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こんにちは、わかまろです。採用を行う会社の営業マネージャーで、現在は産休中、3歳、0歳娘の育児をしております。
記憶喪失になりそうなくらい慌ただしい毎日の中で、日々の起きつきを忘れないため、
そして同じく忙しい日々を送る投資の皆さんと、このタタバタを楽しみたい、そんな目的でこのチャンネルをお送りしております。
皆さん、いかがお過ごしいいでしょうか。
今日は、ある虐待に関する本を読んでいて、
この心理、私も結構やっちゃうなと思ってドキッとしたことと、その理由について考えてみたので、お話をしたいなと思います。
その虐待の本が何かというと、ちょっと後でリンクを貼っておくのですが、
ネグレクト、マナちゃんはなぜ死んだか、という本になります。杉山春さんという方が書かれています。
ここからのお話はちょっと精神的にきつい部分もありますので、ちょっと今心が元気じゃない、
そういう話は聞きたくないという方はストップしていただければなと思います。
この本はですね、愛知県で実際にあった事件を取材して書かれたドキュメンタリーなんですね。
ノンフィクションになります。
それがどんな事件だったかというと、
簡単に言うとですね、若い夫婦がいました。
その夫婦が、マナちゃん、マナちゃんって仮名なんですけど、マナちゃんという女の子を授かって、最初は頑張って育児していたんだけれども、
マナちゃんがまだ乳児の頃にですね、おそらく父親側が暴力というか虐待をして、
それがおそらく原因としてマナちゃんに障害が残って、脳に障害が残ってしまうんですね。
そのマナちゃんがだんだん可愛くなくなってしまって、精神的な負担も大きくなって、
最終的には段ボールの中に入れて育てて、
1日ちょっとだけのミルクとパンだけを与えて、お風呂にも入れず、おむつも買えず、
当然話しかけることもなく育てていって、最終的にはマナちゃんは3歳になったばかりの時にガシしてしまうんですね。
当時見つかったマナちゃんは、当然ガリガリに痩せてしまって、体重が3歳近いにも関わらず、わずかに5キロ。
今生後0歳4ヶ月の娘が、うちの娘が6キロちょい、7キロ弱ぐらいありますので、
その0歳4ヶ月よりも3歳弱のマナちゃんの方が少ない体重で、ガリガリになって発見されたという事件です。
この本はですね、その事件のあらましと、両親の老いたちから両親の親、なのでマナちゃんからすると祖父母の老いたち、
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こうだったんじゃないかっていうところを含めて、すごく丁寧に取材を描かれています。
皆さんはこの小さな娘を段ボールに入れてネグレットして殺してしまった両親のことをですね、どう思われますか?
とんでもない鬼のような親だという印象を持たれる方が多いんじゃないかなと思うんですよね。
私だったら絶対そんなことはしない。子供は愛情をかけて育てるし、怒ったりとかイライラしたりすることもあるけれども、
ご飯を食べなくさせるとか、そんな上陣にするまで放っておくとか、絶対そんなことはしないよって言える方が多いんじゃないかなと思います。
ただですね、実際私はこの本を読んで、当然ここまでの行為はしないにしろ、
その同じような心理、虐待に至ってしまったような、同じような心理があるんじゃないかな、
自分の中にもあるんじゃないかなと思って、ちょっとこうゾッとしたんですよね。
具体的にそれが何かというと、子供の評価をそのまま親、自分自身の評価にしてしまうという心理です。
具体的に言うと、この事件の中でですね、先ほど申しました通り、マナちゃんは脳に障害を負ってしまっているので、
同級生の他の子よりもできることが少なかったんですね。
例えば6ヶ月検診とか、何ヶ月検診ってあると思うんですけど、そういう場所に連れて行っても、
例えば同級生の子はスタスタ歩いてにもかからず立ち上がることすらできないとか、
意味のある会話が親とできるのに、その他の子はできるのに自分の子はできないとかですね。
そんなマナちゃんを見て、被告の両親はですね、恥ずかしいという気持ちや、自分が責められているかのような気持ちにだんだん陥っていくんですよね。
で、劣っている、両親からすると他の子と比べて劣っている、自慢にならない子供は隠しておきたい。
そういうふうに思って、家の中に閉じ込めて、ついには段ボールの中に閉じ込めてしまった。
この両親はですね、マナちゃんの下に弟がいるんですけど、その弟はすごく可愛がって育てているんですよね。
なのでそのマナちゃんが、自分の責任では、おそらく父親側の責任ではあるものの、孫に障害を負ってしまっているから、自分の評価を下げるものとして隠したいという心理で虐待をしてしまったと。
この子供に対する評価が、そのまま自分の評価に直結するような感覚って、私結構持ってしまっているなと思いまして。
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例えば子供が褒められたら、自分が褒められたような気がして嬉しいし、子供が何か良くないことをして注意を受けたと。
ってなると、自分のせいだわ、自分がそのままダメな親なんだっていうふうにちょっと過剰に思ってしまったりとかですね。
なんかそんな心理があるなというふうに思っていて、これはそもそもの原因として、子供と自分、親である自分を別の人間として正しく認識できていない、自分の所有物のように一部を持ってしまっている節があるんじゃないかなというふうに思っていて。
今回読んだ本の中で、両親2人が恥ずかしくて隠したかった、子供の評価が自分の評価になると思っていたみたいな記述があったときに、この気持ちわかってしまう、自分が怖いなというふうに思いました。
こうなってしまうのも、今各家族で、うちは夫と私2人で子育てを主にしているので、子育ての責任って誰にあるのって言ったら、私たち2人しかいないんですよね。
これがもしおじいちゃんおばあちゃんとか地域の人とか、もっともっと幅広い人と触れ合わせることができていたら、そこら辺ももっと気軽に構えられるのかなというふうに思ったりします。
この事件を起こした母親は、父親である夫にはあまり全く話を聞いてもらっていなくて、一人でほぼ育児をしていたんですね。
周りに自分の親とか、夫の親、義母、母からすると義母もいたけれども、あまり頼れなかったり、苦手を意識を持って子供を相談できる環境でなかったりとかですね。
孤独な育児をしていたからこそ追い詰められた部分があるんじゃないかなというふうに思いました。
結論は何なのかなんですけど、まずは子供は当然ですけども全く自分とは別の人間であると。
アドラー心理学ではないですが、子供の決断だったり評価は子供自身が引き受けるもので、私は私で別の人間であるということを
この本を読んで改めて意識しないと、この同一視視する感覚が過剰になると、私もいつかネグレクトまで行かなくても過剰に期待をしてしまうような教育虐待ですかねとか、
精神的にストレスをかけるとか、そんな親になってしまうんじゃないかなと思ったのでお話をいたしました。
ということで今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました。
この本を読むとですね、他にもいろいろ考えさせることが多いです。
私、第一子を妊娠してからですね、結構虐待系の本をたくさん読み漁ったんですよね。
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なんでたくさん読んだかというと、その虐待してしまう親と自分との間に明確な違いがあるんじゃないか、違いがあってほしいと思ってたくさん虐待系の本を読みました。
ということは裏を返せば、私もですね、いつかもしかしたら虐待をする親になるかもしれない、その可能性があるっていうのを思っていたからなんですよね。
子育てって人それぞれ感じ方は違うと思うんですけども、楽しいこともあるけど大変なこともいっぱいありますよね。
結構感情の触れ幅が激しいというか、すっごく幸せ、嬉しい、楽しいっていう子育て大好きみたいな時と、
もう本当に辛い、一人になりたい、お願いだから黙ってっていう時と、結構感情の触れ幅がこれまでの人生で経験したことないぐらい、子育てで自分の感情が揺れ動くのを感じて、
これ何かのきっかけでそのマイナスの方にしか感情が触れなくなったら、いつか何かやってしまうかもしれない素養が自分にはあるんじゃないか。
いやいや虐待する親と私は明確に違うんであろうっていうことを答え探しでですね、ちょっと虐待系の本をたくさん読んだのですが、
結論は変わらないですね。みんな同じ変わらない人間で、ただ複数のちょっと悲しい不運ともいえる環境の因子だったり、
その人の特性だったり、いろんな要因が混ざり合ってそういった事件を起こしてしまうだけであって、
その虐待の原因は構造にあり、自分がその構造のねじれの中の一人になる可能性は全然あるなというふうに思っています。
ということで、すいません2回目ですが最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ちょっと暗い話で大変失礼いたしました。また次回も聞いていただけると幸いです。