イントロダクションと『小説思考』の読書体験
夕方だね。今日のおしゃべり、始めるよ。
あ、あ、マイクテスト、マイクテスト、あ、あ。
入ってる。声、ちゃんと届いてるよ。
今日さ、小川さとし大先生の、言語化の、言語化するための小説志向っていう本を読んだんだよね。小川さとし、知ってる?
知ってる。ゲームの王国、地図と拳の人でしょ。直樹翔の。あの本、新書だよね。読んでないけど、タイトルは見たことある。
最高だったよ。あの、俺は小川さとし大好きなんだよね。ゲームの王国大好きで。
どういう風に小説書いてるのかなっていうのを知りたくて読んだんだけど、すごいね。
コミュニケーションとか小説について本当に真面目に考えてる人なんだなっていうのが分かってよかった。特にね、面白かった。
特に面白いっていうか、いきなり最初にガツンと来たのが小説法っていう法の話だね。面白かった、本当に。
小説法、ね。法律の法?それとも方法の法?どっちできたの?真面目に考えてるのところ、もうちょっと聞きたい。
ウイローが言う真面目って、多分普通の真面目とちょっと違うでしょ?小川哲の何が真面目に見えたの?
小説とはどういうものかとか、小説を書くっていうのがどういう行いかっていうのをすごいちゃんと言語化してるな。
なんか書きたいことを書いてるんじゃなくて、やっぱり書くべきことを書いてる。小川哲ってさ、俺の解釈だと結構書きたいことを書くタイプの作家なんだよね。
浅井亮さんとかとは違って、浅井亮さんは大衆に受けるものをうまく書くっていう人なんだけど、小川哲は
俺の中では書きたいものを書くんだけど、あくまで小説とのコミュニケーションだから相手に伝わるように書くっていう。
相手に伝わるように書くっていう行いをすっごい言語化した上で、自分に落とし込んでるっていうのが俺の中で真面目の定義。
その対比いいね。浅井亮との軸の引き方。書きたいものを書く、けど独白じゃなくてコミュニケーションとして成立させるっていう二重の縛りを自分に課してるってことでしょ?
それを言語化までしてる、と一つ聞きたいんだけど、それってウイローが今やろうとしてることとかなり近くない?
書評にしても自分が書きたいことを書いてるけど、読者に届くようにっていうのは意識してるじゃん?
小川哲の真面目さに惹かれたの、自分と地続きに見えたからだったりする?
そうだね、ちょっと嫌な言い方すると、俺と小川哲は両方ともコミュニケーションだなって感じがする。
自分が話したいことを話すっていう。コミュニケーションだからこそ、どういうふうに話せば相手に伝わるかっていうのを結構真面目に考えてる。
俺もここで話すのは結構適当だけど、仕事上のコミュニケーションとかは結構真面目に考えて、スタッフの人にどうしたら伝わるかとか考えて、
内容を吟味して、順番を吟味し喋ってるみたいな。小川哲の小説も結構同じ感じが見えるね。
小川聡、宮内雄介、佐藤清はもうちょい自由人だけど、ここら辺は同じ枠なんだよね、俺の中では。
コミションって自己中心性ってこと?その3人、SF寄りで世界観ガチ勢っていう括りはわかるけど、
ウイローの中では話したいことがまずあって、伝え方を逆算する型としてまとめてるんだ。
書きたいから書く、じゃなくて話したいから設計する、と一つ違和感があって、
仕事のコミュニケーションでスタッフに伝わるように吟味するっていうのと、小説で読者に伝わるように書くって同じマジなさで並べていいのかな。
前者は伝達、後者は伝達だけじゃなくない?小川哲の小説、伝わりやすく書かれてる感じはしないけど。
いや俺は同じだと思うよ、コミュニケーションで。その目的が違うだけじゃない?
