日本的信仰と個人主義の比較
では今から始めていきたいと思います。 この2回、
能力の4段階を終えて、 私たちの信仰が本当の意味で日本的な
個人主義から、 日本的な信仰とは何かというのをこの2回分けて少し話してきたんですけど、
いろいろレターやコメントいただいて、 大和の夜明けのファンの方々と少し
意見交換もしていたんですけども、 確かにこの日本的信仰っていうのは、
西洋的な個人主義とは違うのは確かなんだろうけども、
最近、僕はクリシアンスクールの教師をしているんですけど、 生徒と喋っていて、その生徒がアメリカの大学を行って、
あちらで仕事もしながら学んでいるんですね。 医学系のことをしてるんですけど、
彼に、日本とアメリカどっちで働きたいの? みたいな話をしたんですけど、そしたら彼が、
いや、アメリカですって言ったんですね。 え、なんで?って聞いたら、
アメリカは責任をちゃんと取るけれども、 その責任さえ果たせば、休暇を取ったり、時間が自由に使えたり、
そういう自由があっていいけども、 日本だとやっぱり時間をもらえなかったり、
組織や会社で犠牲になることが多いイメージがあります。 あと多分、責任の所在は明らかにしない。
政治もそうですし、いろんな不祥事が起きても誰も責任を取らない、 っていうところも多分あるんでしょうけど、
その話を聞いていて、そりゃそうだよなと。 自分はすごくアメリカの方が合うなって思い出したんですよね。
で、自分の上司も一応アメリカ人なんですよね。 で、自分の今までの生き方っていうのを考えたときに、
この前、カウボーイと侍を比較したんですけど、 カウボーイっていうのはアメリカのプロテスタントの信仰の一つの象徴で、
ここの個人が神と対話をしながら家族を守っていくっていうのが基本的なスタンスで、 日本の侍は、
やっぱり主君に使えるっていう形なんですよね。 で、その対比を見たときに、僕は明らかにカウボーイ側なんですよね。
カウボーイに似ている要素が多いんですね。 なので、
私個人で言うとかなり西洋型個人主義の信仰を身につけているのが事実なんですね。
で、私の感覚や感性に合うのも、西洋型個人主義の信仰なんですね。 なので、
この2回のテーマや、この日本的信仰っていうのが、 今探求している一つのテーマなので、
いろいろ語ってきましたけども、 バランスをとる上で、私が好きなのも、私自身が身につけている要素も、
やはり西洋型個人主義のキリスト教で学んだことや、 それで身につけた要素が大きくて、 私自身もそっちの方が好きなんですね、実際問題。
イエスの名の意味
なので、何が言いたいのかというと、 ある
ヤマトのヨガ系のリスナーの方が、 私は個人主義の信仰で、境界線を引くことで解放された。
すごく、多分神様を経験されたんでしょうね。 なので、良かったと思いますということをおっしゃっていた方もいて、
それを見た時に私も、先に日本的な国家や、
この共同体っていうのをありきの信仰だと、 きっとこの国をあがらうことはできないんじゃないかなと、
思っていて、でもなんで神様は今、 僕の人生にそういう
関心を与えてくださっているのかと考えた時に、
西洋が教えてくださった、その個人的なこの信仰、キリスト教というので、 やはりまず私個人として神の前に行く、神を
追求する、そして神様に
清めてもらう、解放してもらう。 で、本当の意味でそれができた人が次、
神様はその人を
その国の奥深くへと導くことができるのかもしれないなというふうに思っていて、 なので、
先にこの国を何とかっていう方向で、
いろいろ、多分受け取りすぎるとちょっと難しくなるのかなって今は思っていて、 まあわからないですけど、主が導くやり方がベストなのと思うんですけど、
多分私の人生を振り返ってみても、まず個人信仰で境界線をしっかりし、神のもとに行く、 そしてまず私一人がまずは解放され、
主によって変えられるというのがすごい大事なのかなというふうに 思っていますね。
でもその上で、そこで完了するんではなくて、その次にまた神様はこの国のために私たちを使わすっていう、
もしかしたらそういうタイミングもあるのかなというふうに今は思っていますね。
ちょっといろいろね、混乱、自分自身もね、この2回に分けて、
チェスサウ、神と私個人、私から主位、家族地域、そうですね、そういう流れで神様はやられていると思いますね。
なので、神様と私がやはりすごく土台であり、そこを無くしては、家族、地域、国っていうのを何とかしなきゃって思うと多分すごい重荷になると思いますので、
