00:15
みなさん、こんにちは。この番組は、誰もが知っている名作から、あなたの知らない日記すぎる本まで、ゆるいトークで紹介する読書系ポッドキャストです。
改めまして、こんにちは。的文庫です。はい、どうもこんにちは。太陽と申します。よろしくお願いします。よろしくお願いします。
こんなわけで、今回はいつもとは違った方が、お話の相手になってくれるということで、まずは自己紹介からお願いいたします。
はい、わかりました。太陽と申しまして、小説を書くことを趣味としている学生ですね。宮城出身で、よく読んでいる本は、高校の頃はね、若者らしく
西洋心だったりとか、そういうのをね、ハマって生きてきたんですけど、最近は普通にSFの小説だったりとか、それこそようやく文豪、昔の文豪とかに立ち返って、サリンジャーだったり三島由京だったり、色々ザッタに読んでいってるかなっていう感じですね。
ありがとうございます。私、太陽さんとは、仙台の読書会で初めてお会いして、もう何年ぐらい経ちますかね。
ちょうど僕が大学1年生になって、初めて参加する外部団体だったので、ずいぶん長い。
気がつけばっていう。
気がつけば、そうか、もうそんなになるのか。そうですね、僕の通っている大学が6年生でして、それで今僕が5年生終わりそうかなってところなんで、もう5年ですか、それ相当長いですね、付き合いとしては。
ちょっとびっくりする。こんなに長く付き合いがあったなんてっていう。
中高でも3年間ですからね、付き合いというと。
確かに。最初に確か読書会に参加された時に、仙台読書会、もともと私の大学の恩師と、あとはお知り合いの方が中心になって、私も初回から参加はしていたんですけれども、
たくさんどちらかというと社会人の方向けみたいな雰囲気があったので、社会人の方中心に参加されてはいたんですけれども、ある日突然ひょこっと参加された学生さんが、今日は言いますみたいなことで、一体どこからっていう。
そうですね、ちょうどその恩師の方の生徒さんだったりとかの、また別の恩師の方がいらっしゃいまして、そこから僕がその、桜もみたいな形になってますけど、恩師の恩師みたいな流れで、読書会にひょこひょこやってきたという感じですね。
そういえば確かにそうでしたね。本当に最初はよく知ったなーっていう。
03:02
確かに社会人系の読書会に学生がひょこっと現れる、結構異質な部分ありますよね。
でもその後結構ね、あの周りの、西尾さんの周りの友達とかがだんだん参加してくれるようになって、逆になんか雰囲気が変わってきたなっていうのはありますよね。
最近はちょっとコロナで読書会なかなか開催することが難しい状況ではあるんですけれども。
そうですね。
でも確か来月ぐらいにはまた対面で再開しようかっていう話が出てますよね。
はい。ようやくだんだん感染者の方も落ち着いてきたんで。
次回その読書会お会いできるの楽しみにしております。
開催できるように頑張っていきますので。
そうですね。よろしくお願いします。
お願いします。
今回紹介する本は、駄大治の津軽ですね。
駄大治は確か仙台の読書会でも何回か短編を取り上げて読んだことがあったかと思うんですが。
そうですね。水仙なんかあったかな。
水仙とあとなんか、あれも同じやつですかね。誰かの家に呼ばれたしじみのお味噌汁飲んだ時に、お金持ちの人はしじみの中身を食べないっていう。
それが多分水仙ですかね。
自分がちまちま食べてたらそんな汚いものを食べるのかみたいな目で見られた。
水仙の絵を描いたお嬢様が、そういういいとこのお嬢様だった。
駄大治はそのいいとこのお嬢様のところに行ったら、しじみをパクパクパクパク食べちゃったみたいなエピソードがありましたよね。
ありましたね。おいしいなおいしいなと思って食べてたら、そんな汚いものを食べるのみたいな。
お金持ちはあれを取って捨てるもんだっていうのをその時初めて知ったみたいな。
あの辺の描写をきっちり入れてくるあたりに、駄大のルサンチマン、ルサンチマンですか。
まあそういう卑屈さみたいなものがじっとり現れてる感じがしますよね。
駄大ってどうしても生き方というか亡くなり方も、最後は心中で亡くなってしまうっていうような亡くなり方だったり。
あとはその代表作も人間失格だったり社養だったり、どちらかというとこう暗い話とか、
その破滅的な自分の生き方を投影したかのような破滅的な内容の暗い話が多いので、
ダザーイコール暗いぐらいのイメージってかなり強いと思うんですよ。
教科書で走るメロディを読んだとしても、でもちょっと払拭しきれないプラザっていうのを感じてしまう作家だなとは思うんですけれども。
つまりは本の駄大のイメージが少し変わるんじゃないかなっていうような小説というか古今文なんですね。
なのでちょっと今回紹介しようかなと思って取り上げてみました。
06:02
この小説というかこの本は書かれたのが、昭和19年の5月に津軽ふどきの執筆を受けたダザイが、
3週間ぐらいかけて津軽地方を一周して出版したっていうような戦のある本ですね。
なので時代としては戦争の末期に、東京の方とかは本当に戦争食一食でかなり逼迫した社会の中で暮らしている状態だったんですけれども、
そんな中で故郷である津軽ですねに十数年ぶりに仕事の企画ではあるんですけれども帰るというような内容にはなっております。
戦争中でもそういう企画起こるんですね。軟気というかまあ人らしさっていうんですかね。
なんかやっぱり出版業界とかってそういう雰囲気ってどっかあるじゃないですか。
まあもちろん戦争中なので戦時中だし、第二世界中なんて本当に言論統制かなりがっつりされてた時代なので、
うかつにものは言えない時代ではあったと思うんですけれども、逆にこういう別に戦争に対する反戦的な内容でもないような、
毒にも薬にもならないような、政治情勢とかにはあんまり関係なさそうな地方の話みたいなのだったら、
割とケースとかも通りやすかったのかなっていうふうに思ったりはするんですけれども、
内容は別にその時代の政治体制を批判するような話ではないですし、
ダザイの話、人生とかに少し触れると、若い時に政治運動をちょっとやってた時期があって、それで警察に引っ張られるっていうようなこともあったりするので、
ダザイとしてそういうのをあんまり書きたくないというか、書くとやっぱりまた引っ張られるっていうのはあったと思うので、
そういうことって表だってやっぱり書かないかった人なんじゃないかなと思いますし、
この作品の中でもその時代に対する何かっていうのは特に触れてはいないですね。
ただひたすら津軽に行って酒を飲んでるっていうエピソードがやたら出てくる話ですね。
今でいう旅行エッセイみたいな感じの軽いノリなの?
