そうですね、外観私も同じですね、ちょっとコロナぐらいから書こうみたいな感じが出てきた気はするんですけど、
えっと、内沼さん、私は日記を結構書いてきた派なんですよ、もうずっと、中学の時から。
すごい、まじ?すごい。
はい、私2種類あって日記が、自分が書いてきてます。
そっから面白い。
面白いっていうか、1個は1人で自分でアナログで書く日記、で、もう1個は交換日記で友達と書く日記を書いてきたんですよ。
でも交換日記は、でもね、小学生ぐらいからやってて、で、今は、今もずっと続けてるってわけじゃないんですよ。
えっと、小学生の時に、なんかね、あのキャラクターの、なんかいろいろ交換日記のノートが出てたんですよ、こういう、もうフォーマットが決まってて、
なんか今日はきれいな文章とか、
そう、今日はなんか良かったこと悪かったことみたいな、フォーマット決まってるやつで、なんか3人ぐらいで回していくみたいな、そういうのもやってたり、
あとは、えっと、これね、この前ちょうど、たまたま私の友達と日記の話になって、
えっと、私が中学校の時に仲のいい友達2人と交換日記をしてたんですよ。
で、これは、えっと、全然、もうなんか、A4ノート、ただのA4ノートに書いていくってやつで、
それがね、私の結構、なんか、なんだろう、人格とまでは行かないけど、そういうなんか形成に結構なんか関わってきたんだっていうのをこの前気づいたんですよね。
すごい。
はい、で、結構それも面白くて、なんか私、ハロプロがすごい好きなんですけど、
友達がハロプロがすごい好きで、なんかその私が日記に関して何をしてたかっていうと、
その自分の日記を、そのハロプロのメンバーになりきって日記を書くってやつやってて、
はい、根的さすぎてわかんないんだけど、すげえなそれ。
なんか今日のこういうのあったこととか、なんかこういうことがあったみたいで、おすすめ曲これだよみたいななんか、日記だけどラジオ形式みたいになってて、
今日のおすすめのビッグチューニングみたいなことやってて、で、なんか面白いなって思ったのが、
なんかそのハロプロのメンバーに語らせるんですけど、自分のことを語るときに、そのなんか日記の日記に直接自分のことを書くんじゃなくて、
そのハロプロのメンバーが、この人からお便りが来ましたで、その人が自分なんですよ。
で、そのお便りが来たときに、そのハロプロのメンバーに自分のことを語らせるみたいな、
なんかちょっと一枚なんかそのハロプロのメンバーがお便りが来たときに、
多分でも直接自分のこと、今振り返るに、直接自分のことを書くのは、なんか中学生だったし、
ちょっとなんか、いや、あのやりづらいけど、そこでなんか一枚かわせることによって伝えていたのかなというふうに自分の気持ちを伝えていたのかなみたいなことを思いましたね。
友達も同じようにそういうことしてて。
いや、めっちゃ面白いのだが、なんかいきなりすげえ話になったな。
なるほどな。
確かに。
いやいや、いいんだけど。
もうちょっとさ、比較面的な話をしましょう。
日記、僕はだから日記は、ちゃんとした日記は多分人生で一回も書いたことがないと思います。
アナログでってこと?
いや、アナログでもデジタルでも日記と自覚があるものは一個もないです。
で、一応なんか日記もどきみたいのはやってて、iPhoneでジャーナルっていうアプリがあると思っていて、
一応日記的なやつで、一日一回通知が来て、なんか書きましょうみたいなやつがあって、
それがiPhoneにおけるAI機能の活用が云々みたいなのを見て、
じゃあなんか一応使ってみるかと思って、一応それは使ってるけど、
ほとんど機能、日記としての役割は果たせてなくて、毎日なんか今日はクソだったとか、
そういうことだけを書いている謎のメモ帳、メモ帳でもなんでもないんだけど、
になってるっていうのが、Cって言うなら日記というレベルで。
そうなの?それ気になるんですけど、そこにAIがどう関わるんですか?
