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こんにちは、IKUKO Laboです。
今日は11月の19日、金曜日の朝9時ちょっと前になります。
昨日、木曜日はもう1日中、朗読チャンネルの録音作業をしていました。
平日の間にできる限りたくさん録音素材を貯めておいて、
土日、家の中に人がいると録音ができないので、
そういう土日は編集作業に充てると。
最近そういうパターンでやっているので、
この週末に向けて、できるだけたくさん素材を録っておくという、
そういうわけで、昨日はかなり長い時間やってたんじゃないかな。
録るにあたって、まずは原稿を探さないといけない。
ということで、ひとつ読み終わると、青空文庫でバーッと探すんですけれども、
最近読み始めているのが、岡本喜堂という人がいて、
私は全然その名前を知らなかったんですけど、
岡本喜堂、大正時代ぐらいの?明治生まれ。
活躍期間は明治末から大正かな?っていう世代の人で、
お父さんが江戸時代生まれっていう感じの世代ですよね、多分。
で、その人の作品を結構読んだりしています。
有名なところでは、反資取物調を書いた人です。
反資取物調っていうのは、もちろん江戸時代の時代劇ですからね。
でも書かれた時代っていうのは考えたことがなかったんだけど、
当然ですけど江戸時代に書かれたわけではなくて、
明治になってから海外からシャーロクホームズとかね、
そういう探偵小説みたいなのが入ってきて、それをベースにして、
じゃあ日本を舞台に、江戸を舞台に、事件が起きて解決するみたいな、
そういうのを書こうということで始まった流れだそうです。
反資取物調もそういう海外のものの影響を受けて書かれているということで、
それでも書いた時代が対象だっていうのは面白いなって思います。
というのは、今まで読んでいた運の住座っていう人が、
子ども向けのSF作品を書く人なんですけど、
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その人の文章が、っていうかその人の活動をしたのが、
戦前戦後、特に戦前、昭和の一桁ぐらいかな、
そうですね、昭和一桁、二桁ぐらい、一桁二桁っていう言い方おかしいですよね。
とにかく戦争が起こる前ですから、昭和20年以前ぐらいかな、
それがメインで、戦争に行ってから帰ってきてからもまた少し書いたようですが、
この人の文章を朗読していて、まあ読みにくいなって、
滑舌しにくいっていうね、すごく大読みしにくい文章だなと思ったんですけど、
まあ今から100年も前の人はこういう風だったのかなって思って、それで読んでいました。
ところが岡本喜動の作品を見ると、日本語が今使っている日本語とあんまり変わらない、
まあその時代物はそれっぽい昔っぽい言い回しがありますけど、
そういうのもまあ私たちテレビドラマとかで見慣れている範囲の、
すごい流暢な日本語なんです。
で、もちろん朗読していても読みやすいので、
疲れずに読める。
で、おかしいなと、運の十座よりそうですね、
20年ぐらいは前の人なんですよね。
20年前の人気作家って言ったら一世代前じゃないですか。
だから文章は古いはずなのに、
より文語に近い、明治に近いわけですから、
より文語に近いはずかなと思いきやの、全然そうじゃなくって、
むしろ運の十座の方がおかしな、不自然な日本語を使っているなって。
これはそのわずか2人の人間の人物の比較でこう言っちゃあれなんですけど、
やっぱり大正時代っていうのは非常に文化的に成熟した時代だったんだろうなという、
ざっくりですけどそういう理解で間違ってないのかなと。
というよりむしろ昭和に入ってからの方が、
多分ですけど軍国主義的な教育が出てきて、
よく軍人さんが喋るようなああいう喋り方ですよ。
漢字、文章は漢字でなるべく書く、それを音読みにしていく。
そうするとそういう不自然な日本語になっていく。
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それを文章、文章を書く時そういう文章になってしまうっていう、
そういう世代が運の十座の世代だったのかなと。
その運の十座のたくさんある作品の中のかなりの部分に軍人さんが出てきて、
軍国少年が出てきて、お国のために英米をやっつけろみたいな。
そういう設定になっている話も数多くあって。
SFですから新しい技術を使った乗り物とか出てくるんですけど、
それが戦争に使われる前提っていうのも結構あるし、
例えば宇宙に出ていった時も、宇宙の奴らをやっつけるじゃないですけど、
宇宙人と戦争をするっていう、そういう設定になりがちだし、
少年向けの冒険小説ですから、それいた仕方ないのかもしれないけれども、
全体的に本当に軍国主義の色を感じる。
それはそれでしょうがないというか、
ファンタジーの世界に戦争なしで成り立たないと私は思っているので、
それ自体は問題ないと思うんですけど、文章ですよね。文章。
本当に文章の荒れた時代だったのかなって。
こういう文章を少年少女に読ませるっていう、
少年少女向けの雑誌に連載されたとかっていうことを思うと、
文化的にはやっぱりちょっと味気ない時代だったに違いないなって思いました。
変な話ですけど、うちの親世代ですね。
うちの母親が昭和11年の生まれになって、
小さい頃にですね、小学校の生まれてからずっと軍事体制で、
欲しがりません、勝つまではみたいな。
カビのものは身につけてはいけないね、モンペで暮らすみたいな。
生まれた時にすでにそんな感じで、
小学校2年間、それぐらいで終戦を迎えて、
空襲を受けたので焼け野原で、もちろん着るものも食べるものもなくて、
みたいなのを経験して、それで育ってきた世代なんですけれども。
この親というか母親ですね。
このうちのお母さんは末っ子で、上のお姉さんが10歳年上なんですね。
私から見ておばですね。
おばも同じように家を焼かれて、
同じように戦後の食糧難を生きてきたわけなんですけど、
私が生まれた後っていうのは、戦後もちろん安定している時代ですから、
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この2人を比べた時に、なんか違うよなって。
もちろん人の性格の違いっていうのはあるにしても、
物事の考え方が、うちの母親はものすごく、
なんて言ったらいいんだろう。
心配性?けち?
