今回は、株式会社ハートアップの天童淑巳氏にお越し頂きました。
大学卒業後、様々な会社を経験し、2015年に株式会社ハートアップを創業。創業後も他社の経営に関わる中で、同社を東京プロマーケットに上場させると決め、上場企業になられたエピソードから経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。
なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。
■経営者インタビューメディア「経営ノート」
■WizBiz経営塾
https://www.youtube.com/@wizbiz8087
■WizBiz社長塾
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!
サマリー
株式会社ハートアップ代表取締役の天童淑巳氏が、自身の経歴と経営哲学について語る前編。秋田県湯沢市出身で、幼少期から優秀だった天童氏は、東京への憧れから大学進学を決意。卒業後は様々な企業を経験し、特にベンチャーリンク時代には、事業撤退や牛角の開発に携わり、損益計算書に基づいたビジネス提案の重要性を学ぶ。その後、ハウスドゥでの経験を経て、自身の会社を設立するに至る。
天童淑巳氏の生い立ちと学生時代
社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社ハートアップ代表取締役、天童淑巳様です。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。
秋田県湯沢市生まれ、卓職大学計画部卒業後、日本IST株式会社にご入社。
その後、株式会社ベンチャーにご入社なさっていらっしゃいまして、私とその当時は同僚に語る方でいらっしゃいます。
その後、株式会社ハウスドゥ、今の上場企業のハウスドゥの取締役に就任。
その後、株式会社ハートアップを創業、同社の代表取締役にご就任なさっていらっしゃいます。
それ以降、株式会社ロペアイオンソリューションズ取締役、株式会社フェビエリナ代表取締役、株式会社ハートアップジャパン取締役を歴任し、
2020年、日東商産業上場企業である株式会社フォーシーズホールディングスの代表取締役社長にご就任なさっていらっしゃいます。
その後、ハートアップの代表取締役として東京プロマーケットの上場をなさっていらっしゃいます、
天道社長様でいらっしゃいます。私は元同僚でございます。天道社長、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身は秋田県の湯沢市、雪深いところということで、小学校時代はどんなお子様でいらっしゃいましたでしょうか?
小学校時代は天才でしたね。
天才?どんな天才でした?
神道と言われているぐらいの、すごい田舎のちっちゃい町の神道って多分いると思うんですよ、たくさん。そんな感じで。
じゃあ、頭もよくて運動神経もよくて。
運動神経は4歳から太ったんで、それまでは結構あったんですけども、でも野球もずっとレギュラーでしたし、それなりの感じでしたね。
じゃあ、ご成績もよくてみたいな。
成績はよかったですね。見た目よければモテたんですけどね、たぶん。そんな感じでした。
ありがとうございます。中学時代はどんなことして過ごしたなと思いでございますでしょうか?
小学校、中学校と生徒会長をしていましたから、勉強の方は普通にそこそこ、田舎ですけどね、やっていました。
やらなくてもそんなに難しいことはなかったんですけども、中学校時代は野球のイメージが強いですね。ずっと野球を3年間やってた感じですかね。
なるほど。ポジションはどちらをやられていたんですか?
小学校は3rd、中学校が2ndですね。
なるほど。打順も上の方で?
打順は1番でした、両方とも。
じゃあ、やっぱり足が速いんですね。
ちょっとぽっちゃり系でも走る人いると思うんで、あんな感じでしたね。
じゃあ、西武の岡有君みたいな感じですかね。
いや、今の野球が全然わかんないですよ。
そうですか、大変すみません。
高校は秋田の方の高校でいらっしゃいましたか?
