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チョロQさんとぽかぽかおしゃべり、チョロっとラジオ。
前回で、里親制度の概要をさらっとチョロQさんから説明いただいたんですけど、
ちょっとこの里親制度を含めた家族の在り方みたいなのが、ちょっと僕疑問というか、モヤモヤと思っていることがありまして、
家族間の問題、トラブルって、実際に里親制度を使う、使わないは別にして、一般の家族の中でもあるじゃないですか。
その中で、育児放棄みたいなことは別として、
親と子の生き違い、思いのずれみたいなことで、
それが解決しないままトラブルになってしまうことって、あるんじゃないか、多いんじゃないか、という気がしていて、
なんとなくその時に僕が思ったのは、愛着とか執着っていう言葉なんですよね。
それ自体って多分、執着って仏教用語だと思うんですけど、
執着そのものにはあんまり良いも悪いもなくて、
例えば子供にこういう教育をしてあげたいとか、体験をさせてあげたいっていうことは、ものすごく一つの執着ですよねって思うんですけど、
でもそれ自体には良い悪いはなくて、それが良い方向になるかどうか、良い結果になるかどうかは、子供との相性次第だったり、
ものすごく子供が嫌なことをやらせて、結果出ちゃったりするみたいなことがあるじゃないですか。
生きていく必要、最低限は当然やらなきゃいけないけど、叱ったりしなきゃいけないこともあると思うんですけど、
そういうズレって、なかなか自分で認知できないなっていうのがあるので、
そういうことって多いし、多いんじゃないかなと思うんですけど、
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すみません、ぼやっとしたイメージなんですけど、どうですか?石野球さんの考えはあります?
ちょっと今話し聞いた中でも、
習い事の一つ、親が子供に何々させてあげようとか、
じゃあ何の習い事、これが良いんじゃないか、あれが良いんじゃないかってやってることは、
愛情の一つだと思うから、愛着なんだろうなって。
愛着と執着って、またちょっと違う捉え方をすると、
愛着の方がポジティブで、執着の方がネガティブな気がするよね。
愛を込めて、ちゃんとやれる。
いっぱい習い事、これもこれもこの子のためになるかもなってやるときはそうだと思う。
でも、その後に子供がどうしても、これをどうしても自分が本当に嫌だと思うことも、
無理にさせてしまう一つの知人の例だけど、
すっごい仲良し親子だった。
娘さんと母親、めっちゃめちゃ仲良くて、
高校時代までは本当に何でも旅行、今も旅行は行くけど、喧嘩ばっかりなんだよね。
その頃は本当に喧嘩もなく、
親のいる子と一緒に笑ってそうだね、そうだねってやりながら、
付き合う男の子も家の中に一緒に入れて、一緒にお茶したり、
もうそんな状態だった。
ところが大学行き出して、
親が初めて、え、この相手と付き合うの?って思った時点から、
それぞれの感情の違いが出てきた。
そして、何かがあると親を突き飛ばしてしまったり、
物を投げたりっていうのが、今でももう17,18年ぐらい経っても、
たまに続いてしまう。
ずっと一つの駆けつかいが直らないまま来たら、それがずっと続いてしまう。
仲がずっと悪いんじゃないよ。話が食い違うと、なってしまう。
よくほら、一回暴力振るうと、
一回ならともかく2回、3回やってしまうと癖になる。
それと同じで、自分ではもう止められなくなっちゃう。
そういうふうに執着になっちゃったり、何かのすれ違い放置すると、
愛情、愛着からはかけ離れちゃうよね。
エネルギーというか、思いの強さみたいなものはものすごくあるんだけど、
それが相手にとっていいかどうかみたいなことって、
すごくずれが生じますよね。当然だから、人間だから。
それは、エネルギーを100%投げて、
そのまま間違いなく100%受け取るってあんまりできないじゃないですか。
それは、いわゆる恋愛とか友情とかってそうですけど、
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100%思ってることを形にして出すってことができないから、
ニュータイプとかにならないとわかんないもんね。
理解で、言葉を使わなくてもその人を理解できるみたいな、
特殊能力をコンサピエンスがゲットしない限りはできないと思うんですけど。
近未来。
いずれ種として成長して、
そういうのができる時が来るのかもしれないんですけど、
それまでは言葉とかコミュニケーションを使ってやらなきゃいけないわけじゃないですか。
思いを伝えるみたいなところが結局ずれが出るし、
それは新しいコミュニケーションが生まれるまでは永久に生まれないので、
