今日は、聖霊と教会、私はアナニアですという対応をもって メッセージを分かっちゃいたいと思います。
聖霊と教会の関係性。 聖霊様と教会はどんな関係を持っているのか。
教会は、聖霊様が来られて作ってくださいました。 もちろん、聖書も聖霊様が作ってくださいました。
ペンテコステのリバイバルが来た後、 聖霊様が一人一人の上に炎のような姿で入られたんです。
だったら、その人たちがみんな聖霊に満たされて、 それでこれから自分が分からないことをするんですけど、
その一つの特徴があるんです。 これは何かと言います。
同じ霊を持っている、同じ聖霊様がおられる人々は、 集まったということです。
同じ霊を持っている人々は、磁石が鉄を引っ張るように、 お互いに集まる不思議な属性があります。
これで、お互いに集められたそのところが教会です。
マルコ三書で、イエス様がこれと思う人を 呼び集められたと言います。
その共同体を、教会と聖書は書いておりません。
しかし、この後、イエス様の十字架の地上の厚労によって、 悔い改めて罪を許され、救われた群れ立ちの集まり、
その人たちの中には聖霊様がおられ、 その人たちが二人また三人がいるところに、
私もそこにいると言いながら、それを聖書は教会と言われたのです。
とにかく教会は、聖霊様が来られて作られたのです。
また教会は、聖霊の働きによって発展し、成長していきます。
聖霊様がおられる教会と、聖霊様がおられない教会を どのように区別することができるか。
これが旧約聖書の詩式のサムソン。
サムソンが主の霊が共にいたら、彼がどうしたのか。
彼は老婆の顎の骨で一千人を打ち殺します。
武器ではないのです。顎の骨だけで一千人を打ち殺します。
聖霊様が共にいるとき、しかし彼に聖霊様が離れてしまうと、彼は無力になります。
それでペリシティの人たちに捕まえて、両目をえぐり出されて、それを鬱を引くような立場になります。
主の霊が共にいたサムソンと、主の霊が離れてしまったサムソン。
これが、聖霊様がおられる教会と、聖霊がおられない教会の違いです。
また弟子たちも、イエス様と共に行ったんですけど、
聖霊様が来られなかったときには、お互いに誰が偉いのか、もっと偉いのか、
誰がもっとこの世的に偉いのか、喧嘩問題だらけでした。
しかし、聖霊様が来ていたら、ビリッポの七次一人がサマリアに行って、
一人七次を、サマリア地域を、これを殿堂にします。
このようなパワーが、聖霊様が共におられるのか、おられないのかの違いだと、私たちが理解していいでしょう。
ですから、聖霊様がおられなければ、教会の発展、成長、
その中で素晴らしい働きは期待できません。
今日は聖霊と教会、この部分に対して考えながら、私たちは教会はどうなのか、
これから私たちはどうすれば、これをうまくできるのか、それを考えていきたいと思います。
首都行伝は、初代教会が建てられ、発展する過程をずっと記録しています。
首都行伝1章は、聖霊の器を準備をしました。新しい革袋を準備しました。
そしたら、2章初めに、ペンということでリバイバルが来て、
それから聖霊の働きが現れるんですけど、人たちが集まってきたんです。
聖霊の働きを見て、人が集まってくるんですけど、3000人、5000人が集まってきます。
それを、首都行伝2章47節には、神様が人々を起こってくださったと言います。
だから、この五輪際伝道、聖霊様を起こられること、不思議な宮座を見て人々が集まってくる、
このような伝道も素晴らしいんだなと思います。
じゃあ、人々が集まってきたら、何の問題もないのか、そうではありません。
人々が集まってきて、人たちを通して、いろいろな働きを行ったら、妬む人がいました。
それが宗教指導者たち。
宗教指導者たちは、まず彼らによって初代教会が迫害を受けます。
牢に閉じ込められ、脅迫され、無知を打たれ、これから二度もイエスの名によって話をしたらいけない。
しかし、彼らは祈りながら、その働きを続けていきます。
その迫害の中での祈りによって、リバイバルがまた来ます。
また迫害によって、信徒たちの心が強くなり、教会がますます繁栄していきます。
また、迫害の中の教会は、命の働きがものすごい力があるんです。
どうすろうともできないパワー、それによって福音が全世界に広まるようになります。
じゃあ、外部からの迫害、これはある意味から見ますと、福音の働きの役に立つと言いましょうか。
次に、使徒御殿古書で見てますと、外部的な迫害が静まったら、内部的な問題が起こります。
