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2011-12-27 11:31

vol.5-2「実業家・三溪の多様な側面と市民協働」原三溪市民研究会

実業界で活躍する一方で、画家の支援をしたり、独自の茶道をおこなったり。生活自体を愛でた三溪ですが、関東大震災(1923年)が起きると横浜の復興に奔走しました。80年以上前にさかのぼる三溪の生き方やポリシー。その一端を紹介します。











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その中で、日本画家の若い画家を育成したという話も、先ほどちらっと出たんですけども、
もともと三溪さんは素人の方なのに、専門家の画家を育てていくっていう、
そういう育てられたっていうものに対して、一つの不思議な感じもしますし、
それから小美術品を所有しても、ちゃんとしたものをちゃんと所有してるっていう、
この慣識感とか美意識とかっていうのは、誰でも持てないと思うんですけど、
どう思われますか?専門家として。
たぶん三溪さんには、自分が絵画を育てようとか、
何かそういう上から目線じゃなかったと思いますね。
そうかもしれないね。
自分自身も幼い頃から、おじいさんが何画家でしたので、
歩いておじいさんとか、直接におじいさんから絵を学んでるわけですよね。
やっぱり、たぶんそういう美的な感覚っていうのは、
生来持ち合わせたものもあるとは思うんですけれども、
やっぱりさっきのお庭の成り立たせている要件である自然の美っていうのが、
みんなで共に分かち合うものだっていうふうに考えたのと、
同じように、やっぱり美術品っていうのも、
所有権は、それは自分がお金出して買ったんだから、自分になるかもしれないけれども、
やっぱりその美術品が持っている価値っていうのは、誰のものでもないと。
みんなのものだっていう考え方を持っていらっしゃいましたので、
産経さんが若い画家たちに見せるときも、自分の意見を汚く言って、
若い画家たちと蝶々橋の議論をしたっていうことが伝えられていますけれども、
そういうことをむしろ彼自身も楽しみにしてたのかな。
今、後ろにある900ページからの本を助成金などもいただいて、
なんとか無事完行できたと、ある方から聞かれたんですけれども、
あれを完行する前にも、
沢谷さんはいろんな本とかいろんなことを自分で勉強したりして、
何か知ってたわけでしょ、産経さんについて。
で、あれを出した後、何が変わりましたかって言われたんです。
あの本が出たことで、何が産経さんについてより分かったんですかって言われたんです。
で、ふっと自分でも考えてみたら、いろんなエピソードとか、
産経はあれしたとかこうしたとか、産経はこんなこともやってとっても偉かったとかっていうのは、
もちろん今までも分かってたんです。
でも唯一分からなかったのが、全ての多面性に通じる産経自身の人格とか人となりとか、
生きる姿勢とか、彼を突き動かした何かエネルギーのようなものの厳選は何だったのかって、
そういうことがまさに産経大伝には書いてあったんですね。
まさしく私も今のお言葉で心を動かせた点がございましてね。
忘れてならないのは、彼はキート業を先代から受け継いでやったわけなんですけれども、
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ご存じのとおり、キートの事業っていうのはリスキーで、
何十社が入って本当に数少ない一人の産経さんだったわけですし、
また横浜の関東大震災では復興会長に担がれて役職を責任を負うわけですけれども、
産経さんご自身としてはそれをやらざれないっていうこともあったんですけれども、
一応成功して何をやっても実績を上げた。
それはいろんな面で才能があったりテクニックがあったんでしょうけれども、
今沢谷さんがおっしゃったように、最終的に目先の利益に追われたりとかそういうことではなくて、
要するに一貫した誠実さだとか人間性だとか、それから生きていく上での理念だとかって、
一つの筋が通ってたような感じがしてならないんですけれども、
それが美術だとかそういうものだけではなくて、
事業そのものにもそれからいろんな横浜の復興にもどうも影響したような感じがしてならないんですけど、どう思われますでしょうね。
私がもう一つ、展覧会の中に原産経市民研究会なんていう構想を入れること自体が普通ではあまりないわけですよね。
私も今まで結構いろんな展覧会やってきましたけど、私自身そんなことを考えついたことは一度もなくて、
なぜ原産経展の時だけ市民やいろんな人と一緒に調査研究しよう、あるいは原産経市民研究会っていうものを作ろうっていうふうに思ったかというと、
一つだけ産経さん自身の言葉で決定的だったものがあります。
それは今年東日本大震災があったので余計にその言葉が重みを持って響いてくるんですけれども、
それは1923年の関東大震災が起きた後、今、広島さんもおっしゃったように担がれてというか依頼されて、
横浜市の復興会長になるわけですね。
その復興会長としての最初の挨拶というか意見表明というか、その中にこういう言葉があったんです。
