忠偶亭子の出産
それでは今回は、枕草子からお届けいたします。
今回は、忠偶亭子が介人しまして、子供を産むために
部下というんですかね、元部下である、もともと忠偶の世話をしていた
成政、平野成政という人のところを訪れるという場面です。
少し背景をお話ししますと、まず忠偶藤原の亭子、亭子様ですね、とも言われますけれども
当時、清少納言はこの亭子様にお使いしておりました。
この亭子様というのは、お父様が藤原の道高であります。
当時、最も権力を握っていた人なんですね。
ところが、その藤原の道高が亡くなってしまいまして、その次に権力を握ったのは
その弟にあたります藤原の道長です。
道長といえば平安時代を代表する貴族でありますよね。
その道長が力を持っている頃に、藤原の亭子、忠偶亭子は出産をすることになります。
本来であればしっかりとした場所で子供を見たいところなんですが、
なんとその前にですね、ちょうどお屋敷が焼けてしまったんですね。
火事で亭子のもともとの家、実家の家がもうなくなってしまっていたんですね。
そこで藤原の亭子、忠偶亭子は平野成政という人のところに行くんです。
この平野成政というのはもともとは忠偶式、忠偶式というのは忠偶の職業の職ですね。
忠偶の世話をするような役職の大臣とかいう役職がありましたね。
その大臣の役職にあった人なんですね。
その後、地方の知事のような役割をしていたんですけれども、
その平野成政の家に、これは都の家だと思うんですけれど、都の家に行くことになったと。
もともとは忠偶の世話をする役職にあったというご縁もあったようなんですが、
実はこの平野成政というのは人癖ある人物でして、
その少し前に忠偶亭子のお兄さん、藤原の小矢近という人がいたんですが、
この小矢近、正確にはちょっと違うんですが道永に歯向かうんですね。
ちょっと政権争いをするんです。
それに破れまして、留罪になるんですね。
その破れたきっかけというのが、どうやらこの平野成政が情報を道永側にリークしたからのようなんですね。
そんなこともありまして、ちょっとこの平野成政というのは人癖あるし、
どうやらこの藤原の亭子、忠偶亭子側から言うとちょっとスパイというか少し敵のような、
そんな役割を、そんな立ち位置にいた方のようなんですね。
なんかご縁があって、成政の家にて出産をすることになります。
成政の家の訪問
そのためにこの清少納言と忠偶亭子たちは成政の屋敷を訪れたその場面について描かれております。
では本文について紹介いたします。
と笑わせたも。
されどそれは眼なれにてはべれば、
よく仕立ててはべらんにしもこそ、
驚く人もはべらめ。
さても、かばかりの家に車いらぬかど矢はある。
見えば笑わん、
などいうほどにしも、
これ参らせたまえとて恩すずりなど差し入る。
いで、いとわろくこそわしけれ、
などそのかどはた、
せばくは作りてすみたまいける、
といえば笑いて、
家のほど身のほどにあわせてはべるなり、
といらう。
されど、かどのかぎりをたこを作る人もありけるわ、
といえば、
はなおそろしと驚きて、
それはうていこくがことにこそはべるなれ。
古きしんじなどにはべらずは、
うけたまわりしるべきにもはべらざりけり。
たまたまこの道にまかり入りにければ、
こうだにわきまえしられはべる、
という。
その御道もかしこからざんめり、
遠どうしきたれど、
みなおちいりさわぎつるわ、
といえば、
あめのふりはべりつれば、
さもはべりつらん。
よしよし、
また大すられかくることもぞはべる。
まかりたちなんとていぬ。
お前に参りて。
お前というのは、
えらい方の前にということですね。
現代ですとお前っていうのは、
あなたという意味で使われますけれども、
結構この相手に呼びかけたり、
自分のことを言ったりする言葉っていうのは、
時をへてかわっていくんですよね。
お前というのはもともとは好奇な方のお前。
非常に敬意をもった表現だったんですよね。
お前に参りて。
これは敬意を持つ相手ですので、
ここは忠偶天使様です。
忠偶天使様の前に参上して、