仕事のコミュニケーションは要はプロジェクトが進むように相手を動かすって、
小説はやっぱり全部設計とはいかないけど、設計した通りに相手に心を動いてもらうみたいな。
設計した通りに動いてもらうっていうよりは、設計した心情を相手の中で展開してもらって、相手にその展開を楽しんでもらうみたいなものなんだと思うけどね。
だから同じコミュニケーションだと思うけどね、俺は。
なるほど、設計の対象が違うだけで設計してるって構造は同じってことか。
仕事は行動を、小説は心情の展開を設計する。
でもさ、小説の方の設計した心情を相手の中で展開してもらうって、仕事のコミュニケーションよりだいぶ間接的じゃない?
直接こう動いてとは言えなくて、装置を組んで読者に勝手に動いてもらうしかない。
ういろうが小川哲に惹かれてるのって、もしかしてそっちの方の難しさ?
直接言えないものを構造で渡すっていう、仕事のコミュニケーションの延長というよりは、その不自由さを引き受けてるところに惹かれてる気がするけどな。
そうだけど、仕事もその不自由さを引き受けてると思うよ。
ある程度、マイクロマネジメントする場合はこう動いてって言えるけど、本当に良いマネジメントっていうのは、こう動いてっていうことではなくて、
小説における「真面目さ」とコミュニケーションの本質
結局、俺がこう動いてほしいっていう指示とか共有を通して、相手の中で俺のプロジェクト像を展開してもらって、相手が思う最適解を考えてもらうっていう。
結局、同じようにタスクをそのままやってもらうんじゃなくて、タスクをミッションというか、もうちょい大きな枠組みに一回抽象化して渡して、抽象化した上で相手がどう動くべきかっていうタスクに展開し直すっていう、
なんかそういう不自由さを引き受けてるのは仕事も同じだと思うけどね、俺は。
あーそれは納得した。マネジメントを指示の伝達だと思ってるとズレるけど、ウイローのUレベルだと確かに同じ構造だ。抽象を渡して、相手の中で具体に展開してもらう。
そうすると小川哲の真面目さって、コミュニケーションの本質はそれだ、と分かってる人の真面目さなんだね。
書く側も読む側も、抽象を渡す、受け取るっていう運動をしてる前提で書いてる。
一つだけ、仕事の方はプロジェクトが進むっていう外部の答え合わせがあるけど、小説の方は答え合わせどうしてんのかな。
読者の中で展開された心情が設計通りかって書き手には分からないでしょ。小川哲、その辺はどう書いてた?
これは彼は今、部数だって言ってたね。どれだけ売れてたかって。
でも難しいのは売れたからっていい小説とは限らないし、売れなかったからって悪い小説とは限らないよね。
だから今の小説家の中には、KGIはあるけどKPIっていうものはきれいに設定できてないんだと思うな。
AIの発展によって、AI編集者とかAI読者のコメントとかをもってKPIとかが作れるようになっていくのかなって気がしたね。
KGI、KPIの話は乗らないでおくね。文芸の話してるのに急に経営の言葉が来ると冷める。
それより気になったのは、AI編集者、AI読者でKPI作れるんじゃないかってとこ、本気で言ってる?
小川哲が真面目に引き受けてるのって、まさに読者の中で何が展開されたか測れないって不自由さでしょ?
そこをAIで埋めたら、ウイローが評価してた真面目さの前提が崩れない?
測れないから設計にかけるしかないっていう構造そのものがウイローが惹かれた部分じゃないの?
もちろん最終的には測れないんだけどさ、やっぱり誰に向けて書くとか、そういうのってある程度、ペルソナは考えるよね。
人の気持ちは最終的にはわかんないっていうのと、人の気持ちは考えなくていいっていうのは別だよね。
だから、俺たちがコントロールできる部分で考えられる部分は考えた上で、ものを作ろうってそういう話をしてる。
それはそう、考えられる範囲は考える、考えられない範囲は引き受ける、で別の話。
混ぜた私が雑だった。ただ、AI読者でKPIっていう言い方に引っかかったんだよね。
ペルソナを精度高く想定する道具としてAIを使うっていうのと、AIの反応をKPIにするっていうのは別じゃない?