その辺を、そういうトラブルを減らすためにはどういうことをした方がいいんだろうなっていう、
ホモサピエンスの永遠な課題みたいな壮大な話になってきちゃったんだけど。
本当に単純なんだよね。
人それぞれ性格が違うから、
Aさんがこの言い方でよくても、Bさんにはダメっていっぱいあるじゃない。
そういうので揉めちゃって、そこから自分が離れられなくて、
こうしてほしいっていうのが執着になっちゃうから、
それのところをきちんとそうのらないで話し合うこと、
相手の気持ちをちゃんと受け止めること、
そう思うんだ、じゃあこうしていこっかって妥協しながらお互いが進んでいくことが一番いいと思うんだけど、
それができないから、片方の愛情が強くなり、ガーッと離さないみたいになっちゃったり、
揉めて、もうなかなか修復できないってなっちゃったり、なっちゃうんだよね。
執着っていう言葉だと、例えば就活とかで、人生のお芝居に向けての活動みたいなことで、
執着を手放すって言うんですよ。
言葉をよく偉いお坊さんとかが書いてるのを見るんだけれど、
でも執着はさっきも言ったように、いいも悪いもないエネルギーだから、
好きなものに向かって頑張るとかいうのも全部執着じゃないですか。
目標を立ててそれに向かって成長するっていうのも全部執着だし、
それはなくしちゃいけないけど、
それってやっぱりなかなかコントロールできるもんじゃないから、
なかなか客観視、メタ認知するってすごく難しいことの一つだし、
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これ執着だなとかって分かってもなかなかどうにもできないし、
振られた後の過ごし方みたいなのって各人で差が出るじゃないですか。
そういうのをドラマとかだとよく使うことだし、僕もそういう観点でよく考えるんですけど、
そういうのをふと立ち止まって自分を見返す一つのフィルターとして、
今自分は何に執着しているんだろうみたいなことを考えることって、
ちょっとあんまりない視点かなと思って大事なんじゃないかなと思ったりするんですけどね。
執着って一つ大事なことがあって、
それが物でも何でもいいけどこれを手に入れたいと。
目標でも。そのものに向かっていって、それが本当に根本的に自分にとって大事なものなのか、
本当に必要なものなのか。
もしかしてそれがたいものじゃなくてたい人だったとしたら、
それは自分にとって必要だけど相手にとってはどうだろうか。
冷静的に考えることも必要になっちゃうんだよね、執着だとね。
それができないと揉めてしまう。そうじゃなくて、
ちゃんと冷静に考えながらその目標に向かって必死に向かっていくのはすごい素敵なことだし、
そのエネルギーって人間があったほうが絶対いいことだし。
ただ見極める力もないと間違えると人と人ならストーカーとか。
そう。だからあれだ、ちょっともやが晴れてきた感じがすると、
やっぱり物に対する執着、愛着、
執着って言うとよく使われるのがお金ですよね。
愛着とか例えば子供の頃から持ってるぬいぐるみとかに愛着があるみたいなことをよく使われると思うんだけど、
子供に対しては多分お金の執着から逃れられたみたいなこと、ドラマでもよくあると思うんですけど、
大物だとわりと解決しやすいんですなと思うんだけど、
対人とか当然生きてるもの、ペットとかへの執着もそうだけど、
そこになってくると話が変わってくるな。
そうなってくると相手の立場になって考えるっていう、よく使われる言葉なんですけど、
大物の執着と同じことを対人、命あるものにしちゃってるのがすごく問題なパターンじゃない?って思った。
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そうそう。
そうすると相手の立場に立って考えないじゃない?その状況って。
恋人叱り、親子叱り。
じゃあさっき一回目の引き続きで里親からの観点で言うと、里子で執着で困ってた子が一人いたもん。
旦那さんが亡くなって、お母さん一人になって、お母さんは子供のために一生懸命やろうと思った。
でもその愛情がいつの間にか執着になっちゃって、子供も必死に、寂しいのもあるから、とにかく子供だけが私の宝物。
この子をこの子になっちゃったんだよね。
だから学校行くのもずっとついていく。スマホ一つもすべて何をやったかチェックしたい。心配だから全部知っていたい。
でもこれは全部私の愛情なの。すべてがそうなっていっちゃった。気を見るとそうなっていっちゃった。
でも子供には子供の感情があって、心配なのはわかるし、すごい気持ちはわかる。
子供がいるから生きていられるから。
なんだけど子供の笑顔があってこそ生きられるということに自分は気づかないと、その時に子供の笑顔がなくなっちゃうんだよね。
そう。だから物として扱っているパターンがよくトラブル。
ドラマなんかでね、フィクションなんかでもよくありますよね。
