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2011-12-20 09:41

vol.5-1「原三溪市民研究会、発足の秘密!?」原三溪市民研究会

前半は、横浜美術館特任研究員で、原三溪市民研究会の顧問でもある猿渡紀代子氏がゲストとなり、同会会長の廣嶋亨氏がインタビューをおこないます。研究会はどのようにして発足したのか?さかのぼること○年......はじまりは横浜美術館の展覧会企画でした。※音声内付近の「横山大観とか、岡倉天心とか」などの「岡倉天心」は「下村観山」の誤りです。











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原三溪市民研究会の広島でございます。研究会といたしまして、日頃三溪を学ぶ、三溪に学ぶということで活動しておりますけれども、
いろいろ普段から不思議だなとか、どうしただろうということは、ただございまして、今日はいいチャンスでございますので、沢谷清子さんにいろいろお話を聞きたいと思っております。
沢谷さんは、横浜美術館の特任研究員であるとともに、原三溪市民研究会の顧問でありますので、より広い立場から素敵なお話を伺えるのではなかろうかと期待しておりますので、沢谷さん一つよろしくお願いいたします。
まず私どもがスタートした2007年9月なんですけれども、どの赤ちゃんもそうなんですけど、産んだ後のことはちゃんとわかっているんですけど、産む前のことがあまりわかってございませんので、我々市民研究会が生まれた戦いをまず冒頭お伺いしたいと思います。
今もう2011年ですので、かれこれ4年前に遡るんですが、横浜美術館というのは平成元年にオープンしたんですね。もうはや20年以上経ってしまいましたけれども、横浜にある美術館ですので、やはり横浜に関わりのあることを展覧会の中でやっていこうという柱が最初からありまして、
学芸員全員何か企画案を出せというのを、その当時の学芸部長から業務命令がおりまして、私は横浜シリーズという展覧会の3本からなるシリーズを開館直後に提案したわけです。
その中の最初の1本というのは、幕末明治の横浜というので、鎖国の後、横浜の港がオープンをして、自由貿易が始まって、日本最大の拠点ができてみたいな、そういう歴史と美術との関わりをその展覧会の中で紹介していこうというのから始まって、その展覧会自体は2000年に実現したんです。
そのシリーズの2番目が、原産経、産経園を生んだ、早くから市民に対して公開した原産経という人は、ものすごいコレクターですので、しかも非常に目の高い厚きコレクターでしたので、ぜひ原産経と美術との関わりを2つ目の展覧会にしようと。
3つ目は、今も伊勢崎モールとか、あるいは港未来地区もそうですけど、横浜ってすごく都市デザインの先駆的な町なんですよね。
それで、先後の横浜の都市デザインと美術というのをテーマにしようということで、その2つ目の展覧会をなんとかできないかということで、開校150年、2009年が開校150周年目の記念すべき年でしたので、そこを目指して準備を進めていたんです。
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ところが、その展覧会自体がいろんな事情でダメになってしまいまして、それでその展覧会を考える企画案の中に、すでに原産経市民研究会という構想が入っていたんです。
というのは、産経という人物について知れば知るほど、これからいろんなお話が出てくると思うんですけれども、産経産ってまず、企業貿易の実業家ということで、実業家という面があるし、
それから、さまざまな関東大震災であるとか、企業の危機の時であるとかというものすごい社会貢献の人でもある。それから美術のパトロンであって、コレクション、大コレクターであった。
それから、若い美術家たちを応援して、大変な傑出した美術家たちを育てていくんですけれども、そういうパトロンとしての側面もあるし、茶人、お茶、産経にも茶室がたくさんありますけれども、自らお茶を実践した人でもあったし、
それから自分で文人画、漫画のようなものを描いたり、漢詩を作ったりという、本当にこれだけのことを一人の人がしたのかというぐらい多面的なんですね。
それで、やっぱりこれほど多面的な人は、市民の中にも様々な方がいるので、そういった人と一緒に研究したり調査した方が絶対に良い成果が生まれるだろうというのがあって、市民研究会というところになりました。前田がなくてごめんなさい。
