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2023-05-10 16:35

第331回 久保努氏(株式会社ラキール代表取締役社長)【前編】

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今回は、株式会社ラキール の久保努長にお越し頂きました。

責任感の強さから、親会社からの独立を2回ご経験。経営不振から売却された会社を成長させ、上場させたエピソードから、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
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■WizBiz社長塾
https://www.youtube.com/channel/UC16VkcI4PaUISDD4UL7pFvQ




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社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社ラキール代表取締役社長 久保勤様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。
1964年まで、1988年、株式会社AST入社。
その後、株式会社EC1で開発部門の責任者に御所任。
2005年には、レジェンドアプリケーションズを設立。
その後、株式会社ワークスアプリケーションズの参加に入り、取り付け枠にも御所任なさっていらっしゃいます。
そして、2017年にマネージメントバイルアウトを独立をなさり、
2019年に社名を株式会社ラキールに変更し、
そして、2021年7月には、東証マザーズ、現在のグロース市場に上場を果たしている上場企業の社長様でいらっしゃいます。
久保社長様、よろしくお願いします。
どうぞよろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、御出身はどちらでいらっしゃいますか?
私の出身は広島県の呉市になります。
じゃあ、呉例名の有名な呉でございますね。
そうですね。僕、呉市の中でも島なんですね。
呉橋島、枝島と呉橋島と2つありまして、
枝島の方は海軍兵学校があったりとか、
呉橋の方は何もないんですけど、ちっちゃな島ですね。そこの出身です。
なるほど。小中も呉でいらっしゃるんですか?
小学校、中学校、高校までが呉市の学校です。
なるほど。小学校時代の呉の少年時代はどんなことをしていましたか?
島という特性もあって、夏はほとんど海ばっかりですけど、
ただ、小学校3年ぐらいからずっと野球ですね。野球ばっかりしていた子供だったと思います。
ポジションはどちらでいらっしゃったんですか?
いろいろあるんですけど、サードと、ごめんなさい、最初に守ったのはセンターなんですよ。
センター、セカンド、サードという流れですね。
そうすると、花形のポジションなんでお上手だったということですね。
いやいや、普通の感じかなと思います。レギュラーはレギュラーですね。
中学時代はどんなことをしていましたか?
中学校は野球部がなくて、校長先生がバレーボールを大好きで、野球部を作らせなかったんですね。
仕方なく僕はバレーボール部に入ってバレーボールをやっていました。
6人制バレーボールですけど。
なるほど。でも運動神経がよろしいから、何でもできるという感じですか?
いや、どうなんですかね。バレーボール部の時も一応レギュラーでした。
けど、エースではなかったですね。
なるほど。でも、アタッカー?
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そうですね、アタッカーですね。
ありがとうございます。
高校もクレートのことですが、高校時代はどんなことをしていましたか?
高校生の頃、勉強も少し、新学校だったんですけど、
勉強を途中でしなくなって、サッカーばかりしていましたね。
サッカー部に入ったんですよ、高校生の時は。
で、サッカーばかりしていましたね。
スポーツ、いろんなものに携わっていくって、運動神経が良くないと、色んなの変えていけないようなイメージなんですけど。
いやいや、器用貧乏という言葉があるでしょ。だから、
好きだけど上手とは限りないですよね。
サッカーも、だけど、未経験者だったんですけど、
やっぱり学校は勉強の学校なので、スポーツはそんなに強くないんですよ。
だから、サッカーもレギュラーにはなりましたけど、そんなに強いチームではないので。
でも、ポジションはどっちだった?
当時、サッカー部に入ったんですけど、
でも、ポジションはどっちだった?
当時はウィングっていうポジションなんですけどね、僕らの時代は。今はないですけど。
でも、お上手側ですね、ウィング。
攻める側ですね、フォワードですよね。
それはお上手側だと思いますね。
大学はどちらに進学されたんですか?