本当そうは思いますね。ちょっと今読むと、ちょうど最近は大分落ち着いてはきたとはいえ、コロナの緊急事態宣言が出ていたので、東京の方とかは。
飲み屋とか飲食店でお酒出ないじゃないですか。出せなかったじゃないですか。
そうでしたね。
この津軽が書いた戦争末期とかも、お酒ってもう配給制になってるんですね。
09:01
だから都会でお酒を飲むっていうのは結構大変だったっていう時代だったんですよ。
そんな好き勝手ガバガバ飲むことはできないような。
かなり貴重なものとしてお酒っていうのはあったっていうのが津軽の中でよく語られているんですけれども、
だから地方とかに行くと、ただそれが結構、都会に比べたら若干まだ緩いところがあって、
ダザイがお久しぶりに帰るよっていうのをみんな聞いてて、あいつ酒好きだからって、
先々でみんなお酒を取り寄せてくれてるんですよ、いろんな人とか。
で、どうぞどうぞって飲まされるんですよ。
ダザイは、いや俺はそういう旅に来たわけじゃないから、酒飲みに来た旅じゃないからっていうのを、
旅に出る前に自分に言い聞かせたって言ってるんですけど、
まあ序盤からもそんなものは崩れますよね。
即落ちだったんですね。
もう即落ちですよね。
しょっぱながら飲んでるみたいな。
あー俺やっぱダメだなとか言いながら、ベロベロになって2日酔いになるみたいな。
もうどうしようもないって、旅の始まりなんですけど、
まあダザイですからね。
なるほど。
なんていうか、やっぱりなっていうところがあるんですけれども、
まあそんな感じで青森を旅していくというところですね。
結構3週間もかけて旅をしているので、
途中までは電車で、電車っていうかこの時代は汽車ですよね。
汽車で青森まで入って、そこからあとはまあ汽車だったりバスだったり、
あとは結構徒歩でテクテク、津軽を歩いて回るっていうところで、
まあ津軽って言っても結構広いですからね。
田舎って無駄に広いじゃないですか。
田舎は土地だけありますし、セブンイレブンはやたらと駐車場広いですからね。
そうそう。何台停めるんだよって。
車で移動するのがデフォルトだっていう。
町から町への距離がやたら広いんですよね。
中間に誰も住んでない、よくわかんない、
暗房とか街があるところがだーっと広がっているっていうのが、
田舎あるあるな空気だと思うんですけれども。
青森から蟹田っていうところに入って、
今別、ミルクリアっていうのかな。
あとは小泊り。
で、またちょっと内側に戻ってきて、
カナキ、岩木さんとか、あとは五所川だとか、木造りとか。
で、また海側のアジガサーとかフカウラっていうところの、
青森の上の方のとんがっている部分ってあるじゃないですか。
2本ありますよね。
そうそう、2本のうちの左側、日本海側の方ですね。
そっちが津軽の方なんですけれども。
で、反対側は下北半島とかになるんですけど、
12:01
その津軽の半島を歩いていくという感じですね。
僕は序編って言うんですか?
序編だけは読んだんですよね。
オシャレをしてってっていう話がされてくる。
なんか子供の頃こうだったとか、
その中でも地元を愛し憎みみたいなくだりがあったりして、
結構田舎への屈辱と思いみたいなのは、すでにここから読み取れる感じがしますよね。
あの故郷に何があるかって言われると、
山とか海とか自然は山のようにあるけれども、
その他に何があるかって言われると、
だいたい田舎の人って何もないよって言うじゃないですか。
何もないとこだよが口癖みたいになったんですよね。
そういうところなんですよね。
ただ何もないところではあるんですけれども、
ただそれを他の都会から来た人から、
本当になんかここって何もないよねとか言われると、
他に何か向かってくるっていうか、
お前に言われたくねーよみたいな。
いや、食い物はうまいけどねみたいな。
そうなんですよ。
全然みたいな風にね。
そう、食い物はうまいけど、
反撃を。
素敵な自然とか、
いきなり言い始めるんですよね。
急に反撃が始まるんですよね。
でも変に今度、自分が住んでいる地元とか、
あとは自分の出身の地元とかを、
なんかあそこはすごく自然が綺麗でとか、
食べ物も美味しくて、人もすごく優しくて、
文化もすごく古い文化が残ってて、
素晴らしいですよねって言われると、
なんか嘘くさいなみたいな。
お前に何がわかるんだよみたいな。
田舎と人が、田舎っていうもの自体が、
人と密着しているものでしょうね。
身内を褒められた時みたいなノリですよね、もう。
そうなんですよね。
私も地元って、もともと住んでた時って、
そんなに注目されてた地域では、
おそらくなかったのかなとは思うんですけれども、
高校を卒業して、家から出たあたりに、
水澤周平の映画が、
結構何本も撮られたんですよ、地元で。
あとはおくり人とか。
有名ですね。
そうですね、割と最近だとそういうのとか撮ったりとか、
結構鶴岡が全国で注目され始めたんですね。
で、鶴岡何それどこにあるのみたいな田舎が、
他の地域の人からも、
あ、鶴岡ってどこどこですよね、映画で見ました、
すごくいいところですよねって言われるようになったんですよ。
ここ何年、ここ数十年、十数年。
でもなんか私が10代の頃とかって本当に何にもなくて、
進学するってなったら外に出ざるを得ないような、
15:02
田舎みたいな、どっか行こうにも、
同級生とか知ってる人しか会わないような、
すごい狭い田舎っていうのが嫌で、
出てきた人間にしたら、
あんなとこそんなに褒めるとかあるかなみたいな。
ってちょっと思っちゃうところも正直あるんですよ。
ただ、それでも都会の人とか他の人から、
いや、あんなとこ本当に何もないよねって言われるとやっぱ面白くないっていうね。
なので、ダザイが著書の方で、
地元、ふるさとに送る言葉っていうのを、
またこれもおそらく出版社とか雑誌とかの企画で求められたときに、
なんて答えたかっていうと、
故郷とは男児を愛し男児を憎むと答えていて、
ダザイらしい愛犯するような気持ちのないまぜになったような言葉だなとは思うんですけど、