なので、一人一人がまず個人の信仰において成長したり学ぶという時は、それをすごく大事にするのがいいのかなと思いますね。
なので今、もし主が私をこの国っていう方向に少しずつ目を向けてくださっているかもしれないですけど、
必ずしもリスナーの皆さん全員がそれをしなきゃいけない、そういうものに関心を持たなきゃいけないというものでもないと思いますし、
聴いていてね、なるほど、そういう視点が与えられているんだっていうので、何か思うことがあればいいと思うんですけど、
フレグランスさん、精霊様の導か、日々個人にも国々にも必要ですよね。そうですね、精霊様の導きに従って進んでいけたらいいのかなと思うんですね。
そんなことをこの1週間はちょっと考えたりはしていたんですけども、
前回すごくわからない領域の話をしたので、今回は少し
身近というか、自分の中ですごくわかってきたというわけじゃないですけども、
よく考えてきたテーマを少し今日話したいなと思っていて、それが今日のテーマで、言葉と例、
名が意味するものとは、みたいな感じのことでちょっと考えていきたいんですけども、
まず、やっぱりキリスト教の
救いの道はイエスの何しかないっていうところだと思うんですけど、今日はここをちょっと深く考えていきたいんですけども、
これはやはりすごく聖書的に、聖党として、
キリスト教のほとんどのグループの人々が一致していると思うんですね。その根拠としましては、
ヨハネ14章6節に、イエス様が私が道であり、真理であり、命である。私を通らなければ誰も父のもとに行くことはできないとイエスの御自身が言われましたし、
そして使徒の4章12節では、この方以外には誰によっても救いはありません。 天の下で人が救われるべき名はこの名の他に与えられていない。
ここもすごいストレートに、はっきり語っていますし、これだけはっきり語られているので、
やはりキリスト教の中でも聖党としてイエスの名によってしか救われないって教えがあると思うんですね。
じゃあこの名前を唱えれば、それが何か魔法の言葉のように、その言葉、その名前自体に力があるのかどうなのかっていうのをちょっと考えていきたいんですけども、
皆さんはどう思いますかね。例えばイエスという名前、それ自体に力があるのか。
その名ではなければ絶対に救われないのかとか、いろいろ考えれますよね。 その名を言えばじゃあ絶対救われるのとかね。
いろいろ考えると思うんですけど、まずイエス様自身がちょっと語ったことを考えてみたいんですけども、
マタイの福音書2章、24章ですね。24章4節から5節や24章23、24で
人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗って多くの者が現れ、私がキリストだと言って多くの人を惑わす。
あーりこさんこんばんは。 その時、身をここにキリストがいる、あそこにいると言っても信じてはならない。
偽キリスト、偽原始が現れ、終始や不思議な技を行って、できれば選ばれた者さえ惑わそうとする。
っていう言葉もありますし、あと、
イエスという言葉、まずイエスを名乗る人がたくさんいるってことですよね。
イエスという名前を名乗っていたり、イエスの何をと教えていたとしても、偽物がいるよってイエス様ご自身も言いましたし、
そして、そのイエスっていう言葉ですけど、これも非常に絶対的な言葉でない可能性もありますよね。
だって日本語ではイエスですけど、英語だと同じ人物のジーザスって言いますよね。
最近、ヘブル、言語で一番近いのはジョシュアですよね。
ジョシュアっていう人もいますよね、クリスチャーの中でね。イエスシュアとかね。
そういうふうに、本当の当時の名前で言うとイエスシュアかもしれないし、でも私たちは別にイエスシュアじゃなきゃ間違ってるとは思わない。
イエス様っていうのも今でも使うし、でも英語の人はジーザス。でも一番ジーザスは多分言語的には遠いですよね。
当時のイエス様が聞いた、誰ですかってなったと思うんですけど、でもその名前で祈った時に力を感じることもたくさんあるし、
英語圏の人たちはみんなジーザスということで、精霊様を経験し、父なる神様を経験していると思うんですよね。
ということは、その文字イエス、ジーザス、イエシュアはそれ自体が本質ではない可能性もありますよね。