ありつるよう敬すればと。
ありつるようというのは、
その時のことを敬すっていうのは、
これは忠偶や当偶、
つまり貴先や皇太子というような人たちに対して
使われる言葉なんですね。
敬すというのは、報告するみたいな意味で使われます。
なので忠偶天使様のところに行って、
その時のことを報告申し上げたっていうんですね。
少し補足いたしますと、
これはその前のあたりまでですね。
成政の家に入っていきますよっていう時に、
車を直接乗り入れられなかったんですね。
なんていうか、門が非常に小さくてですね、
中に入らなかったんですよ。
車がですね。義車が入らなかった。
だから少し手前で降りて、
歩いていかなきゃいけなかった。
歩いていくのがなんだって話なんですが、
これ結構重大な問題でして、
歩いて入ると人目につきますよね。
当時は高貴な女性が、
そのあたりを歩いて人目につくっていうのは、
これはかなり汚い恥ずかしいことでありました。
ですからそれをされてしまう。
それをせざるを得なかったって言うんですよね。
そのことについて忠偶様に何か申し上げた時に、
忠偶様はこうおっしゃるんですね。
成政とのやり取り
ここにいても人は見るまじゅうやわと。
ここにいたってみんな見ているでしょうと。
などかはさしも打ち解けつる。
どうしてそんな打ち解けたの?
打ち解くっていうのは、
これは何かこう油断してリラックスしているってことですね。
ですからもうどこにいたって、
そんな見られても大丈夫なようにしておきなさいよ、
なんていうふうに言ったんですね。
と笑わせたもう。
そんなふうに忠偶様はお笑いになりました。
それに対して、
されどそれは目なれにてはべれば、
よくしたててはべらんにしもこそ、
驚く人もはべらめ。
ですけれどね、それは目なれにてと。
目なれっていうのは、これは目がなれる。
ですからふだんどおりの様子ってことですね。
ふだんどおりのものなんですよと。
それをよくしたててはべらんにしもこそ、
よくしたてる。あえて化粧をしたりですね。
この服装を整えたりして、よくしたてたら、
驚く人もはべらんに。
かえって驚いてしまう人がいるでしょうと。
ですからいきなりその時に限って、
ちょっとおしゃれな感じで身を整えたりしたら、
なんかこう驚く人もできるんじゃないですか、
いるんじゃないですかって言うんですね。
さてもかばかりの家に車いらぬ門やはある。
それにしてもこれほどの家、きっとね、
ちゃんとしたお屋敷なんでしょうね。
これほどの家に車いらぬ門、門というのは門のことです。
車が入らない門があるでしょうかと。
見えば笑わん。
もしその主である成政が現れたら、笑ってやりましょう。
なんていうふうに聖書の方が申し上げるんですね。
ですから非常に成政をある種ばかにしているというか、
困ったものだと成政のせいでこんな恥ずかしい思いをしました。
こんなもうそもそも門に入れないような、
そんなつくりにしているお屋敷が悪いんですよ。
なんていうことを言うわけですね。
さあそんな中で、これ参らせたまえとって恩すずりなどさし、
ちょうどそんな時に成政がそこにやってきて、
これ参らせたまえ、これをどうぞというふうに
すずり箱を持ってきたって言うんですね。
すずり箱というのは、ここもともとはすずり箱ですから、
文房具入れのようなものでしょうかね。
そういうものなんですけれども、
ここではそこに何かを置いたりして、
たぶん差し入れたということでしょうかね。
さあそしたら、
いで、いとわろくこそわしけれ、などそのかどをはた、
せばくはつくいてすみたまえへいける、
って言うんですね。
そこで聖書名言がちょうど成政が来たものですから、
こういうわけですよ。
あら、とてもわろくというのは、
よくない感じで、
おわしけでよくない感じのつくりですね、
というわけですね。
あとはもうその、
なにまさ自身が俳優にかける方ですね、
というふうにとってもいいでしょう。
などそのかどはた、せばくはつくりてすみたまへいける、
なんでそんなふうに門をせまくしてつくったんですか、