大学は福岡、広島から福岡に行ったんですけど、福岡工業大学。
なるほど。福岡工業大学を選んだ理由というのはその当時ございましたか?
選んだんじゃなくて、僕、高校卒業して1年間、大学受験してないんですよ。
いろんな事情があって。
大学に行くつもりはなかったんですけど、たまたまその大学の二次募集が広島であって。
で、いとこが1校下にいて、受けるから、僕の願書も取ってきて一緒に出そうよって出したんですよ。
同じ久保生なんですけどね。
で、受けたら、僕が通って原液が滑ったんですよ。
僕、勉強してないんですよ、1年間全く。
だから、名前間違えたんじゃないかなって思って。
いや、そんなことはないと思う。
いや、そんなことはないと思うんですけど、それでどこに行きたかったわけじゃなくて、受けたところが通ったのでそこに行ったって感じですね。
なるほど。で、お住まいは福岡に連れて行ったんですか?
そうです。だから、18、19の時か、福岡に。福岡の東区っていうところなんですけどね、その辺に住みましたね。
なるほど。だから、福岡でどんなことして過ごしたんやと思いでございませんしね。
何してたか、バイトばっかりしてましたね、アルバイト。だから、いろいろしましたよ、バイトは。
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ガソリンスタンドもしてましたし、あとビアガーデンの厨房の焼き鳥係とか、あとこのダクトがあるんですけど、その中に入ってずっと清掃するんですよ。
これは結構、日透が良くてですね。だから、夜中2時間くらい、もうちょっとかな、もうちょっとしたかな、それで1万円前後もらってた記憶がありますね。
だから、バイト一生懸命いろいろやったのは理由はないんだ?
車ごうしちゃって、車を買おうと思って、で、まとめて車買いましたけど。
どんな車色買われたんですか?
突っ込みますね。当時、マーク2ってちょっと学生が乗るには高級な車があったんですよ。それを中古で買いました。
なるほど。ちょっとカッコいい感じですね。
そうですね。100年、今でも覚えてますよ。140万くらいだったと思う。
かわいいですね。
当時はね、人気車種だったんですよ。
今の若い方たちは、さらっと買うのかもしれませんけど。
そうですね。だけど、それで、当時付き合ってた子とデート行ったりね、仕事を持って買ったんですけどね。
いろんな車にかかるお金って、バカにならないので、結局ずっと延々バイトしてた。
車を維持するためにずっとバイトしてましたね。
なるほど。ありがとうございます。
大学卒業後、ASDさんにご入社でいらっしゃるんでしょうか?
はい。
こちらは何の会社さんでいらっしゃるんですか?
ITの会社でして、当時、日本IBMと三菱商事と、あとコスモエイティっていう会社の3つの合弁会社でして。
この会社ができた目的っていうのは、当時外資の企業が国内でネットワークのビジネスできなかったんですね。
NMSって一昔前は出してましたけど、万事業を外資ができなかったので、合弁を三菱商事と作ったのがその会社ですね。
最初はネットワークを中心に事業を展開しようとしたというふうに聞いてますけど、
私が入ったのはできて4年後ぐらいだったんですけど、その時はソフトウェアの会社になってましたね。システム開発の会社。
エンジニアで入社でいらっしゃるんですか?
そうです。僕、見えないでしょ。僕は技術者なんですよ。出身は。
だからそこで結局10年、システムエンジニアをやってまして。
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このASTさんでの思い出なんてございますでしょうか?
思い出ですか。当時ですね、三菱商事の人事システムをダウンサイジングするというので、初めてオフシャー開発の提案をさせてもらったんですね。
当時まだオフシャー開発という言葉があまり使われていない時代ですけど、インドに行って、そこでメインフレームからクライアントサーバー型の仕組みにシステムをダウンサイジングするんですけど、
そこをインドに行ってやった記憶がありまして、だからインドに1年半近くいたんですよ。
住んでました?