そうですね。家から3分くらいのちょうど裏に高校があったので、そちらの方に進学しましたね。
なるほど。高校時代はどんなことをして過ごしたかという思いでございますでしょうか。
そうですね。高校はもうサッカー部、ちょうどJリーグが開幕ですかね。
初めてJリーグができた年の翌年で、ミーハーだったのでサッカー部に入って3年間サッカー部をしましたね。
2年の終わりくらいからキャプテンをさせてもらって、全県大会まで行ったんですけども、
全県大会2回戦で負けましたね。
なるほど。じゃあやっぱりサッカー部も上手ということは、運動神経もよろしかったんですね。
だいたい水泳以外のボールを使った球技はそこそこやれた感じかなと。
ボールを使わないですけども、スキーもスノボーもそこそこ授業でもスキーはありましたし、やれたかなという感じですね。
なるほど。それだけ運動神経はよろしいと思っていたんじゃないですか。
いやだから見た目は。
いや見た目は、でも思っていたと思いますけど。
そんなことはないですよね。
本当ですか。ありがとうございます。
その後大学は卓色大学に勧められていますが、これは何か理由とかございましたでしょうか。
高校の3年くらいに、どうしても東京に行きたいと。理由はいろいろあるんですけども、田舎だということと、
本当に新谷さんはご存知だと思うんですけど、我々子供の頃ってめちゃめちゃ雪降ってましたよね。
今何頭なのかわからないですけども、1年のうち4ヶ月くらい雪の中にいて、しんどいなと。
どうしても東京に行きたい。行く手段は何でもいいなと。
ということで18の時に思った時に、大学に入ろうということで。
大学だったらやっぱり東京に行きたいなと思って、その状態の偏差値を見たらかなり厳しかったんで。
中学校までは賢かったんですけど、小学校までは勉強しなくてもできたんで、
高校でも勉強しなかったら勉強し方もわからないという感じで、数学なんか2回くらい0点取りましたからね、高校で。
なのでそこから理系だったんですけど、文系のほうの勉強をして、
師大の文系だったら3教科で受けられるということで。
もちろん夏休み近くからスタートして、やっぱり合格できたのは今で言うフランレベルですかね、
その辺のところしか合格できなかったんで、特に行きたいという形ではないんですけど、東京の大学にというのが目的です。
なるほど、ありがとうございます。大学時代の思い出は何かございますでしょうか。
バイトをめちゃめちゃ頑張ったぐらいですかね。
まあまあ刹那的にというか、その時その時で生きていたような感じはしますので、交渉の夢を持っていたということはなかったですね。
ほとんど思い出がないですからね。
なるほど、バイトはどんなバイトなさったんですか。
一番長かったのは背前のバイトですね。その当時は結婚式の婚礼のボーイザーみたいな形のところがやっぱり、
当時で1200円くらい給与が出ていましたんで、それが長かったのと、
あとは歌舞伎町で夜、松屋の深夜のバイトが1450円くらいだったので、夜の8時から朝の8時までバイトをしていたような感じですね。
ほぼバイトをやっていた気はしますね。
社会人としてのキャリアの始まり
なるほど、バイトで学んだところとかそういうのがあるんですか。
バイトで学んだところですね、アルバイトでやっていたんですけども、
一つそのときは社員の人は本当に大変だなと、特に松屋の方ですけども深夜のバイトだったので、
もう何ですかね、そのときの歌舞伎町は本当に松屋のバイトをしているときに、
中国人のその当時のマフィア的な人が入ってきて、青龍灯を振り回しながら走って出てくるみたいな、
映画にありそうなところを目の前でやられたりするとですね、やっぱりアルバイトたちが辞めたり、
社員はその当時でも、就職表記と言われていた当時でもやっぱり働く人に困っていたような感じでしたね。
いい思い出ですけども、あとは深夜誰もいなくなるとバイトでジャンケンをして休みを6時間くらい取ったりとか、
いうようなことを見ていると、その上の人たちは本当に大変だなと思っていましたね。
なるほど、逆に飲食店は絶対行かないと思ったみたいな感じでいらっしゃいますか。
飲食店は好きなので、事業としても過去にやったことがあるんですけども、
最近は行くところだなと、経営するところとしてはやっぱり大変だなというのを実感して、
その時も思ったんですけど、今もまた実感していますね。
なるほど、ありがとうございます。
その後、日本IST株式会社さんに、これは新卒でご入社でよろしかったですか。
新卒ですね。
こちらはどういう会社さんでらっしゃいますでしょうか。
富士通のランド保守とか、昔はサーバー自体がクラウドとかじゃなかったので、
線で繋いでネットワークを、社内のことをしていたりというところのことをしていたりとか、
いうことをやっていましたね。
日本ISTに入るのは4月、その当時の4月なんですけども、
実は内定をもらっていたのが、いくつか試発校があった中で、
入社を決めたのが光通信だったんですね、その当時の光通信です。
2月の研修が10から14日間あったんですけど、
これは無理だなと思いまして、
14日目、研修終わった時にそこの人事の人に言って、辞めて、
3月の頭か2月の20日ぐらいからまた就職活動をして、
ちょうど拾っていただいたような感じになります。
私、堀江門さんと年が一緒なんですけど、
ちょうどインターネットワークが始まるか始まらないか、
1990何年かだったと思うんですけども、
その前段階だったので、一腕が欲しかったらしく拾ってもらった感じですかね。
なるほど。日本ISTでの思い出なんてございますか?