それはね、あまり面白くない話。
覚えてないんですけど、何だったかな、ちょっと覚えてないんですけど、
でもそこの情報、だからあれか、そのジャーナルは俺が行った場所とか、
そういうマップ情報を一日の通知の時に、今日ここ行きましたよとか出してくるんですよ。
あと写真とか、今日まだAIって言ったのか分かんないけど、
写真とか動画とか、それを出してきたりするんで、
そういうのでAIみたいな話もあったと思うし、
何だったかな、ちょっと記憶が全く定かではないですけど、
そこに溜め込んだ情報をもとに何かやってくれるっていうような話があって、
そういうのは好きなんで、一応やってみるかって思ってやったのかな。
でもマジクソなんで、やんないほうが良いですよ。
そうなんだ。
全然何も別にメリットがない気がするし。
何も生み出さないそこから、ただただ溜まってくれるんですよ。
超イマイチだから、何も、
別に超余談でイマイチ情報を一個言うと、
写真とか動画とか撮ったのを勝手に、
今日これ撮りましたみたいなの入れてくるんですけど、
とりあえずそのまま保存しようとすると、
動画とかが重すぎると容量が多すぎるんで消してくださいとか言われて、
知らんから、それくらいそっちで調整してくれよみたいな。
それくらいイマイチなんで、別に誰もオススメは一切してないですけど、
そういうのがありますぐらい。
その時にしょうごさんは具体のことを書くんですか?
こういうことがあって、嫌って。
書かない。今日はクソだったしか書かない。
毎日クソだったって書いてある。
日記って分かんない。
日記書ける人の気持ちが本当分かんないんですよ。
なんで書けるんだろうって思ってて。
先話しちゃうと、なんていうか、
この後SNSの話をするかもしれないけど、
それはちょっと別なあれがあるんですけど、
誰に向けてでもないものに対して思考を巡らせて、
思考を巡らせるのはまあいいんですけど、
それを文字化するっていうことが、テキスト化するってことが、
僕は本当に億劫なんですよ。
だから何か具体のことを思い返して、
それを自分のためだけにテキスト化するっていうことは、
本当に意味がないことだなって思っちゃってると思っちゃっていて、
やりたくないからクソだったで終わらせるんですよね。
そうなんだ。ちょっと待って、
これは私の日記のつけ方と全然違うから。
そうなんだと思う。
俺は日記じゃないと思ってます、僕のは。
ちょっと私の話をするとですね、
私は日記をつけるときに、
しょうもさんが言ったみたいな具体のことをいちいち書くんですよ。
これが嫌にしても、これが嫌だったっていうことを書きます。
それは何のためにやってるかっていうと、
まず自分のストレスを発散するため、これが一番。
やっぱそうなんだ。
もう一個は、これを見てから思い返したときに、
こういうことがあって嫌だったんだっていうことを、
ちゃんと思い出せるためっていうか、
この前ディスコードでメモフリートさんが書いてくれたのがそうだなって思って、
前日記を書いてるけど、
そのときの日記がニュアンスが全く思い出せないみたいな話をしてて、
私も昔はそうだったんですよ。
日記を書くときに、嫌だったことの具体をいちいち書き起こして文字にして、
それを自分で確認する作業ってめちゃくちゃストレスなんですよね。
嫌なことは忘れたいから。
だけどそれを、その具体を書かずに、
これが嫌だったとか、やんわりしたまま書いとくと、
後で自分が何でこの人に対して嫌だったかって思ったかが、
全く分かんなくなるんですよ。
それを私がその経験があって、そのときに、
これはちょっと良くないなって思ったんですよね。
この人に対して嫌だなって思ったけど、
これって何で自分がここで嫌だったのかが、
全然見えないから、
もし同じようなことが後々あったときに、
自分の感情の対処の仕方が上手くはならないな、
みたいなことを思ったんですよね。
なので、それから私は日記を書くときは、
もう具体のことを、
嫌だけど、そのときは辛いけど、
ちゃんと書くようにしてる。
これ自分のために書くようにしてるっていうのはあります。
なるほどな。
ちょっといろいろ聞きたいけど、
1個ストレス発散っていうのはわかる。
具体を書くって話は結構気になっていて、
何から言おうかな。
まず聞くと、見返すっていうことはあるんですか?
あります。めちゃくちゃあります。
それはどういうときに見返すんですか?
