そんな感じで今回紹介する本なんですけれども。
今回2冊紹介できればなっていう感じなんですが、
1冊目がですね、片岡麻衣さんという方の
日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題。
主題が文化の過強者たちが見た間という中央宣書からで、
中央討論審査の中央宣書というレーベルがあるんですけど、
そこから出ている本ですね。
これは2024年の2月なんで、ちょうど1年ぐらいですかね。
去年の2024年のサンプロリーの学芸賞受賞した本ですね。
受賞のタイミングでもう一回たぶん擦り直しされたのか何かで、
年末ぐらいに面白そうだなと思って買っておいた本ですね。
これどういう内容かと言いますと、戦後に日本の文学を翻訳して出版しようみたいな企画が
アメリカの出版社とかであって、何作品かピックアップされて翻訳されていくんですけれど、
本当に日本文学を英語に翻訳するのがいかに難しいかと。
それも出版社と翻訳者の間で交わされた手紙とか、
こういう風に訳してくださいとか、ここの訳はこれだと伝わりませんとか、
そういう記録が残っているみたいなんですね。
その記録をもとに、じゃあ実際の原文と翻訳された訳文との間にどういう差が生じていて、
それはどうしてなのかっていうのを論じた本なんですよ。
一応これ、白紙論文をもとにして書かれていて、なかなかボリュームでなんですけど、
白紙論文ってすごい難しいのかなと思って読んだら、すごくわかりやすく書打てされていて、
そこまでがっつりそういう知識がなくても、読める内容にはなってますね。
すごくこの内容が面白くて、どうしてそういう難しさが生じるか。
だからこのタイトルですよね。日本の小説の翻訳にまとめたら得意な問題。
得意な問題って何?っていう。
実際なんかこの中で出てくる出版社の編集者が誰かのエッセイのタイトルから取ってるみたいですよね。
こういう、ちょっと他の文学ではない日本文学特有の翻訳難しさっていうのがありますよみたいなのを書いたエッセイか何かのタイトルだったと思います。
へー。それどんな本が?
そうですね。今回その中で取り上げられている本はですね、作品がですね、7冊取り上げられていて、
ちょっと今回は3冊ぐらい話していこうかなと思うんですけど、
長崎二郎の貴興、あと谷崎純一郎は食べ食う虫とささめゆき、あと大岡昌平ののびん、
三島由紀夫の金閣寺、あとは河童やしなりの名人か。
そうですね。それが今回具体例として取り上げられている作品ですね。
だって今のだって、もうすでにタレって何?って話しそうですから。
そうですね。この辺りって、なんていうか、やっぱり今の現代の日本人にとっても日本文学って言って出てくるあたりの作品じゃないですか。
日本文学らしさがある文学作品っていうか、って出てくる作品ですよね。
やっぱりそれが、この作品がどうしてまず翻訳リストに選出されたのかっていう背景とか、そこからまず語られていくんですけど、
そこにもやっぱり選出される理由みたいなのがあって、それが結構面白かったんですよね。
知りたい知りたい。
で、まずそのプロジェクトが発足したのは戦後ですよね。
で、それがどうしてかっていう背景としては、やっぱり第二世界大戦が結構あったんじゃないかっていうふうに出版社の編集者で携わってた人。
ストロウスという方は大きくこれ関わっているんですね。この計画に。
あとこのストロウスという方がいらっしゃったクノックス社っていうアメリカの出版社があるんですけど、そこの編集長のハルド・ストロウスという方と、
あとはよく谷崎とか、あとはさっきの川端康成とかの翻訳で有名なサイデンステッカーさんという方ですね。
名前もしかしたら聞いたことあるのかな。
そうですね。その翻訳者が主に出てくるんですけど、ストロウスという方は元々その日本語、その国にいて、日本語をやっぱり学んで、
戦後はGHQの一員として日本に渡ってきたという経歴もある人なんですね。
かなりやっぱり日本文化というか、日本ってどういう国なのかっていうのを勉強してきた方。実際勉強してるって感じの人なんですね。
その経験もあって、やっぱり最終的に日本ってかなり西欧圏と違う思考体系とか文化圏の国だなっていう。
それを理解する手立てとして最も良い手段が文学とか、物語とか、そういったものなんではないかっていうのに至って、
日本を理解してもらうためというか、日本文化ってどういうもんぞやっていうのをアメリカと英語圏に広めたいという意義があるっていうので、このプロジェクトを立ち上げたみたいなんですね。
ただ、立ち上げにあたってどういう作品を選出していくかっていうところでも結構色々曲折があり、
このプッシャーのプロジェクト前にも、もちろん翻訳って色々出てはいるんですけど、日本文学を英語に翻訳した本っていうのはあったりはするんですけど、そんなにまだ数が多くなくて、
現地物語とか、あとは日本人が夏目漱石に心たく翻訳してたりとか、そういうのは若干あったけど、まとめてどこかの出版社がレーベルとして出してるっていうのはなかった。
だから文学で、今現在日本で活躍してる人、今現在って戦後の時点なので、1950年代とか60年代というふうなところにはなるんですけど、そこで活躍してる日本文学者の中の作品で翻訳に翻訳する価値のあるものっていうのを選出するので、
例えば、ドナルドキーンとかの日本文学の短編集みたいなのとか、そういうのを読んでたりとかしてみたいなんですけど、日本の50年代60年代あたりってフランス文学とか英米文学の影響って結構強かった時代だなっていうのはあるんですよ。
アベコーボとか、確かフランス文学とかですよね、あの人。普通文系出てる人とかって結構多いですよね、小説家の人で。なんかイメージ的普通文やってたり、あとロシア文学やってたり、あと英米文学とかも出てる人多いなってイメージで。書き方のタッチも西欧文学影響すごく受けている。
タッチで書かれているっていうふうに評価を受けて。
アベコーボ?
