 23:04

#59 徒然草(あだし野の露消ゆる時なく)

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「命長ければ辱多し」という有名な警句の出典部分です。「辱多し」をどのように解釈できるのでしょうか。

サマリー

「あだし野の露消ゆる時なく」は、嵐野の露と鳥辺山の煙が消えることのない象徴です。このポッドキャストでは、人間の命や世界の儚さ、満足のなさ、長生きの恥などが考えられています。情報交換や交流の場となっているブログやSNSが盛り上がる一方で、現代の社会では権威や影響力の持続が求められています。

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それでは、今回も始めて参りましょう。 今回は、徒然草からであります。
あだし野の露消ゆる時なく、というところですね。 こちらも非常に
有名というか、教科書でも出てくるよう紹介されているようなものになってまいりますね。 ではまず本文をご紹介いたしましょう。
嵐野の露と鳥辺山の煙
あだし野の露消ゆる時なく
鳥辺山の煙立ちさらでのみ澄みはつる習いならば
いかに物の哀れもなからん。両は定めなきこそい短れ。 命ある者を見るに人ばかり久しきはなし。
陽炎の夕べを待ち、夏の蝉の春明けを知らぬもあるぞかし。
つくづくと人と世を暮らすほどだにも、小世のをのどけしや、あかず、おし、と思わば、人世を過すとも、人世の夢の心地こそせめ。
住み果てぬ世に醜き姿を待ち得て何かはせん。
命長ければ恥をし、長くともよそじに足らぬほどにて死なんこそ目安かるべけれ。
そのほど過ぎぬれば形をはずる心もなく、人に入れまじらわんことを思い。
夕べの日に子孫を愛して、栄ゆく末を見んまでの命をあらまし。
ひたすだ世を貪る心のみ深く、者の哀れも知らずなりゆくなん、浅ましき。
まず最初の、「嵐野の露消るときなく、鳥辺山の煙立ちさらでのみ住みはつる習いならば。」というところですが、
嵐野の露とありますね。嵐野というのは地名でございますね。
この嵐という言葉自体に、これが儚いとか、なんか虚しいとか、そういう意味があるんですが、
そういう言葉と、あと嵐野という地名とが重なりまして、何か儚いものの象徴として、嵐とか嵐野という地名が使われるわけなんですね。
ですから、その嵐野の露とあります。露というのは、これは葉っぱに宿る露ですね。
明け方、朝方になってくると寒い時間帯ですからね、葉っぱに水滴があったりするわけですね。
そちらを露と言いますが、これはだんだんと日が上がって日中になっていくと、この水の水滴が気化しまして、なくなってしまうわけなんですね。
ですからこの露というのは、儚く消えてしまうことのことを言うんですね。
これが嵐野の露というものです。
その嵐野の露というのは、要するに儚く消えてしまうような水滴露が、消えるときがなくというのです。
つまり本来消えてしまうような、そういった露が消えてしまわないでということですね。
また、鳥辺山の煙立ち去られたりします。鳥辺山というのも、こちらは地名ですね。
で、こちらの鳥辺山というのは、いわゆる火葬場なんですね。
この火葬場の煙が立ち去らないでだけいるということなんですね。
これもまた、火葬場の煙という言葉なんですが、もちろんこれは人が亡くなって、その火葬したときの煙が立ち上っていく様を言うんですけれども、
その時のこの煙がどんどん儚く、もちろん消えていくわけですね。空気中に拡散していくわけです。
なのでこれはまた、儚く消えるものなんですよね。
で、このどちらも儚く消えるものというようなものの象徴なんですね。
で、また同時にこの露が消えるとか、煙が立ち去っていくっていうのは、要するにそのまま人が亡くなることを指し示したりもするんです。
ということは、これらが指し示すのは、要するに人が永遠に生きてしまう。
人がなかなか亡くならないで、反永久的に存在し続ける、死なない、ようなことがもしあれば、と言うんです。
もしあれば、いかにものの哀れもなからん。
いかにものの哀れ、哀れというものがあるだろうか、と言うんですね。
簡単に言ってしまうと、人が永遠に生きるということがある。
