寒中みそぎの現代的意味
電車乗ってたらニュース流れるんですよ。流れますよね最近、ドア上に。
それで、寒中みそぎ行事が行われた。
いやー凄い行事。伝統行事。この寒い中ね、水かけてるんですよ。つらそー。
大丈夫なのかしら。心臓も一回抑えるのかしら。
心配になってしまいました。
思考は完成させなくていい。
気になったテーマを深掘り。
改めまして、今回のテーマは、近代化が奪ったのは行事ではなく、耐える身体ということで話を進めてまいります。
心配するのはなぜかというと、昔の人と違って、今の人って暖房をよく利いてるし、
断熱性・機密性の高い家で、ぬくぬくと体が甘やかされて、そういう環境で日々生活しているじゃないですか。
そんな体が、急に、そんな冷たい昔ながらの行事で水を浴びて大丈夫なんだろうか。
昔の人はもうね、寒い家の中で、日々ね、冬になれば寒い環境に暮らし、体が鍛えられていた。
その中での培われた行事であったので、バランスが取れていたようにも感じるんですが、
現代人が昔の人と同じことをやったら、体が甘やかされて弱っている分、危険なんではないかって思ったのが、私の今回の気になった点でございます。
環境と身体の変化
だからもう、修行とかを通して過剰な負担、危険な行為になっているんではないでしょうか。
そんなことなんて、そういう話あるんでしょうか。ということでちょっと調べてみましたら、ありますよね、やっぱり。
水をかける寒虫みそぎのほかにも、安全か危険度で言えば有名な迫力満点、恩柱祭りとか断じり祭りとか。
怪我とか死亡事故も、それは昔から起きているようですけども。
それが現代の安全基準に置き換えると、やめろ議論が出てきているのではないかと。
あるいは動物的な観点でいうと、馬を使ったお祭りとかね、サーカスとかもそうですけども。
動物保護の観点で、昔OKだったものが倫理的に今はNGとなっているとか。
もっともっと普通のことで言うと、皆さんの地元にもあるかもしれません。
お祭りの中止、それは地域の衰退、平たく言うと高齢化とか人口減少、担い手不足の問題でなくなることもあるでしょう。
そしてうまくいっているかのように見える祇園祭りなんかも、観光とか商業化として成功しているのは間違いないでしょうけども。
祭礼本来の意義って皆さんわかっているんでしょうかと。そういう観点もあるでしょう。
そしてもう一つ、多様性の時代、ジェンダーの問題。男性がやるとか、神様は男のものとか。
男女、女性排斥の問題も伝統的にはあったりします。
それが現代の価値観と圧力を生んでいる可能性もあります。
さて、昔ながらの行事が成立していた、その成立していた前提となった条件を整理してみましょう。
一つ目は環境ですね。最初の話に戻ります。
寒い。寒い中、寒さに日々耐えているから体が慣れている。家の中も寒かった。寝てても月の風。
あと、火を使う行事であれば、火は身近にありましたよね。焚き火して温まったりとか。
なんでもCO2の問題とかないんで、ゴミの処分は焼却。庭で焼却。枯葉も落ち物も。
ということで蛇口をひねれば水も冷たい。
でも川の水は冷たいですけど、井戸水は暖かかったりしましたけどね。
あとは煙とか騒音、自然の環境音とかって自然の一部のような感じで、特にストレスを感じる人は訴える人はいなかった。
ところが現代社会どうでしょう。家の中は高断熱。外と中の温度差たるい。
居心地いいですね。もうね。夜も暖かく寝れます。夏も涼しく過ごせます。
あとは防火防災の意識の高まり。火なんか危ないよって言う人もいます。
この季節で言うとお炊き上げなんかでも、火をお札とか古いしめ縄とか角松とか燃やします。
どんどん焼きとかどんどん焼きとか言われてますが、そういったものも近隣に都市化が進むと煙の問題もありますし、
防火上、火の下の問題もあって、だんだんやりにくくなってくるという問題が今はあります。
だから昔と同じことをやったとしても、今はちょっと与えるインパクトが変わってきていると。
みそぎの話で言うと体へのインパクトですけどね。それ以外の環境要因もあると。
そして2番目は体ですよね。何度も言ってますけども、労働も今軽いじゃないですか。重たい労働をやってる方もいますけども、空調の効いた環境でデスクワークしてる方なんか重労働苦手ですよね。
空腹も昔はそんなに美味しいもの、栄養のあるものをたくさん食べたわけじゃないんで、厳しい環境に強かった。
日々が生きていることが修行みたいな。自立神経など、循環器とかいろいろ鍛えられてたわけですよ、昔の人はね。