画一的?
どうやって言ったらいいかわからない。
私から見たら、おばはすごく楽しそうに人生を送っていて、
着るものにも綺麗なものを着たりする。
子供にも綺麗なものを着せたりする。
そういうことを楽しむような人だったのに対して、
うちの母親はそんなものはもったいない。
そんな無駄なものは買わんでいい。
一貫してそういうのが、ベースがそこ。
もちろんその中でも必要に応じて必要なものは買ったりはしたけれども、
それでも常に常に繰り返す言葉はもったいない。
そんな無駄なものは買っちゃダメだ。
もったいない。みたいな感じ。
私はその母親に育てられているので、
小さい頃から一貫してずっと聞いている言葉がそのもったいないとか、
無駄な、無駄遣いをしちゃダメだとか、
そういうのをずっと生活の中のベース音のように感じながら育つので、
たまにそのおばの家に遊びに行くと、
いとことかいるわけですよね。
そうすると楽しそうに暮らしているこの人たちはあって、
着るものもね、かわいらしいものを着てるし、
それから何かを食べに行くとか、
そういうことも普通に行動経済成長時代、真っ只中です。
1970年くらいですよ。
もちろんそういう時代、みんなが外食とかを始めていく時代なんで、
普通にお買い物に行ったり、
関西だったのでね、総合にお買い物に行こうとか言って出かけたり、
そんなに贅沢をしていたわけではないと思うんですけど、
そうではなくして、そういうイベントを楽しんで生きていたように、
子供の私からして見えたんですけれど、
うちの親も買い物には行きますけれども、
とにかくこんなものは買っちゃダメだみたいな、
そういう姿勢でのイベントに対して、
おばあたちの家はもっと大らかに楽しそうに生きていたなって。
その記憶をだいぶ後になって、私も大人になってだいぶしてから、
あ、もしかしてと思ったんですけど、
おばあは確かに戦争空襲で焼かれて、あれですけど、
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でも生まれた頃は、昭和2年くらいですよね。
昭和1年くらいか。
ということは大正時代みたいなもんですよ。
その頃に生まれて育った子供っていうのは、
例えばですけど、お正月になると晴れ着を着るですね。
七五三とかで晴れ着を着るみたいな、
振袖をいっぱい着て育った世代。
お雛様も飾ったりとか、昔ですから、
女の子がするようなお祝い事とかを華やかにして、
何の心配もなくできていた世代。
そういうことが誰からも禁止されていなかった時代を、
最初の10年間で生きたんだろう。
0歳から10歳までの間を、そんな雰囲気の中で育ったであろうと。
対してうちの母親が生まれたときには、
すでに戦時色が強くなっていて、
そういう無駄を排除するような、
失実豪賢というか疾走が良いみたいな、
そういう雰囲気がそういう風になった時に生まれて10歳まで育ったら、
全然違う人物が出来上がるんじゃないかなという風に、
ちょっと私分析してみたことがあります。
ざっくり分かりやすい言葉で言うと、
本当に物のない、戦前戦後に生まれ育った子どもって、
豊かさを享受する、豊かさを味わい楽しむ術を知らない人たちかなって、
そんな風に思ったことがあります。
その見解は今考えてもやっぱりそういうのあるなって。
昨日読んだ運の十座と、それから岡本起動、大正時代の岡本起動と、
昭和の前半の戦前に活躍した運の十座の文章の違いみたいなものを比較した時に、
ちょうどうちの母親とおばのその雰囲気の違いに相当するものを感じました。
戦争っていうのは本当に人と人が殺し合うし、
それから身近な人が死んでいくし、
自分自身も死んだり怪我をしたりするし、
家やら何やらも破壊されるし、
いいことは一個もないって言いますけど、
破壊されるのはそういう目に見えるものだけじゃなくて、
感性みたいな、感受性みたいなものも破壊されるというよりも、
感受性とかっていうものって育まないと豊かにならないものなんだなっていうのをちょっと昨日は感じました。
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この岡本起動という人はやっぱり親御さんも何かそういう、
何だろう、歌舞伎とかの関係の何かをしていたかなんかで、
親が何だろう、肩元だった?
とにかく文化的な素養のある家庭で育ったような人らしくて、
そういうことも影響しているのかもしれませんけれど、
やっぱり文化っていうのは大事だなって思うわけですよ。
物質が満ち足りてこその話ではありますけれども、
食べるものがあって、お金があって、今でもたくさんお金が稼げるやつが成功したやつみたいにみんな言いますし、
それも一面の真理ではあると思うんですけど、
金さえあればいいのかと、もっと上を目指せみたいに、
一億稼いだったって言って、やったっていう、
その稼いだお金を何に、どう使っていますか的なことを、
いいですけど何に使ったって、
その人の、なんて言ったらいいんだろう、
やっぱり豊かな芸術とか、アートとか、遊びとか、何でもいいんですけど、
本当に、
衣食術以外の、衣食術ちょっと違いますよね。
衣はやっぱりファッションですからね。
何て言ったらいいんだろう、必要最小限の、
飲んで、食べて、息をして、
っていうだけが満たされれば人間というわけではないなと思って、
その上に花開く豊かな何かっていうのがあるはずだと、
そしてその豊かな何かの方が、目指すべき、目指す価値のある、
そういうものなんじゃないかなって思います。
今日はなんだか抽象的な話でしたけども、
昨日はそういうことを思ったので、お話ししておきました。
最後までお聞きいただきありがとうございます。
本日は以上です。