もしくは、様々な物事が消えずに残っている、ような世界であるとしたら、きっと哀れでものは存在しないんだろう。
哀れ、感動とか心の動きというものですね。心の動きは存在しないんじゃないか。
世は定めなきこそい短い。
この世の中というのは、定めがないことが良いのだ、と言うんですね。
定めがない。つまり、ある程度確実に生きられますよ、なんてことが決まっていないんだ。
いつ死ぬとも知れず、いつ消えるとも分からないような、そういうことっていうのが非常に素晴らしいんだ。
ということをまず言っているわけなんですね。
命の儚さと満足のなさ
さて、続きを読んでまいりましょう。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。
命があるものを生きとし生けるものを見ていると、人ほど久しきはなし。
久しきというのは、久しぶりですね、というような言い方があるように、長いことを言うんですね。
例えば、久しぶりっていうのは、長い間ぶりですね、長い間ごぶさたしてましたね、なんてことを言うわけですね。
で、人ほど長い間生きるものはないって言うんですね。
かげろうの夕べを待ち、夏の蝉の春はきを知らぬもあるぞかし。
かげろうっていうのは、夕べを待ち。かげろうというのは、短命な生き物としてよく言うわけですね。
だから1日で死んでしまう生き物。かげろうっていうのは、夕べには死んでしまい。
夏の蝉の春、秋を知らぬ。夏の蝉が、春や秋を知らない。
蝉というのは、ひと夏で死んでしまう生き物ですよね。
で、そのように春や秋を知らないような短命の生き物もいるんだと。
それに対して人と命というのは、なんて長いんだと。
つくづくと人と世を暮らすほどだにも、小世のおのどけしや。
つくづくっていうのは、なんかこう大らかにのんびりとってことですね。
のんびりと。
人と世。人と世っていうのは、1年のことですね。
1年を暮らすことだけでも、小世のおのどけしや。
非常にのどかなものであろうと。
ですから1年っていう期間を、なんて言うんでしょうね。
安穏に暮らすというか、安定して暮らすっていうことだけでも、あらゆる生物を暮らしてみれば、
非常にのどやかな、なんていうかのんびりした存在ですよね、というんですね。
そんな人間なんですが、
あかず、おしと思わば、ちと世をすぐすとも、ひと世の夢の心地こそせめ、というんです。
あかず、おしという言葉があります。
あかずというのは、これは非常に満足できない要素ですね。
あくっていう言葉がありまして、あきるという字。
なんかもうずっとこれを続けていて飽きてしまったよ、という意味のあくって言葉がありますね。
そのあくっていう言葉を打ち消しているのが、あかずという言葉です。
ですから、あかず、飽きないってことですね。
これは古語の意味としては、これは満足できないって意味です。
ですからこの命というもの、この生きるということを満足できない。
まだまだ満足いっていない、おしいものだ、と思ってしまうと、
ちと世をすぐすとも、さっきの人と世と比べてますね。
人と世が一年だとすると、これでも十分長いんだけれども、
たとえちと世、千年を過ごしたとしても、それは人世の夢の心地こそせめ、
たった一晩の夢のような気持ちがするでしょうよ、というんですね。
ですから非常にこの、何でしょうね、
人間というのは非常に長生きするんだけれども、
人間というものは長生きするということを前提としてなんですかね。
でもそれでもまだ、もっと満足できない、長生きしたいという気持ちが常に出てくる。
そういう気持ちでいると、たとえ千年の長生きをしたとしても、
あっという間に過ぎ去って、で満足いかないまま、千年が過ぎ去ってしまうでしょうよ、と。
まるで一晩の夢のようだ、と。
まあこうね、よく人世の夢っていうのは、よく使われる寛容句のような表現ですね。
なんとなくこう、一晩の夢って儚いもの、あっけないもの、
あとはまあ、なんかあんまりこう、実体のないものとして描かれるわけですね。
ですから、なんかこう、実際に何年生きたかっていうことじゃなくって、
常に明かず惜しいと思っていることによって、
その人生というものは満足いったものにならないんじゃないか、ということなんでしょうかね。
住み果てぬ世に醜き姿を待ち得て何かはせん。
