自己責任とは何か
はいみなさん、おはようございます。
2025年10月29日、水曜日、ツカサです。
この放送は、ベンチャー企業の管理職、ツカサが日々の仕事や生活の中での学びや気づき、
そしてビールを通じて豊かな人生をお届けする番組です。
みなさん、おはようございます。
いや、今日も寒い1日が始まりましたが、残りね、わずかですね。
10月もね、どうだったでしょうかね。
もうね、10月始まる前に、今年もあと4分の1と。
4分の1ならば、まだまだやれることがありますねっていう話をした中で、
4分の1の3分の1が終わるっていうね、そういったタイミングですが、いかがでしょうか。
私はですね、ちょっといろいろ振り返ることもありますけれども、
今年はね、今年というかこの30日間はね、ほぼ30日ですけども、
いろいろありましたね。いろいろ、もう節目の1ヶ月になりましたね。
もう、ちょっとここで言えないんだけど、たくさんいろんなことがありました。
今日のテーマはですね、自己責任とは何なのかっていうね、そんなシェアをしたいんですね。
本題に入る前にお知らせをします。
今週の日曜日、11月2日なんですが、シーアルプストレイルレース、こちらの方に行ってまいります。
こちらはね、北三陸の普大村からですね、54キロぐらい南三陸海岸を走るトレイルランニングレースで、
ベアレンビールがドリンクスポンサーになっているということで、こちらの方出走してくる予定です。
ですが、ちょっと体調がおまえ少なくて、ずっと咳が止まらなくて、
昨日病院に行ってきたんですけども、ちょっとね、肺の調子が良くないなということで、
咳止めなどもお薬もらってきたんですけどね、
ちょっとね、そこのお医者さんがね、あんまり精密検査しないんだよね。
めんどくさい方かな、もしかして。
1週間分咳止めをもらって、これで止まらなかったらレントゲンを取ろうね、みたいな話で、
多いんだろうね、きっとね、そういう患者さんが。
僕はね、もうね、2週間ぐらい続いてるんだけど、胸も痛みがあるんだけど、
しょうがねえからもうちょっと待つかっていう話なんですが、
それはさておき、本題に入りますね。
自己責任とは何なんだろうかっていう話。
これね、私が大好きな経営者なんですけども、
川崎亮太さんという方が、ボイシーのパーソナリティーでいらっしゃいまして、
この方はですね、柔道障害をお持ちなんですね。
だから体が動かない。
だけど声も出せて、いろんな方に介助してもらいながら、
自立生活を送ってらっしゃる経営者なんです。
この方がね、いかにして自立生活が成立するのかというような話を、
今回、今日からね、何回かに分けてお話しされるということで、
非常に楽しみにして聞いているんですけれども、
自由選択と自己決定
その中でね、
自由選択があって、
自己決定があって、
自己責任があるっていうね、
この3段階がとっても大事なんだっていう話があって、
これはね、普通にマネジメントでも同じだなって思うような話だったんで、
ちょっとシェアさせてもらいたいんです。
例えば、柔道障害をお持ちの方が、
今晩は肉じゃが食べたいなというふうに思ったときに、
介助者の人に対して基本的には選択肢がある。
そして指示をするわけね。
自分がこれをしたいという指示をする。
そして、それを実行することによって責任を負うわけですけれども、
例えば肉じゃが食いたいなと。
今日はジャガイモも人参も玉ねぎもあると。
肉じゃが食いたいなと思ってたけども、
カレールーが中途半端に余ってるから、
介助者の人が、
今日はカレーがいいんじゃないですかと。
カレーの方がいいんじゃない?
肉も消費できるしみたいな感じで、
いとこも買ってくる必要もないしみたいな感じでね、
カレーがいいんじゃないかっていう話をするわけですよ。
で、カレー、肉じゃががいいんだけどって言ってるんだけど、
カレーにしましょうってカレー作っちゃったと。
で、カレーを渋々食うというような話があったんですね。
もしくはこれは家に帰ってから、
自らお願いしますって別の人にお願いして、
肉じゃが食うっていう話なんだけど、
この話ですごく大事なのは何なのかっていう、
僕なりの解釈なんだけど、
自由選択がありますと。
で、自己選択をしましたと。
で、介助してもらう人に対して、
これをお願いしますって言うんだけど、
介助者からしてみれば、
こっちの方があなたにとってはいいんじゃないですかっていう
鑑賞をしてくるわけね、この意思決定に対して。
そして、もしかしたらお腹壊すかもしれないから、
カレーの方がいいんじゃないかとか、
そういう話をしながらカレーにしちゃう、みたいな。
ここには見えざる力の関係があると思うんだけど、
支持してる側が、
自分の意思とは反したものを受けざるを得ない、
みたいな感じですよね。
これはね、
最後の自己責任っていうところの捉え方の問題だと思うんですよね。
例えば介助者からしてみれば、
カレーであったら間違いないけど、
肉じゃがで腹壊されたらどうしよう、みたいなことを
例えば考えたとして、
話はずれるけどね、ちょっと論点ずれるんだけど、
肉じゃがでうまく、
仮に肉じゃが作って腹壊したとしても、
自分で選択したもので腹壊したとなったら、
何の文句もないわけですよ。
選択した人からすればね。
だけど、その責任をお前のせいだって言って、
押し付けられると、
介助者側からするとたまらんという話になるわけね。
だから過干渉しちゃうということになると思うんですよね。
これちょっと一例ですよ。
そんなことが行われているかはちょっと別として、
自己責任をどう捉えるかということの一例として、
ちょっと例を出してるんですけど、
つまり、
良かれと思ったアドバイスがありますと。
だけれども、意思決定している人は、
失敗しても腹壊しても何してもいいから、
俺はこれをやるんだっていう意思決定をしているわけですね。
その時に、いやいやそうじゃないっていうことが、
その人の意思を尊重していることになるのかっていう話ですよね。
そこは、この話は会社の組織にもすごく当てはまる話で、
上司が部下に対して仕事の指示を出すと。
部下が失敗しそうだなと。
このまま行くと失敗しそうだなって時に、
いやいやこの方がいいんじゃないかと。
お前これはこうした方がうまくいくんじゃないかと。
だからこれやりなさいと。
例えば上司が言ったとしてね。
でも部下は、いやそれでも私はこれをやるんだと。
自己責任と意思決定
例えばよ。やるんだと。
責任ですか?