それですんでらっしゃるんですか、
なんていうふうに言って、
もんくを言うんですね。
そうしたら、わらいてとあります。
そこでなにまさは、わらってこう言うんです。
いえのほど、みのほどにあわせてはべるなり、
いえのていどは、わたしのみのたけにあわせてつくったんですよ、
といらう。
いらうというのは、返事をするということです。
と答えました。
まあ要するに、
いやもうわたしなんて小さい存在ですからね、
そんなわたしにあわせてたいしたことない感じの家につくったんですよ、
なんていうふうに答えたんですね。
それに対して、
しされど、かどのかぎりをたこをつくる人もありけるわ、
と言うんですね。
そうしたら、それはけれどもね、
かどのかぎり、その門の様子っていうのは、
たこをつくる人もありけるって言うんですね。
高くつくる人もいらっしゃいますよ、
って言うんですね。
要するに、
門だけはね、ちゃんとしておくっていうことを、
人はいますよ、と。
そういうもんですよ、世の中、
っていうわけですね。
まあ要するに、来客が訪れるような、
そういうところはちゃんとしておくものですよ、
と言って、
また清少納言が成間さんに対して文句を言うわけですね。
そして、
と言えば、
あなおそろしいとおどろきて、
それに対して成間さんは、
これは恐れ入りましたと、
これは恐ろしいことをおっしゃいますね、
というように、
おどろきて、おどろいくんですね。
じゃあなぜおどろいたかというと、
それは、
うていこくがことにこそはべるなれ、
はべるなれ、
って言うんですね。
それは、
清少納言の知識
うていこくのことじゃありませんか、
って言うんですよ。
まあ要するに、
これはなんか元ネタがある話じゃないですか、
って言うんですね。
これ、うていこく、
その、
中国のお話で、
なんて言うんですかね、
門をしっかり作った、
っていうことをすると、
したおかげで、
子孫が繁栄しましたよと、
だから門を大きく作るのは、
非常に大事なんですよ、
っていうような故事がある、
そういう昔の言い伝えがあるんだと。
あ、そのことはあなたはご存じなんですね、
っていうふうに、
驚くんですね。
で、これ、なんで驚くかって言うと、
そもそも、
つまり中国の出来事っていうのは、
言いかえると、
漢文で書かれていることなんですね。
で、この漢文で書かれていることを、
分かるっていうのは、
女性にしては、
珍しいことだったんです。
当時は女性は、
漢文は学ばないんですね。
漢文、漢籍とも言いますが、
漢文っていうのは、
これは男性が学ぶものだったんです。
ですから、それが分かるあなたは、
すごいですね、
っていうわけなんです。
それで、
古き新時、
新時っていうのは、
進む武士の師と書きます。
古くから学んでいる人でなければ、
などに、
はべらずは、
そういう古くから学んでいる、
学問の道に進んでいるような、
そういう人でなければ、
分かるわけないじゃないですか。
分からないことでございますよ。
たまたま私は、
この道にまかり入りにければ、
たまたまこの道に入っておりました、
ので、
このように、
わきまえ知っているんですけど、
つまり、たまたま私は、
漢文の勉強しておりましたから、
分かったものを、
それを分かる清少納言様は、
素晴らしいですね、
っていうふうに、
言うわけなんですね。
っていうんですね。
これは清少納言の言葉です。
清少納言は、こう言うんですね。
大したことないですね、
っていうわけです。
ちゃんとしたものじゃないですね、
って言うんですね。
遠道っていうのは、
むしろの道と書いて、
遠道と言います。
むしろを知ったんだけれども、
みんな落ち入り、
落ち入り騒ぎつるは、
みんなその、
落ち入って騒ぎましたよ、
って言っているんです。
これ要するに、
むしろを知ったんだけれども、
たぶん、
なんかぬかるんだりしたんでしょうかね。
それで、
大騒ぎになりましたよ。
これ何言ってるかっていうと、
今、私は漢文の道にいましたので、
っていうふうになりまさ、
