我慢と困難の違い
はい、皆さんおはようございます。2025年10月15日、水曜日、ツカサです。
この放送は、ベンチャー企業の管理職、ツカサが日々の仕事や生活の中での学びや気づきをセアする番組です。
おはようございます。今日も既に10月の中日ということで、なかなかね、お忙しい一日を過ごしている皆さんも多いんじゃないかなと思いますが、
今日の放送はですね、霜期が始まってね、みんなの中でも面談時期に入ってくるんじゃないかなと思うんですよね。
そんな面談時期に入った中で、改めて自分に問いたい話をシェアしたいと思うんですね。
それは、困難は必要だけれども、我慢は不要っていうシェアです。こういう話をすると、なんだか自分勝手でわがままな人のセリフのように感じるかもしれません。
でも、そういう意味ではないんですね。今日はね、その我慢と困難の違いを自分の体験を交えながらシェアしたいなというふうに考えています。
僕らは、我慢が必要で、耐えることが美徳みたいな、そんなふうに教えられて育っている世代なんですね。
50代、昭和生まれですよね。昭和50年代前半、後半、その辺りの人たちって。
だけど、この考え方を最近は結構疑っていて、例えばスポーツで理解不能な根性論を唱えられて、とにかくいいからやれと言われると。
そんな時には、納得もしていないのに結果だけを求められるっていうね。いいからやれよと言われてね。
これって、困難とかじゃなくて我慢の領域ですよね。
でも、強い競合校とかそういったところでは黙々とやってね、そして結果を残しているような時もあるわけですよね。
で、この困難と我慢、何が違うんだっていうふうに考えた時に、これって納得感があるかないかっていうことだと思うんですよね。
納得できない辛さは我慢になって、納得して挑む、そういう辛さは困難になる。
前者、つまり納得できない辛さっていうのは心を擦り減らして、後者は納得して臨む困難、辛さね、それは心を鍛えるっていうことだと思うんですよね。
だから、我慢は心を擦り減らして、困難は心を鍛えるっていうね、そういう理解でいいのかなって僕は考えてるんですよね。
でも、そうは言っても実社会において、僕ら会社で管理職とかしてる中では我慢も必要だと思うんですよね。
こうは思わないんだけどなとか、もちろんプライベートでも我慢を強いられてる人っていると思うんですよね。
コミュニケーションの重要性
我慢っていうのはだんだん慣れてくる、もしくは麻痺するのどっちかになると思うんですね。
慣れっていうのは意識してこれを続けていこうって自分に言い聞かせながら積み重ねるもので、一方で麻痺っていうのは感情を押し殺して感じなくなるっていうことで、全然これ両方とも違うわけですよね。
慣れには成長はあるけれども、麻痺は破壊っていう感じがします、僕の感覚では。
だから感じなくなった瞬間に人は自分を見失って心が壊れていくのかなと思うわけですね。
我慢の中に慣れがあるうちは続けられるけれども、麻痺が混じってくるとどこかで破綻するんじゃないのかなって思うわけです。
なので、先日ある人からのアドバイスで、司さんは我慢する人じゃなくて、我慢はしない方がいいタイプの人間だと思いますよと。
困難は必要だけど我慢は不要だっていう言葉をいただいて、自分の中で言葉の整理をしながら、今日の放送をシェアにつながっているんですね。
正直、自分の中で聞いたときには、負に落ちた部分もあれば、何かうまく言語化できないような、そんなところがあったんですけれども。
よく考えてみれば、わがままになれとか、自分を解放しろとか、そういうことではなくて、そういう短絡的な意味合いではなくて、
対等であり、立場が違えど、メッセージを発信するというか、伝えるという立場において、そういう人としては対等であるという、
それを自らを卑下するようなことはいらないんじゃないですかっていう、そんなメッセージだったんじゃないのかなって思うんですね。
僕はそういうふうに見えたんだと思うんですよね。
我慢して黙るっていうのは、男性陣はよくある話で、もしくはコミュニケーションが苦手な人はよくある話でね。
言語化して伝えるっていうところがものすごく大事なのかなと思うんですね。
意志を言葉にして、相手との理解を交換するっていうこと、それが対等なコミュニケーションだと思うんですけども。
成熟した人間関係の第一歩としては、言語化とそれを伝える、伝わるように伝えるっていうところがすごい大事なのかなっていうことを気づかされた、そんなメッセージだったんですね。
対等であるっていうことについては、これは例えば家庭であっても、我慢して黙り続けたりとか普通にあると思うんですよね。
会社でもそういったこともあると思うんですよね。
波風立てたくないとか言っても無駄だとか、黙ってではやり過ごせるなとか。
でもそれって本当の意味では、優しさでもなければ何でもなくて、我慢でつながっている関係っていうことだと思うんですね。
我慢でつながっている関係っていうのは結構脆いというか、どちらかが壊れたとき、つまりどちらかが麻痺し始めていったときにね、
対等な関係だと思ってね、意見がぶつかっても対話がうまくできないとか壊れていくっていうね、そういうことがあると思うんですよね。
だから我慢のないコミュニケーションだというふうに、全ての組織、コミュニケーションにおいてはそれが必要なんじゃないのかっていうことが、
僕の中の気づきというか、大事なことなのかなというふうに今思っていることなんですね。
だから我慢のない関係っていうのは、見方を変えると感情をぶつけ合うような関係のように見えるけれども、そうではなくて、
自分の言葉を、自分の考えを言語化して伝える、勇気を持つということ、相手の考えを受け取る余裕を持つということ、
聞いても怒らないというか、でも僕はこう思ってたんですということを我慢して言わないんじゃなくて、我慢せずにこうなんですけどっていうふうにお伝えするということが、
視点を増やすことの重要性
僕は大事なのかなって最近は思ってて、不要な感情はいらなくてね。感情論は不要で、伝える気持ちがあるならばやっぱり伝えるっていうことが大事なのかなと。
だからそれは我慢の関係ではなくて、意見、理解を交換する場っていうね、そういうふうに差し替えると。
そのためには今ある難しい状況っていうのを我慢するべき状況ではなくて、こんなんで自ら選んできた道なんだっていうふうな視点を持っていないと難しいのかなと。
もしくはそういった視点を持つことで、いろんな我慢したことが困難というものにすり替わってね、自らそれを乗り越えていく力になるんじゃないのかなというふうに思っています。
この視点を持つ、理解を深めていくっていうことは、やっぱりね、たくさん持っているってことが大事だと思うんですよね。
一つの視点しか持っていないと世界が狭くなっていって、いろんな見方があるんだっていうことをいろんな人から教えてもらう。
だからこそ、このアドバイスしてもらうこととか、他の人の考え方を聞くことだったりとか、自分が正しいと信じないこととか、そういうことがものすごく重要になってくるのかなと。
つまり視点を増やす力を養うためには、自分が正しいと信じて疑わないっていうことだと思うんですね。
自分も間違っているかもしれない。なぜならば僕らやっぱり正解がない問題に常に立ち向かっていて、正解のない問題に立ち向かっているからこそ、いろんな視点を持ち続けるっていうことが重要になってくるんだろうなというふうに思っています。
話が長くなりましたけれども、自分が間違っているかもしれない。もしくは相手も間違っているかもしれない。もしくは正しさなんてないものかもしれないということとか。
いろんなことってあると思うんですよね。自分の理解と相手の理解が違うとかね。
でもそういったことも含めて、やっぱり全てにおいて自分が納得感を持って理解を深めて行動に移るっていうことがとても大事なのかなと思っています。
つまり最後になりますけれども、まとめるとね、困難はやっぱり人生には必要で、困難があるから人は磨かれると。でも我慢は自分を鈍らせて、感情を増しさせることもあると。
だから自分で選びる困難っていうのをやりながら他人に我慢を強いないということが僕には大事なことなのかなというふうに思っております。
はい、ということで今日の放送は以上です。この放送が皆さんのお役に立てたら嬉しいです。それではまた皆さん明日お会いしましょう。さよなら。バイバイ。