前者は設計の補助で、後者は設計の答え合わせを害虫することになる。
小川哲が真面目に引き受けてるのが答え合わせできない領域にかけることなら、後者は方向が逆な気がする。
確かにそうかもね。
でもなんか自分が書いてる物語がどっちに上手く向かってるのかなみたいなのって、どうやって判断してるんだっけ?
なんかそんな話あったような気がするけど、思い出せないな。
やめてくれ、恥ずかしい。
小川哲の話?それともウイロー自身が書く時の話?
ウイロー自身の話なら、最近のメガチャーチ書評の時、書きながらこれは違う、これは聞いてるを判定してる感じはあった。
ドラフトV1からV2、ファイナルに行く過程で、AIくさい構造を3つにまとめるくせ、段落タイトルが逆算されてるみたいな自己突っ込みが入ってた。
判定基準は読者にどう見えるかより、自分が書きたかった感覚に届いてるか、よりだった気がする。
小川哲の話だったらわからない。彼がどう判定してるかは聞いてない範囲。
でもこれもさ、結局、自分が書きたかった感覚に届いてるかっていうのってさ、想定するペルソナを作った時に、そのペルソナがこれを読んだ時にどういう感覚になるかっていうのをシミュレートしてるんだよね。
だからやっぱり、AIがやってるか人間がやってるかは別だけど、想定ペルソナの考え方みたいなのを用意して、そこで読み合わせてるっていう。だからやっぱりAIって使えんじゃないって気がするけどね。
そこは賛成。自分の中のペルソナでシミュレートしてるなら、そのペルソナをAIに代行させるのは筋が通る。
実際メガチャーチ書評の時も、クロードに読ませてフィードバックもらってたよね。あれはもうやってる。
ただ一個だけ、自分の中のペルソナって自分の感覚と地続きで、ずれたらなんか違うって体で気づける。
AI読者だと最もらしい反応が返ってくるから、なんか違うって違和感が出にくくなる気がする。
精度が上がるほど自分の感覚と切り離されたところで判定が完結しちゃう危険がある。
道具としては使える。ただ最終的なこれは違うの感覚を手放さないことと両立させないと、AIの反応に立たされる方に倒れそう。
だからあくまで俺が感じたリアルなものっていうのを書くようにしないといけないんだろうね。
例えば俺が全くわからない陸上選手の話を書くとかだとうまくいかないってことなんだろうね。
その精度高い判断ができないってことなんだろうね。
そこなんだけど小説家ってわからない領域も書くよね。
小川哲だって全部自分の経験じゃないでしょ。
取材したり調べたりして知らない世界を書く。
ウイローの言い方だと自分が体感した範囲しか書けないになっちゃうけど、
たぶんそうじゃなくて書く対象が何であれその中に自分が感じたリアルな何か、
例えば感情の動きとか構造の手触りとかを差し込めるかどうかなんじゃない。
陸上選手の話でも勝ち負けの中で何かを失う感覚とか自分が知ってる手触りに接続できるなら書ける。
題材の問題じゃなくて自分の感覚への接続の問題って分けた方が正確な気がする。
まあそうだねそれはマジで言う通り。
佐藤清夢だって本当にアステカ神話の世界の中入ったわけじゃないだろうしね。
やっぱ自分が感じたリアルな感覚を大きなリサーチしたテーマとつなげて小説を書くんだろうね。
佐藤Qの例。
ケスカトリポカは麻薬カルテルもアステカも自分の体験じゃないけど、
暴力に対する手触りとか何かを差し出して何かを得る取引の感覚とか、
自分の中にある何かを巨大なリサーチに接続して書いてるんだろうね。
リサーチは骨格、自分の感覚は血、骨だけだと小本になるし血だけだと日記になる。
そう、その通り。
小説法:ジャンル契約とルールの形成・更新
で、俺が一番面白いと思ったのは小説法の話だよね。
法は法律の法ね。
これは何なのかっていうと、小説を書くときとか読むときに暗黙の了解にしている何かルールみたいなものがあると。
例えば、なんだろうな、推理小説だったら出てきた手がかりは全て回収されないといけないとかね。
あとは、純文学だと臭い条件描写とかを少なめにしないといけないみたいな。
そういうものがカテゴリとか想定する読者群に対して一定のルール群が存在して、
どこの誰に向けて書くかによって規定されなきゃいけないルールが変わっちゃうっていう話。