もともと、外部的な問題より内部的な問題が、もっと致命的です。
大抵、教会は、外部からの迫害はうまく耐え忍びます。うまく乗り越えていきます。
しかし、内部に問題があって分裂が起こったら、教会はほとんど倒れてしまいます。
今日、初代業界は、どんな内部的な問題があったのか、これをどのように乗り越えたのか、それを学びながら、私たちの共同体もこのような可能性があります。
また、私たちが集まる共同体は、みんなそのような問題があるので、私たちはこのような問題をどのように対処していくべきか、それを考えていきたいと思います。
それを教えてくださる聖書は、今日読んでくださった司祷行伝5章です。
そこには、アナニアとサフィーラという人の知見を記録しています。
初代業界に聖霊様が来られたら、各人に、聖霊様が神を愛する心、隣人を愛する心を入れてください。
聖霊様の働きは不思議です。神の御言葉通り、私たちに色々な悟り、または御心を与えてくださいます。
そうしたら、もう神徒たちはみんな、神を愛することはもちろん、隣人を愛する心になって、
もう貧しい人とか色々な苦労をしていらっしゃる方を見たら、自分の持ち物を持って、これをその人に配ってくださいと言って、
神徒たちが自分の持ち物を人たちの足元に置いて、それをみんなの必要に通り配ってくださいと言います。
これが初代業界の素晴らしさです。
司祷行伝4章36節といいますと、バラナバというレビビトがいます。
この人は、またレビビトはもともと自分の財産を持つことがあまりないので、彼は土地と家を持っていったんですね。
それを売り払って、神徒たちの前に置いて、これも分け合ってあげてくださいと。
それで神徒たちの中から、バラナバは慰めの人だと称賛するようになりました。
それが初代業界の神徒たちの間で、ものすごい憧れる存在になったんですね。
それがアナニア・サッピラーが見て、私たちもそのような人々のように人々から称賛されてもらいたい、憧れの人になりたいと思ったんでしょうか。
私も私の財産を売り払って、それを教会に献金しますと大げさに言ってしまいました。
ところが彼らが自分の家の財産を売り払ってからは、信仰が弱かったから、それを全部払うことはなかなか難しかった。
ですからこの一部を隠しておいて、それで献金するんですけど、全部献金しますというような話をして、偽りの話をしたんですね。
それは誰も知らないと思いました。
ところがペトロは聖霊によってそれを分かって、なぜあなたたちは聖霊を欺いて神様を嘘つくのかということで叱られました。
その話を聞くとアナニアは倒れて息を絶えた。
ひどいですね。
当時叱られると死んでしまったという、これはものすごい怖い事件が起こりました。
それから3時間後、妻サフィラも入ってきたんです。
サフィラにもあなたが売ったお金がこれなのかと聞いたら、そうですと嘘ついたんです。
そうしたら彼女もペトロの足元に倒れて息が絶えた。
じゃあ初代業界は今まで問題なかった。もう素晴らしい働きばかりでした。
しかしなぜこのような深刻な働きが、そういうことが発生してしまったんでしょう。
献金ということ、これは当時みんなの前で自分の財産だとこれを足してみんなお分け与えてください。
そして素晴らしい人、立派な人と葬さんされる、その雰囲気が初代業界にあったかもしれません。
業界もそうですね、献金してくれるということは感謝ではありませんか。
全部献金するか、一部だけ献金するか、献金してくれることだったら業界は感謝するべきなんです。
しかし今日の聖書は聖霊を欺いたと言います。
聖霊を欺く、このことが教会に大きな問題になりますか。
なります。なぜなら偽りによって悪魔に教会を攻撃する隙を与えてしまった。
今まで聖霊の働きに満たされ、教会が発展し、どんな迫害を全部耐え忍ぶことができるパワーを持っていたんですけど、
そこに隙が出てしまって、そこに悪魔の働きがあって、それから教会がだんだん命の力を失ってしまう。
このような危険性を人たちが考えたのではないかと思います。
でも私たちは、「いや、こんなことは誰もあるでしょう。いいんじゃないですか、人間的に。みんなそのような気持ちもあるんだから。」
しかし今日の聖書で神様は絶対許されなかった。
そして結果は死でした。
それによってみんな恐れた。神様は恐れたと言います。
私たちはこの夫婦が共に死んだ事件を見ながら、神様はひどすぎると思うかもしれません。
