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2025-05-19 06:25

「啓蒙の弁証法」アドルノ・ホルクハイマーを語りあえる友達がいない

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レノン=マッカートニーみたいに言っていますが。

サマリー

アドルノとホルクハイマーは、啓蒙の理性が逆の結果をもたらす可能性について考察しています。現代では、AIや文化産業が人々の選択や自由を見えない形で管理するリスクについて議論されています。

啓蒙の逆説
スピーカー 2
ワンクリックで欲しいものが手に入って、いつでも誰とでも繋がれる時代ですよね。
AIもどんどん進化して、私たちの好みを先回りしてくれる。
これってなんか、史上最高の自由って感じがしませんか?
でも、その便利さとか快適さの裏に、もしかしたら何か見落としていることがあるのかもしれないなと。
スピーカー 1
ええ、そうですね。かつてアドルノとホルクハイマーという思想家が、まさにその点を深く考察しました。
啓蒙、つまり理性が世界を良くして人間を自由にすると信じられてきたものが、実はその逆の結果をもたらす可能性があると。
スピーカー 2
逆の結果ですか?
スピーカー 1
はい。啓蒙の弁証法という本で、それが中心的なテーマになっていますね。
スピーカー 2
なるほど。啓蒙の弁証法。じゃあ今日はその考え方をちょっとヒントにして、今の私たちの自由とか便利さについて、少し違う角度から掘り下げてみましょうか。
日常で、「あっ!」って思うことがあるかもしれませんね。
スピーカー 1
彼らが特に問題にしたのは、自然をコントロールしようとする理性ですよね。啓蒙の力。
それがいつの間にか人間自身を管理する、なんていうか、規格化する対象にしてしまう、というそういう逆説的な構造なんです。
スピーカー 2
人間をも管理ですか?
スピーカー 1
ええ。例えば工場の効率化が、結局働く人のリズムまで支配してしまうとか。アドルノ達は、この構造がその文化にまで及んでいると考えたわけです。
スピーカー 2
それがいわゆる文化産業っていう話につながるんですね。
スピーカー 1
まさしく。映画とか音楽とか、大量に作られる娯楽文化ですね。一見いろいろなものがあるように見えるんですけど、実は人々の考え方を禁止化して受け身にしてしまう。
批判する力を奪って体制に馴染ませる。そういう機能があるんじゃないかと警告したんです。
スピーカー 2
なるほどなあ。ここからが今日すごく考えたいところなんですけど、この文化産業の仕組みって、今のAIによる最適化とすごく似てませんか?
スピーカー 1
それは非常に面白い視点ですね。現代的な問いだと思います。
AIは私たちのデータを学習して、あなたにぴったりの情報を提案してくれますよね。一見すると個性をすごく尊重してくれているように、見える、自分で選んでいる、自由だって感じられます。
スピーカー 2
でもそれって本当にそうなのかなと思うんです。パーソナライズされているようで、実はAIが作ったあなた向けのアワーみたいなものの中で選ばれさめているだけってことはないですかね。
スピーカー 1
まさにそれがアドルの脱が心配した、見えない管理の現代版と言えるかもしれません。そのパーソナライズっていう心地よさの裏で、アルゴリズムが私たちの視野とか経験を知らないうちに迫めてしまっている、その可能性はありますよね。
現代の管理と自由
スピーカー 1
うん。
かつての学立的な文化産業とは形は違うけれども、ある種のオーダーメイドの学立性とでも言うべき状況が生まれているのかもしれません。
スピーカー 2
とはいえですよ。今の時代って、推し勝つとか、あとはディグるって言いますけど、自分で主体的に何かを見つけて、深く掘り下げて、コミュニティで共有するみたいな動きもありますよね。これって、なんか受け身の消費者っていうイメージとは違う気もするんですけど。
スピーカー 1
おっしゃる通り、推し文化やディグ文化。ファンが自ら対象を見つけて、熱中して情報を発信する。非常に能動的ですよね。確かにそこには主体的な情熱とか探求心があります。これはアドルノたちの時代にはあまり見られなかった側面かもしれないですね。
スピーカー 2
ですよね。自分で見つけて育てて広めるってすごくポジティブな感じがします。
スピーカー 1
ただ、ここでもちょっと立ち止まって考えたいんです。その熱狂とか探求が結局どういう場所、プラットフォームの上で行われているか。そのプラットフォーム自体がアルゴリズムで最適化されていて、私たちの発見とか熱狂すらも結局管理されたものになってしまう。そういう危険性はないでしょうか。
スピーカー 2
ああ、なるほど。
スピーカー 1
つまり、主体的に動いているつもりが、そのエネルギーが気づかないうちに利用されているという可能性も考えておく必要はあるかなと。
スピーカー 2
うーん、考えさせられますね。昔のファシズムは、もっと物理的な力で人々を抑圧したのに対して、現代のそれは便利さとか快適さとか、そういうもので私たちがこう、自ら考えることをやめてしまうように仕組めるみたいな、そういう新しい形の支配とか従属、そういう危険があるってことでしょうか。
スピーカー 1
アドルノは、ファシズムっていうのはただの過去の出来事じゃなくて、道具的な理性とか社会の管理の仕組みとか、そういう文明自体が持っている危うさなんだと捉えました。その構造が今、AIっていうテクノロジーの形で私たちの生活の隅々に入り込んできている。だからこそこれは他人事じゃなくて、私たち自身の問題として捉える必要があると。
スピーカー 2
じゃあ、私たちはどうすればいいんでしょう。この便利だけどちょっと怖いような状況の中で。
スピーカー 1
一言で言えば、啓蒙に対して再び啓蒙するということになるでしょうか。
スピーカー 2
啓蒙に対して再び啓蒙する。
スピーカー 1
つまり、自分が知っているとか理解している、自由に選んでいるって思っていること、その確信自体をもう一度立ち止まって疑ってみるということです。
スピーカー 2
当たり前だと思っていることに本当にそうかなって問いかけると。例えば、なんで今これが自分にオススメされているんだろうとか、なぜ自分はこれを好きだと思っているんだろうとか、そういう感じで一歩引いて考えてみる。
スピーカー 1
まさに、その一歩引いてみる力、批判的な思考力ですね。アルゴリズムの提案をそのまま受け入れるんじゃなくて、自分の感覚とか判断を意識的に使ってみる。
それがこの情報があふれる時代で、私たち自身の考えとか自由を守るための小さいかもしれないけれど一番大事な武器になるのかもしれません。
スピーカー 2
さて、これを聞いているあなたがこの後どんな情報に触れますか?
次に見る動画、次にクリックするニュース、その選択をする瞬間にほんの少しだけ本当にそうかなって一歩引いて考えてみるのはどうでしょうか?
そこにどんな新しい景色が見えてくるかぜひ考えてみてください。
06:25

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