これはやっぱり田舎に住む、
そして田舎から出てきたものにとってはちょっとわかるよなっていうような言葉でもあるんですよね。
親に近いですよね。
そう、親とか肉親を言い表すのにちょっと近い部分は確かにあるかもしれないですね。
逆に都会の人っていうのは、都会で生まれ育った人っていうとか、
あとはすごく観光地としてもともと有名な、
例えば京都とか。
それから歴史があって、観光都市としてもすごく人気があってっていうようなところに生まれ育った人っていうのは、
自分が生まれ育った故郷に行っていいのかわかんないですけど、
こういうところにどういう気持ちを持つんだろうなっていうのはちょっと思ったりはしますけどね。
確かに。
なんか自分が小さいと結構自分の中に落とし込めるっていうか、
自分のものにできるじゃないですか。
街が。
なので好きかって言えると思うんですけど、
すでに観光とかだったり、街が他人のものであるっていう自覚を持ったまま、
街と向き合ってきた人っていうのはどういうふうになるんだろうって確かに思いますね。
田舎の人みたいにあまりにも土地が自分の生活と密着しすぎていて、
他人から見られる土地とかではなくて、ほんと自分と街みたいな。
あと血縁関係がいるみたいな。
そのとやっぱ違うじゃないですか。
他人が常に輸入してくるみたいなところもあるだろうし、
街の風景も常に変わっていくってなってくると。
横浜で育った友達一応いるんですけど、
でもその友達が何か地元について語るときは、
俺は横浜なのになんでこんなになっちまったんだってずっと言ってるのは見ますけど、
それも愛憎に近いのかな。
愛憎っていうか横浜のイメージと自分のギャップみたいな感じなんですかね。
そうですね、それをよく訴えてる友達とかいますね。
確かに、都会ってすごくキラキラしたシンプルなイメージですけどね。
18:06
都会の人ってかっこいいんだろうなってシュッとしててみたいな。
シュッとしててっていう言い方もあるんだけどね。
いろんな最先端の流行をしてて、
おしゃれな生活をしてるのかなっていうのを田舎のものとしては抱きがちなんですけど、
都会の人って別にそういう生活を誰しもはしてるわけではないですよね。
もちろん当たり前ですけど。
偏見や勝手のイメージがだんだんロマンになっていくんですよね。
ダザイもパカが地方都会にすごい幻想を抱いてピチピチにおしゃれをしているっていう描写が上辺に貼りましたけど、
そういうふうになっちゃうんだろうな。
でもダザイがピチピチにおしゃれをして広崎に行くっていうシーンは、
私は高校の時に仙台に遊びに行く時がこれでしたね。
その時、自分が持っている服の中で一番これがおしゃれだろうと思われるような服を一生懸命着て、
髪とかも一生懸命いじって、精一杯のおしゃれをしないと多分、
仙台は大都会ですから。
駿河に来れば大都会って仙台ですよ。
街中は本当に空き市とかないじゃないですか。
田んぼとかいきなり出てくる。
田んぼがポーンみたいな。
急に緑が広がったなみたいな空間はないですからね。
そういうのないじゃないですか。
人がいっぱい歩いてるし、アーケードとかあって、地下鉄もあったりとか、
駅の立派さにまず度肝を抜かれるっていうような感じではあったんで、
初めて友達と2人で仙台に遊びに行くって言った時は、
こんなに精一杯おしゃれをしていかないと仙台に来て笑われるんじゃないかとか、
そういうことを思ってたんですよね。
くまみこっていう漫画で、あれは多分岩手じゃなくて秋田か山形の舞台だと思ってるんですけど、
仙台の同じような描写がありましたね。
仙台に行くと石を投げられるっていう被害妄想に主人公が陥っていて、
とにかく恐れて必死でおしゃれするけど島村しかねえみたいな。
あれに島村しかねえって言ってる。
島村もなかったですか。
厳しい。
ジャスコとかで買うんですよ。駅前のジャスコで買ったりとかしてましたね。
都会に行けばそんな人なんか山ほどいるんで、別に田舎か雇用が何だろうが開けないんですよね。
そうですね。
都会の厳しさを思い知らされるっていう。
本当にそういう田舎から出てきたっていう田舎の人のプライドじゃないですけど。
なんか屈折した自尊心みたいなものが。
自尊心みたいなのがこの島からすでに爆発してるっていうような本ではありますね。
あと、田舎の人っていう括りで語っていいかわからないんですけれども、
21:04
私この津軽の中で一番好きなエピソードがですね、
その旅をして序盤の方ですかね、最初の方で、
田沢文学者ですから、文学やってる人が来たぞっていうので、
いろんな地元の文学が好きな人たちが色々出席を設けてくれて、
文学談議をしたりとかするんですけれども、
その中でSさんっていう、その方の小説が好きな、確かお医者さん病院に勤めてる方がいるんですよ。
で、人たちに呼ばれて、文学の話をして、
その文学の話をしてる時も、その時代にすごく長通った文豪の話にすごい盛り上がって、
俺のことちょっと褒めろよみたいな話が出たりするんですけど。
芸人さんで同じような話をよく聞きますよね。
俺以外で盛り上がるんや、みたいな。
ちょっと俺のこと、その作家褒める10分の1以外、俺のこと褒めてくれたらいいじゃんみたいなことを言い始めるっていう、
めんどくさいことを始めたりするんですけど。
で、その中でSさんっていう方が、飲んだ後にまたうちに来て飲みませんかって誘ってくれるんですよ。
で、ああいいですよってSさんのお家に呼ばれるシーンがあるんですけれども、
Sさんの呼ばれた先でのSさんのダザイを歓迎する、歓迎の仕方がですね、
ちょっとどうこしてるというか、ちょっと猛烈な勢いで歓迎してくれるんですね。
歓迎するというか、ここまで来ると嬉しすぎてちょっと一人で祭りになっちゃってるおじさんみたいな感じで、
若干その歓迎されたダザイが引いてるっていうラインがあるんですけれども。
ちょっと青空文庫でその辺今見てみてますけど、セリフがめちゃくちゃ長く続いてますね、Sさんの。
そうですそうです。なんか全員ヤマイヤなんですよね。