まだ共同体の中でこんなことあるでしょうと思うかもしれません。
しかし、人たち、神様は共同体にこのような偽りを許すとき、罪を許すとき、
真実で清い共同体であるべき初代教会が、これからだんだんだんだん偽りによって染まってしまうようなようなことを懸念したかもしれません。
彼らや後書・旧書でこう言います。
わずかなパン種が、こねた粉全体を膨らませるように、
教会も小さな偽り、小さな嘘、小さな罪だとしても軽く考えてそれを放置してしまうなら、
イエス様が3年間精一杯、弟子たちの共同体を作り上げて、このようなリバイバルが来て、初代教会ができるまで苦労された全てが無駄になる可能性があります。
ですから、今日の聖書は夫婦の罪を厳しく取り扱うことによって、
初代教会の信徒たちに神を恐れ敬う心を植えられた。
神様は、もう昔の神様は今も神様、同じ神様です。
神様は真理の神様ですから、偽りを嫌がります。
教会は偽りと共に働くことはできません。
皆さん、一部だけ献金しますということも素晴らしいことです。
全然払わないことよりは、うまくやったことです。
その時は、私は全部じゃなくて一部だけ売り払って、それで献金しますよと言えば、
それでみんなが感謝します、素晴らしいです、いいですと言うべきです。
大事なのは真実さです。
私はもう、ある部分だけそれを売り払ったものだから、それを教会に受け止めてくださいと言えば、
真実に行けば、言えば、それはいいんです。
大事なのは心であり、大事なのは真実さです。
しかし、アナニアとサフィラは、この部分を部分的にやっていることを全体だと言いながら大げさで、
今日私は反省しましたけど、大げさで話をして神様を欺いたということを、
それが夫婦が死んでしまう事件があった。
今日この部分を聖書は厳しく言われることは、本当に私たちはたくさんのことを学ばなきゃいけないだと思います。
ところが皆さん、当時の雰囲気はどうですか?
宗教主導者たちは、使徒たちを攻撃、迫害して、何とかしてこの初代教会を潰そうとしている、これの雰囲気で、
教会の中で二人の人が死んでしまった。
これから見てますと、今の教会で聖霊様の働きがなかなか見当たらない理由、これは何でしょう。
私たちは教会が大きい、立派、こうするなら良い教会、もう良いと言います。
しかし、このような観点から見てますと、今の教会の中で、
聖霊の働き、聖霊様がおられるのか、聖霊様の働きだと言えるものがどのぐらいあるのかといったときに、
私たちの教会が、偽り、嘘、またいろいろな神様が嫌がれる、聖霊様が嫌がれるような罪を、
悪魔の働きをたくさん、私たちが許しているのではないかと思います。
私たちは聖徒と言います。聖徒ということは、聖なる群れということです。
聖なる群れが、聖なる群れとしての心、また信仰、そのようなことを私たちが持っているのか、
それを持って教会ということをやっているのか、これを反省するべきことではないかと思います。
ここで私は、上の水が進んだら下の水も進むという気持ちで、
私は皆さんの前で悔いを改めることがあります。
これは、初めに皆さんに申し上げることなんですけど、
私は事実、10年前、セムルケル宗教宗教団から追い出されました。
あるとき、私は10年前ですよ、
韓国で集会があるから皆さん行きましょうと言って、私も行ったんです。
その集会で、私はこの集会のすっと後ろの川でうろうろしているので、
四字文先生がメッセージをしながら、
今日、ああ、いろいろメッセージに妨げがあって、メッセージがなかなかできません、こうなんでこう言うんです。
まさかそれが私のことなのか、全然分かりませんでした。
これは後になって、ほかの先生たちが、
あなた、どうしてここに来たのかと言われ、
来るのは当たり前で、私はなぜここに来たと、何ということですか。
人々は私を警戒しているんです。
後になっては分かったことですけど、
セムルケルのリーダー先生たちは、
これからファンというものは、
セムルケル集会には来れないように、
立ち入り禁止ということが私には足されているそうです。
皆さん、こんなことあったのありますか。
どこの集会に行っても、
ある人は来ないでという、
その人は入って来ないようにと、
これを言うことは、見たこともないし、聞いたこともないし、
私がそのような相手になるとは思ってもしていなかった。
驚きました。
それから私は日本に帰ってきて、
10年にたった今も、
祈るときに、いつも考える、なぜ私はその時、