住んだというか、行ったり来たりですけど、ずっとじゃないのでホテルだったんですけど。
休みの日に近くにホテルの前にショッピングセンターみたいなのがあって、入ろうとしたらプッシュって書いてあるのをプルしたんですよ。
ガラスが腕にパーンと落ちて、ここ14針現地で縫いました。
今これラジオなんで、どこを示していらっしゃるかというと、腕のところ、今右腕を、久保社長の右腕を今久保社長が示していらっしゃいまして、そこにガラスが落ちたということです。
それ大変な事件でいらっしゃるんですか?
大出血で、すぐ医者に連れて行かれて、ここ14針ぐらい縫いましたね。
これが一番の思い出。
1ヶ月か1ヶ月半ぐらい入院とかそんな感じですか?
いえいえ、そのままホテル帰って、普通にホテルで寝ましたよ。
それ大丈夫だったんですか?
どうなんですかね、忘れましたね。どうだったんだろう。大丈夫じゃなかったと思うんですけど、だけど我慢したんですよね。
インドだからって話かもしれないですよね。
どうかな、病院も現地の人たちの病院と外国人が使う病院があって、僕は外国人が病院に連れて行かれたので、そんなにガチャガチャなことはされてないと思うんですけど。
なるほど、ありがとうございます。
その後株式会社EC1に大釣りになったという感じでよろしいでしょうか?
はい、これは当時ATの時に三菱商事のOBが会社を辞めて、インターネットが当時普及してきて、インターネットがどうなるかわからない時代で、合わせてJavaっていう言語が出てきて、
これからインターネットとJavaだということで、僕も自分の会社にそういう方向に行きたいみたいな話をしたんですけど、やっぱりIBMなので、親会社。
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なかなか三マイクロシステムズの方に寄っていかないわけですよ。
だからもうそこで一気にパンと辞めて、新しいEC1という会社を作るというので、その創業メンバーとしてジョインした。
そういうのがいきさつですね。だから新しいことをしたかった。
EC1での思い出なんてございますでしょうか?
EC1は自分たちがやっぱり作って、いわば法律も自分たちで作りながら会社を成長させていくんですけど、
僕はそこでナンバー3だったんですよ。
開発の責任者として。
やっぱりその4年と3ヶ月くらいで、当時はJASDAに上場したんですね。
インターネットとJavaという言語が当時業務アプリケーションで使われる時代ではなかったので、
それを日本で初めてやったとか、そういった意味では仕事をするモチベーションというのはかなり高いんですよね。
僕以外みんな社員が。だからすごい勢いで会社は成長しましたよね。
で、自分たちが作りたい製品とかも出したりして、そういう意味ではすごくやりがいがあったかなと思います。
じゃあ上場ももうEC1さんでご経験なさって。
そうですね。一回そこで経験はしてますね。
なるほど。だから上場に向けての当時のナンバー3としての苦労なんてございましたか。
僕はインドの経験もあったこともあって、上場ちょっと前に中国に行ってこれから中国のマーケットどう入り込んでいくかというのが議論になっていまして、
で、中国に前に行って会社作ってもらうという話になったんですけど、
当時の中国って今みたいに簡単に会社とか作れるわけでもなくて、下準備含めて半年、1年くらいかけて中国に子会社を作りまして、
ですから僕上場する前1年間くらいは日本にいなかったんですよ。
で、上場する日だけちょっと戻ってきていいよって言われて、東昌行って、東昌じゃないジャスだっけか。
行って式典に出させてもらって、でまたすぐ中国に戻るみたいな。
だから中国はそれもあって、北京、上海、大連3拠点事務所っていうか、北京本店で大連と上海を分工所にして立ち上げましたね。
2年で120、30名くらいの会社にはしましたけど、はい。
すごいご経験でいらっしゃいましたね、そうしますと。
すごいっていうか当時はね、俺なんでこんなことしてんだろうって思って帰りたかったですよ。
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中国はだけど天国でしたよ、インドと比べれば。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に行くインウィズではここまで。また来週。
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