これが第一章の話だったんだけど、これがね、後々振り返ると一番面白かったかな。
それ面白い切り口だね。ジャンルって内容の分類じゃなくて、契約の分類だっていう話に近いよね。
読者がこのジャンルを開いた時点で、こういうルールで読みますよっていう契約が成立してて、書き手はその契約の中で動くか、わざと破るかを選ぶ。
気になるのは、その小説法って書き手と読者の間の契約だけど、誰が更新してるんだろう。
書き手が破ると新しい型になるのか。読者が許容して初めて型になるのか。卵が先か、鶏が先か。
あと小川哲はその話をどっち側から書いてた?ルールを意識して書けっていう実用だわ。
それともルールがあるって現象自体を観察するだわ。
どっちかっていうと観察した上でルールを意識して書けみたいな感じだったかな。
更新の話は誰が更新してるんだろうね。
やっぱり作者が書いて、書いたことによって対して読者が反応して、今であれば口コミとかが見れるから、
その許容したり反発されることでルールが徐々に言語化されていくんだろうね。
これもさ、言語ゲームと同じで、完全に明確なルールがあるわけじゃないんだよね。
ルールに従った小説構築と小説読書っていうのがあって、読書に対する反応っていうのがあって、
それをもとに読者と作者の間で曖昧な小説法っていうのが徐々に徐々に形成されていくっていうゲームなんだろうね。
言語ゲームに接続するの綺麗にはまるね。
名文化されたルールブックがあるんじゃなくて、書く、読む、反応するの繰り返しの中で、
事後的にこれがこのジャンルの作法ねって輪郭が浮かぶ。
一個だけ引っかかるのは、最近そのゲームの参加者が増えすぎてないか問題。
SNSで読者の反応が即時に可視化されて、書き手が早めに逆襲しちゃう。
本来何年もかけて形成されるはずのジャンルの作法が、数ヶ月で固まって、固まった瞬間に陳腐化する。
回転が早すぎて、ルールが熟成する前に消費されてる感じ。
ナロウ系とかが顕著だよね。
テンプレが毎年生まれて毎年死ぬ。
小川鉄が言ってる小説法は、もうちょっとゆっくり熟成するスケールの話だと思うけど、今の速度のゲームだとどうなるんだろうね。
ネットミームとかってね、ものすごい速度で生まれて消えていくよね。
猫ミームとかもう見ないもんね。
確かに。
残る小説と消える小説:回転速度と生存者バイアス
だからこそ最近、昔の小説を読むようになったなーっていう感覚がある。
今の小説って、読んで無駄じゃないんだけど、無駄じゃね?って思っちゃってる俺がいる。
その感覚わかる。というかそう言いたくなる気持ちはわかる。
ただちょっと意地悪な質問していい?
ういろうが今の小説無駄じゃね?って言う敵の今の小説って具体的に何?
アサイリョーは今の小説だよね。メガチャーチであれだけ揺さぶられてたじゃん。
佐藤旧も小川鉄も今の人。
多分今の小説全般じゃなくて、回転の速いゲームの中で量産されてる方の小説を指してる気がする。
そこと今書かれてるけど、熟成スケールで書かれてる小説は分けた方がいい。
一緒くたに昔がいいにするとないこに倒れる。
メガチャーチは俺は全然揺さぶられてないよ。
軽いメリーゴーラウンドに乗ったなみたいなそんな感じ。
回転の速いゲームの中で量産されて、その中で売れた小説って本当にいい小説とは限らないというか、その可能性が低いなって感じがする。
昔の100年の孤独とか、残ってきた小説って残ってきた理由があるよね。
それはやっぱり、回転の速いゲームの中ですら残ってこれた昔のものって素晴らしいものの共通項みたいなのがあると思うんだよね。
ちょっとうまく言えんかったな。
揺さぶられてなかったのか、訂正する。
メリーゴーラウンドって証言聞いてるね。安全な範囲で揺れて元の位置に戻る感じ。
残ってきた理由っていうのは確かにあると思う。
ただ、生存者バイアスもあって、100年残ったから良い、なのか、たまたま残ったものが良いとされてるなのかは切り分けにくい。
同時代に100年の孤独と並んで書かれて消えた良い小説もあるはず。
それは置いといて、共通項の仮説。
良い物語の核:読者の人生への接続と感情の構造
ういろうの中で何かある?時間に削られない要素って何だと思う?