この夜中に奥さんにも多分何も言わないで連れてきたんでしょうけど、
まず来た時点で家族の人に、東京からお客さん来たぞって、
とうとう連れてきたぞって、これがデリのダザイって人なんだぞって挨拶しろって呼ぶんですよ。
いきなり。で、その後にもう酒持ってこいって言うんですけど、
で、家に1箱しかないのか、それじゃ少ないかもう2箱買ってこいって。
2箱も買ってこいって言うんですけど。で、その次に、
いや、その縁側にかけてある火だらを蒸して、火だらって干してある、かんだらですね。
かんだらを蒸して、で、それを片付けて叩いて柔らかくして食べれないから、
俺が叩いて柔らかくして蒸してやるって自分でやり始めるんですけど、
もうなんかあんまりにも勢いが良すぎて、自分の手を叩いていて、
もうちょっと落ち着いてくださいっていうようなやり取りがですね、
2ページぐらい渡ってずーっとするんですよ。
セリフ中においと待てが何回登場してるんだってぐらい。
24:00
おい!待て!おい!待て!って。
どんどんどんどんこう、あれもこれもっていうのが止まんなくなっちゃうんですね。
で、最後は卵味噌のかやきを作れっていうのを絶叫で終わるんですけど。
卵味噌って4回言ってますよ。
もうダザイがそこで置いてけぼりにされてる。
で、それを見ながらグーグー、田舎の人の猛烈な接待の、
嬉しいんだけど、これちょっと持て余すなっていう。
接待を見ながら、あーこれだよこれって思ってるシーンがあるんですよ。
九度塔のごとき接待がありますね。
でもこういう確かに、私は親戚とかに行くとばあちゃんとかが、
もうあれもこれもみたいな感じで物出してきたりとか、
もう帰るときもあれもこれもって物持たせて、
いやもうそんないらないよっていうようなぐらい。
なんかお土産これも持ってきなさい、あれも持ってきなさいって持たせて、
乗ってきた車のトランクいっぱいにやったらもらって帰るみたいな。
嬉しいんだけど、ちょっと猛烈すぎるんですよね。
だから田舎の人、昔の人、僕はちょっとその違い、
どっちなのかわかんないですけど、そういう傾向ありますよね。
で、やっぱりダガイもその中でSさんの猛烈な艦隊ぶりを受けながら、
その田舎の人のこの取り繕わなさというか、
なんかこんなにやっちゃうとバカみたいだなっていうか、
ちょっとやりすぎだよなっていう、ちょっと抑えるというか、
そういうのがない感じ。
やってあげたくてやってあげたくて仕方がないっていうか、
あなたが嬉しくてしょうがないっていうのを、
ラケピロギンだすぎるがあまりちょっと暴力的なぐらい、
愛情が溢れ出ちゃうっていうのを、なんかちょっと懐かしいなって。
でも他にいる人にはこういう感覚ってきっとないよねっていうような風に見てるんですよね。
でも多分自分は、自分もそういう気があるというか、そっち側の人間だから、
都会の人には多分自分振る舞いもこういう風に見られてるのかなっていうようなことをSさんを通して見て、
すごく懐かしいんだけど、自分を見てる上でちょっと気の毒だなっていうような、
ちょっと憐れみみたいなのをね、感じる部分があるんですよ。
アザイが歓迎しまくるのめちゃくちゃ面白いですけどね。
全然イメージと違うな。
ご飯食べてる途中で、もぐもぐさせながらお客さんにちょっとアザイだから、
余儀が悪く見えちゃって。
なんか嬉しくて嬉しくてしょうがなくてっていう。
でもなんかそれは田舎の人ほんとあるあるだなっていうのはこれ思ってましたね。
特に昔のお年寄りがまだいるようなお家に行くと、こういう歓迎の仕方をしてくるんですよね。
そうですね。しっきりに何かもらえますね。
そう、何かもらうし、まず猛烈に食卓に何かが並ばれて、
そろそろ帰ろうかなって思った時にまた何か出てくるとかね。
なかなか置いてはできない感じですよね、あれは。
27:01
今の日本の都市部には確かにないような文化ですね。
やっぱり逆にそのあんまりあれもこれもっていう風にやりすぎてしまうと、
自分の体裁を考えるっていうよりはやっぱり相手にとって負担にならないかなっていうのを
思ったりするのかなって思うんですよ。
そうですね。こんだけ出しても食えへんやろみたいな感じで遠慮しちゃいますよね。
ちょっと気使わせるかなっていうようなことってやっぱり今の人とかは考えるんじゃないかなと思うんですけれども。
津軽人にはそのブレーキが。
ない。
そうなんだ。
なんかすごく可愛らしいエピソードとしてこれは語られてるのかなって思って。
私は本当にこのエピソード大好きなんです。
いつもこれ読んで爆笑しながらちょっと泣きたくなるような気分になる。
なるほど。
取り繕わないというか取り繕えないんですよね。
そうせざるを得ないというか、止めたくてもたぶん止められないんですよ。
で、コミにも別に羞恥心ないわけじゃないんですよ。
後で後悔するんですよね、これ。
Sさんも後であんなことしなきゃよかったとかあんななんか、
でもこれ持って言って俺なんかバカなことをしたみたいな恥ずかしいって言って、
しばらく恥ずかしい恥ずかしいって言ってたっていうエピソードがあって、
またそれもすごく可愛らしいなって思うんですけれども。
わかってるのにそれを止められないというか、
そうせざるを得ない何かちょっと人間としての可愛らしさとか、
哀れというのはあれかもしれないですけれども。
人の良い本性というか、僕の意見というか視点ですけど、
本性や本能みたいなものが可愛らしいと心底安心しますよね。
そういう意味でなんかこうやっちゃったっていうその出てきた本性がすごい、
ただ人をめちゃくちゃ接待するみたいな可愛らしいものとなんか嬉しいですね。
愛の爆発っていうか、善意の爆発みたいな。
ただ爆発なのでちょっと慣れてない人にとっては暴力にも感じるかもしれないというのはちょっと悲しいところですよね。
ただこの猛烈なこの愛情っていうか、
物付けなぐらい歓迎したり、相手のことを思って何かやるっていうのが結構他のエピソードでも何個か語られていて、
たぶんこれがラストシーンにもちょっとつながってくる伏線みたいな感じになってるエピソードなのかなと思いますし、