例えば、私がこの人にされて嫌だったみたいなことがあったときに、
じゃあ同じようなことがまたその人からあったとするじゃないですか。
で、そのときに見返します。
で、そのときに自分の中で納得したいっていうのはあるかも。
この人はやっぱりこういうことが昔もあって、
やっぱりこの人ってこういう人なんだな、
自分もこういうことで嫌だと思うんだな、みたいな。
で、見返したいっていうのは、あともう1個は、
成長の記録っていうと違うけど、
自分が見返したときに、
このときはこんなことで嫌だなって思ってたけど、
そういう人は多そうな気がするし、
それ以外に日記という媒体なのか、
もしくは友達との会話での愚痴なのかとか、
なんか出力の仕方はいろいろあると思うんですけど、
なんかそういうことをやってる人は多いんだろうなって感覚はあり。
はい、そうなんですよね。
なんか自分の話はもうちょっとそれるんですけど、
Xとか見てると結構その日記的にXを使ってる人っていうか、
画像1枚で今日の日記、何月何日、これやり…
あ、そうなの?
はい。なんか有名な人がいるんですけど、
何月何日でウサギのキャラクターがいて、
ウサギのキャラクターを毎日描いてるんですよ。
で、そこに吹き出しが1個あって、
今日はこういう日だった、吹き出しがないから今日はこういう日だったみたいな。
結構リンクかかっときますね。
それが結構フォロワーさんも多いんですよ。
だからなんかね、それをでも見たいという欲求はちょっとまた別の話になるんですけど、
それがなんか流行ってるのは何でだろうみたいなことは思いますね。
それは流行ってるのは何でだろう?
なんかその人だけじゃなくて、いろいろいるんですよ。
で、なんかね、日記はなんか私をずっと描いてた身からすると別に流行ってるっていう認識はなくて、
ただただそのツイッターとかそういうプラットフォームができたから、
それがなんか表出されてるだけだなって思うんですけど、
でもそれがフォロワーが多いとなると、やっぱりそれを見たい欲求があるのかなって思って、
でもやっぱりあれかな、それを見ることで、
えーと、私が今思いついたのは、それに対して共感をしたいとか、
自分もこういうことあったなみたいな、
なんかこういう人もいる、同じようなことを思っている人がいるんだなっていうのを見たいっていうのと、
あとはなんか生活の手触りがやっぱり日記はあるなって思ってて、
私ちょっと話そうと思ったのが、エッセイと日記の違いがよくわからないなとは思ってたんですが、
でも日記の方が多分より装飾されてない形で、
その人のありのままの生活が見えるなっていうのがあって、
なんかそういうのを感じたいのかなっていうのは今すごい思いましたね。
なんかさ、今動画配信のサービスも一般人がやってるのがすごい流行ってるらしいんですよね。
なぎ線とかできるやつ?
うん、分かります。
たわいのない話をしてるんですよね。
私それニュースで見たんですけど、なんか今日これ買ったよとか、
なんか今この水槽にあるお魚がこんな感じだよとか、
全然、何だろうな、別に本当に一般の人のただの生活みたいなのを見て、
それに対してなぎ線とかしてる人がいて、
なんかね、やっぱ自分の生活に他者の生活があることでつながりが見れるみたいな、
それをなんか自分の生活にちょっと他者の生活を入り込ませておきたいみたいなことがあるのかなって思いましたね。
でも今の話はめっちゃ分かるなと思って聞いていて、
まず最初に僕も、僕はなんかそもそもエッセイというものがあんまりよく分かってない。
僕の人生の中でエッセイという言葉がなじみがあんまりなさすぎて、
なかなかないんですよ。
だから離れることもなくて、ずっと自分の言葉としてエッセイ、
自分からエッセイという言葉が出てこない。
どういう時に使っていい言葉なのか分からないなと思うんですけど、
それは一旦置いとくとして、
日記の方がより生活に近い話だよねっていう整理の仕方は、
なんか分かるっていう気がしながら聞いてました。
で、僕の見たては、
なんで日記みたいのが流行るのかみたいな話は、
たぶん同じ話なんだけど、
まず一個はやっぱりインスタ映えみたいなところへの疲労はやっぱあるんだろうなという気がしています。
やっぱなんかこう、持っていくみたいなところに対する、