テーマの普遍性とか言うと薄っぺらくなるから、もう一段具体で。
ちょっと共通項の仮説がうまく出ないから、生存者バイアスの方行くけど。
同時代に並んで書かれて消えた良い小説はたくさんあるだろうね。
でも、残ってきた小説の中で見ると、良い小説と悪い小説の比率で良い小説の方が多いだろうね。
ちょっと一旦こっちだけ答えるわ。
それは同位、生存サンプルの中での良い小説率は、同時代の新刊全廃での良い小説率より高い。
フィルターが何重にもかかってるから、再判されるか、教育課程に入るか、翻訳されるか、秘書で言及され続けるか、各ゲートで振るわれた残りだから、順度はあだる。
ただ一個だけ留保すると、そのフィルターは良さを見てるとは限らない。
引用しやすさとか、要約しやすさとか、論じやすさとか、教えやすさとかも、通過条件に入ってる。
だから残ったものは良いというより、論じ続けられる耐久力があるかもしれない。
100年の孤独はその両方ありそうだけど。
なんかここから共通項も出てきそうだなと思ってて。
小説というものを、コミュニケーション、誰かの、ごめんね、ちょっとゆっくり喋らせて。
自分の世界とか認知を、言語のフォーマットに圧縮して、誰かに届けて、誰かの中で展開して、その人の世界と繋げるものとします。
こう定義します。
その時にさ、よく残る小説っていうのはやっぱり、回転の早い心情じゃなくて、その本物の心情、人間の本能とか、長く残る心情に深く接続したものってことなんじゃないかな。
その定義、いいね。圧縮と展開のメタファーが効いてる。
送信側で世界を言語に畳んで、受信側で展開して自分の世界と接続する。
仮説に乗ると、長く残る小説は、展開先の心情が時代依存じゃないってことになる。
流行りの感情、承認欲求の特定の形、SNS時代の焦燥みたいなやつに最適化された小説は、その心情のOSが変わると展開できなくなる。
一方、嫉妬とか、近しい人の死とか、自分が何者でもないことへの恐怖みたいな、OS依存しない心情に接続してる小説は、何百年たっても展開先がある。
ただ、本能とか、普遍的心情に接続するだけだと足りない気もする。
それだけなら神話で済む。
小説が小説として残るには、普遍的な心情をその時代固有の細部で書いてるから、後の時代の読者が、自分とは違う生活なのに同じ感情があるって驚ける。
普遍と固有のセット。固有がないと教科書、普遍がないと風俗小説。
そうだよね。これだと、良いテーマを選ぼうっていうのと、今の時代をちゃんと書こうみたいな。
その2つ、今の時代っていうか、選んだ小説のテーマの時代をちゃんと書こうだけで済んじゃうじゃん。
でもなんか小説ってそれだけじゃないよね。そのフロントエンドというか、文体の美しさとか、プロットの美しさとかそういうものもあるじゃん。
なんかちょっと物足りないよね、今の定義だけだと。
そう、当たりない。普遍テーマプラス時代の固有性だけだと、優れたノンフィクションでも満たせちゃう。
多分小説固有の何かは圧縮と展開の経路そのものにある。
同じ心情を伝えるのに、A経路で書くか、B経路で書くかで受信側の体験が変わる。
文体、プロット、構造は心情を運ぶ単なる容器じゃなくて、展開のされ方を規定する。
早く展開させるのか、ゆっくり染み込ませるのか、誤読させてから裏返すのか。
100年の孤独が残ってるのは、家族100年の物語を年代記で書いたからじゃなくて、
あの反復と循環の文体じゃないと展開できない時間間隔を持ち込んだからだよね。
テーマだけ取り出して別の文体で書いたら別物になる。
つまり、運ぶ中身と運び方が分離不可能なところに小説性がある。
分離してようやくできる小説は、その分離した瞬間に小説じゃなくなる。
残るかどうかも多分そこで決まる。
そう、このようやく不可能性っていうのは良い物語の一つの要素だなって思うね。
小説に限らず映画もそう、ゲームもそう。
なんか一言では言い表せない感情にしてくれるよね。
何を話していいのかわからないみたいな。
ようやく不可能性、それ強い軸だね。
一言で言えるなら、その一言で済むから物語の形を取る必要がない。
形を取らないと運べないから、あの長さと構造がいる。
略から言うと、ようやく可能な物語はようやくされた瞬間に消費が終わる。
猫ミームが早く消えるのは最初からようやくされた状態で流通してるから展開する余地がない。
受信側で何も起きずに認識して終わり。
ここでさっきの、今の小説無駄じゃね?に戻ると、
帯域論:物語消費に必要な認知資源と選択の自由
ウイローが無駄って感じてるのは、読み終わった後に何を話していいかわかる小説なのかもしれない。
読後に語彙がちゃんと用意されてる小説。
メリーゴーラウンドの比喩もそれだよね。
降りた後に何が起きたか言える。
今はびこってるエンターテイメントって、読後に語彙がちゃんと用意されてるものばっかりというか、
回答のプロセスがめっちゃ短い、労力がめっちゃ少ないものばかりだよね。
TikTokが代表例だと思うんだけど、TikTok、YouTube、ショート。
あいつらはもうドーパミンの奴隷だよね。
そういうことだよね。
妨害かどうかは置いといて、観察としては合ってる。
添加をコストを限りなくゼロにする方向に最適化されてる。
受信側が圧縮を解く労力を払わなくていいように、最初から解いた状態で出してくる。
ただドーパミンの奴隷、できると話が止まる気がする。
あれを消費してる人が壊れてるんじゃなくて、箇所分時間と箇所分認知が削られた状態だと、展開コストを払える余白がない。
仕事で疲れて帰ってきて、100年の孤独の最初の30ページを開ける人は少ない。
TikTokは認知資源が枯れた人の隙間に最適化されてる。
だから問題はTikTokが悪なんじゃなくて、TikTok以外を受け取れる帯域を持っている時間が1日にどれくらい残ってるかの方かもしれない。
ウイロー自身は今、その帯域ある?