住み果てぬ世、というんですね。
これも面白い表現ですよね。
なんかこう、住み果てることができない、まあ一生ね、永遠にここにいるわけではない、そんなこの世っていうものに、
醜い姿を待っていながら、待って得て何をしようというのか、というんですね。
まあどんどん人というのは老いて醜くなっていくと。
ここでは姿とありますので、容姿のことですね。
容姿の衰え、というようなところです。
それをずっと待ち望んでどうしようというのか。
長生きの恥
命長ければ恥多し。
これもね、よくいろんなところで引用される文ですね。
命が長いと恥も多くなると。
これもいろんなニュアンスで使われますね。
長生きすると恥をかくことが多くなるとか、
なんかね、こう例えば老い衰えて判断能力が低下したりとか、人に迷惑をかけることとか、
あと過ちを犯すことも多くなって、というような捉え方もできますよね。
ただ一方ではもう命長いと、
容姿が衰えてそれ自体が恥と捉えることもできるかもしれないし。
これはいろんな捉え方、この一文をとってみても、時代背景とか考え方によっていろんな風に捉えられますし、
いろんなニュアンスで構成になって使われる言葉ですね。
長くともよそ字に足らぬほどに弟子なんこそ寝やすかるべけれ。
長くともよそ字、みそ字という表現はよく使われますが、
これはよそ字というのは40代のことですね。
だいたい40くらいで死ぬことが目安、要するにちょうどいいんじゃないかと言うんですね。
当時の平均寿命がだいたい30歳くらいだとも言われております。
ですから、要するに平均寿命よりもプラス10歳くらいは長生きすることを言うんでしょうかね。
今ではそうですね、80、90歳くらいを指すんでしょうか。
カラハル詩もそのまんまなんでしょう。当てはめることは難しいかもしれませんけどね。
最後の段落です。
ここでは具体的にどのような恥があるのかってことが書かれていますね。
そのほど過ぎぬれば、形をはずる心もなく、人にいでまじらわんことを思い、
夕べの日に子孫を愛して栄く末を見んまでの命をあらまし、
ひたすら世を貪る心のみ深く、ものの哀れをも知らずなりゆくなん浅ましきと言います。
最後の 浅ましきとは 驚くそして あきれる様子を 言っています。
ネットコミュニティの盛り上がり
単に 驚いているだけではなく 少しネガティブな意味で あきれてしまっている 意味です。
それも ただ あきれているだけではなく ちょっと びっくりするくらいに あきれている様子を 言います。
どのような様子を 驚き あきれているのでしょうか。
そのほど過ぎぬれば、そのほどというのは 先ほど言っていた 予想時、40代くらいを過ぎていくと、
形をはずる心もなく、形というのは 先ほどの姿と だいたい同じような感じです。
要望です。見た目を恥ずかしこもう気持ちが なくなってくる というのです。
人にいでまじらわんことを思い、人にまじらおうとすることを思う というのです。
人となるべくコミュニケーションを とっていこうとする というのです。
どうなんでしょうね。必ずしも現代だと 社交的であることというのは 悪いことでもないような気もしますけれども、
もしかしたら、例えば若い人に対して 不必要な物を言いをしたりだとか、
現代だったりそうなのは 権威を重ね立てる というのですかね。
権威をのさぼらせて、若者たちを 言うことを聞かせようとするとか、
影響力を持ち続けようとする みたいなふうにも取れるかもしれません。
権威と影響力の持続
これは当時のいろんなニュアンスがありますが、 例えば健康保持という方も、
貴族社会でなかなかうまく立ち回る ということにうまくいかなかったのかというか、
その辺はちょっと難しい 問題かもしれませんが、
あまり結果的にはディス決めなかった 方ですね。
だから、貴族社会を批判するというのは 端々にあるんですよね。
だからそういう捉え方も できるかもしれませんね。
資生の人々というか、一般の人たちが 年を取ると周りにとやかく言い出すというのは、
ちょっと考えにくいというか、 それよりはある種の権力者とか、
それこそ引退した人が とやかく言うこととかね、
そういうことなんかを指すのかも しれませんね。