そこに対する危機感もそうでしょうし、
単純に自分自身もそれに疲れちゃってるっていうのがあり、
そういうのではない形が求められている、
求めているのがあるでしょうっていうのと、
多分それと表裏一体なんだけど、
やっぱり本物の話がしたいみたいな、
タイタンが言ったりする、
本当か、みたいなタイタンが言ったりするけど、
それと多分僕はイコールなんだと思っていて、
結局もう何がリアルで何がフェイクか分からなくなっている世の中なので、
なんか信用できる話が見たい、聞きたいっていう欲求は強いと思うんですよね。
で、なった時にそれが本当かどうかを置いとくとして、
やっぱり日記的な生活の手触りがある話っていうのは、
非常に本当っぽく見える、聞こえるので、
それを聞くことによって満たされる何かがあるんだろうなっていう感じがすごいするんですよね。
うん、ありますね。
確かにインスタとか見てても嘘じゃんってなって、
やっぱりそれって伝えるから、そうなんですよね。
なんかやっぱ安心したいっていうのはすごいありますよね、
この時代の空気感で安心したいっていうのはめっちゃある気がする。
そこで本物を見ることで。
もうちょっと話すと、その感じは俺は自分はあんまりよく分かってない感じもあって、
それは何でかっていうと、僕があんまりインスタを触ってないからだと思う。
もしかしたら。
あ、そうか、しょうもごさんってインスタがない世界で生きてるんだ。
そうですね。
だから時代的には僕が大学の頃にフェイスブックができているので、
多分同世代はインスタとかをやってる人が多いと思うんですけど、
別にめちゃめちゃ意識したわけじゃないけど、インスタを始める気にもなれず、
そもそも写真自体が嫌い、どちらかというと嫌いなので。
そうなんですか、何なんですか?
これはもう分かる人はめっちゃ分かると思うけど、
写真を撮るという行為の、さっきの話と同じかもしれない。
写真を撮って記録するということに対する意義があんまり見出せないんですよね。
そうなんだ、なんか前聞きかえかえで斎藤氏が、
何で人はコハンの写真を撮るのかみたいなのを言ってましたけど、それに何か通じる?
でも最近は分かってきたって感じなんですけど、
特に若い頃は本当に分からなかった、別に。
それ見てると、思い出とかなんないですか?
それさっきと全部同じなんですけど、
別に写真撮らなくても覚えてるものは覚えてるでしょって感じがするんですよ。
それは若かったなという気も自分の中であって、
その写真というのがあることによって会話の種になるみたいなことは大いにあるので、
それは言って必要だよねっていうのは分かるっていうスタンスですね。
確かに具体がないと共有ができないっていうか、
同じイメージを思い描いてもらえないみたいなのもあるのかもしれない。
そっか、翔太さんでいう思い出ってあれなんですね。
別に具体のものと何かしらの結びついてないんですね。
結びついてる必要性があんまり感じられないんだよな。
そうなんだ。
私のお母さんがよく言ってるのが、思い出にもものが必要っていうのを言ってて。
面白い。
それをずっと聞いてきたから、やっぱりそれ派なんですよね。
別に旅行とか行って、何かちょっとでもハンカチでも何でもいいから買っておくと、
それを見ることで旅行の思い出が蘇るみたいなことがあっていいなと思うんですけど、
そういうことあんまりない。
それが本当にないんだと思うんですね。今聞いてても。
分かりますよ。ロジックはすごい分かるし、多分そうなんだろうなと思うけど、
物を起点に思い出す必要性、必然性があんまり感じられない。
僕は本当にどこまでも情報起点なんだと思います。考え方が。
会話してる中で、例えばどこどこの話みたいので、
あ、そこ行ったことありますみたいなことでいいのではって思っちゃうんですよね。
その時の話で思い出して、どこどこ行ったらよかったりするみたいな話とかで、
全然いいって思っちゃうんだよなって思って。
そうなんだ。そっか。
なんかその思い出を思い出す時に、じゃあどういう情報がしょうごさんの中にあるんですか?
それはケースバイケース。本当にケースバイケース。
本当に全然どうでもいいことの方が覚えてたりする可能性もあるしね。
それはなんか、あの時に写真撮っときゃよかったとか、そういうことって思ったりしないんですか?