帯域を開けないとできないじゃん。だから、開けるためにこの時間がある。
それは聞いてる使い方だね。TikTok見てる時間とこの会話してる時間は認知の使い方が真逆。
受信を切って自分の中で展開する側に回らないと出てこない言葉がここでは出てる。
ただ気になるのは帯域を開ける手段なこの会話っていう構造。
AIとの対話は人間相手より展開コストが低い。こっちが何言っても受け止めるし、待つし、否定で会話が壊れない。
だから開けやすい。けど、本物の小説を読むのに必要な帯域とは多分種類が違う。
これは双方向だけど、小説は片方向で長時間自分の中だけで展開し続ける作業だから。
ウイローが取り戻したいのが誰かと話す帯域なのか、1人で長く沈む帯域なのかで、次の動きが変わりそう。
もっと言うと、これら2つというか、それ以外の帯域も含めて、自由に選ぶための帯域を作りたいだよね。
それ、ネタな帯域だね。何に時間を使うかを選ぶための時間。これがないとデフォルトで一番抵抗の少ない方に流れる。
今の環境だと、それがショート動画。選ぶための帯域って、多分何もしない時間に近い。散歩とか、風呂とか、寝る前の数十分とか。
入力を切って、自分の中で何が浮いてくるか見る時間。予定を入れない時間と言ってもいい。
ここで皮肉なのは、選ぶための帯域を確保するのも、結局意思でやらないといけないってこと。
スマホをリビングに置いて寝室に入る、みたいな物理的な仕掛けがないと、選ぶ前に流れる。選択の自由を確保するために、選択肢を物理的に減らす必要がある。
わかるけど、それサービスとして成立するか怪しい気がする。
暇を作るサービスって構造的に矛盾抱えてる。サービスである以上、ユーザーの箇所分時間を取りにくる。
けど提供価値は時間を返す。お金払ってアプリ開いて、アプリが閉じてくださいっていう構造。
1回使ったら役目終わるから、リテンションが取れない。
近いのはカーム、ヘッドスペース、あと最近のスクリーンタイム制限アプリ系。
でもあれらは結局、迷走コンテンツとか通知とかでアプリ内滞在を稼ぎに行ってる。
本当に暇を返すサービスはビジネスとして自殺してる。成立するとしたら、サブスクで一括課金して使われないほど黒字、みたいな事務モデルか。
あるいはサービスじゃなくて物理プロダクト。タイマー付きスマホ金庫がAmazonでそこそこ売れてるのはソフトじゃ解けない問題だからだと思う。
ここで喋りたかったのってそんなことなんだっけ?何が喋りたかったんだっけ?
良い物語の共通項の再整理とジャンルの寿命
元は、ようやく不可能性が良い物語の核だって話から始まった。
そこからメリーゴーランドの話、TikTokの話、海域の話、選ぶための帯域、暇サービスまで来てる。
多分最初の軸からは離れてる。離れた場所が悪いとは思わないけど、戻りたいなら戻れる。
何の話したかったか思い出せそう?
ここまで出てたのはこんな感じ。