ところが現代は、着地しねえばお湯が出る。水どころかお湯が出る。いつでもあったかいお風呂に入れる。そして運動不足。
急激な寒暖の差はね、家の中でさえヒートショックとか言って寒暖の差危ないとか言われてます。
共同体意識の変遷
はい。そういう現代はやっぱりちょっとした負担?荒行?荒行じゃない水をかけるとかね、非日常のことであり、私なんかサウナ入ってやると水どころに入るのもちょっと躊躇するぐらい体が弱いです。
3つ目。共同体の意識。みんな同じ時代は終わってしまったってこと。昔は村であれば村全体、みんなが同じ宗教観、価値観で大きい。
祭りはもう全員参加ですよね。ところが今は多様性の時代。多様化。価値観も多様化する。信仰する宗教も違う。同じ地域で隣同士でも全然違う価値観なり考え方を持っている。
宗教はもちろん私ごとであり、どの地域に住んでいるからこの宗教というセットもない。縛りもない。
火とか火を焚くのは迷惑行為そのものじゃないですか。音ですら迷惑行為ですよ。除夜の鐘だってうるさいって言ってクレームが来る時代ですから。年に一回のことであっても迷惑行為と言われる。合意形成の構造そのものが昔と違って消失してしまっているんですね。
火の話をするとトントヤキは私の地域でもなくなりましたけれども、そもそも空き地もない都市化が進んで火を焚く空間がなくなったというのもありますし、煙にうるさいです。
魚を焼く煙ですらクレーム化しか出ないという環境の中、ましてや外で火を焚くなんてゴンゴドダンって感じですよね。あとは正月飾りを燃やすという宗教的意味合いが強いんですけれども、それは理解できない方も多くなっている。国際化もありますし。
あとは都市計画とか地域の条例、防災の法令なんかで根本的にそもそも昔できたことが禁止されていたりとかします。
行事自体はやめろとは言われてなくても、行事が成立していた社会の構造が変わっちゃっているのでできなくなっているってことなんです。
だから伝統というのはいろいろできなくなって、時代遅れになってしまったのかなという気もしますけれども、
昔と今とよく考えたら寒さについて言えば、冬は寒いのが日常だったのが、今は寒いのは別に日常じゃないし、
体も昔は環境に適応していたものを、暑いときは暑いところに暮らし、ちょっとの寮で涼しさで耐え忍び、
冬は寒い中ちょっとの暖で耐え忍んでいたのが、今は快適な環境に依存する体になっている。
村社会、共同体意識も昔はみんな同質社会だったのが、今は価値観も多様化し、個人個々がそれぞれ尊重される時代になった。
つまり前提となっているOSが変わっているということなんですね。
まとめましょう。
行事というのは昔は、毎回やっていますけれども、形としてただただ残ってきて継続してきたというよりも、
それをできる環境、必要な環境、それを実現できる体、そしてみんなの意識、共同体、そういったものの総合的なものが整った上で成り立っていた。
ところが近代化によって、いろいろな人間の生き方、生存の仕方、環境も体も、みんなの意識も変わってきちゃって、伝統を生み出していた。
当たり前にそこにあった世界がなくなっているってことなんでしょうね。
寂しくもありますけれども。
このようにして私たちは伝統文化を失っていってしまうのでしょうか。
ごく一部の尖った目立ったものだけが文化として文化財的に扱われて二極化して残るものとほぼなくなるものに分かれていくのでしょうか。
生き方の前提が更新されて、古い儀礼の意味が変わって継続していく可能性もあります。
気持ちの精神性、寒い時に。
みそぎも意味があると思うんですが、体の修行、鍛錬とは別のところで切り離して、意味だけがちゃんと引き継がれていくのでしょうか。
皆さんはどのようにお考えでしょうか。
今回はこの辺りで。
最後にお答えです。
この配信では身の回りでセイラージーが感じたことをもとに、ネットやAIなどから得た情報も参考に構成しています。
正確性についての保証は致しかねますので、くれぐれもご自身で最終判断をしてください。
疑わしき情報やお気づきの点がございましたらお知らせいただけると助かります。
The Stinking Truck
思考は途中にこそ価値がある。
ここだけの話。
女爺の金もお炊き上げも、その土地では毎年そこにある風景だったはず。
そのはずなのに、後から来た人、昨日おととい引っ越してきた人の一言で、たった一言で、それがなかったことになる。
苦情をクレームですよね。
そんな培ってきた文化の時間の重さって、軽くね?何なんだろう?なんて考えてしまいます。