全くないですね。
3年は言おうと思いました。
そもそもインターネットとかコンピューターのブームが始まるか始まらないかって時だったんですけども、
大学時代ですらパソコンとか触ったことなかったし、
ギリギリワープロってなってた状態だったんで、
入ってから他の人たちはみんなそういうのを勉強して来られてた段階で入った。
ただ先ほど言ったような感じで、1ヶ月で採用してもらったんで、
3年何かしら稼いだら会社にとって不利益にはならないだろうなと、
そういう気持ちがあったので最低3年言おうと思いました。
3年経った時期に退職したと。
ただその会社自体は今で言うSIRみたいな感じで採用して、
他に転職じゃないな、出向なんですね。
出向したのが日本オフィスシステムって会社さんに出向して、
そこからまたリクルートさんに出向の出向みたいな感じで行って、
そこにいらっしゃった方々は非常に面白かったので、
今あんまり付き合いないですけども、面白い3年間を過ごさせてもらった感じですね。
後々に繋がるんですけども、大体9時、5時、もしくは6時くらいに終わってましたから、
それからスロットを6時半くらいから閉店まで、
平日はほぼ会食がない日、飲み会がない日は毎日スロットをしてましたね。
それでどうですかね、辞めるまで多分500万くらい貯めれたんじゃないですかね、スロットだけで。
それくらいスロット買ってたってことですかね。
買ってました。
じゃあ半分プロですね。
いやいやいや、スロットのデータロボ的なものがその当時出てたんですよ。
意外とスロットをやっているおじいちゃんおばあちゃんたちは、
リーチに入ったものを辞めたりというのはその当時まだあったんですよね、若干。
田舎の方の市川というところのスロットだったんですけども、
そういう意味では大体データ割りを見てこれでそうだなというところで、
その当時4号機、ちょっと知っている人しか知らないでしょうけども、
4号機でもレンチャー型の方であれば時間が11時終わりでも稼げたときにあったんで、
平均的に月30弱くらい稼いでたんじゃないですかね。
出たから500万くらいになったと思うんですね。
相当貯金がたまられたんじゃないですかね。
そうですね、お金に苦労したときはそのとき、
貯金というか18万切ってるくらいだったんですけども、
全然苦労とかせずふらふらとやってました。
ふらふらと、ありがとうございます。
ベンチャーリンクでの経験と転機
その後、私と一緒の株式会社ベンチャーリンクに中途入社になったんですが、
ベンチャーリンクを選ばれた理由は何かございましたか。
これがですね、もともと光通信で同僚というかその子も研修で辞めたんですけども、
だった方がいらっしゃって、
うちの会社は面白いよと受けてみたらということで受けさせてもらいましたね。
その当時はガリーバーがちょっと調子が悪い、これから立ち上げるみたいな感じのところだったんですかね。
いや違うな、トルフィネットの方に移管したみたいな感じだったんですかね。
ちょうど3年、そのISD単で新谷さんがベンチャーリンクに3年いた後ですかね。
ガリーバーが1997年上場だと思いますね。
石川さんが言ってて。
1998年ご入社なさっているという経歴にお書きになっていらっしゃいますので、
上場でトルフィネットとかを出したり、GOを出したりとかそんな感じですね、ガリーバーが。
ベンチャーリンク自体が転倒登録した翌年か何かですかね。
転倒登録が1995年なんですよ。
その後1998年ご入社なんで、転倒市場には上がっていて、FCの方がだんだん大きくなってきている、途中段階というか。
BLD事業部というところに入った時ですかね。
たぶんその1998年ぐらいが牛角の支援が始まるぐらいだと。
始まるぐらいでしたね、始まるぐらいで。
2年間暗黒部署にいたんで、1年半ですかね、始まってましたけど。
はい、そんな感じです。
ありがとうございます。ベンチャーリンク時代の思い出は何かございますでしょうか。
一番あると思いますけどね、先ほど言ったようにBLDビジネスなんとか合わせました。
事業部というところに、その時の部長が田中泰樹さん、今でもお付き合いさせていただいてますけども、
2代目ベンチャーリンクの社長ですかね、事業部で同行部長というものを1年半ぐらい販売してまして、
これは大変な事業だったんで、残りの半年、1年間はやりましたけど、その後半年はどう見せじまい、ただむか。
事業の撤退というのは一番難しいと思うんですけど、その撤退戦略的なところを25、6ぐらいですかね、
やって経験させてもらったりとか、あとはその後運良く牛角の開発に移ったので、
その例からは結構順調に楽しくさせてもらいましたね。
ちょうど牛角に移って1年ぐらい経った時に、小林、その当時会長になってたんですかね、もう既に。
そのレビューが始まって、事業提案に関してはBS、損益計算書の対策対象業から提案をしていき、
その会社のためにしっかりとしたビジネスを提案するべきだみたいな形の、あれは結構衝撃的で、
一応小学部だったのでボキとか学んでたんですけど、
ボキってこういう使い方をしてってお客さんのところに数字、データとかでちゃんと話をして、
どうやって住居を作るんだという批准、そこが学ばせていただいて、そこがやっぱり私の転機だったかなと思いますね。
それまでは普通に、新谷さんと同行2回ぐらいさせてもらったと思うんですけども、
それまでは事業は儲かりますよみたいな、牛角の最初の頃からですね。