実存主義とか、そういうのがすごくやっぱり思想的にも強い時代だったから、その影響も受けている作品が多かった。で、それがやっぱりあんまり日本文学っていうのを打ち出したいってなった時に、いやだってそんな西洋文学の文学模倣してるような小説、わざわざ翻訳する意味ないじゃんみたいな、平たく言えばですけど。
そういう話が出まして。で、日本文学とか、より言えば日本食食べたいって言ってるのに、ナポリタンとかじゃないんだよみたいな話ですかね。わかります?この雰囲気。
ナポリタンじゃないんだよ、寿司なんだよみたいな。
だから日本っぽさっていうのをすごく求めた。日本的なもの、日本の文化をすごく色濃く残しているものの方は日本的な考え方とか、そういうものをやっぱり色濃く残している文学を翻訳したいっていう考え方があったらしいですね。
で、そうなってくると、結構やっぱり選ばれる作品っていうのが、ああなるほどなっていうようなラインナップになってくるんですね。それがさっき言った谷崎純一郎とか三島由紀夫とか川端康成っていう、いわゆるビッグスリーあたりですよね。
まあね、川端さんはね、そんなに読んだことはないけども、でも、川端?みたいな、ある意味ちょっと色物っていうか、なんだろう、そこを日本的って言われると気持ち悪い。
言葉を選ばずに言えばちょっと気持ち悪くないですか?
そう、なんかちょっと日本人からすると、もしかするとちょっとやりすぎじゃねっていう感じの、過剰な感じが、私個人的にやっぱりすごい、いかにも日本文学だなっていう感じのところってこの3人なのかなとか思うんですけど。
もっと他にも色々いたりはするんですけど、なんていうんですかね、外国人から見るとやっぱりこのあたりが一番日本っぽいなっていうふうに思うのかなっていうのも、わからんでもないっていう感じはありますよね。
気持ちが悪いな。
あと、大和尚平の延尾とか、あと、長谷二郎の貴興って読んだことないんですけど、このあたりとか、あと新平家物あたりとか、吉川英二のとかですね、そのあたりがピックアップされてるみたいですね。
だから逆に明治時代の小説家って、まあでもまあそれはどうしてもその時の、戦争の目的が、今まだ生きている方で活躍している作家でっていうところでやったから。
しょうがないな。
そう、だから芥川とか漱石とか、そういうの入ってこないんですよね。
なるほど。
それも面白いなと思ったんですけど。
日本文学ね。
でもなんとなく、やっぱりその出版社の意図がやっぱりそこであるわけじゃないですか。
こういうものを、こういう作品を訳したいみたいな。
日本の特異な味わい雰囲気を兼ね備えた小説を選びたいと。
で、ただ、なんて言うんですかね。やっぱりその出版するに際して、出版したけど売れんかったって思ってくれると、なんていうか、商売的に良くないじゃないですか。
で、やっぱり売れそうな作品っていうのをやっぱりピックアップする必要があるじゃないですか。
しかも翻訳するとなったら手間もそれだけかかるし、やっぱり今も昔もですけど、翻訳ものって売れないんですよね。
基本的にそんなには。
だからやっぱり売れるものを考えていくとなると、やっぱり日本、しかもまだこの頃って日本文学でそんなに訳されてないんですよね。
しかもそんなに読む人もいないってなってくると、
まず最初のプロモーションとしてはやっぱりコケないっていうのが大事じゃないですか。
なるほど。そうするとそうなるか。
そうなってくると、マーケティングのところも考えていくと、やっぱり日本らしいものっていうのが大事なんじゃないかみたいな。
わかりやすいね。
そうそう。わかりやすい。日本っぽいもの。
だって日本の小説読むってなった時に、なんか西洋とそんな変わらん小説とかを読んだら、なんか思ってたのと違うみたいな感じになるじゃないですか。
なんですか、今のその社会とまた違うので、50年60年とかそのぐらい前の社会でのお話なので、未知の国、日本みたいな。
気持ち悪い国、日本みたいなね。
自分たちはよくわからん文化で生きてる日本人の書いた本ってなってくると、西洋的なものよりは、やっぱりよくわからん国の本、文化みたいなのが書いてあった方が読みたいなと思うだろうなと。
いうところもあったんではないかと、いろんな資料から推測してたところですね。
ストレンジな感じね。
そうそう。
どんだけ細かいねん、自分のことをどんだけ分析してるねんっていうぐらい、細々と書くじゃないですか。
会話とかもはっきり何を喋ってるかっていうのは、わりとはっきり言うじゃないですか。
まあ主語がありますからね、必ずね。
日本の小説ってやっぱそこらへんがすごいぼんやりしてるんですよね。言わんでもわかるでしょと。
共感をどめですからね、基本的には。
だから言うのが部粋っていう考え方ですよね。
それ言わないのがいいんだと。そこは余韻なんだから、余白なんだから、言っちゃうのは部粋なんですよっていう考え方で書いてるから。
もうこれ、俺たち何を一体話してるの?みたいな感じになっちゃう。そのまま訳してしまうと。
外はあーって、どうしたら?みたいな。いつも頭を悩ませるっていうのが、毎回どの小説の中で紹介されている7作品ですか。
の中で毎回そこに衝突して、あーでもない、こうでもない言ってるっていう現場の悲鳴みたいなのが記録に残ってて面白いですけど。
そうですよね。だってほら、すごい有名な夏目漱石の月が綺麗ですねがあるじゃないですか。
月が綺麗ですねをアイラブユーにするみたいな感じので、あれって多分日本人はわー素敵って思うけども、海外の人にしてみたらね、なんでやねんって話してきて。
なんでやねんなんすよ。
は?みたいな。どっからそうなった?っていう。
でもそれ、感じ方が違うっていうことですもんね。
何を良しとするかというか。
で、あれをよくやった、これはいい感じですねって言える感性と、なぜ?っていうね。
言わなきゃ伝わらないでしょみたいな。
そうそうそうそう。
悔しい人じゃないですか。
そりゃそうだわ。そりゃ難しい。
言わんでもわかるでしょっていう。
意味わからないでしょって。
だからそれをどこまで翻訳に落とし込まなければいけないのかとか、あと読む前にこういうものですからねっていうのを警告じゃないですけど、説明しなければならなかったと。最初の頃は。
後になってくると、もう読者も慣れてきてるでしょうから、そんなにくどくどしくこういうものですからねっていう序文はあんまり少なくなったみたいですけど。
最初の方でやっぱり出した本だと、そういう序文が11ページぐらい回るみたいな。
どんだけ早くなげんだよっていう。
でも確かに昔の、今の翻訳ものとかあんまりないですけど、昔の翻訳もたしか序文とかありました?日本でも。
あった。
ありましたよね。
あった。
でもまあ背景もこういう背景で書かれていて、この作者はこういう経歴があってみたいなやつ、結構あったじゃないですか。
あった。ありました。
でも11ページもさすがに長いかなって感じがするんですけど。
あと3ページですよね。
そうそう3ページぐらい。
そう、ヨドガワ朝日さんが日曜日のショーで最初に解説してくれるみたいな感じじゃないですか。
はいはいはい。
要は要は。
はい、それではどうぞみたいな感じで始まるじゃないですか。
あの程度なんですけど、11ページも解説があるっていうのがなかなかすごいなっていう。
それだけあなた今から異世界の本を読むんですよっていう迷惑をする。
やらなきゃよかったのにみたいな。
まあね、その人たちがやってくれたのがあるから今があるんでしょうけども。
そうそうそう、そうだと思います。
いやでもね、あ、でもそれ考えると本当、金閣寺なんかは割と。
いやーこれ金閣寺もコア破壊できてくるんですけど。
ダメ?
これがまたですね、これがまたすごい揉めに揉めみたいな話があって面白いですけど。
まあちょっとそれは後に話せれば話したいんですけど、
まあそのあと、あ、もうこのレベルからなのかっていうのが、
それいちいち言い始めたら本当に大変だなって思ったのが、
そのまたおさらぎ二郎の気況に戻るんですけど、
日本の地名問題っていうのが出てきて、
日本の地名をどう訳するのかと。
これがまあ、だからファンに買ったのローマ字で仙台とか東京とか、
ああいう風に訳すればいいのかっていうと、そうでもなく。
なんで?
もう地名って、その地名から連想される風景とか雰囲気みたいなのってあったりするじゃないですか。
それをどこまで汲み取らねばならないのかっていうのを考え始めると。
いいいい、もう汲み取らないの?
訳がわからなくなるみたいな。
もうこれどうする?みたいなのを現場でかなり混乱してたみたいな。
だからそれを英語に訳する方がいいのかとか、
いやもう英語に訳すのは無理だから、カタカナで、
カタカナっていうかローマ字表記でどう書いたらいいのかっていうのが結構悩ましい問題として載っていて、
英語に直したとしても、ただの単語の台詞にしかならなくて、
日本語を持ってた、たとえば鴨川とか、
日本人だったらたぶん鴨川とか読んで、
京都の鴨川ね、とか東京とか、
なんとなく東の京って書くから、
京都があってそこの東にあるから東京っていうのが、
なんとなく共同認識としてあるじゃないですか。
まあまあまあ、でもそこもね、放っていくとまためんどくさいと思うんじゃないですか。
めんどくさいか。
そう、でもそれどこまで汲めばみたいな。
あとお寺の名前ってこれちょっと出てくるんですけど、
西宝寺、西の草株に方角の方ですかね。
カタ、あとお寺。
かぐわしいみたいな感じかな。
そうそう、かぐわしいに、
西宝寺とか、あと竜安寺、竜の安寿寺ですね。
やっぱりこれがこの従来から立ち上がってくるイメージってやっぱりあったりはして、
それをどこまで英語に持ち帰ってくることができるのかみたいなのを悩んだ。
ただ、ザ・ウェスタンフレグランス、なんていうんですかね、寺みたいな、
西のかぐわかしい寺みたいな訳し方にしたらいいのかとか、
竜安寺はドラゴンを安らぐ寺みたいな感じに、
なんとか落とし込めたみたいなのはしてるんですけど、
もうやっぱり無理だなっていうものについては、
カタカナ表記にせざるを得なかったみたいな。
そこもね、お寺と神社の違いは何とか言われちゃうとね、
もうやめてくださいみたいなこと言ってくれるんですけど。
それまた今度ね、になっちゃったらね。
ちょっと長くなるからね、みたいな。
確かにうるさいからな、みたいな。
そういうところまで確かにカタカナで書いちゃえばいい、
カタカナっていうかローマ字表記で書いちゃえばいいじゃんとか、
簡単に考えちゃいますけど、
作品の雰囲気って結構地名とかによるとか、
固有名詞の響きとか地面にやっぱり寄ってる部分も結構あるので、
それどうするみたいな。
日本人が英語が苦手なのはそこもあるって言われてるじゃないですか。
結局それを説明したくなっちゃう。
リュウアン寺と一言でそれを流せなくなっちゃう。
この地面感を伝えたいって思うと、
とても大変になっちゃうじゃないですか。話が進まないっていうか。
だからそれはもうテラって終わっちゃえばいいのに、
でもリュウアン寺とは違うからだとか、東福島とか出てくると話が進まなくなっちゃって、
でも私も全然成長しない英語をずっと習っているんですけども、
一番最初のつまづきはそれだったんですよね。
端折った時の敗北感っていうか。
多分それと同じ、端折った時の敗北感をどれだけ受け入れていくかっていうところなんじゃないですかね。
オンカレスクなんかにそういう一つ一つの地名とかまで。
注釈がすごい長くなっちゃうってことですよね、きっとね。
あとカッコ悪いのを注釈に入れるしかないみたいな。
そうそう、注釈一冊みたいなね。
最初にその話が出てきて、うわ、そっからかみたいな。
これは難航するわなっていう。
そこまで持って帰ろうっていうか、英語に反映させようってなったら、
そりゃもう訳わかんなくなるなっていう。
あと言語的な部分なのかもしれないですけど、
あと文化背景がないから、本来目指していたものとは違う価値になってしまうっていうもの化したんでしょうけど、
味感じないからなっていう。
アルファベット文化って漢字ってないんだよなっていうのを、
漢字で見てわかるでしょ、雰囲気でみたいな。
そう、だって香りと、それだって、向こうだってフレグランスみたいな感じとか、
アロマとか、スメルみたいなのがあるけれども、
その微妙なニュアンスって、漢字で日本人はわかるじゃないですか。
脱臭剤の臭だと、あっ臭い匂いねとかね、
芳香剤の香と嗅ぐわしいだと、両方いい匂いだけど、嗅ぐわしい方がちょっと気品があるなとか、
そういうことを説明し始めると、本当物語進まないですよね。
進まないですね。
あとは書き方というか、考え方のフォローで出てくる。
大沢木二郎の貴教、申し訳ないです。これ私読んだことがないんですけど、
長くアメリカに住んでた主人公が日本に帰ってくるっていう話なんですよ、簡単に言えば。
で、古い邸だとかに行って、リュウアン寺とか行って、
苔とか、そういう苔むしてる石垣とかを見て、
ちょっとやっぱり外国とは違うよなーみたいなことを思ってるみたいな、ざっくりした説明ですけど。
日本に帰ってきたなーとそこで思うみたいな感じですか?
向こうにはないよな、ここに美しさを見るっていう、
貧しい、その簡素なものに愛着をせることにより生活の貧しさに伝えることを学んだ人々の神秘が思い出すのだと。
この石垣とか。
ワビサビね。
ワビサビですよね。
ワビサビだし製品だしって感じですか?
それが良いみたいな感覚って、あんまりそんな豊かとかそういうものを求めない生活に耐えることを学んだ人々の
だからこそ持ち得るものなのかなーみたいな。
ワビサビはね、あえての製品みたいなね。
あえてですけどね、あれ。
あえての丁寧な暮らしみたいなね。
あえてなぜ貧しくみたいなね、感じになりますね。
浮世の場面、これちょっとよくわかんないかな、なんて言ったらよくわかるんですけど。
日本人の、ストラウスさん、編集の舞台裏を後から明日手紙みたいな中に書いてあるのが、
日本人の想像する内容は我々のものよりも遥かに感覚的である。
そのため我々の主観的な文章は感覚的に浸りすぎ、重苦しく自己憐憫に満ちているかもしれないが、
日本の主観的文章は気分や雰囲気を喚起するために具体的な象徴を用い、
極めて鮮やかで知覚的でありフランス印象派の絵画によく似ている。
はっきり書かないんですよ、と。
例えば、またアドフタイルスキー出しますけど、めちゃくちゃ書くんですよね。
めちゃくちゃ書くんですよ。
タイミングつかなっていうぐらい、もうびっちり書くんですけど、
この時、こう思ってて俺は、みたいな。
それ5ページぐらい続くみたいな。
長ぇ、みたいな。
でも、日本人は5ページを、例えば、見上げた月であるとか、見上げた月がちょっと雲がかかってる月を書くことによって、
それを5ページを一行にまとめるみたいな、そういうことができちゃうんだけれども。
圧縮ですよね。
だけどそれが、なんだろうな、手抜きであったりとか、それがひもじいことではないっていうことを言ってるってことですよね、きっと。
言葉がひもじかったりとか、わびさびもひもじさとか、そういうのがいいと言っているわけではなくて、
それが美徳であるっていうふうな捉え方をするから、
そういうふうに、文章の中では大変貧しいっていうことがつらつらと常に貧しいことが書かれているけれども、
それは日本人にとっては、悪いことだけではないっていうか、
なんかそういうことじゃないですかね。
違うのかな。なんか鮮やかさであったりとか、
暗さの中にも明るさを見いだせる人たちじゃないですか、我々。
だけど、ダークと書いてあるから暗いわけではないっていうことじゃないんですかね。
違うのかな。
心理描写がそんなに、まず少ない。
西洋圏の小説と比べたら心理描写というよりは、そんなに細かく書いてないと。
象徴的な、例えば絵画的な感じっていうか。
だから古い家は数飛び込み炭の声。炭の声混じってるな。何かと。
何かと混じったらいい。
岩に沈んでいる炭の声ですね。
そう、炭の声とか。そういう、あれですよ。そういう世界ですから。
でも別にそれで何も書いてないから、書いてる分量が少ないとかぼんやりしてるからといって、
そこに出てくる主人公とかが何も考えてないっていうわけでもないし、
何も思ってないっていうのもあるでしょうけど、
そもそも西洋人の思考体系とまた違うんだよっていう。
めっちゃ考えるみたいな。
めっちゃ考えてるみたいなと、また違うからね、そこみたいなことを言いたいのかなっていう。
そうですね。でもほら、めっちゃ考えてるって言わないと考えてない人ってやっぱり思われちゃうから、向こうはきっと。
あとは、やっぱりこれが一番そうなんだろうな。日本文学らしいっていうか、日本人らしいなっていうのと一番本家にありそうだなっていうのが
日本人ははっきりとした解明法、意味嫌う。頼りたい儚きものに対して敏感な日本人はこのような結末の迎え方、まあこのようなっていうのははっきりしたオチがあるというのは最適だと感じる。
まあ、わざとらしいっていうふうに感じてしまうと。
極めて悲劇的な、あるいは幸福な結末の迎え方を求める代わりに、彼らは各々の生活や性格や運命に従って日々の生活が続いていくことを連想させるものを好むと。
はっきり終わった、みたいな感じの。もしくは幸福に暮らしましたとさ、ちゃんちゃんで終わるんじゃなくて、なんか起きたんだけど、まあそれは起きたことは起きたことで、また日常に戻っていくみたいな。
そして日常は続いていくみたいな。
わかるそれ。
あるじゃないですか。
ある。黒沢明みたいな。
今のドラマとかでもそんな感じじゃないですかね。
ちょっと話ずれるんですけど、この間SNSでドレスカデンをなんかで見た人が、全然意味がわからないと。意味がわかんないけど最後まで見てしまったっていうSNSに出てて。
私もドレスカデンは最後まで見ちゃったんですけども、本当わけがわからないんだけれども、通りすがりのSNSの人も言ってたんですけども、みんな不幸なはずなのにみんな不幸じゃないっていうのが日本っぽいっていうのを書いてて、本当それなんですよね。
なんか腐ったサバを食べて死んでしまう苦労者の親子とか、浮気したしないみたいな感じで喧嘩をしている人たちとか、知的に障害があるような子が出てきたりもするんですけども、みんなそんなにとりわけ全員がパッと見は幸福ではない感じなんだけど、どちらかといえば不幸よりなんだけども、
本人たちは至って不幸に思っていないっていう、そういう映画じゃないですか。あれもわけわかんないですよね。私もわけわかんないなって思いながら見たけども、なんか最後に感じる違和感、なんとも言えない感じっていうのは本当にそれぞれがある程度みんな幸せに、その不幸な中でも幸せに感じているっていうオチなんですもんね。
そうですよね。
そうですよね。日常は続いて、他の人の生活は続いている。自分たちの生命が終わったとしても、この人の生活はこの続いていくみたいな。あれって、でも私同じような感覚、フランス映画に実は持ってたんですけども。
なんかあれもぼやっと終わりますよね。
ぼやっと終わるじゃないですか。ここで出てきたエンディングロールみたいなのって毎回思ってたんですけど、でも言われてみれば日本の映画ってそうですよね。
さっきの話の続きで、仮に日本の小説家に彼の書いたある結末部分について問いかけたとしたら、こう答えることだろう。
なぜあなたに教えてやらなければならないのだろうか。まだあなたにわからないのであれば、私は登場人物たちをしっかり書き切ることができなかったに違いないと。わかるでしょっていう。
また謙虚な傲慢さ出てきましたね。
言わんとすることは書きましたよね。これ以上説明求めるんですかみたいな。
なんだろう。良さとも傲慢。全てを知ろうとする傲慢と、説明しないのにわかるという傲慢さと。
でもそこはやっぱり、皆まで言うなとか、やっぱりそこは言ってしまうのは、実際のその会話の部分とかまた違うかもしれないですけど、やっぱりそこは全部言ってしまう、書いてしまうのは部粋であるものの考え方があるんでしょうね。
でもやっぱり書いてくれないとわかんないよみたいな。これどういう因果で、これどういう理由でこうなってんのみたいな。詰めてくるみたいな。
西洋人と。いやもうそれはね、もう書いてますからっていう。あとは自分で考えてくださいみたいな。
ほんとそれって最初に的さんが説明でおっしゃってた印象派とか似てる感じ。
味わうものですよ、そこはみたいな。
味わうもの。
そのぼんやりしてますよみたいな。
そこを味わうものかと。そうですね。味わうものが日本文学だと。なるほどね。
でもまあ確かにこれをでもはっきり書いてしまうと、なんかやっぱりわざとらしいなっていう風に感じるだろうなっていうのはわかるんですよ。日本文学の構造っていうか書き方的には。
そりゃそうですよ。いきなりこうなんか生惜しいなみたいな。いきなり急にいいのにこれみたいなのってあるじゃないですか。
そうですよね。死体を映さずに死を連想させるっていうところにおよしとしているのに、死んだ情景をまざまざと書かなくてはいけなくなっちゃうわけじゃないですかね。
その説明をするとしたら、空気読めよっていう話が一番難しいですもんね。
そう、その落ち難難問題。落ち難難問題がですね、この気境もそうですし、種で食う虫にもやっぱり出てきて、種で食う虫も結局最後どうなったっていうのは明確には書かれてはいないんですけど、ぼんやり予見はされているっていうような思い方なんですよ。
前に読んだからどんな話だっけなって感じなんですけど、プリンセル夫婦がどうのかみたいな。何がちよくありがちな話だったと思うんですけど、予見はされているわけじゃないですよ。ヒントは出しましたよみたいな感じじゃないですか。でもそれは何とは言いませんけどみたいな書き方で終わるじゃないですか。
でもそういう書き方だとわかりづらいから、結末部分についてこれはどういう話ですよっていうのを説明しとかないとアメリカの読者はこれ納得しないよなっていうのが心配するところだったと。
あとやっぱりこれも序文にこのオチはこうですよっていうのを説明しとかないとこれまずいんじゃないかみたいなのを編集者の人が翻訳者の人に促すっていう手紙が残ってるんですよね。
あと書きでまた11ページ使っちゃうみたいなね。
もう読む前に落ちコウなんですけどみたいなのを説明しとかないと納得せえよなみたいな。
ネタバレさせてからね。
だからこれ読んだ99%アメリカ人その結末部分が何を意味するかを尋ねることでしょうみたいなの。すごいし。
私はエンディングが意味すると詳しく説明すると言ってるわけではありません。そうすることは間違いなく谷崎に気分を害することになるでしょうし必要ありませんと。
ただ私はあり得る意味をそれとなく示し、またいくつかの象徴が読み取れることを指摘してくれるようお願いしているのですと。
例えばこういうことが書いてあってこういうことが書いてあるから多分こういうことが読み取れると思いますよねみたいな。
皆まで言わんですけどみたいにヒント出しましたっていうのを言っとく先にみたいな。
どうする?キーナーとか太文字になったりしてね。
まあねそうですよね。他の国の文学ってね難しいですよね。
でもそれがこの場合だったら序文にこういう流れだからこういうオチが予想されますよねぐらいの指し示しじゃないですけど。
それだけ一応整っているからまだいいんですけど、そこに留まらず結局話の中身も変わってしまったよっていう事例もありまして。
そうでしょうそうでしょうそうでしょうね。
それがですね、その一例として大岡翔平のノビが紹介されているんですけど。
紹介されている章のタイトルが結末はなぜ書き換えられたのかっていうタイトルで結末変わっちゃってるんですねこの作品のタイトルが。
なるほど。
ノビは日本だっけなーってちょっと記憶がもうよくわかんないです。
その第二次世界大戦で日本軍が冷鉄砲で配送している時の体験、主人公がそれを体験していることをまず書いていて。
孤独とか飢餓とか殺人とかもすごい殺伐とした地獄みたいな世界が書かれているんですけど。
しかもその仲間を猿として狩り尽くすようになった戦友の姿とか。
最終的に確かこの戦友を主人公が撃つみたいなシーンでブツって切れてるでしょ。
ありがちありがち。
次のシーンで精神病院なんか入院してるみたいな話に移って、日本に戻ってきてるんだなと。
その会話の中で、その医者と会話するシーンがあるんですけど。
その医者との会話のシーンで最初書かれてたその冷鉄砲での話っていうのは、自由連想診断の延長として医者の勧めによって書かれたものだった。
手記だったっていうことが明らかにされて。
その会話の後に続くまた再び飲みにっていうシーンが始まるんですけど。
それもまた治療の一環で書き進められているものだと。
最後にその死者の書っていうので、その追悼を通して一旦なくしたはずの空白感を思い出したと。
自分がその撃った瞬間に記憶がプツってなくなってるんですけど、あの後の記憶がなくて。
自分は結局殺した人間たちの肉を食べてたんじゃないかってずっと思ってたんだけど、そうじゃなかった。
なんかよくわかんない人に殴られて、記憶がなくなって、結局でもその人の肉を食わずに済んだって。
主人公が神に栄えあれという、神への一言と共にノビィは唐突に終わるっていう構成になってるらしいんですけど。
これ英語版のノビィだと、この最後の3章が、最後の3章っていうのは日本に戻ってきて医者と話すシーンと、
その後にまた書いた手記、再びノビィと、あとその最終章、死者の消化。
これがエピロームとして一つにくくられて再構成されていて、さらに再びノビィで交わされている医者との会話のシーンがばっさり切り捨てられていて。
ラストシーンも、なんか結構、「そんな話したっけ?」みたいな感じに訳されていて、だいぶ違うオチになってるんですよ。
よくありがちなの、映画になるとオチが違ったみたいな感じの。
そういう感じですね。
一般向けに、幻想を読んだことがない人向けに、映画はわかりやすく作りましたよ、みたいな感じのニュアンスで作ってるってことですよね、きっとね。
なんでそういう話になったかっていうのも、解釈違いみたいなところもやっぱりちょっと発生して、その役者の人とのね。
役者はワイバー・モリスさんという方が、この作品について役をしていて。編集者は、これも確かアストラルスさんか。
あとイギリスのセッカー・ウォークバーグ社っていう出版社も関わってる話なんですけど。
この何ですかね、医者との会話部分とか、途中で記憶を失ったのをどういう意味と捉えられるかっていうので、だいぶその後の終盤のオチっていうのが変わってくるんだよっていう。
ああ、解釈違いねってこと?
そう、本当にこれは解釈違いで。
困っちゃうそれは。
それは大問題。
ところもあるし、あとはそうですね、この精神病院に入院されて手記を記しているっていう話とか、そこからまた手記として書かれていくその戦場の話とかっていうのは、ちょっと打足じゃないかみたいな話として出てくるんですよ。
なんかちょっとくどくない?みたいな。結局さっきの卑怯な話をしていた時に、日本の聖皇の小説だとはっきりしたエンディングを求めると。それに対して日本ってなんかよくわからんオチでモヤモヤと終わっていくって話をしてたじゃないですか。
だから結局向こうの小説ってなった時に、やっぱりその起承転結がはっきりしてて、ちょっとケツでクライマックスシーンが来て終わるみたいなのはやっぱり小説として思われてきたと。
そうなった時に、のびの構成だと、自分の戦意を打つっていうのが一番クライマックスじゃないですか。そこから先、実はそれは手記でみたいな。病気一環として書いて手記でみたいなことを言われると、なんやねんっていう感じの。
あそこでよかったじゃんって話になるわけですね。
あそこでよかったじゃんみたいな。逆にそれが白気させるみたいな。これいるんかっていう話になって。
でも、たぶん今の、もしこれはまた今出版するってなった時は、それはたぶん原点そのまま訳すると思うんですよ。もちろん。
ただ、この時期っていうのは、ネーベルとして売っていきたいっていう。日本文学を。売れる小説をやっぱり出版せねばならんっていう部分がやっぱあるわけですよ。さっきからこれは。
なった時に、やっぱちょっとこれ受け入れられるのかなっていうのは、やっぱり葛藤してたみたいな現場で。だからかなりその第2章以降は圧縮されていくっていう感じなんですよね。
全部そのバッサリ切り捨てるんじゃなくて、ただそれをなんて言うんですかね。そのまま訳するっていうのではなくて、圧縮していくっていう感じにはなっていくんですけど。
そこの打ったところ、最大クライマックスのところを引き立てるような感じにしていくということですよね。
そういう感じになるんですけど、やっぱ3章あるものをギュッとエンディングみたいな感じでまとめるって相当無理あるじゃないですか。
無理なことをするわけで。だから、訳の仕方もかなりぎこちなくなっちゃってるっていうのは、ちゃんと追っていくと。原点と訳されたものを追っていくと。
無理が出てくるってことですか。
だいぶ無理くりだな、これっていう。これは無茶してるよねっていうような圧縮の仕方になっていて、ちょっとこれは原作改編されてるよねっていうぐらいの変訳になっちゃってるかなっていう。
ただ、それを翻訳してきた人がこれ出て出してきたときに、編集者の人がこれはちょっとどうしようかなってなって、全部もう切っちゃいましょうってなったときに、
いやちょっとさすがにって言ったら妥協案みたいなの出してきて。
妥協。
そしたらなんとかならんですかねみたいな。
妥協案を出してはきたけれども、でもやっぱり後々、原作の大岡翔平さんがこの翻訳、最初に言ったのびの翻訳について語っていて、やっぱり不服だと。
私は意味したとかそうじゃなかったっていうふうなことを書いてはいるんですけど。
そうじゃそうですよね。でも原作者にしてみたらダソくなものはないですからね。
そう、そこはもう全部必然なので。
そこはあっての組み立てですからね、原作者にしてみたら。
そう。
その引き立ても何もなくね、作品としてはそこまでで作品ですっていうのはごもっともなお話ですよね。
その理由というか、なんであそこでぶん殴って記憶がないみたいなふうにしたかっていうのは、ちゃんと理由が述べられてるんですよ。
でもそれって本当は、それこそ皆まで言わないですよと。
読んでくださいねって話じゃないですか。
それもやっぱり技術ですからね。
ここですからねっていうのを、じゃあ注釈で書けって言うんかいみたいな話になってくるじゃないですか。
それはそれでちゃんと伏線としてああいうテクニックを用いたんですよっていう。
ただその、これは伏線なんだなっていうのを、やっぱりちょっとそこまで重視できなかったっていう、略するときに。
で、逆に物語としてはここクライマックスにしたほうが出れないというか。
アメリカン読者にしては自然に受けられるんじゃないかっていうのを優先してしまったっていうので。
だいぶ差異が出てきてしまうよねっていう。
当初その作者が目指していたものとはだいぶ違った結末になってしまったっていう。
でも、その技術って何?って感じもなってきますよね。
その技術が高まりすぎると結構、実社会で生きるの辛くない?
それない方が多分実社会では生きやすいでしょ?
そんなね、機微を常に感じて走って生きていく能力ってことじゃないですか。
日本人、生きづらい?それ。今思えば。美徳ではあるけれども。
小説の面白さってそこにあったはずなんだけど。
サスペンスというか、そういうパッケージで売るときにここちょっとダソくやーって。
じゃあ売ってるのはちょっとどうなったのかなーっていう。
でもなんかそのもう一個、別のそのさっきイギリスの出版社がいたっていう。
これ逆に絡んでたっていうか、訳してたっていうのがあって。
そっちは切ってないんですよね。確か。
そっちは切らずに、もともとの原作者が目論でた目的を踏み取って、
その和法の構造に配慮した編集手法を取ったみたいな話もあって。
それやっぱりイギリス人だからじゃない?
それやっぱりイギリス人だからじゃないですかね。
そう、だからこれ伏線なのでっていうのを読み取って、
その読者を読み取る余地を残すことに注意を払ったっていう。
面白いですよね。国民性が出ますよ、やっぱり読み方ってね。
国民性だったり、どういうふうに売り出そうかっていう戦略もあったのかもしれないですし、
どういうものは求められるのかっていう背景とかもあったのかもしれないし、
やっぱりその役者の人がどれくらいテキスト、日本の文学に通じてるというか、
また説得できるかですよね、その選集サイド。
ここ必要なんです、どうしてもみたいなのをどう納得させられるかっていう。
でも押し切られちゃったのかなっていうパターン。
現場の攻め合いすごい面白いなと思うんですけど、
それがちゃんと残ってるんですね、この手紙で。
面白いね。
なかなか必ずしも限定のまま訳されてるわけではないなっていうのの、極端な例なのかなっていうのは思いましたね。