僕は母さんのものじゃない。私はあなたのものじゃないみたいな。
物扱いしている時の執着みたいなことが割とトラブルの元だなというふうにちょっと晴れましたね。
親は正しいと思っていても子供にとってみればそこにまだ立ったことがない。
親と同じ年代に生きてきたわけじゃないから、それを見てきたわけじゃないから、それが合ってるか合ってないかわからない。
まして親は経験してきたことは自分のある枠内のことだけども、もっともしかして広がるとそっちが成功することかもしれない。
やってみなきゃわからないことも怖いから狭めてしまうとまだね、そこはね。
それはやっぱり子供に対する愛情じゃないんだよね。
愛着でもないね。愛情や愛着はもういいものだから。
それは固定観念からガーッといってしがみついてしまう。
なんか執着と愛着の中途半端でワーッとなっちゃうところにいる感じ。
それはやっぱり揉めるところになるから、うまくね、人間がね、できればね、私もハマるけど、ちゃんと心がすっきりできるように、自分がいつも自問自答しながらできればいいんだろうなと。
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いつ人としてみてるから、こういうもんだっていう思い込みで、固定観念でものみたいに見ちゃう。この人、こういう人だみたいに。
当然さ、生きてると、日常生活を送っていると、ある程度情報を簡略化していかないと生きていけないじゃない。
この人は優しい人、この人は気難しい人っていうふうに、一応そのラベルというか、レッテルを張るみたいな。
そうやって情報をシンプル化していかないと生きていけないじゃないですか。そういうところが多分スタートになっていって、どんどんそういう情報だけで頭の中で構築されていって、最終的には情報だけみたいになっちゃうと思うんですよね。
で、その人の相手の立場になって考えるみたいなことを薄れていってしまうことが起こりやすいっていうか、そういうふうな社会じゃない。でもそういうもんだよね。
基本的にはそういう方向性で我々は日常生活を営んでいるんだっていう認識があると、いかにかちょっと情報だけになってるってことで。
これはホテルマンのサービスの本で読んだんですけど、お客様っていらっしゃって、サービスで大事なことは何ですかって聞かれたときに、お客様の立場になって考えることですよっていう言葉があって。
でもやっぱりずっと毎日働いてると、だんだんお客様が情報だけになっちゃう。ホテルだから常連客というか、よく来てくださるお客様とか、初めてのお客様、お名前はね。
常連になってほしいっていうのもあるし、いいサービスを提供するために個人情報の集積みたいなのはあるじゃないですか。そういうのをきちんと集めて、より良いサービスを提供できるように頑張るんだけど、そうやっていくとお客様は情報でしか見なくなってしまう。
みたいになってしまわないように気をつける。お客様は人間であって日々変化しているんだ。そういうことを忘れないようにしなきゃいけないみたいなことが書いてあって。
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やっぱりその視点って誰にでも必要よね、というのを今思い出したんですよね。
常にそうなんだよね。家庭だけじゃなくて、社会でも本当にそうだとか、ホテルマンさんだけじゃなくて、
会社で新しい何か部下が入ってきました。その人はここからここまでしかできないって思い込んじゃってるけれど、枠を広げてあげたら本当はできるかもしれないのに、
この人はこれしかできないからっていう。今までこれやっても失敗しちゃうもんねって。失敗しちゃうならどうすればできるんだろうって。
これこういう見本があるからこの通りにちょっとやってみてとか、一個一個何かをやってみればいいんだけど、広げてあげないと広がらないじゃない。そういう人ってマニュアル通りにしかできない人だから。
マニュアル通りにしかできないそのマニュアルを広げてあげる工夫をしてあげなきゃいけない。そういう人には。
でもそういうふうに相手の立場に立たないとできない。あいつはできないだけになっちゃう。なんかちょっと執着から離れちゃったかもしれないけど。
いやでもその執着ってこう、いわゆるこう、相手の立場に立てないってことだから、自分だけの目線になってる状態が多分執着なんだと思うんですよ。
それって今言ったみたいに、普段の生活をいじらんでいると、どうしてもそっちの方向に行くので、必ずそうなると思ってた方がいいよ。
うん、そうなのね。
やっぱり定期的に見直す。だからこう、仏教とかのお坊さんが修行をなさってるわけじゃないですか。
毎朝早くに起きてお勤めをされて、具体的にどういうのか詳しくは知らないですけど、多分なんかそういうことをされてるんじゃない?