言ってましたよね。
で、それに対して、
いやあなたのその道っていうのも、
大したことありませんね。
ここに来る時に、
ちょうどね、
むしろで知ったところの道、
なんか全然、
良くない道でしたよ、
っていうふうに、
道つながりで、
なんか、
またなりまさをバカにするというか、
そういう発言をするわけですね。
あんたの道なんて、
大したものじゃないわね、と。
本当にこの家の道、
ひどいものよ、
っていうふうに言うんですね。
そんなふうにして、
なりまさが、
ちょっと何か言っては、
またこの聖書な言が、
倍くらいで返していくわけですね。
そんなふうにして、
なりまさをやりこめていく、
っていう場面でございます。
そして最後に、
なりまさはこのように言って、
立ち去ります。
雨の降りはべりつれば、
さもはべりつらん。
雨が降っておりましたので、
そんなこともありましょう、と。
よしよし、
また大すらでかくることもぞはべる。
あ、まあね、もちろん、
まだまだ、
おっしゃいたいことも、
終わりでしょうね、と。
ただ、もうまかりたちなん。
ああ、まあちょっと、
ここは立ち去りましょうね、
とって犬と言って、
立ち去っていった、
ということですね。
そんなふうにして、
なりまさはその場を立ち去っていく、
ということでございます。
ユーモラスな対話
ただ、なんて言うんですか。
この後の場面に続くんですが、
この後の場面で今度は、
なりまさがですね、
寝ている女房たちのところに、
忍び込んだりしたりするんですね。
なんかこう、少し、
ある意味では、なりまさは、
少しお茶目というんですかね。
いたずな心もありつつ、
あまり知的な感じでは、
描かれないんですよね。
ですけど、なんかこう、
可愛げがある感じにも、
描かれるんですけれども、
中古帝子は、
それに対してなんか、
いいじゃないのって、
なんかね、
穏やかな感じで、
おおらかな感じで、
言うんですけど、
清少納言、
なにこの人、
ほんと最低ね、
みたいな感じで、
ずっと、
こう、
言い続けるんですよね。
まあ、それがこの、
面白い場面でございます。
やっぱりこの背景には、
どうやらなりまさが、
この中古帝子の家族である、
兄コレチカを、
脅し入れたことに、
加担していたようだ。
なんていうことも、
おそらく、
背景にはあるんだと思います。
なので、
このようななりまさを、
ある種を貶めるような、
文章を残したのかも知れませんね。
そんな、
文章でございました。
それでは、
もう一度最後に、
全文ご紹介いたします。
お前に参りて、
ありつるようけいすれば、
ここにても、
人は見る魔獣やは、
などかは、
さしもうちどけつる。
と、笑わせたの。
されど、
それは、
めなれにて、
はべれば、
よくしたてて、
はべらんにしもこそ、
おどろく人も、
はべらめ。
さても、
かばかいの家に、
車いらぬかどやはある。
見えば笑わん、
などいうほどにしも、
これ、
まいらせたまえ、
とって、
恩すずりなどさしいる。
いで、
いとわろくこそおわしけれ、
などそのかどはた、
せばくはつくりてすみたまいける。
といえば、
笑いて、
家のほど、
身のほどにあわせて、
はべるなり、
といらう。
されど、
かどのかぎりを、
たこをつくる人もありけるわ、
といえば、
ああなおそろし、
とおどろきて、
それは、
うていこくが、
ほどにこそはべるなり、
ふるきしんじなどにはべらずは、
うけたまわりしるべきにも、
はべらざりけり、
たまたまこのみちに、
まかりいりにければ、
こうだにわきまえしられ、
はべる、
という。
その恩みちも、
かしこからざんめり、
えんどうしきたれど、
みなおちいりさわぎつるわ、
といえば、
あめのふりはべりつれば、
さもはべりつらん。
よしよし、
またおせられかくることもぞはべる、
まかりたちなん、
とていな。
さて、それでは今回も出典は、
角川ソフィア文庫、
ビギナーズクラシックス、
日本の古典の
マクダムソーシから、
ご紹介いたしました。
お聞きいただいてありがとうございました。