何千万投資すると営業利益これぐらいになるんだよ、投資会社がこんだけ、RIでこんだけですよみたいなところから、
BSからの提案になって、そこから営業がちゃんとできるようになって、そこが結構エポックなところですね。
お聞きしていると、私も一緒の感じで、ぺいぺいで営業もやってたんで、大変思い出深いという感じがしますけども、
ハウスドゥでの経験と独立への道
その後、ベンチャーリンク辞められて、株式会社ハウスの豊島県に募集になさっているんですが、これはどういった経緯で募集になさったんでしょうか。
もともとベンチャーリンク8年いたんですね。終わりの4年、終わりの3年ぐらいは大阪で、大阪の支店長、その当時矢口さんという人もいたんですけども、
ダブルで支店長をさせてもらってまして、私の方がリッチと、今いる既存のお客様の担当するトップだったんですけども、
全然儲からないと、どうなってんだというようなクレームがありまして、もともとセミナーでベンチャーリンクの人間が、
うまくいかなかったら買い取りますよみたいなことを言ってたと、買い取れというような人がいて、それが原ハウスルーの、その当時オリエントハウジングという会社ですね。
安藤さん、今上場企業のトップなので、あまりあれですけども、何か言ったらまずいのかな、わからないですけども、
言った時に結構ちゃんと、新谷さんもご存知だと思うんですけど、あまり僕は感情の起伏が激しくないんですね。
無茶苦茶言われても、ちゃんと対応することと、お客様にそういうことを言ってたんであればそうなのかもしれないんですけども、
うちの従業員、そのときのベンチャーリンクの社員は言うはずがないと思ってましたし、実際言ってたのかもしれないですけどね。
そういうようなスタンスで臨んでたので、そしたら3時間くらい話したとき、すごい気に入っていただいて、全くビビらないというか、
それでその後、そのときオリエントアージングさん、プリフォームだったかな、こういうようなビジネスを考えていると、
不動産会社で、そのときで事業所、2店舗か4店舗やってたと思うんですけども、日本には不動産の売買仲介の専門の会社がないと、
ピタットハウスにしろ、
売買と賃貸の仲介をやっている会社があると、ただアメリカみたいに売買専門という会社がないと、
日本に絶対これは必要だと思うから、売買仲介専門のフランチャイズを立ち上げて展開したいと、
ベンチャーリンクというのは基本的にフランチャイズの蘇生と展開に関して、非常にノウハウがその当時たけていましたから、
どっちこないかということを言われて、ただその8年、7年目か何かだったんで、
ベンチャーリンクは一部上場して100億利益を、決値か不決値で利益を出して、
翌年30億、その年翌年60億、100億が勝ちみたいな感じの下降戦で、
私が支店長をやっていたので、それはちょっとできないということで、
1年くらいオファーを受けていたんですけど、断りしていて、
1年半年くらい前に上司の方に言ってこういう状態ですということと、
たまたまその大きい関西エリアの利益がちょっと出たので、これでということで増やさせていただいて移ったという形ですね。
取締役で移ったのではなくて、もともとオリエントアージングという会社のフランチャイズ事業部部長みたいな感じで、
私と事務の方1人の部署ですね。そこからスタートしましたね。
なるほど。ありがとうございます。株主社ハウスさん、今お話もありましたので、その後上場なさっていくんですが、
ハウスズーでの思い出は何でございますでしょうか。
そうですね、まず今直層何百億かあると思うんですけども、全国に店舗も600、700くらいあると思うんですけども、
私は4年いたんですね。4年ちょっとかな、4年くらいいて、200だったか250くらいのときに退職したんですけども、
まずあれですね、好き勝手させてもらったなということが一番大きいですね。
そのときの思い出としては、安藤社長自体がフランチャイズに関しては非常に興味があるということと、
売買仲介自体が絶対日本で専門でできていくという思いがあったので、その思いというのはやっぱり強くて、
思いの強さによって部下たちが動いていくというのを目の当たり、当然メンチャリングもそうだったんですけども、
もっと近い距離で目の当たりさせてもらったということと、あとはやっぱり人ですかね、人が、
言うても京都の小さい、その当時は中小企業だったんですけども、年間に1億くらい採用費かけるような会社で、
採用が全てだと。人って20歳超えた、25歳超えてからガラッと変わることはないから、
とにかく採用、良い人、良い人というのはマインド的にですね、スキルというのはどうでもいいので、
マインド的に良い人を取るという採用の思いがしっかりされていたことによって、
非常にやりやすい職場で一気にいけたというのが、不動産会社なんで、やんちゃなところはあったんですけども、
その辺は思い出というか、残っていますね、気持ち。
なるほど、ありがとうございます。
番組紹介と今後の展望
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容は全てテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で、経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長肉インウィズではここまで。また来週。
23:25
コメント
スクロール