佐渡さんのご意見とか、日頃感じているといいチャンスなので聞いてみたいと思うんですけど、まず一つは、その点について、産経さんの多面性について何かお勘になることはございますか。
一番わかりやすいのは、産経園というお庭、庭園ですよね。
この関東一園で5万3千坪もの敷地の中に、重要文化財とか10棟も含めて17棟とか大変な数の古建築が移築されていって、今でも周りの景色を見ると、もう一本だけちょっと目障りな煙突が海の方に見えるんですけれども、
それさえちょっとないことにすれば、本当に本木の山の谷の小高い丘に囲まれた中で、もう別天地になっている。
産経園は横浜とか神奈川県に住んでいる人は、小さい頃連れて行ってもらったとか、遠足で行ったことがあるとかっていう方が多いんですけれども、産経という人物、産経って人の名前だったの?みたいな反応もあって、意外に知られてないんですよね。
やっぱり、その庭園を作った人っていうこと以上に、私たち美術館の人間にとっては、やっぱり原産経が数え方にもよるんですけれども、少なくとも5、6千点ぐらいに及ぶ美術品を集めた。
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それは平安時代とかの古いもの、あるいは桃山時代、そして江戸、あるいは明治、大正に特になってから、その頃岡倉天心が作った日本美術院の画家たちを支援して、美術が好きな人だったら多分みんな作品を見たことがあるような、横山大官とか岡倉天心とか、
あるいは陰天のサンバガラスといわれた今村志光や須田幸彦、それから前田誠尊とか、ちょっと後ろの世代で早見御朱とか、そういう人たちを分身両面で支援していった。
またその支援の仕方も、ただ毎月の生活費や、あるいは絵画の勉強をしたりするためのお金を渡すというのではなくて、むしろ自分の持っている貴重なコレクション、
幕弱妙像のように今、黒本になっているものもあるわけですし、それを産権の中に核昇格という、再現された産家さんの元、自分の自宅ですよね、がありますけれども、そこで彼らに見せて一緒になって美術の議論をして、もう徹夜夢をするぐらいにみんな夢中になって、
そういう様々なエピソードを聞くにつけても、一体この人はどういう人なんだろうという、すごい好奇心が湧いてくると思うんですね。それをちょっと知っただけで。まず、紀伊都省、紀伊都貿易省としても大変な人なわけで、
それまでは原商店という、いわゆる昔ながらのバンドさんがいるような商売をしていたところが、産家の代になったらやつぎ早に原合明会社というのにして、その中に輸出部を作ったり、あるいは辞書部を作ったりという非常に近代的な経営をしていた。
そういう中で、今、世界遺産化を目指して頑張っている富岡の製紙場なども、実は産家さんが40年近くも経営をしているんですよね。多分、そんなこともほとんど知られていないんじゃないかなというのがあって。
また、この実業家としても、あるいはフィランソロピー社会貢献のパイオニアとしても、あるいは美術パトロンとしても、あるいは茶人というのも、いったい産家さんのお茶ってどんなだったろうというのはほとんど知られていないんですよ。
一度、タンコーというお茶の専門の雑誌に取り上げられている中で、とても変わったお茶だったというか、いわゆるお手前、作法を重視するようなお茶ではなくて、本当に美学というか、作法の美学を重んじたようなお茶をやっていたような人みたいで。
そういうちょっとした断片的なことを知れば知るほど、一人の人間がやっていることだから、どこかでつながっているはずだと、このすべてのことは。
実業家産家とパトロン産家、あるいは茶人産家というのは、別の人間ではなくて、これは全部つながっていることだと。
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しかも、家庭人としての産家というのは、後見女学校の教え子だった奥様と幸福な家庭を築いて、子どもたちとの関係もとても対等だったらしいんですね。
そういう人物像を知るにつけても、このすべての側面、多面的な側面をつなぐものは何なんだろうか。産家の人格って何なんだろうか。産家は何をよりどころにしていったんだろうか、というのを知りたくなる。
そういうところがありますよね。
そうですよね。
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