それは確かに横浜の町というのは本当にひどい惨状でして、町のほとんどが、その当時の横浜の町のほとんどが焼け尽くされて、何も残ってないというような状態だったわけです。
その時に産経は確かに横浜の町は怪人と騎士だと、幕末の開港以来、60年ぐらい経ってたわけですかね、あの頃。
永遠と築いてきた町というのが全てなくなってしまったと。
でも横浜市の本体というのは市民の精神です。ここにお集まりになっている皆さん方の市民の元気ですと。
怪人に騎士してしまったということは、つまり白紙になってしまったんだから、そこに新しい絵を描くことができる、新しい将来未来を描くことができるじゃないかというふうに挨拶をしたんですね。
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やっぱりそれがすごく心に実は響きました。
ちょうどその頃横浜市は市民共同とか言うスローガンを横浜市政自体も打ち出していて、今までのように役所や行政が全てをやるのではなくて、
これからもっと市民たちが主役になっていくんだと、一緒に共同していくんだということを打ち出していましたので、
なんと三桂さんはそれよりも80年も前にこういうことを言ってたんだ、こういうことを考えてたんだっていうのは、すごい大きな刺激材というか刺激というか、市民研究会という考え方に直結したと思いますね。
ちょっと今まで出てこなかった話の中で、もう一つ私が三桂さんに惚れ込んだ理由というか、もう一つありまして、それはやっぱり三桂さんが生活人としても達人だったということなんです。
それはご自分でもすごいグルメで三桂そばというレシピを発明したりとか、これはちょっと悲しいエピソードではありますけれども、46、47歳だった長男、将来性のある長男を急に病気で亡くした後、長男を痛む朝の茶会というのを開いていくわけですけれども、
その時に父と子で付き合ってた方たちに来ていただく、それが和辻哲郎だったり、様々な早々たる人たちなんですけれども、一体こんな朝早く茶会に呼ばれて何なんだろうと。
その茶会の中でも、息子を失って悲しいとか、鎮痛のおもちをするというようなことは一切なくて、でもさりげなく茶室に飾ってある品が何か息子との思い出の品であったり、あるいは桃山時代の小楽器であっても、
その小楽器というのは実は、人の死にまつわるようなストーリーを持っている楽器が置かれていたりという、そういう失来の中で、これはまだ私もいただいたことがないんですけれども、
端の葉っぱの上に端の実を炊き込んだご飯を持ってお汁をかけて食べるというような、レンゲ飯というのがあるんですけれども、そういったものをみんなでいただく。
その後、羽田と気づいてみると、実はそれが息子の死を痛む茶会であったという、そういう人の死の痛み方、最愛だった人を送るときの作法というか、やっぱりそういうのはすごく感動的なんですね。
別に私たちは今や産家さんのような暮らしをできる人は誰もいないわけで、別にお金がなくても産家さんのようなそういう生活の姿勢というか、そういうことって十分私たちでもシェアできるなと思っていて、
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そういうことを今の若いバギーをしたお母さんたちと一緒に楽しめないかななんていうことも、私は心の中にそういうのも持っています。
だから日本ではバブル期にたくさんのお金持ちが輩出して、その人たちがどういうお金の使い方をしたかっていうのを見ると、とても産家さんの足元には及ばなくて、
でも実は時代は変わっても産家というような生き方があるんだよっていうことを、もっと若い人や子どもたちも含めて伝えていきたいなっていうのがあるんですよね。
だから生き方モデルとしての産家っていうのも、私たちの念頭に置いてもいいのかなっていう気がします。
これからの夢といいますか、こんなことを沢谷さんとして期待したいなということがございましたら。
実は産家展のプロジェクトの中に、原産家市民研究会だけじゃなかったんです。
これは原産家市民プロジェクトと銘打って、そのうちの3つの柱があって、その1つ目の柱が原産家市民研究会。
3型オーデンを出すことっていうのが当面の目標。
それから2つ目は、3型オーデンは藤本実也さんという方が書いた表伝なんですけれども、産家さんご自身も全くこれは活字になってないんだけれども、結構いろいろなものを書いています。
唯一彼が小美術について書いた小美術書記というのだけは、八代幸夫さんが整理されて、大和文化館という関西の方の美術館の起用に載っているんですけれども、
そういった産家さんが書かれたものを何とか報告して活字にできないだろうかっていうのが2つ目の柱だったんです。
3つ目は関東大震災で焼けてしまった産家帳という、つまり産家さんの美術コレクションの画集ですよね。
それを何とか再現できないだろうかと。あわよくば画集をそのまま展覧会にできないだろうかっていう、本当にこれはまた夢かもしれないんですけれどもあります。
今日はいいご縁で、それからいいお話を聞けることができて楽しい一時だったと思います。
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