ただ、本質じゃなくもないとも思うんですよね。じゃあイエスの代わりに山田太郎さんでいいのかというと、それもまた変な話であって、
何かしらの本質もあるし、そうじゃない面もあるんじゃないのかなと思っていて、ちょっとこれは保留にしたいと思うんですけども。
個人信仰の重要性
あと、聖書でスケワの7人の息子たちってストーリーが出てくると思うんですね。
この人たちは祭司の息子だったんじゃないですかね。そして彼らはその名前にすごい力があるのを知って、
イエスの名の力
使徒の働き19章13回16節に出てくるんですけども、パウロが述べ伝えているイエスの名によってお前たちに命じるといって悪霊を追い出そうとしたんですけど、
悪霊はイエスのことは知っている、パウロも知っている、だからお前たちは何者だって言って、この悪霊はイエスのことも知っているしパウロも知っていると。
でもその名でお前たちに命じるって言ったけど、お前は何者なんだって言われて逆にこの執兵返しを受けますよね。
ということはその名前は悪霊は知っていたんだけども、このスケアの息子たち、7人の息子たちはその名前の本質を捉えていなかったことですよね。
名前はあっていたけど、名前の本質を彼らは身につけていなかったっていう言い方もできるかもしれないですね。
あとですね、僕がすごい好きなのは、ポリントミトの手紙第2、11章4節ですね。
実際誰かが来て私たちが述べ伝えなかった別のイエスを述べ伝えたり、別のイエスを述べ伝えることができるっていうことをここでパウロは言ってるわけですよね。
あるいはあなた方が受けたことのない異なる霊や受け入れたことのない異なる付近を受けたりしても、あなた方はよく我慢しています。
名前の本質と異なるイエス
ということは、別のイエス様がいるわけですよね。別のイエスの教えがあるし、そして異なる霊があるっていうことをここでもパウロは言ってるわけですよね。
チェスさん、うちの先客に少し前までイエスと名乗って本当に立候補している人がいました。すごいっすね。
予言通りですね。私の名を名乗る人が多く現れるってことですね。だってあんまりいないですよね。
ゲームでもルシュファーとか、悪霊の名前ね、ベルゼブルとかね、いろいろ出ますけど、イエスっていうね、まだゲームでイエスは出ないですよね。さすがに恐れ多いかわかんないですけど。
1000票くらい入ってたみたいですね。すごいですね。やっぱり恐れ多いので、その名はね、ゲーム業界はそんな簡単にはいろいろ使わないですけど、そういうことを使う人も出始めたんですね。
ちょっとこっちの話に戻しますけども、ここで、僕がなんでこの話をしたのかというと、
僕はね、クリスチャンなので、リスナーの皆さんは割とキリスト教やクリスチャンをすごくリスペクトしてくださっていて、
すごく、私が紹介した教会は、自分でもなんですけど、素晴らしい教会なので、その素晴らしいことをよく見聞きされた。
結果、すごい良い目を知っておられるなというのはすごい感謝なんですけど、でも、
自分自身は広くキリスト教の世界に身を置いている中で、やっぱり今言ってきたイエスという名に関して、すごく少し敏感なところもあるんですね。
簡単に牧師先生がイエス様の名によってしか救われないっていうのを、簡単に強調しすぎてるというか、
前回の内的事故外的事故で言うと、内的事故、霊から来てそれを語ってるのか、それとも外的事故の、
そう教えられて、それが正当であり絶対的な教えだから、知識としてそれを語ってるのかっていうのがポイントなんですけど、
やはり知識として外的事故で語ってるんじゃないのかなっていうような場面にちょくちょく出くわしてきたんですね。
それに僕の霊は反発してたんですよね。何か嫌だなって感覚ですね。きっとこれを言われるクリスチャンじゃない方々も、
何か嫌だなって感じるんじゃないかなって僕は思ってきたんですよ。どうですかね、クリスチャン歴長い方や色んな教会に行かれてた方は、
そういう感覚、どうですかね、お持ちの方ももしかしたらいるかもしれないんですけども。
一つは、外的事故、要はキリスト教という宗教においてイエスという名を何か独占して、我々のもんだみたいな、
我々はわかってるという、そういう感覚でイエスの名によってしか救われないっていうのはちょっとずるいんちゃうの?っていう感覚なんですね。
わかりますかね。僕はイエスの名によって救われないと思ってます。思ってますし、
イエス様自身が語った私が道であり真理であり命なのですというのは本当にそうだと本当に思ってるんですよ。