もし仮にこれが失敗したら、私この会社辞めてもいいですみたいな話をしてね。
じゃあやれよというぐらいの。
これ冗談だけどね。
こんな話がもしあるとするならば。
俺何の話したんだっけ。
自己責任の話ですね。
自己責任なんですけど、取れる責任があってね。
そしてそれに対して揺るがない意思があるならば、
それは尊重されるべきなんじゃないかという話ですね。
ちょっと組織に置き換えたのは間違いだったかもしれないけど、
例えば生き方ですよね。
夢があって、
例えば今あなたが中間管理職だけれども、
あと3年後に独立しようと思っていますと。
ここで培ったスキルとノウハウを自ら体現して、
そして社会に還元したいと思っていますということで、
3年後の独立を目指していると。
そのことを上司に話しましたというときにね、
いやいやお前これ失敗するからやめとけって言うのか、
それともお前が決めたことなら、
お前がやったらいいんじゃないかって言うのかっていう話ですよね。
本人の受け止め方としても、
だって俺の人生だものって話ですよね。
だって俺の人生だから、
俺が選択して、
選択肢の中から自分の人生を選択して、
そして決めて、
そして失敗しても自分の人生だから、
責任は自分がかぶりますという、
そういうスタンスなんだけど、
これはね、
当然といえば当然なんですよね。
じゃあ上司がつべこべ言ったからって言って、
自分の部下の人生の責任を取れるのかって話だけど、
取れないよねそんなのね。
だから自分の人生の意思決定に関しては、
アドバイスは聞くけど、
どうせ責任というのは自分なんだから、
自分が得るんだっていうこの自己責任ね。
重度障害者との関係
最終的にはここが尊重されなきゃいけないんじゃないかって僕は思うわけね。
で最初の話に戻るんだけど、
肉じゃがとカレーの話ね。
俺は腹を壊してもいいから肉じゃがを食うんだっていうこの意思決定に対して、
いやいやカレーでも食っとけっていうのは、
そりゃあさ、そりゃあねえだろって話なわけね。
俺が思うにね。
だからこの意思決定は尊重されるべきで、
重度障害者の方と解除者との関係っていうのは、
解除者はアドバイスはするかもしれないけど、
言われたことを尊重して解除していくということが、
正しいやり方なんじゃないかなとは思うんですよね。
正しいって何が正しいかわからないんですけど、
望ましい形なのかなって思うんですよね。
そうでもしない限り失敗なんてできないと思うんですよ。
過干渉を抑えちゃうと。
仕事でも同じだと思うんですよね。
もし仮に失敗させられるぐらいの余裕があるならば、
干渉はせども失敗する余白を残して、
ある程度の着地点で失敗させてみるっていうことは、
とてもいい経験になると思うんですよね、部下にとってはね。
上司がカバーできる範囲でやれるならばね。
だから僕はこういうことってとても大事で、
その人の意思決定をなるべく尊重するっていうこと、
そこに上司と部下、あとは重度障害者と解除者、
そういった関係性の、親と子どもとでもいいけれども、
信頼関係とリスペクトっていうものがあるんじゃないのかな、
というふうに思っています。
だからパワーポジションがある人とか、体が強い人とか、
そういう人が弱い人とか弱い立場の人をリスペクトしないっていうね、
その感覚がダメなんだと思うんだよね。
そこには年長も年配も男も女も、
強いも弱いもないと思うんだよね。
ただあるのはリスペクトだけっていうね、
そういうところなんじゃないかと僕は思うんだけど、
皆さんどうお考えでしょうかね。
僕はちょっと飾ってからどうなんだろうな。
もしよろしければこのお話に対しての皆さんのご意見、
ご感想をいただければ嬉しいです。
そしていいね、コメント、いいね、コメントお願いします。
それでは皆さん、また明日お会いしましょう。
さよなら。バイバイ。