もしかするとこれが結構津軽のメインテーマじゃないですけど、
津軽を語る上での結構でかいエピソードなのかなっていうのは通して読むと思ったりするところもあるんですよね。
この取り繕わない不作法なぐらいの、いってしまえば粗暴なガラッパチな愛情表現。
ただの旅行不動機なのに、そういうテーマ的な流れまでですね。
30:03
かなっては何回か読んでて思いましたね。
このSさんのエピソードって一瞬ぐらいしか出てこないんですけど、やたら心に残るの。
何回も何回もこの似たようなお話が出てくるんですよね。
このSさんの家に寄って、またしばらくいろんな界隈を歩いた後に、後半は実家に帰る。
帰ってからエピソードが出てくるんですけれども。
堺のお家ってすごく大きい地主の家で。
お坊っちゃんなんですよね。
超お坊っちゃんのお家だったんです。
この人は津島さん。本名は津島修司さんっていう人なんですけれども、
地元では本当に超でかい地主のボンボンとして育ったっていう。
だから家にもお手伝いさんとか法行人っていうのはたくさんいたわけですよ。
堺は実の親に育てられたっていうよりは、そういう法行人たちに育てられたっていうところがあって、
実の親とか実の兄弟よりは、その法行人たちにすごく愛着があるんですね。
法行人ってそんな別にいいとこの人なわけじゃなくて、
その辺の農村とか、そんなに裕福なわけじゃない家の人たちが法行に出てくるわけなので、
どっちかっていうと素朴な、教養とかそういうのはないけれども、
生きる術とかを、あそこにいたら山菜がよく採れる人とか、
そんな仕事がすごく巧みだとか、そういう人たちに囲まれて育ったっていう背景があるんですよ。
だからその自分の実の親兄弟は、どっちかというとちゃんと教養があって、
かつ地元の名士として真っ当な人生を歩んできたっていう人たちの中で、
なんか自分だけこの家で浮いてるよねっていう気持ちをずっと抱えながら生きてきて、
結局やっぱり自分だけ小説家っていう、なんか食えんだか食えないのかわかんないような職業についてプラプラしてて、
政治活動をやってみたり、女と侵入してみたり、そういったもろもろ事件を起こすわけですよ。
で、それもあってその実家と節縁関係みたいな状態になってたんですね、一時期。
だからダザイの別れ時って帰りたくても帰れる状況じゃなかったし、
もともとやっぱり地元に居づらいっていうのもあって、
地元派だって都会に出てきて過ごしてたっていう部分はあったと思うんですけども、
今回その仕事で地元のことを帰ってみませんかっていうのが一つのきっかけになって、
十数年ぶりに地元に実家に帰るっていうような流れになってるんですよ。
ダザイの他の話でも結構、俺は結局実家では浮いてるし、みたいな文言がすごい頻度で出てきますよね。
そうですよね。
そんなに?みたいな。
でもそれもなんかやっぱり私も10代の頃ってすごくそれは感じていて、
33:04
地元でずっと暮らす同級生とかもいるわけじゃないですか。
いますね。
地元のコミュニティで満足してるというか、地元最高みたいな。
そういう同級生もいる一方で、私はやっぱり地元の同級生の輪に何かこう加われないなっていうか、
なんかちょっと浮いてんだよなっていうのがなんか常に感じていて、
家族とも別に仲悪いわけじゃなかったけれども、やっぱりなんかちょっと浮いてるような気がするなっていうのは常に感じてたんですよ。
だから積極的に家を出たいっていうのはあんまりなかったけれども、進学するにあたって結局進学するってなったら地元からは離れないといけないところだったので、
まあ進学すると同時に地元から離れてちょっとほっとしたんですよね。
なんか僕自身はあくまで仙台と地元を行ったり来たりみたいな生活ですし、
この年までずっと実家暮らしですから、なんかそういう疎外観的なもの自体はないんですけど、
それでもやっぱりなんていうか、自分があるべき場所みたいなものっていうのをどっかに求めて、いずれは遠くへみたいな気持ちも確かになくはないですよね。
それこそちょっとダザイに近かったっていう感じなんですかね。
ダザイの場合はちょっとわかんなくもないかな。
ダザイだとその社会とうまくやれなくて、家族の中でもつまみ物みたいな感じでっていう、もうなんかやらかしてますかね。
正直多分どの家庭にいても浮きますけどね。
芸術家志向の家じゃないけど、ちょっとダザイは。
やったなあいつみたいな。
持ち余しちゃうかなっていうところは、理解なかなか難しいかなっていう部分はあると思うんですけど、
でもまあそうですね、私はなんか親すごくバリバリ働く人たちなのに、私はあんまり働きたくねえなとかダラダラしてて、
親にめっちゃなんかいろいろ言われるみたいな、10代20代を過ごしてたので、
なんで自分はあの親から生まれたのにこんななんかダラダラしてんのかなとか、
上手く人とやっていけない。親はすごく社交的な人たちなので、
なんか全然親のああいうところ受け継がなかったなあっていうのはすごく不思議だったし、居心地は良くなかったし。
ちょっと屈折した思いはありましたね、10代20代は。
だから地元に働きするのも、まあホットはするんだけれども、ちょっとずっと長くいると居心地悪いなあっていうのがあって、
1週間ぐらいいるともう早く帰ろうみたいな。
仙台に帰りたいっていうのはすごくありました。
仙台って親戚っていうの全然いないんですよ。だからそのもともとの私を知っている人っていうのは全然いない土地なので、
36:03
まあそれこそ理由に振る舞えるじゃないですか。
そうですね、なんかこう自分を知らない気楽さっていうのはありますよね。
ダバイもその後半、前半はいろんな人たちと酒とか飲んでぐだぐだになっているような視聴がいっぱい出てくるんですけど、
後半は自分の実家、地元ですね、に近いところを旅をするようになってくるので、
そういうちょっと居心地の悪さみたいなのも書かれているんです。
やっぱり実家に帰ると兄たちがいて、もうお父さんとかお母さんは結構若い時に亡くなっているのでダバイは。
