沼畑での苦悩
ブドリは主人に言われた通り、苗へ入って眠ろうと思いましたが、なんだかやっぱり沼畑が苦になって仕方ないので、またのろのろそっちへ行ってみました。
すると、いつ来ていたのか、主人がたった一人、腕組みをして土手に立っておりました。
見ると、沼畑には水がいっぱいで、織田の株は葉をやっと出しているだけ、上にはギラギラ石油が浮かんでいるのでした。
主人が言いました。
今俺、この病気を虫殺してみるところだ。石油で病気の種が死ぬんですか?とブドリが聞きますと、
主人は、頭から石油につけられたら人だって死ぬだと言いながら、ほおっと息を吸って首を縮めました。
その時、水下の沼畑の持ち主が肩を怒らして息を切ってかけてきて、大きな声でどなりました。
何だって油など水入れるんだ。みんな流れきて俺の方へ入ってるぞ。
主人はやけくすいに落ち着いて答えました。
何だって油など水入れるったって、織田へ病気がついたら油など水入れるのだ。
何だってそんなら俺の方へ流すんだ。何だってそんならお前の方へ流すったって、水は流れるから油もついてくるのだ。
そんなら何だって俺の方へ水こないようにみんな口止めないんだ。何だってお前の方へ水いかないようにみんな口止めないからって、あそこは俺の水口じゃないから水止めないのだ。
隣の男はカンカンに怒ってしまってもう物も言えず、いきなりガブガブ水へ入って自分の水口に泥を積み上げ始めました。
主人はにやりと笑いました。
あの男難しい男でな。こっちで水を止めると止めたいと怒るからわざと向こうに止めさせたのだ。
あそこさえ止めれば今夜中に水はすっかり草の頭まで浸かるからな。
さあ帰ろう。主人は先に立ってスタスタ家へ歩き始めました。
次の朝ぶどりはまた主人と野間畑へ行ってみました。主人は水の中から葉を一枚取ってしきりに調べていましたがやっぱり浮かない顔でした。
その次もそうでした。その次の日もそうでした。その次の日もそうでした。
その次の朝とうとう主人は決心したように言いました。
さあぶどりいよいよここへそば巻きだぞ。お前あそこへ行って隣のみんな口壊してこい。
ぶどりは言われた通り壊してきました。石油の入った水は恐ろしい勢いで隣の田へ流れていきます。
きっとまた起こってくるなと思っていますと昼ごろ例の隣の持ち主が大きな釜を持ってやってきました。
いやー何だって人の体石油を流すんだ。主人がまた腹の底から声を出して答えました。
石油が流れれば何だって悪いんだ。オリザみんな死ぬでないか。
オリザみんな死ぬかオリザみんな死なないか。まず俺の野間畑のオリザ見なよ。
今日で4日頭から石油被せたんだ。それでもちゃんとこの通りじゃないか。
赤くなったのは病気のためで勢いのいいのは石油のためなんだ。
お前のところなど石油がただオリザの足を通るだけでないか。帰っていいかもしれないんだ。
石油肥やしになるのか。向こうの男は少し顔色を和らげました。
石油肥やしになるか石油肥やしにならないか知らないがとにかく石油は油でないか。
それは石油は油だな。男はすっかり機嫌を直して笑いました。
水はどんどん引き、オリザの株はみるみる根元まで出てきました。すっかり赤いまだらができて焼けたようになっています。
さあ俺のところではもうオリザ狩りをやるぞ。主人は笑いながら行って、
それからブドギと一緒に片っ端からオリザの株を狩り、後へすぐ蕎麦を巻いて土をかけて歩きました。
そしてその年は本当に主人の言った通り、ブドギの家では蕎麦ばかり食べました。
次の春になると主人が言いました。
ブドギ、今年は沼畑は去年よりは3分の1減ったからな。仕事はよほど楽だ。
その代わりお前は俺の死んだ息子の読んだ本をこれから一生懸命勉強して、
今まで俺を山下と言って笑った奴らをあっと言わせるような立派なオリザを作る工夫をしてくれ。
ブドリの別れ
そしていろんな本を豊山ブドギに渡しました。
ブドギは仕事の暇に片っ端からそれを読みました。
ことにその中の空房という人の考え方を教えた本は面白かったので何遍も読みました。
またその人が伊波東部の市で1ヶ月の学校をやっているのを知って大変いて習いたいと思ったりをしました。
そして早くもその夏、ブドギは大きな手柄を立てました。
それは去年と同じ頃またオリザに病気が出来かかったのをブドギが木の灰と塩を使って食い止めたのでした。
そして8月の半ばになるとオリザの株はみんな揃って穂を出し、
その穂の一株ごとに小さな白い花が咲き、花はだんだん水色の海に変わって風にゆらゆら闇を立てるようになりました。
主人はもう得意の絶頂でした。
来る人ごとに何の俺もオリザの山地で4年しくじったけれども、
今年は一度に4年分取れる、これもまたまたなかなかいいもんだ、
などと言って自慢するのでした。
ところがその次の年はそうはいきませんでした。
植え付けの頃からさっぱり雨が降らなかったために水路は乾いてしまい、
沼にはひびが入って秋の取り入れはやっと冬中食べるくらいでした。
来年こそと思っていましたが、その年もまた同じような日出来でした。
それからも来年こそ来年こそと思いながら、
ブドリの主人はだんだん小吉を入れることができなくなり、
馬も売り、沼畑もだんだん売ってしまったのでした。
ある秋の日、主人はブドリに辛そうに言いました。
ブドリ、俺ももとはインハ東部の大百姓だったし、
ずいぶん稼いでもきたのだが、たびたびの寒さと干ばつのために、
今では沼畑も昔の3分の1になってしまったし、
来年はもう入れる小吉もないのだ。
俺だけでない、来年小吉を買って入れる人って言ったら、
もうインハ東部に何人もいないだろう。
こういう塩梅ではいつになって、
お前にも働いてもらった礼をするというあてもない。
お前も若い働き盛りを俺のところで暮らしてしまっては、
あんまり気の毒だから、すまないがこれを、
どうかこれを持ってどこへ行ってもいい運を見つけてくれ。
そして主人は、一袋のお金と新しい紺で染めた朝の服と、
赤色の靴とをブドリにくれました。
ブドリは今までの仕事のひどかったことも忘れてしまって、
もう何もいらないからここで働いていたいとも思いましたが、
考えてみるといてもやっぱり仕事もそんなにないので、
主人に何遍も何遍も礼を言って、
6年の間働いた沼畑と主人に別れて停車場を指して歩き出しました。