思ったりしないかっていうと、するかもしれないけど、それも含めた思い出としては結構意味があるかなって思う。
なんかあの時写真撮っときゃよかったねっていう話題になるのはなんか面白くないですかって思っちゃう。
そうなんだ。面白いな。なんか全然違う気がする。
多分違うと思う。これは特殊ケースかもしれないけど、でも写真があんま好きじゃないっていう人はいていて、
その中では同じような考え方をしてる人は少なからずいるのではとは思いますけどね。
そうですね。そうなんだな。
エッセイのことをもうちょっと聞きたかったんですけど。
じゃあいいですよ。話して。
いいですか。私、体感的に男性のエッセイ好きってあんまりいないなみたいなことを思ってて、
それってもうあれですかね、インザメガチャーチで言ってたお茶的な問題とも同じかなって思ったんですけど、
女性はそのエッセイ、私のエッセイを結構好きなんですよ。作家さんのエッセイを読むのが好きで、
それって自分の挫折の経験とか、そこから得たこととか、あとは日常の気づきとか、
そういうことが描かれてるんですけど、それを見ることで自分のケアをしているみたいなのはすごいあるんですよね。
自分もこういうことあったなって、自分もこういうことをやったら、
同じようにしたら自分もうちょっとうまくできるんじゃないかみたいなことを思っているエッセイを見ながらっていうのはあるんですけど、
それがどうなんだろう。
ケア的なもので言うと。
ちょっとごめんなさい、うまく回答できるかわかんないけど、とりあえず僕がずっと今話そうと思ってたのは、
男性のエッセイストがいないのではみたいなことは、つどいのいまいさんが自分のポッドキャストで話していたことがあって、
多分そうなんだと思う。僕はエッセイというか、カタカナがなさすぎてわかんないんですけど、
なんかわかるっちゃわかる気はするなと思っていて、もしかして興味があればそれ聞いてもらえるといいかもしれないんですけど、
で、それは何でなのかっていう話は、確かにインザメガチャーチ、お茶問題的なのと通ずるのかもな。
なんか、しょうごさんはあんまりエッセイって自分のことが、なんだろうな、ささやかなこととかが書かれてるんですけど、あんまそういうことに興味がないみたいな感じ?
ささやかに。
なんだろう、なんかささやかな気づきとか、小さな幸せとか、そういうことがエッセイって書かれてるんですよね。
日常の延長線上にあるもの。
なんかそれよりも、それってなんだろうな、あんまり感情と思考で分けられるものでもないと思うんですけど、
エッセイはどっちかというと感情よりかなっていう気がしてて。
どっちよりって言いましたか?感情よりって言いましたか?
感情よりエッセイは。
自分のそこから得られた思考とか、なんかその社会的な問題に接続してとか、そういうことでエッセイないんですよね。
やっぱ、なんか自分のその半径何メートル以内のものを切り取って、なんかそれをただ記述していくみたいな。
あとその時に湧き起こった自分の比較的薙ぎの感情とか、なんかそういうものを書き取っている気はしてて。
エッセイのあれをやっぱ書き手さんにもよるけど、なんかどうなんだろうな、なんかそこら辺。
だからそれは多分明確に、多分おっしゃろうとしていることはあっている気がしていて、
ずっと僕はそこがよくわかんない感じがしてるっていうのは、やっぱエッセイは、あえて分けるとするとやっぱりおっしゃる通り、
その感情よりの話で、社会との接続があまりない話だと思うんですよね。
で、そういう類のエッセイは僕は興味があまり持ちづらいんですよ。
基本的に何か、社会とかそういうものと接続されているものが面白いと思うタイプなので、
そういう意味で多分エッセイっていうの、他に興味がないんだと思うんですけど、
ポムさんがちょっとちらっと言ったら、そうとも限らない気もしていて、なんか結構、
社会と接続があるエッセイもある気はしているからこそ、僕はエッセイというものがよくわかんなくなっちゃってるっていうのが多分、
実態で、なんですけど、おっしゃる通り、あまりにも感情によりすぎているものには、やっぱり興味が持ちづらいんですよね。
それをどう興味を持っていいかわかんないんだよなって思って。
あ、そうなんだ。
ちょっともうちょっと喋っちゃうと、今思ったのは、人起点だったらあり得るんだろうなと思うんですよね。
この人が好きだから、その人が些細なことにどう思うのかっていうのを知りたいっていうのだったらわかるんですけど、