別の親っていうのはいないんですけど、その代わり家を継いだお兄さんたちがいるわけですよ。
そのお兄さんたちっていうのはちゃんとその家を継いで町の名士として立派にいるわけですよ。
いろんな町のために尽力しているような。
で、そういうところにプラーッと帰るわけですよ、ダザイは。
チャランポランなのが来たなって。
で、またこれ実家に帰った時の話で、お嫁さん、妹だったか、その自分の兄弟のお女子さんがいて、
で、そのお女子さんが、ちなみにあなたはどなたでしたっけっていうふうに聞かれるんですよ。
なんか存在感がないんですよ、家に。
この気まずさ。
で、ダザイも、いや俺ここんちはさんなんだよみたいなこと言わないで、
いやあの誰々の弟ですみたいなことを言うんですよ。
あの次男の誰々の弟ですみたいなことを言うんですよ。
遠回しに。
実家になんかこう居場所がないなっていうのが、この後にすごく現れてるなっていうのがあって。
なんか時計仕掛けのオレンジで、主人公が家に帰ったら知らんやつが、なんか家族の息子の位置になってたみたいな。
そういう居場所のなさ。
そういう居場所のなさ。
下手したらそのお女子さんが自分の位置にいるんじゃねえかっていう。
そういう居場所のなさですね。
で、このお兄さんっていうのが、ダザイが20代の頃にいろいろやらかした時に東京に来て、
いろいろ事件の始末をつけていったっていう記述もあったりして、
お兄さんとはそれ以来会ってないんですよ。
もう絶縁に関係になっちゃってる。
で、そのお兄さんと久しぶりに、親戚一同で久しぶりに遊びに来たからっていうんで、
観光とかその辺を案内して回ったりとか、出かけるシーンがあるんですけれども、
お兄さんと二人で歩いてるシーンがあるんですよ、その中で。
そのお兄さんの後ろ姿を見ながら、10年ぐらい前にこういうことあったなって。
で、その時は俺はいろいろやらかして、みーちゃんの後から泣きながら歩いてた覚えあるなみたいなことを思い出してるシーンがあって。
で、未だにその兄からはあの事件については許されてると思わないっていうのを。
一生ダメかもしれんっていうのを思ってるんですよ。
39:00
独白なんですね。
なんかやっぱり歩いてても、久しぶりだなーみたいな感じで迎えるにしても、やっぱり何か迎えられてないんじゃないかっていう気持ちがあるんですよね。
追い目はありますよね。
追い目?ダバイのそのめちゃめちゃ追い目はあると思うんですよ。自分がやらかしてるので。
でもやっぱりそのお兄さん側にも未だにやっぱりこいつはなっていう部分もあったのかもしれないし。
そこはまあお兄さんの話は出てこないので、何とも言えないところですけれども。
この辺りにちょっと苦い雰囲気っていうのがまた前半のあのわちゃわちゃしてた雰囲気とはちょっと別に隠していて。
地元とか実家っていうのは必ずしも居心地がいい場所ではないんだなっていうのが必死してちょっと伝わってくるんですよね。
身内、それこそ身内っていうものの概念を相似的に表した感じがしますよね。
やっぱ表面的だったり全体的には接しやすいんだけど結局腹の底で悪い部分を共有しているみたいな。
そういうところがあるのかな。
あとやっぱりその小さい頃から自分がどんな人間だったかっていうのを見られているので、なんかごまかしが効かない。
それこそ仙台のようにはいかないと。
地元に帰るとやっぱりその小さい時からいろいろあったっていうのを見てる人はいるっていうのはちょっとドキッとする部分はありますよね。
親戚同士で集まってっていうのも昔はやっぱり嫌でしたね。
自分がいるんですね。やっぱり地元には。
そう、置いてきた自分がいるって感じですかね。
ダザイも多分若い時はこういう話を持ちかけられても絶対行かないってなってたと思うんですよ。
でももう37もなって、もうアラフォーじゃないですかダザイ。
アラフォーのダザイってなんか面白いですけど。
年取ってくるとだんだんなんか丸くなってくるっていうか割とそこらへんどうでもよくなってくるっていうか。
思い出補正みたいなのも出てきたりして。
行くとやっぱり思い出して、やっぱり来なきゃよかったとか思ったりする部分もあるんですけど。
昔よりはまだいいかなみたいな感じになってくる部分は徐々にはなってくるんでしょうかね。
この時37ですか。
37、8ぐらいですかね。
で、さっきも言ったみたいに42歳ぐらいで亡くなっているので、本当に晩年の話ですね。
最初に俺もそろそろいっちまうぜみたいな感じの中だと、
正岡式36、大崎高雄どうしたどうしたと思ったら文豪だったりはこんぐらいで死んでるし、
俺もそろそろかなーみたいな。
そういう感じなんだみたいな。
なんか長生きしようっていう気持ちはもうなかったんですかね、この人もともと。
なんでみんなこの時にいっちゃってるんですかね。
42:04
宮沢賢治も確か30後半ぐらいですね。
文豪って確かにミュージシャンでいう27歳クラブじゃないけど、
確かに30この辺で亡くなる人っていうのは割といますよね、30代。
なんかそういう時に、そもそもこの巡礼が、巡礼っていう本編の最初のタイトルですけど、
そういう意味で、そう思ってこの故郷を巡る旅に来たっていうのは、
なんか考え深いしちょっと悲しい感じがします。
そうですね、なんかやっぱりもしかするともう自分は故郷に帰らないかもしれないっていうのは、
どっかで思ってたかもしれないですね。
自分もしかしたらまた死ぬかもみたいな、
そんな長生きしないでまた自殺するかもしれんって思ってたのかもしれないし、
ただこの時、東京って空襲とか、戦争のこの本土に攻めてくるっていうのが、
かなり現実味を帯びてきている時期ではあったので、
いつその戦争に巻き込まれて死ぬかもしれんっていう、
時代的な切迫感っていうのもあったのかもしれないですね。
ちょっと生きて乗り越えられるかわからないなっていうような。
身近に死があった時代ですか。
多分今よりも身近に死があった。
今もコロナとか一時期さえあれば、
そんな雰囲気もありましたけど、
今に比べたらっていうところがあったかもしれないですね。