執着を捨てる。
仏教の修行によっていろいろ違うんだろうけど、この悟りを得るみたいなこととか、結局その執着を捨てるってことだから、そういうことを多分毎日されてる。
と、我々もちょっとどこかでやんなきゃいけないのかしら。
あのね、私が一個だけ努力してるって言えば、全然すごい感じだよ。バーカみたいなことだけど、私はよく人に、私は男っぽくてサバサバした人間っていうの。
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そうね。
でも本当に全部がサバサバしてるかっていうと、自分自身が一番思ってる。
けど、違う部分もいっぱいあるの。でも、私はサバサバしていこうと思うのね。
で、それが自分でポンポンって切っていくことで、何かにしがみついてしまうのを自分が手放すようにする。
そうやって生きるようにしてる。
そうすると、ひとつにだけしがみついて、あそこにこれがないとダメって言うんじゃなくて、自分の足でちゃんと立てるから。
それだけ意識づけをしてるのに、本当はしがみついていきたくなっちゃう性格だから。
どこどこ行って気持ちをリセットするみたいなこと。そういうことに近いんでしょうね。
収着を一回保留とかにストップさせて、待て待てと。
っていうことで、一回客観視みたいなところに視点を移すっていうことができる時間みたいなことなんでしょうね。
だからそれを意図的に定期的にやるっていうことをやるといいのか。
家庭内だとそういう瞬間が訪れにくいから、収着で凝り固まりやすい。
家庭って基本的にプライバシー、プライベートな空間だから、そういう瞬間って本当に意識的にやらないと、どこまでも閉じこもっていけるじゃないですか。
そこで私はパンと手放す。
それを誰か教えたほうがいいんじゃないですかね。
でも結局ね、人間ってどこまでも引きこもっていけるわけじゃないですか。
脳がさ、引きこもりがどうとかって、人間の脳が一人になっても生きていけるようになっていくわけじゃないですか。
だから意図的にやっぱりどっかで生きる、ライフハック的な?
そういう一つのアイディアというか、生きやすくするための一つのアイディアとして、そういう視点を心がけることとして、持ってるっていうのは大事なことなんじゃないかなと。
あとは最後に一つだけだよね。自分がされて嫌なことはしない。自分がしてて相手がもしかして嫌かもしれないじゃん。
じゃあ自分がスマホ見られて嬉しい。嫌だよね。
不安にさせちゃう相手だったらそれも悪いけど、そこに執着しちゃうぐらいだったら、他のことを考えたほうが良くない。
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一回自分のことをリセットする。私は歩くこと。一回歩いてリセットさせて、まずその人と向き合うことを考える。戻ったらそこに突き進めばいい。OKだけど、人だったらそれでちゃんと心を自分がクリアーにしてから向き合わないとダメ。本当にグーってドロドロするから。
体を動かすのは一つ確実に良い方法ですよね。どんな方法でも。取り留めもない話になってしまいましたが。
悟りを開くということね。
そうですね。そういう人はぜひチョロキューロさんに占いの依頼をしてみてください。シャクラが開くかもしれません。
ご期待を。
こんな感じでいいのかしら。
はい、では今回こんな感じで終わりたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございました。