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はい、皆さんおはようございます。2025年2月24日、月曜日、ツカサです。この放送はベンチャー企業の管理職、ツカサが日々の仕事や生活の中での学びや気づき、そしてビールを通じて豊かな人生をお届けする番組です。
皆さんおはようございます。今日も元気にやっていきたいなと思っておりますが、今日の放送はちょっとお休み会ということで、僕の老いたちとか、何やってる人なんだっていうのをちょっとお話ししたいんですよね。
改めて言うことって、そういえばあんまりなかったなって思うんですよね。もうね、495回目かな、今日が。すごい続いてはいるんですけども、あんまり言ってないんだよね。だから今日はね、自己紹介の回ということで話したいんですね。
僕は1975年生まれの、今49歳、6月で50歳になるアラフィフですよね。岩手県のシワ町っていうね、ちょっと森岡よりも南の方ですね、の町に住んでまして、家族は4人ですね。
妻と子供2人ですね。長男はもう大学生になって家から出てるんですけども、娘がいて、3人で今は生活しているということです。
地元でね、僕はずっと育つんですけど、小学校、中学校は水泳をやっていてね、スポーツは得意というよりかは好きだったっていう感じですね。
やっぱり幼少期に、小学校3年4年の頃に結構いじめられた経験があって、それがね、すごく心の傷になってるんじゃないかなというふうには思うんだけども、
すごく周りの空気を読むというか、周りの空気が乱れないような立ち振る舞いをするようなことを、ずっとそれ以降ですね、影響されてやってたなということは思うんですね。
中学に上がってスポーツをやるんだけど、水泳をやって、個人スポーツですね。高校入ってバレーボールっていうのをやるんですけど、バレーボールはチームスポーツだけど下手くそでしたね。いつまでも補欠でしたね。
高校はすごく新しい高校で、創立4年目の県立高校だったんですけど、いろんな人がいましたね。生徒も先生も。ちょっとユニークな高校で。
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小塚田高校っていう、これまた名前もユニークなんだけど、小塚田ってね、レテンが入るね。不思議の不に、来るに、方向の方って書いて小塚田高校って読むんですけど、これがバレーボールの競合校で、めちゃくちゃ下手くそだったっていう話ですね。
1年間浪人するんですけど、浪人した先は大阪の八尾市っていう日本一犯罪の多い町っていう看板がね、駅を出るとあったんだよね、当時ね。
その町で1年間浪人生活をさせてもらって、そこでは阪神淡路大震災を経験するんですね。
友達がね、泣き崩れる姿も見てましたし、友達の友達が亡くなったとか、いろんな話を間近で聞いて、本当にショックだったし、その人たちを助けることもできなかったなとか、
結局僕は東北に帰るんだなっていうのを、親からも言われてね、危ないから帰ってきなさいみたいなことを言われたりとかして帰ってくることになるんですけど、結構それも大きな体験だったなと思うんですね。
それも仙台の大学に入りまして、これは工業大学なんですけれども、工業大学に入ってからは、自分は何者なのかっていう、この辺りからすごく考える、大して頭は良くないんだけど、考えることだけは人並みに考えること多かったんじゃないのかなと思うんですよね。
一回きりの人生だし、みたいな。
それから私はアルバイトしてお金貯めて、まずは英語全然できないけど、英語も無理だからドイツ語をやろうと思ったのね。
ドイツ語って発音がカタカナ発音に近いから、マスターするの早いからとかっていうことを、当時の僕の友達が僕に吹き込んできて、そうなんだなって始めたらめちゃくちゃ文法難しくて、大変だったんだよね。
だけどそんなどのくらい大変かっていうのもよくわからないままドイツ語を勉強してて、1年間勉強して、その間アルバイトしてお金もすごい貯めて、1ヶ月、私費で留学しようと思って。
旅行代理店みたいなところを頼んで、結構なお金かかったね。
それで行くわけですよ。
ホームステイでね。
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20歳かな?
21歳の時か。
初めてドイツ行って。
全然話せないのね。
めちゃくちゃ苦労して。
で帰ってきて真面目に勉強して、これはいかんなと。
真面目に勉強して、その時も真面目だったんだけど、いろんな選択肢があるなっていうのをその時初めて知って。
ドイツに入学すると、いろんな大学の人もそのところにいてね。
日本人もまあまあいたんで。
そうすると関東や関西の大学生で、ドイツの文学やってる人とか英文やってる人とか、
工学って人はいなかったんだけど、いてね。
そんな風に考えてるんだとか、こういう考え方でドイツわざわざ来てんの?とか。
僕みたいな人は珍しかったんだけど、心理学やってる人とかもいてね。
で、えーと思って。
で、留学するならいろんな方法あるよみたいなことを言われて。
で、それで自分でいろんなこと調べて、ちょっとお金もかかるから留学って。
奨学金狙っちゃおうと思って。
で、奨学金の試験受けて、1年後にね、受かって。
で、それでお金もらって、1年間現地で留学するっていう機会に恵まれたんですよね。
そしたらね、そこでビールに出会っちゃって。
これまたビールがめちゃくちゃうまいのね。
で、うまいビールがあると、とりあえずコミュニケーションはなんとかなるのね。
で、思ったんだけど、コミュニケーションは言葉じゃないなっていうのをものすごい体感するというかね。
これがまた次の現体験につながるんですけど、そういった1年間を通じて日本に帰ってきて、ビール業界に入るきっかけになるわけですね。
で、ビール業界は大手ビールメーカーにはなかなか入社できないからね。
工業大学からは。で、前例もないし、チャレンジしようにも枠ないし、みたいなところで競争自体も激しかったから。
ちょっと考えたのは、僕はちょっといろんなクラフトビール、世界どこでもよかったんだけど、
そういうビールに興味があるから、まずはそういった業界に入って、ビールのことを学びながらドイツ語とかも勉強して、
で、改めてドイツにもう一度留学して、マイスター資格っていうのを取ってね、ビール作りをやってみたい。
そういう志で就職するわけですね。
ところがですね、その当時銀河高原ビールっていうところに就職するんですけども、たまたま岩手県にあったんだけど、
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岩手の銀河高原ビールで就職したらね、ものすごい大変なわけ。
豪雪地帯なんですね、そこの会社があるところが。
岩手県の当時沢内村っていうところで、日本のチベットっていう異名が、不名誉な地名じゃなくて異名があったんだけど、
とにかくね、山奥で雪深いのね、だから冬とか通ってられないわけ。
で、1年間近くに住んだんだけど、ちょっともう本当監獄みたいだなと思って、これまずいなと思って。
で、苦しいけど通うんだよね、その後2年間。
で、当時僕のことを面接してくれて、銀河高原ビールに入社させてくれたっていうか、したきっかけになった人っていうのが、
僕が入社していったらね、なんと会社を辞めていたっていうね、驚きの現場だったんだけど、
で、その後その人と出会うわけなんです。その後出会うというか、その後も連絡を取り合っているんだけど、
その人はなんと、私が入社したその3年後に独立してベアレンビールっていうベンチャー企業を立ち上げるわけですね。
で、その立ち上げに僕のことも声をかけてくれて、それで参加すると、入社するっていうような僕の人生なんですね。
根本をたどっていくと、僕はすごくビールが好きで、ビールが好きになったきっかけはやっぱりコミュニケーションに困ったっていうね、
その原体験があって、それを助けてくれたビール、そのビールっていうものに対してものすごく興味を持って、
こういった素晴らしい飲み物を自分の手で作って広めたい。
それが巡り巡ってコミュニケーションとか、困っている人を笑顔にするだろうというような志を当時持ってね、
この業界に飛び込んだというわけですね。
ここまでが今の会社に入るまでの話なんだけど、ざっくり言って、リールで翻弄された人生だなと。
俺が選択した人生ってのはそういう人生だなというふうに思っていますけれどもね。
皆さんの人生もいろいろあると思いますけれども、私のこれまでの自己紹介、そして経歴、いかがだったでしょうかね。
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この放送が皆さんの僕を理解する何か手助けになったらいいなとは思いますけれども、
経歴だからね、これはね。人となりはまた別だから、分かりにくいとは思うんだけれども、
いろんな節目節目で人生の選択をしているんで、それについては僕がやってきたという自負があるんでね。
誰かがどこかで決断するときの迷いがあるならば、それの背中を押してあげられるような、
そういった放送を中間管理職のラジオではお届けしたいなというふうに思っています。
はい、ということで今日の放送は以上です。
この放送が皆さんのお役に立って、そしてこの放送が楽しくなるようなものになったらいいなというふうに思っています。
はい、それではまた皆さん、明日からお仕事頑張りましょう。さよなら。バイバイ。