昨日の日に子孫を愛して栄えゆく末を 見るまでの命をあらました。
昨日の日というのは、 昨日の太陽ですから、日没ですね。
日没の太陽と同じように、
そんな時に、要するに死ぬ間際である、 今にも沈みそうな命であるんだけれども、
子孫を愛して、 その子孫が栄えていく末を見る、
ということまでの、それまで自分たちの子孫が 栄えていくその最後までを見ていきたい、
というような命をあらまし、 あらましというのは、あったらいいなってことですね。
そういうものが欲しい、というわけですね。
これもやっぱり先ほどの権力者の 心情になればいいんですかね。
ある種の権力者、実質欲のあった人たちが 老い衰えたとしても、
とにかくこの次の世代の人たち、 また次の次の世代の人たちが、
栄えていく様子を見るまでは 生きていたいという気持ちがあると。
そう考えてみると、例えば社長がいて、 次の代に後を譲ったんだけれども、
会長としてずっと残り続けて、 なんかことやかく意見を出したりもしつつ、
その会社がより強大になっていく様子を 見るまでは死ねないと言いながら、
あれこれと、下の代に文句を言うような イメージなんでしょうかね。
個人的にはそんな風にもとれたりするんですけれども、 皆さんはいかがでしょうかね。
ひたすら世を貪る心のみ深く、 この世を貪る気持ちが深い、というんですね。
これがどんなものなのか、というところですけど、
どうなんでしょうね、やっぱりこういう権力とか、
あとは、何でしょう、 自分の権威のあったものとか、自分の子孫とか、
かつてだったら自分の子供たちっていうことだけに、 自分の親族とかになるんでしょうけど、
今だったら自分の関係者とか、会社の何か、 自分の支配下にあった人たちが、
栄えていく様子っていうものを求めてしまうんでしょうかね。
そういうものを、世を貪る心と表現しているわけですね。
そうなると、ものの哀れも知らずなりゆく、 というんですよ。
哀れがわからなくなる、というんですね。 一番最初の冒頭に出てきた、
いかにものの哀れもなからん、 というところと重なるわけですね。
そういうものがわからなくなっていくと、 まさにそのような人たちは、
あだしののつゆきゆるときなく、 とりべやまのけぶりたちさらでのみすみはつるならい、
というものを考えているんじゃないか、 ということなんですね。
そのようなことが、あさましきと、 おどろきあきれるものだ、と表現しているわけなんですね。
こう見ますと、もちろん人間がひたすら 長生きすることを否定しているようにも、
パッとはとれるんですけれども、もちろんこれは、 世の長寿を祝わないということではないと思うんですね。
やはりその長寿だけではなくて、その後に、 何かこの次の代に対してですね、
影響を与え続けるというか、そういう姿勢というものを 批判している文章ともとることができるかと思います。
それでは最後にもう一度本文を読みいたしましょう。
あだしののつゆきゆるときなく、 とりべやまのけぶりたちさらでのみすみはつるならいならば、
いかにもののあわれもなからん。
よはさだめなきこそいみじけれ、いのちあるものを見るに、人ばかりひさしきはなし。
かげろうのゆうべをまち、なつのせみのはるあきを知らぬもあるぞかし、つくづくとひととせをくらすほどだにも、こよのをのどけしや。
あかず、おしと思わば、ちとせをすぐすとも、ひとよのゆめのここちこそせめ。
すみはてぬよに、みにくきすがたをまちえてなにかはせむ。
いのちながければはじおうし、ながくともよそじにたらぬほどにてしなんこそめやすかるべけれ。
そのほどすぎぬれば、かたちをはずるこころもなく、ひとにいでまじらわんことをおもい、
ゆうべのひに、しそんをあえしてさかゆくすよみんまでのいのちをあらまし、
ひたすだようむさぼるこころのみふかく、もののあわれもしらずなりゆくなんあさましき。
ということで、今回も出展は、門川 ソフィア文庫 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典のつぜづれ草からお送りいたしました。
お聞きいただきありがとうございました。
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