そんな居心地の悪い実家の旅なんですけど、
ただ実家は居心地、家族とあったり、
親戚たちとあったりっていうのは居心地が悪いんですけど、
たださっきちょっとちらっとお話ししたように、
育ててくれた方向人たちに会うっていうのは、
やっぱり楽しみにしてた部分もあるんですよね。
最後に自分の母親代わりになったくらい、
小さい時に面倒見てくれた竹っていう女中さんですね、もともと。
女中さんを探すっていうシーンで終わるんですけれども、
竹さんっていうのは、
太宰がだいたい3歳ぐらいから9歳、
小学校上がって間もないぐらいですかね。
太宰の身の回りの世話をしてくれたお姉さんだったんですね。
ただ結婚するにあたって、
ある日突然いなくなっちゃったっていう人がいたんですよ。
その竹を今回もし会えるんだったら会いたいって言って、
最後探すんですね。
もう名前ぐらいしか覚えてないんで、
手がかりってのはほとんどないんですけど、
でもそんなに遠くに突いたわけではなさそうだから、
周りの人に聞いて回って、
そうするうちに、
金物屋さんのところに突いたよっていうのを教えてもらって、
行くんですけど、
留守だったんですよ。
このままもう会えるのじゃないかと思って、
ヒントの人に必死になって、
この家の人はどうしたんですかって聞いたら、
45:00
今日運動会やってるから、
運動会、学校でやってるから、
それに出たよって言われて、
運動会やってる小山みたいなところに行くんですけど、
もうここから先の風景っていうのは、
一応これノンフィクションとして書かれてる話だと思うんですけど、
おそらくこれはフィクションじゃないかなっていう、
思ってちょっと読んでる部分もあるんですけど、
そのぐらいちょっと現実味がないようなシーンなんですよ。
行ってしまえば、東京の方では、
戦争食一食の暗い沈んだ、
逼迫した状況なのに、
田舎の村では華やか運動会が起こってる。
確かに。
バンコッキがこう、
垂れ下がってて、
みんな着飾って、
楽しくお弁当を食べてるっていうね。
戦時中の雰囲気じゃないですよね、明らかに。
でも田舎ってちょっとそういうとこあるじゃないですか。
ちょっと流行も恐怖も遅れてやってくるみたいな。
そう、流行も恐怖も緊張感もみんな遅れてやってくる部分があるので、
そんな夢のような光景がわーって広がってるんですよ。
で、その中で竹さんと再会するんですね。
なんかちょっと出来すぎてんなって感じがするんですけど。
で、竹さんと会うんですけど、竹さん最初喋んないですよ、全然。
喋んないなーって思って。
久しぶりに来たよみたいな話をするんですけど、全然喋んないなって思ったら、
ちょっと桜の木でも見に行くって言われて、
二人で桜の木を見に行くんですよ。
で、その時に最後に竹さんが猛烈な勢いで喋り始めるんですね。
久しぶりだなーって始められて、もう誰だか分かんなかったよって。
あの、カナキの津島とうちの子は行ったけど、まさかと思ったんだって。
まさか本当に行ってくれると思わなかったんだっていうのを、
もう、膜引っ立てるように言うわけです。
よく来たなーって。
こんな大人になって、ちゃんとした大人になって、私を見たくて、
はるばると、こんな田舎までたぶん来てくれたかと思うと、
ありがたいんだか、嬉しいんだか、悲しいんだか、そんなことはもうどうでもいいんだと。
もう、まあよく来てくれたなーって。
小っちゃい時はまだ小っちゃくて、パタパタ歩いたりとか、
あそこでお茶碗持って、あちこち歩き回って、
こうやって食べてとか、昔話聞かせてとか、
なんかその小っちゃい時は思い出をブワーッと言うんですよね。
結構いいシーンだな、ここら辺は。
私は竹に似ているんだと思ったっていうのは。
そう、最後のその言葉がすごく身に染みるんですよね。
なんかダザイはすごい、僕たちも感じているような深い安心や感動を、
すごい綺麗に表しますよね。
そうですね。
竹さんと出会った時も、これが誠の幸福であるみたいな。
なんていうんですかね、ダザイって結構、げんのりするシーンとか、これ見下ろしに描くじゃないですか。
48:04
もうそんな描かなくていいよっていうぐらい、これ見下ろしに描くんだけれども、
こういうちょっと感動的なっていうか、このものと幸せになるようなシーンっていうのは、
そんなにこれ見下ろしに描かないんですよね。
サラッと描いてくるんですよ、そういう部分は。
その軽さがすごく幸せさっていうか、
爽やかな感情をサラッと描くんですよね。
ぼんやり運動会を見て、教中に一つも思うことがなかった。
もう何がどうなってもいいんだ、というような、全く無憂無風の状態である。
平和とはこんな気持ちのことを言うのであろうか、みたいな。
すごい綺麗に伝わってきて、このクライマックスっていうか、ふどきっていうか。
本当にここは盛り上がりですよね。
エッセイのクライマックスってなんだよって感じなんですけど。
それでもまあ、しっかり物語としてのクライマックスもあります。
このつがりには。
さっきの、いろんな地元の懐かしい人たちに会ってきたエピソードがここに集結するんですよね。
地元で懐かしいなと思う人、この人に好ましい印象を抱いている人たちって、
自分に通ずるものがあって、
自分に通ずるものっていうのは、こんなに上品なものじゃなくて、
ガラッパチだったりとか、飾らない時には猛烈に、猛烈すぎて、
ちょっと落ち着けよ、みたいな。
落ち着きのなさとか、暴力的な愛情とか、
自分ではちょっと制御できないような感情的な何か、
ただそれは別に悪いものではないんだけれども、
ちょっと都会の人とかからするとやりすぎなんじゃないかっていうような、
感情の混流みたいな。
ルーツって、やっぱりその土地に暮らせた人たちからの影響だし、
自分もやっぱりここの土地の人間なんだなっていうのを、
最終的にその欠片を中に見出すっていう。
地元のルーツ一個一個たどって、最後に本当のルーツに桜の木の下でたどり着くっていうのが、
もう最高だなって感じ。
ちょっと美しい。言ってしまえばちょっと出来すぎるんじゃない?