思ってるからこそ、ちょっとずるいなそれはって思っちゃうんですよね。
チェスさんありがとうございます。なぜあれのイエスの名、イエス様を個人的に知っているのか?ですよね。
それそれわかるー。ありがとうございます。チェスさんはいつもわかってくださって感謝です。
そうですね。結論というか、本当にそれなんですけども、
能力の四大観にもつながるんですけど、本当の無能力の無自覚に自覚し、私は救われるべき存在だ。
そして、イエス様によって本当に救われたっていう経験をした時に、イエスという名前によって救われたのではなくて、
もちろんイエスという名前を通してイエスに触れたのかもしれないですけども、霊的な実在としてのイエスキリストを出会った、経験した。
それがやっぱりすごい大事じゃないのかなと思っていて。
で、その視点でいくと、キリスト教のもしかしたら大多数、大多数なのかちょっとわからないです。
これはわからないのでわからないですけど、キリスト教は少なくとも人々にイエスキリスト…難しいな。
キリスト教でイエスと出会う人もいっぱいいますし、もちろんそうなんですけど、ただキリスト教がイエスの名を持ってるわけじゃないという感じですかね。
で、なんでこの話をしたかというと、前回の日本的なものっていう話に行った時に、
僕がね、やはりキリスト教の中でどうだろうって思うものの中に、
キリスト教の枠組みの中でしか神の国、神様と出会えないかのようなやっぱり錯覚というか思い込みが少しあるように感じていて。
で、特にそれが強くなるのが、そのイエスの名という、
霊的実在に触れていない知識としてその教えを信じている人たちが、
そうではない、キリスト教ではない場所、もしくはキリスト教という
古代日本人の神との関わり
ところからは入ってこない人々の神様との出会いや関係っていうのを、
イエスを知らないがゆえに汲み取ることができていない場面がもしかしたらあるんじゃないのかなってすごく感じてきたんですね。
で、さっきいくつか紹介したところで、
もしかしたら、キリスト教の中にも、もしくはキリスト教を否定はしたくないんですけど、でも、
本当のイエスという実在、イエス様の霊と私の霊が交わっていないのであれば、それは異なるイエス、偽のイエスを、
偽の福音を聞いてしまっている可能性ももしかしてあるんですよね。
そうだし、あとイエスを語っているからといって、イエス御自身も私を語る多くのハン・キリスト、偽のイエスが出るよって言ってますから、それもちゃんと見分けていかなきゃいけないですよね。
じゃあ、それをしていくときに、そもそも自分たちが、自分たちというか、
やはりちゃんと自分が霊においてイエス様と交わっていないと、いくら正しそうな人が正しそうに教えていたとしても、
それが何の霊によって語られているのかというのがわからないというのが、やっぱり正直なところだと思うんですよね。
だからそれはいくら正当派だろうが、誰が語ってようが、欺かれる可能性があると思うんですよね。
で、そう考えていくときに、じゃあ、古代の日本人たちが、前美しい国の日本という話をしましたけども、この国を美しく導いてきた、やはり霊のお方がいたと思うんですけど、
日本人というのは、この至高の神、最も高いところにおられる神様には名前をつけなかったという文化的な考え方があるみたいで、恐れ多いので名前をつけないというのがあったみたいなんですね。
古神道の方も語ってましたし、多分そうだと思うんですけど、これって聖書の神様の、私はありてある、ヤーウェイのやつもそうですけど、すごく似てると思いますし、
ユダヤ人が神様の名前を忘れちゃったのも恐れ多いから、みだりに唱えないというのが原因だと思うんですけど、日本と共通していると思うんですね。
古代日本人が神様に名前をつけなかったというのはユダヤとすごく似ている。
ただし、古代日本人というのは、みだりにイエスが正しいんだ、じゃなくて、名前をつけないで、至高なる、根源なる、父なる神様、宇宙の創造主のなるお方との霊的な交わりを優先してたんじゃないのかなって僕は思っていて、
それが多分、そっちの方がより大事な要素じゃないのかなってすごく思っているんですね。
結びっていう言葉ね、何かを、チェスさん、キリスト教、宗教は時にちょっと頭でかっちりで排泄的になりがち、そうかもしれないですね。
古代日本人の方がより感覚的、霊的、そして直感的だったかもしれないですよね。
