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それでは講義を始めてまいります。
今回のテーマは、徒然草という作品です。
非常によく知られた作品でありますが、
こちらは鎌倉時代後期の作品となっております。
鎌倉時代といえば、特に仏教の時代、武士の時代ともいわれます。
鎌倉新仏教と呼ばれるような新しい、
これまでの中国の仏教、古くはインドの仏教、東南アジアの様々な仏教、
それぞれが、それぞれの発展をしてきたわけですけれども、
日本において独自の発展を遂げたのが、まさに鎌倉時代でしょう。
平安時代にも、もちろん仏教というものはあったんですね。
非常に信仰されておりました。もちろん奈良時代もそうですよね。
ところが、この鎌倉時代に入りまして、様々な動きがあったんですね。
その中で、日本独自の進化を遂げてきた時代。
ただ、同時に様々な仏教、様々なバリエーションが生まれたことによって、
混乱とか、あとは何かつりつまがわないこととか、
あとは仏教の中でも一体どういうような仏教の在り方、
もしくはお坊さんの在り方、信仰の在り方、宗教の在り方がどうあるべきか、
ということが非常に問われた時代だと思うんですね。
なので、この時期には非常に節話などがよく書かれました。
ここでの節話というのは伝説や、あとは昔話といった意味での節話ではなくて、
この仏教観を表したような節話ですね。
いわゆる仏教節話というものです。
仏教観についてどのように考えるか、そのようなことを描いたというのが、
これが仏教的な節話なんですね。
このつでずでぐさんの中にも、非常にこの仏教節話的な部分というのがいっぱいあるんですね。
ただ、いわゆる仏教節話のように、
こんなことがありましたよ、というようなことがただ描かれるわけではなくてですね、
むしろこのような信仰なり方とか、こんなお坊さんがいましたよとか、
こんな出来事がありましたよということに対して、
それを面白おかしく、ひにくったように描くという部分があるんですね。
ですからこのつでずでぐさんというものは、
どこかこうちょっと面白いエンディングというか、オチがあることも多いんですね。
ですからよく読まれているものというのは、ちょっと面白おかしくて、
最後のオチが来るようなものが多いんです。
そういったところがあるんですけれども、
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ただそれだけだと、これは節話集と言ってもよかったかもしれません。
ですがそれ以外に、この、そういうの忘れていました。
こちら描いているのは健康法師という方です。
吉田健康とも呼ばれたりはするんですが、
いろいろ研究の中では、もしかしたら吉田というふうには付けるのはちょっとおかしいんじゃないかという説もあったりしまして、
一応健康というふうに言っておくと問題ないかなというふうに思います。
この健康法師ですけれども、仏教節話的な部分だけではなくてですね、
人間とは何か、学問とはどうあるべきかといった仏教にとどまらない様々な考え方について紹介しているんですね。
またそれにプラスして、この健康法師自身も法師とあります通り、
俗世から離れた生活というものに向かっていくんですね。
そういった俗世から離れた生活。
これもちょっとですね、いわゆる本当に山の中で住むというものとはまたちょっと違うんですけれども、
ただ何となく古き世のたしなみとして、俗世のものにはとらわれない的なね、
そういうところが描かれたりもするということですね。
非常にそういった意味では、いろいろな思想的な部分というのもありますので、
そういった点から一応随筆というものに分類されているのかと思います。
三大随筆の中で言う枕の奏詞や法上記なんかと比べますとですね、
非常にこの仏教節話的な部分というのは特に強いかなと思うんですけれども、
ただそれを少しこの皮肉って面白おかしく書いているという点が、
読んでいる側としては面白いかなと思いますね。
これは鎌倉時代後期ですので、当時の混乱の中にあって、
それをまともにですね、正面から否定するという、
なんかそういうストイックな感じというよりは、あえてちょっと外したくらいで、
面白おかしく皮肉るよという姿勢の方が伝わるものもあるというかですね、
結果的には現代ではそれを面白おかしい話と単純に捉えることもできるような文章多いんですね。
ただやっぱり背景にあったのは当時の様々な仏教のあり方に対する疑問とか、
批判的な精神というものはあったのかなぁとは思いますね。
というような非常に魅力的な文章です。
今でもこの一つ一つの話が教訓的でもあるし、
オチがあるっていうのはこれ読みやすいんですよね。
なんかこんなことがありましたってことをただツダツダ書いているよりも、
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起承転結がある程度あって、伏線があって、最後にそれがオチとして終わるっていうと、
非常にストーリー展開がわかりやすいので、比較的読みやすい部分もあるという作品になります。
幕田の奏詞なんかですと、非常に誰が何をどうしたのかがわからなかったり、
ただ淡々と自然の情景が描かれたりもしますので、これは結構読みづらいんですね。
また北条記もそういうストイックにただただツダツダと書いている場面もあります。
北条記は逆に事実を相のままに淡々と書いていくので、
その様子が非常に現代でも共感しやすいんですね。
あんまり心理描写とか情感とかを描こうと思うと、
現代では使われていない単語を使われていたりとか、
あとは現代の感覚にはないような感覚を表現していたりすることも多いので、
そのあたりを考えると、ただ淡々と事実を書く姿勢というのは、読みやすかったりいたします。
でもやっぱりツレズデイクさんの気性転結があって、メリハリがあってというものの
分かりやすさというのとはまた違うと思うんですね。
ですから、これがもしかしたら当時は語られて、健康報酬の手によって様々に語られて、
その口からいろんなことが表現として出ていたのかと思うと、
それはそれで面白いのかなと思いますね。
当時はもちろんこういったものはただ書かれるだけではなくて、
語られたとも考えられますので、それはちょっと分からないですけれども、
語るという面でも非常に面白い文章が多いかなというところです。
ということで、三大ツイストの最後に成立したのが、このツレズデイクさんという作品でございました。