なのでちょっとここはどこまで本当の話なのかなっていうのは、
うがった見方をするとそう思ってしまうけれども、
でも別にそれでもいいじゃないですかっていう。
これはやっぱりダザーにとってはある意味の真実だったのかなって。
やっぱり自分もここの人間だったんだなっていうのを、
地元から遠く離れて暮らしてはいたけれども、
ああやっぱり自分はここの人間なんだなっていうのをすくずく思い出されるっていう。
それがこうやっての親の、この他家の暴力的な愛情によるものだったっていうのが、
51:02
なんかやっぱりさっきのSさんのショーでも感じたような、
何とも言えない懐かしさと悲しさっていうか、
物迷い話しさっていうのもちょっとあるのかなと思うんですよね。
ほぼほぼ晩年に近いんですもんね。
そう。40も近くなってくるとやっぱり、
ここは変わらない部分なんだろうな、変えたくてもみたいなのって、
自覚が出てくると思うんですけど、
これを言ってしまうと辛くなってしまうような人もいるので、
言い方はあれかもしれない、気をつけないといけないかもしれないんですけれども、
自分が育ってきた環境って、思った以上に自分の中に根付いてるものなのかなと思うことはありますね。
それは周りに育ててくれた人たちっていうのもあるし、
周りの例えばフード、自然のどういう自然に囲まれてとか、
どういう環境に囲まれて育ったかっていうのが意外と大きいなっていうのは、
自分もダザイのこの津軽を描いたときの歳なのに近いので、
なんか思ったりすることはありますね。
どれだけ長く都会に住む人としても、やっぱり絶対都会人にはなれないんだなっていうのは思いますね。
美しさであり悲しさでありということね。
そうですね。やっぱり都会の人のシュッとした感じは絶対一緒なんですよね。
シュッとした感じの都会人は興味いるかって言われると。
そうですね。それは健康でしたね。
そう思ってしまうのが田舎の人の悲しさみたいなのね。
そうですね。大里宮城のそこ出身の友人が2人いるんですけど、
うち一人は本当に地元を愛してないな。地元に行くんで、
俺は仙台に生きる。そして俺は東京に行くみたいな感じの憧れきった人間でしたね。
僕は地元っていうものを認識していなかったので、高校の頃はあったんですけど、
そんなに地元っていうものを憎みこそすれ、そんな対照化して捉えてるんだなっていうのは結構印象に残った友人でしたね。
その人ももしかすると土地が嫌いなのか、それとも土地にまつわる何か別のものが受け入れられなかったのかちょっとわからないですけれども。
とにかく田舎が嫌いって言ってましたね。
本当それは都会に住んでてすごく、都会の良さっていうのは享受してるので、こんなに長く仙台に住んでるっていうのはあるんですけど、
自然が本当に厳しい土地でもあるので、つがるなんて最北端の地ですからね、本州の。
本当に厳しい。自然っていうのは、このつがるの中でも書かれてましたけど、自然っていうのは人に飼い慣らされてないっていうふうに書かれてるシーンがあって、風景になりきってないって言ってるんですよね。
54:06
自然の景観が。風景になるっていうのはやっぱり人間に見られて、人間に風景として認められてっていうところがあるんです。
人を飼いしているっていう部分があるんだけれども、つがるの自然っていうのは、人間をまず寄せつけないっていうか、そういうところとまたちょっと外観のところにあるような存在なっていうふうに書いてあって、
本当にちょっと自然が厳しいところってそんなもんですよね。綺麗とかそんな言ってる場合じゃない。
森や街の温かみがみたいな。そういう次元ではないと。
そういう次元じゃないですよ。やるかやられるかの次元じゃない。
厳いなぁ。
試される大地ですよ。確かに大崎のあたりとか雪深い地域なので、自然が嫌だっていうのは、もしかするとその友人の人もあったのかもしれないですね。
まあそれもありますし、どちらかというと都会への戦亡みたいなものが強かったなぁ、彼は。
そうかぁ。
つがるの氏名いいですね。
本当にこの最後のページで一個を絶望するな、手は湿気。
嫌なドリフみたいな終わり方。絶望するなよ、手は湿気って。
なんかちょっとやけっ端なのか、照れ隠しなのか。照れ隠しなのかな、これは。クライマックスのちょっとグッと切ったところで、ジャって感じの。
ボンボンボンボンと閉じるみたいな。
そうそう、この勢いがダザイだなっていうか、他の自滅していく感じとはちょっと違って、まだ明るい展望がありそうな雰囲気で終わるのが、この本の他の本とはちょっと違うところなのかなとは思いますね。
それこそつがるらしさみたいな終わり方ですよね。
パッと終わって急にポンと閉じるみたいな。
そうそう。
照れ隠しで終わる。
ちょっと照れ隠しで。もうちょっとあまりにも上巻たっぷりに行き過ぎたから、もう恥ずかしいってなってきて、ジャってこう。
もういいでしょって。終わりだよ。
入るよ、みたいな。それこそ明らかに取られるみたいなところはあるかもしれないですね。
前編ちょっとそういう、え?ってなるような感じで、話がどんどん進んでいくっていうような、そんなすがりのお話でした。
はい。ちゃんと読んでみよう。
今これ青空文庫でも読めるので、無料で読むこともできますし、私が持っているのは門川文庫のものなんですけど、これが解説が町田フォーが書いていて、この町田フォーの解説はまた短いですけど、読みごたえがあるのでおすすめですね。
ダダイの話はこんな感じですかね。
はい。
番組へのお便りは、つんどくざんまいツイッターアカウントのDMか概要欄に記載のメールアドレスにて受け付けております。
57:08
皆様からのお便りお待ちしております。
それではまた次回まで。さようなら。