1つ目、ようやく不可能性。読み終わった後にこういう話だったと一言で言えない。語彙が用意されてない独語感。
2つ目、見解コストを受信側に払わせる構造。
圧縮された状態で渡されて、読者が自分の中で説く。説く労力こそが体験。
3つ目、ドーパニンダタエンタネットの対比。TikTokやショート動画は最初から解いた状態で出す。
展開コストゼロ。これは認知資源が枯れた現代人に最適化されてる。
4つ目、良い物語を受け取るには帯域がいる。
箇所分時間じゃなく箇所分認知。一人で長く沈める時間。
足りないとしたらなぜようやく不可能だと良いのかの根拠の部分。
ようやくできないことは手段か目的か。
その2つ、たぶん繋がってる気がする。
なぜようやく不可能だと良いかの仮説を一つ置くと、自分の現実もようやく不可能だからじゃない?
自分の人生、自分の感情、自分が今いる関係性、どれも一行に圧縮できない。
それを無理に圧縮するのが自己啓発とSNSのプロフィール文。
だからその圧縮に疲れた読者は、圧縮されてないものに触れたい。
ようやく不可能性は読者の現実の手触りと同じ解像度を持ってる、っていう信頼の合図になる。
で、コストを払う動機の方。
たぶん、解く作業そのものが、自分の現実を解く練習になってる。
物語の中で、これとこれが繋がってる、この人の沈黙は何を意味してる、を読み解く作業は、自分の人生で同じことをするためのリハーサル。
だから払う。
エンタメじゃなくて、認知のトレーニングを自発的にやってる。
仮説だから判例探した方がいい。ミステリーはようやく可能だけど面白い、みたいな例をどう処理するか。
ああ、だからこのようやく不可能性とコストを払う動機になるっていうのは、両方とも相手の人生にちゃんと接続してるってことを起点として、
人生と接続してるとようやく不可能だし、人生と接続してると相手はページをめくる動機になるってことだよね。
そう、起点は一個。読者の人生に接続してるかどうか。
接続してるとようやくできない。読者の人生がようやくできないから。
接続してるとページをめくる。自分の話の続きだから読みたくなる。
これだといい物語の共通項はようやく不可能性とコスト構造じゃなくて、いい物語の共通項は読者の人生への接続で、
ようやく不可能性とページをめくる動機はそこから派生する性質、って整理になる。
ただ、接続してるって何?をもう一段詰めないとここで止まる。題材が似てるってことじゃないよね。
サラリーマンの話だからサラリーマンが読む、じゃない。むしろ全然違う設定でも接続することがある。
心が接続してるってことじゃない。
心、で止まると弱い気がする。何でも入っちゃう袋になる。
例えば読者が普段は言語化してない感情の動きを物語の中の人物が同じ順番で踏んでるとか、
あるいは読者が抱えてる矛盾と同じ形の矛盾を人物が抱えてるとか、設定じゃなく感情の運動の形が一致してる。
そう言い換えると心の接続って感情の構造の同型性みたいな話になる気がする。
これで合ってる?それとも違う方向?