僕もどちらかというと、それを今回復していっている段階なので、僕も頭でかっちりにならないように気をつけたいなと思っているんですけども、
古代日本人が、結びの神ですよね。何かを結ぶという、生じさせるという言葉があるみたいですけれども、
そういう神様として捉えていたのも、僕は父なる神様だった可能性もあるなと思いますし、
日本人は神とか名前をつけるんじゃなくて、命とかね、誠とかね、道という言葉で呼び分けていたと思うんですよね。
面白いことに、命も誠も道も、イエス様ご自身が私が道であり、日本人って全て道をつけますよね。
剣道とかね、柔道とかね、私が道であり、真理、誠であり、そして命、命であるってイエス様が言いましたけれども、
日本人がやはり、霊につけたそういう命や誠や道っていう名前がありますよね。
それも僕はすごい重なっているなと思っていて。
イエスの本質
すごく大事なことは、もちろんイエス様なんですけど、イエスの名によってしか救われないんだよっていう言葉は絶対正しいんですけども、僕もそれ思うんですね。
イエス様っていうのは、目に見えない神の本質であり、神がこの地上において神様の性質を完全に表したお方であったと思うんですよね。
でもその本質やイエスの完全性を、いわゆるキリスト教徒だけが理解しているはずもなく、現代のクリスチャンだけが知っているわけもなく、
そして我々の世代が一番捉えているはずでもないという視点がすごい大事で、神様が、もちろん我々にある特別な計画もあるのかもしれないですけども、
私たちの祖先の方々、先祖の方々、多くの日本人、そして世界中の人々に、この名もない神として、やはりご自身を掲示されていて、そしてその人たちとの対話を重ねてきた歴史っていうのが絶対あったと思うんですよね。
なので、このイエスという名前の意味するその本質としては、イエス様、ご自身の霊としての実在だと思うんですけども、
それをこう、何て言うんですかね、排他的な心学や考え方としてではなくてですね、私たちも、私たちだけがそれを知っている、私たちだけが経験している、私たちだけが捉えている、
そしてその何よってしか救われないんだっていうのを表面的に言ったり抑えつけるんじゃなくて、これはすごく相手の人生やいろいろなものを汲み取りながら、そしてこの国のいろいろなものを汲み取りながら、私たちも捉えれていない、私たちも掴み取れていないかもしれない。
ただやはりこの神様はナザレのイエスに神様のご性質を表されたっていうのは本当にそうだと思うので、それを捉えていきたい。
そして日本文化や日本の中にもそれを見出していきたいという感じですかね。
まあそんなことを考えていますね。なんとなく伝わりますかね。伝わりますかね。
だからイエスという名前じゃないと何か、僕だけかもしれないですね。キリスト教世界ですごくそのキリスト教を教えられてきた僕だから、ちょっと排他的にイエスじゃないものを排除しようとする変な何かが働いているのかもしれないですけど、
僕自身がやはりそれを脱却しなきゃいけない、そのキリスト教の中にある壁の一つがそれなのかなと思っていて、キリスト教によって僕が作られてしまった、もしかしたら神様が作ってはいない壁なのかなって今ちょっと思ってるんですね。
イエスという言葉は何を意味するのか。それは例の実態としてイエスキリストなんだけども、その言葉の力に僕ちょっと惑わされるというか、何か捉えられている面もあったのかなみたいに思ってますね。
はい、ということで今日はちょっとイエスという名前とそれが意味するものや、その名前を超えてイエスという名前が意味していた実在というものがどのように捉えられてきたのかみたいなところを少し普段考えていることをお話しさせてもらいました。
キリスト教の視点と日本文化
チェスさん、伝わりますよ。私もそこに子供の頃から考えさせられてきました。ということで、いつも励ましていただきありがとうございます。
フレグランスマナさん、イエス様に救われたからこその至高の自由、恵みに感謝です。
はい、ありがとうございます。ということで今日はこれで終わりたいと思います。ちょっとまあ難しい、ちょっと今日はまとまりにくいテーマでしたけども、皆さんも何か一緒に考えてくださって、違和感や考えてきたこと何かあればまたレターやコメントくだされば感謝です。
はい、それでは今日はこれで終わりたいと思います。ありがとうございました。失礼します。はい、ありがとうございました。ありがとうございました。ますます自由になりたいな。はい、ありがとうございます。