僕はそういうことが非常に起きづらい人間なので、人から入るみたいなの。
だからあんまりそこに興味が持てないのかもしれない。
なるほどね。そうなんだな。それは人の、その人自身の特性って感じがしますけど、
エッセイで思ったのはやっぱ、なんかエッセイのやっぱ書き手にも本当によりますね。
しかもそれがちょっと性差があるかはあれですけど、私は女性のエッセイを比較的読んで、
で、感情によりなんだと思ったんですけど、若林さん、大鳥の若林さん違ったなって思って。
確かに若林さんは、何だっけ、
わからない、ちょっとタイトル忘れた。表参道のセレブ検討、え、なんちゃらかんちゃらって。
でも若林さんがキューバとかに行って、そのキューバとかに行って、自分の新自由主義に対する考えを、
ちょっとなんか熱い思いを語ってるんですけど、
そういうところはやっぱ普通その女性のエッセイの書き手の方にはないなって思って、
やっぱそのエッセイもいろいろあるんだなっていうのはすごい今思いましたね。
表参道のセレブ検討、カバーニア要塞のライン。
そうそうそうそう、それそれ。
いや、読んだことないけど。
若林さんと接続があった。
いや、これ読んだことないけど、多分僕が読んだらこれ面白いと思うんだろうなとは思うやつですね、これね。
面白いと思います、ぜひぜひ。
その後書きのね、DJ松永からの後書きがね、マジで最高だったから読んでほしい。
なんかちょっと、もうちょっと喋っちゃおう。
僕が津取の今井さんのやつの話聞いてて、確かにそうだよなと思った時に、
確かこの時に考えた記憶なんですけど、
なんか今僕はこういう若林さん的なエッセイみたいなものが、
ポッドキャストにどんどん寄ってってるような気がするんだよなっていう感じがするんですよね。
そうなんですか。
私はその体感、体感ない?ない?いや、あるのか。
え、なんかそれは。
男の人はエッセイ書かないけど、ポッドキャストならまだやってる人はなんかいそうな気がしなくもないっていう感じ。
なるほどね。
え、それってなんかまさに聞き換え会とかもそんな感じなのかもしれない。
そうそうそうそう。
そういうことを僕はこの時これ聞いて考えた気がするんですよね。
だからその中、エッセイとポッドキャストって近くない?みたいな風に思ったんだよなと。
確かに近い、近い。
それをもうなんかテキストでやってるか喋りでやってるかの違いかもしれない、もしかして。
内容は確かにすごく近いものがある。
うん、なんかね、それはこれをなんか思ったんだよな。
あ、じゃあ。
ポッドキャストがある。
じゃあもしかしたらテキストがもしかしたらこれからも書く人が増えるかもしれない。
わかんない。どうなんだろう。
いやだから、なんで今そうなってるのかっていうところはちょっと僕もそこまで考えが及んでおらず、
単純にテキストという媒体の問題なのか、もう少し違う話があるのかっていうのはどうなんだろうなーっていうのはちょっとまだわかんないな。
めっちゃ気になる。どうなんだろう。
それはちょっと、なんかこれからちょっと注目だなそれ。
めっちゃ気になる。
自分の体感としてはあんまり、え、どうやらなんかテキストと喋りの違いって何なんだろうっていうのはどうなんだろうな。
うん。
なんかこれはなんかめちゃくちゃ面白い話な気がする。
うん、なんかこれはね、ちょっともう少しちゃんと考えてみたら面白いかもしれないとは思いますね。
はい。
ちょっと考えよう。
いいすか?じゃあそんな感じ?
はい。ちょっと時間がいい感じなので。
時間がいい感じ。じゃあ一個だけ字が汚い問題をちょっと回収しとくと、
えーと僕の、これは僕の経験っていうか僕の過去なんですけど、
高校の時とか、僕は今もう本当に字を書くということをしません。
アナログで書くということはもう無理です。書けませんっていう状況ですけど、
高校の時とかはさすがにやっぱノートとか取んなきゃいけないから書いてました。
ただ僕は自分の字が汚すぎて自分でも読めないということが多々あるわけです。
そうなんですね。
そういう人は周りにいるんじゃないかなと思うんですけど、
こっから先はあんまりいないんじゃないかなと思っていて、
僕はそれをある種肯定してたんですよね。
もう読めなくてもいいと思っていて、
それは何でかっていうと、本編でさっきも話した話とやや通ずるんですけど、
だからその内容を覚えていたら、