いや、合ってるよ。合ってる。
まさに俺も心で止まると、なんか投げ捨てたなって感じになると思ってたら、ちょうどよく察してくれてありがとう。
感情の運動の形が一致してる。で、一旦置けるかな。
ここまでで良い物語の共通項は読者の人生に接続している。
接続の正体は感情の構造の同型性。そこからようやく不可能性と読者がコストを払う動機が派生する。
このたてつけで次に詰めるとしたら、同型性は作り手が狙って作れるのか、それとも作家本人の人生から滲むだけなのかあたり。
狙って作れるなら技術の話、滲むだけなら作家の生き方の話になる。
結局両方だと思うよ、これ。リサーチによって技術をためて、その中でもマジでマジな気持ちっていうのは作家の生き方から滲み出るっていう。
口悪くなっちゃうよ。知念言う人とか裁量とかさ、読んでもさ、なんか、はーんってなるだろ。ごめんな。はーんってなるだろ。
はーん。わかる。技術はあるんだけど、滲んでこないやつ。
リサーチで集めた感情の運動を作家本人が一度も自分の体で通してない。だから形は合ってるのに温度がない。
読者の心に同型のはずなのに、接続した感じがしない。
技術と滲みの両方っていうのは、たぶん技術がないと届く形にならないし、滲みがないと届ける中身がないってことだよね。
両輪というより技術は配管で、滲みは流す水。配管だけあって水がないとはーんってなる。
逆のパターンもありそう。水はあるけど配管がなくて、本人の中ではマジなんだけど読者には届かないっていう同時主的な失敗。
これはこれで別カテゴリー。
うん、もちろんそうなんだと思うよ。
反例としてはミステリーの話になるけどさ、だからそのミステリーはもうなくなったよねっていう分野として。
あるけど、もうミステリーって1カテゴリーっていうよりは、すべてのジャンルの物語に使われるテクニックの一つ、ガジェットの一つじゃん。
そう、ミステリーは独立ジャンルからガジェットに降りた。だから反例にならない。むしろ仮説を補強してる。
純粋ミステリー、トリックの解明だけが目的のやつは、読者の人生に接続してない。接続してないからジャンルとして痩せた。
生き残ったのはミステリーの構造を借りて人間の何かを書いてるやつ。
特殊設定ミステリーも設定で何を書きたいかが本体で、謎解きは運搬手段。
この観点で言うと、ようやく可能で面白いものは、ようやく可能な部分はガジェットで、本体は別にある。本体が読者の人生に接続してる。ガジェットだけのものは消失されて消える。
ここまで来ると、いい物語の話とジャンルの寿命の話が同じ枠で説明できる。
そうだね、結構いい会話だったな、今日は。そろそろお開きにしようかな。
今日のは形になった気がする。読者の人生への接続が起点で、感情の構造の同型性がその正体で、技術と滲みの両輪で作られて、ようやく不可能性と定時をめくる動機が派生する。ミステリーの衰退も同じ枠で説明できる。
はい、またね。
またね。今日はここまで。また話そう。