ユズボン先生とまたセムルケル先生たちから、
追い出されるようになったのか。
私は今まで信仰生活しながら、
これは私がまさかそんな人になるとは思いもしませんでした。
工夫しながら、私なりにいろいろ理由を考えながら、
悔い改めたり反省したり、
これから二度もそんなことがないように、私は考えています。
私はある意味から、
それが神様から私に与えられた警告だと思っています。
それで一つ理由として考えられることが思い出されて、
これは10年前のことですけど、
ユズボン先生が私の教会に集会に来られました。
それで私にUSBを送りながら、
この中であるファイルをプリントして、
今日の夜の集会で皆さんに配ってくださいと言いました。
私はそれを開いてみますと、
これはアレアハングルという韓国で使うワードプロセスのソフトだと。
日本ではこれを使っていません。
私はそのソフトを持っていません。
私はコンピューターをあまりうまくできない人間なので、
息子だったらいいかもしれない。
アレアハングルのファイルをどのようにプリントすればいいのか分からなくて、
それで頭にパッと思い出せるのは、
これの後ろのHWPをDOCに変えて何とかプリントするなら、
何とかできるんじゃないかと。
ところがそれをユズボン先生からもらったUSBの中で、
新しいファイルを作ったり何とかいじったりするなら、
もっと失礼だなと思って、
これを一旦私のパソコンにダウンロードしてしまいました。
それでDOCに変えたらプリントができました。
その場面をユズボン先生が見た。
隣で。
それで私がコピーしたでしょう。
バラッと。どうしようと思いまして、
そこで何とか言い訳を言えばよかったのに、
言うことができませんでした。
ユズボン先生の立場から見ていますと、
この人、私のファイルを盗むんじゃないか。
私のデータを盗む者に良心不良な者ではないかと。
勝手に私を許してないのに。
多分そのような印象が、
ああこの奴はもうダメだ。
この人はもう嘘をつくのは簡単にやる人間だから、
これからこの奴は使ってはいけない。
もしかしてそのような時に、
そのようなことを考えられたんじゃないかという。
私はそれを深く反省して、
その時に先生に言えばよかったという。
先生、一日これこれなんで、これこれだから、
このようにやりますけどいいですかと。
言えばよかったのに、
このような優しさが、細かさが私にはないんですね。
アラネアがこれ全部じゃなくて、
私の一部だけやったことなんで、
それでも教会を研究します。
だったらなんでも問題なくみんな住んでたのに、
私はそれを言ってなかったということが、
今になって私自身が悔しく思っていることです。
2番目、またありました。
私は事実、聖モルキューレ宣言が許されない働きをしました。
これは私はクンミドゥン教会という教会を、
昔から知っていたところだから、
そこからたくさんのマウントを学んで、
またその上、聖モルキューレ宣言からの教えを頂き学んで、
両側に二股掛ける私の働きがありました。
それでクンミドゥンのキモキョン先生にも教会を招いて、
集会までしました。
その話がその先生たちが聞いているでしょう。
皆さん、二股掛けるなら必ず叱られます。
これはいい、どっちでも歓迎されません。
だから私は御手からも学ぶし、御徳からも学ぶ、
このような、当時はそれしかなかった。
私は両方全部教えて大事に思っていたから、
そこを両方二股掛けたことが、
その先生たちにはふさわしくないと思われたかもしれません。
もう一つ思われるのは、
聖武力教宗教団は夫婦の働きを大事にします。
聖武力教宗教団の働きは、みんな先生と奥さんと一緒に働きます。
私はそれができないことが、たぶん私の致命的な弱点であり、
妻もいないのに一人で働くことが、
その先生の目にはあまりふさわしくないように見えたのではないかと思います。
私はこのようなことをいろいろ考えながら、
当時そのような理由で私は、
あなたはふさわしくない、聖武力教に来ないで、
立ち入り禁止されたのではないかと思います。
悔しい部分はありますけど、私は理解しています。
なぜなら当時、聖武力教はリバイバルが起こっているところでした。
神道たちが増えて、参加する業界が増えていて、
大きな御業が行っているところで、
使徒行伝交渉のアナネアのような、サピラのような事件が発生しないように、
気をつける意味で、私を立ち入り禁止されたのではないかと思って、